第1話 異世界へ
何でこんなことになったんだろう。
そんな感傷が神代悠真の胸をよぎる。
つい数時間前まで、部屋でゲームをしているだけの普通の高校生だった。
なのに、これから異世界に転送されるなんて……
「着いたわよ」
物思いに耽っていたら、プーカに話しかけられ、悠真は我に返った。
小柄な彼女が、サイドにまとめた金髪を揺らしながら、隣でこちらを見上げているのに気づく。
彼女は、アヴァロンと名付けられた異世界への、いわば水先案内人である。
フリフリの魔女っ子服は悠馬の好みに合わせているらしい。
「へ? あ、あれ? もう着いたの?」
慌てて周りを見回す。
山と森に囲まれた大自然の真っ只中。
左手には、森が広がり、右手には小川が流れ、前方はひたすら草原と丘陵地、そして、その間をうねるように進む街道がはるか彼方まで連なっている。
昼間の空に薄く浮かんでいる大小二つの月が、ここが地球ではないことを示している。
ただ、これは転送ステージから見ていた風景と全く変わっていない。
いきなり「着いた」と言われても、転送されたという感覚すら一切なかったのだ。
「何寝ぼけたこと言ってるのよ」
「だ、だって……」
悠真は拍子抜けした。
「何か文句あんの?」
「い、いや、ほら、なんかこう、光に覆われるとか、激しい音がするとか、景色が歪んで見えるとか、『キターッ』みたいな、そんな感覚がなかったものだから……」
「ばかね。そんな古いシステムと一緒にしないでちょうだいよ」
「はあ、そうなんだ。なんだか、損した気分だよ……」
「? へんなの。まあいいわ。では、改めて。―――ようこそアヴァロンへ」
少しがっかりする悠真をよそに、プーカがどこか誇らしげに言い放った。
「あれ、僕……」
転送された感慨にひとしきり耽った後、悠真は自分の服装が変わっていることに気がついた。
さっきまで着ていたカッターシャツに学生ズボンではなく、皮のズボン、濃い茶色のチュニックに腰ひもを巻いていた。そして、旅人袋を肩から掛け、腰には古びた剣をぶら下げている。
ゲームで見た初期装備そのままである。
「服が変わってる……」
「そうよ。ちゃんと生活できるように、到着時に必要最低限の装備を持たせることになってるから。ゲームと同じものよ。あと、言葉も話せるようになってるはずよ」
「へえ、そうなんだ。僕の学生服はどうなったの?」
「あんたが着てる服がそうよ」
「え?」
戸惑った顔を見せた悠真に、プーカが長いため息をついた。
「はあっ。そこからなの? ほんっっと面倒ね。……あのね、転送するときは一旦肉体をエネルギー体に変換しないといけないんだけど、そのあと物質に再構成する際に、ある程度組成を変えることができるのよ。それで脳の記憶素子を修正して、この世界の言葉を使えるようにしたりね。あなたの学生服の量子パターンは保存してあるから、向こうに戻るときには、服も戻してあげるわ」
「そ、そうなの? ……よく分からないけど、元に戻るなら、まあいいや」
「じゃあ、頑張りなさいね。帰りもまた送ってあげるから」
「え、もう行っちゃうの?」
「当たり前じゃない。私、アンタのお守りじゃなくて、連れてくるのが仕事なんだから。付き添うのも転送までよ。それに、余計な手伝いしちゃいけないって決まってるし。じゃ、キューブで待ってるわね」
「あ、ちょ、ちょっと」
返事もせずに、彼女は何の前触れもなくいきなり消えてしまった。
「行っちゃった……」
出現したときもいきなりだったので、驚きはなかったが、ぽつんと1人残されたことに気がついた。
改めて辺りを見回す。
ゲーム画面で馴染んだのと全く同じ光景だ。ただし、ここはゲームの世界ではない。
