05 紅之蘭 著 馬 『アラビアのロレンス』
1918年の年明け早々、紅海・北の付け根にあるアカバ港にいた叛乱軍は、英国軍と連携して、ヨルダン方面に北伐を開始した。
集落の解放にアラブ叛乱軍がきたとき、家々の女たちは自分の子供を抱いて、泣きわめいていた。それでいて古代から連綿と続く、略奪者への礼儀は欠かさない。彼女たちは金目のものを窓から放り投げてそれ以上の乱暴はしないでくれと暗黙に訴えた。
アラブ兵にとって戦闘はピクニックだった。集落後背にある絶壁に陣取っていたのだが、陣地を奪還しようとトルコ帝国軍が押し寄せるころには、叛乱軍兵士はそこを退いてしまい。代わりに下方にいた友軍が山砲榴弾を食らわした。砲身から放たれた榴弾は空中で爆発。砕け散った弾丸・金属片が山頂にいた敵軍に襲いかかる。
帝国兵は、堪らずに、洞窟や岩の裂け目に逃げ込み、戦線を離脱していった。
タフィーラの戦い……。
叛乱軍にとって、タフィーラという村は、単なる通過地点ですらなかった場所だ。だがトルコ軍はそこを執拗に奪還しようと躍起になった。
支配者が村を離れると、そこや近隣の住民はこぞって義勇軍をだして、勝ち戦に乗ろうとしていた。圧政者からの解放というには勇ましい言葉だが、帝国軍が貯めこんだ膨大な資産を略奪するおこぼれにすがろうという魂胆が見え隠れしていた。
戦闘がひとまず収まると、ささいなことで内輪喧嘩が始まる。戦利品の配分の不満、同一部族内でのポジション争い、毎度変らぬ光景だ。
「どうした、ロレンス? 顔色が悪いぞ」
僕付きのアラブ人親衛隊長が声をかけてきた。
* * *
酷い寒さだった。
実際、そこが「小アルプス」だっていうことを、敵も味方もそれに気づくのが遅すぎた。
守勢にあるトルコ帝国、攻勢にでたアラブ叛乱軍=ヒジャーズ王国の双方が震え上がっていた。なにせ一晩で10人のアラブ兵が凍死したくらいだ。
死海の南岸には緑豊かなオアシス地帯があり、そこから渓谷に沿った街道を南にゆくとタフィーラという集落にでる。アラブ叛乱軍はいくつかの十字軍時代の城塞遺跡をキャンプにしながら、村に駐屯する帝国軍を奇襲して追い払った。
タフィーラの東に、山塊と山塊に挟まれた、三角形の小平野が存在した。
巻き返しにでたトルコ軍は、ヒジャーズ鉄道の支線をつかって、「トライアングル」小平野に、三個大隊・騎兵100名、900名の歩兵、榴弾山砲2門、機関銃27挺を投入。三角形の各辺に一個大隊300名を配備した。
叛乱軍は、敵を上回る規模の兵員を擁している。僕のいるアラブ軍はその指揮下にあり、一個中隊規模に過ぎなかったのだが、トルコ軍の圧政に反感をもっていた近隣氏族が義勇軍を募って、第三王子ファイサル将軍の名のもとに集まってくる。兵員では敵を圧倒していた。
* * *
現在僕がいる部隊の指揮官は第四