実在する異世界である。むしろ、さっきまでプレイしていたゲームが、この世界を写し取っていたものなのだ。
まさに、リアル版VRMMOとでも言おうか。
本当にアヴァロンが実在し、自分はここに来たのだ。笑顔が自然と溢れる。
(まさか、夏休みを異世界で過ごすことになるとはね)
つい、何時間か前までは、普通の高校2年生として平凡に生きてきたのに。
「さてと、どうするかな……」
転送にあたって悠真は2つのことを依頼されていた。一つは、先にこの世界に来た二人の人物の消息を探すこと。ただ、これはできる範囲で構わないと言われていた。そして、もう一つはウルム村にあるキューブと呼ばれる古代機械で元の世界に帰ることだ。
簡単な仕事である。
でも、すぐには帰りたくなくなるかもしれない……。
思わず、悠真はニヤついた。
何しろ、この世界にはフェリスがいるのだ。
彼女は、ゲームの中で知り合った白魔道士である。
本当にこの世界に来たと知ったら、どれだけ驚くだろう。
そして、喜んでくれるに違いない。彼女だって、憎からず自分のことを思ってくれているはずだから。
(てっきり、NPCだと思っていたらホントは実在していたなんて……)
そのことを考えると、顔がニヤつくのを止められない。
案外、他の二人も、ここが居心地が良くて帰りたくないだけじゃないのかな……
そんな、呑気なことを考えていると、左手後方から、茂みをかき分ける音がした。
振り向くと、小柄な魔物一体がいた。森から出てきたらしい。
体長は120cm程度、緑色のヒョロヒョロの短躯に、ボロを纏い、骨で作ったネックレスのような装飾品を首に下げている。
コボルドだ。
そして、それは悠真の姿を見て、剣を抜いた。
「そっか、そうだったな」
ゲームでは、スタートポイントに出現した後、チュートリアルが始まり、戦闘の練習としてコボルドが出てくるのだ。ゲーム内では最弱の雑魚である。
無論、ここは現実の世界だ。チュートリアルなどない。
コボルドが出て来たのは、おそらく偶然だろう。確か、この森には彼らの住処があったはずだ。
だが、気が大きくなっている悠真にはどうでもいいことだった。
「ようし、伝説の始まりだ」
「チャララッララーン」とゲームで使われている戦闘開始の音楽を口ずさみながら、悠真も剣を抜き、格好良く構えた。気分は勇者である。
「来い! 一撃で仕留めてやる」
だが、浮かれた気分は、一瞬にして消えた。
キャヒーッ
「え?」
甲高いわめき声をあげて、いきなりコボルドが猛然と襲いかかってきたのだ。
不意を突かれた悠真は慌てて剣を振り降ろしたが、電光石火の速さで簡単にかわされ、懐に飛び込まれる。
左の脇腹が剣で切り裂かれた。血しぶきが飛ぶ。
「ぐあっ」
焼けるような痛みが脳天まで突き抜けた。
必死で剣を振り下ろすが、コボルドはとっくに間合いの外に駆け抜けており、空を切った。
「う、うぅ……」
斬られたところに手をやると、血が吹き出してくるのが分かる。左手が一瞬で血だらけになった。
焼きごてを押し当てられたような猛烈な痛みに、呻く。
「クッ、な、なんで……こんな……」
ほとんど瞬殺で倒せるはずの魔物に重傷を負わされ、激しく戸惑う。
同時に、これがゲームでもアトラクションでもなく、本当の殺し合いだということにようやく気付かされた。
殺される。
その思いに身がすくみ上がり、膝がガクガクと震えた。
「た、たす……け……」
助けを求めようとしても、声も出ない。いや、大声を出したところで、ここは草原のど真ん中だ。助けなど来るはずがない。
一方のコボルドは、悠真を弱いと見てとったのだろう、今度は大きく振りかぶって大胆に切りかかって来た。
「うわあっ」
今度はなんとか自分の剣で受け止めた。
だが、手傷を負った体には力が入らず、しかも、恐怖で腰が引けていたため、力で押し切られ、態勢を崩した。
見計らったように、コボルドがバネじかけのようにジャンプし、悠真の脳天に剣を振り下ろす。
「ヒッ」
剣で受け止めるのは間に合わない。
声にならない叫び声を上げ、必死で後ろに体を引いた。目と鼻の先を剣先が通過し前髪を数本切り飛ばす。
コボルドは、さらに剣を振りかざして悠真に迫る。
「く、く、来るなあああ!」
左手で傷を押さえ、右手一本で遮二無二剣を振り回しながら、ジリジリと後ずさる。
コボルドは、悠真の剣に当たらないように気をつけながら、もてあそぶように近づいてくる。
悠真は、生まれて初めて死の恐怖を感じていた。体に力が全く入らない上、膝が笑っている。
屈強な同級生たちに絡まれるというレベルではない。コボルドから発せられる明確な殺意が、心を折ってしまっていた。
殺るか殺られるかの戦いで、この精神状態は致命的である。
悠真の心に絶望が広がった。
そのときだった。
「あっ」
下がっているうちに足が絡まり、バランスを崩したのだ。なんとかこらえようとするが、傷の痛みで足の踏ん張りが効かず、うつ伏せに倒れる。
キキキッ!
それをチャンスと見たのだろう、コボルドが剣を逆手に持ちかえ、悠真の背中につきたてるべく、飛びかかって来た。
「うわあああ!」
悠真は、無我夢中で反転し、剣をコボルドに向かって突き出す。
そして、ちょうど剣を振り下ろそうとしたコボルドの胸を貫いた!
一瞬時が止まったかのように、コボルドの動きが止まる。
悠真が剣を引き抜くと、「ゴフッ」と血を吐き出して、ゆっくりとそばに倒れた。もはやぴくりともしない。
「え……あ……」
目の前で起こったことに呆然として、しばらくコボルドの体を見つめる。
そして、剣で突いてみるものの、全く何の反応も返ってこなかった。
どうやら本当に倒したらしい。
「やった……のか……」
大きく安堵の息をつき、力を抜く。
だが、勝利を喜ぶ余裕はなかった。
安心してアドレナリンが切れたのか、焼けるような痛みが一気に蘇ったのだ。
「グウウッ……」
激痛に耐え切れず、苦悶の呻きが口から洩れる。
しかも、出血が激しく、目がかすみ、意識が朦朧としてきた。
半身を起こしてなんとか立ち上がろうとしたが、もはや体が言うことを聞かなかった。
体を支えることができずに、仰向けに横たわる。
僕は、ここで死ぬのか……
突然訪れた理解に、涙がこみ上げてくる。
遠く離れた異世界で、誰にも知られず野垂れ死ぬ。
フェリスすら自分がここにいることを知らない。
猛烈な孤独感が体中を覆った。
香澄……。
死ぬ間際になって脳裏に浮かんできたのは、幼馴染である香澄の笑顔だった。
せめて彼女にだけは、行き先を告げておくべきだったという後悔が胸をよぎる。
小さな頃から一緒にいて、あれほど世話を焼いてくれて、自分のことを心配してくれていたのに、何も言わず出てきてしまった。
直前まで一緒にいたのに。
『いつか、私が泣くようなことがあったら……その時は、そばにいてね』
つい何時間か前に聞いた、香澄の言葉が耳に残っている。
(ごめんよ、僕は……)
どうやら、その約束は果たせそうにない。
もう、青いはずの空も黒く霞んでよく見えない。
(何でこんなことになったんだっけ……)
薄れ行く意識の中、自問する。
すぐに答えは出た。
(そうだ。進路希望調査で、『異世界で勇者』なんて書いたから)
(あんなこと、書かなきゃよかった……)
そのとき、どこか近くで微かな物音が聞こえた。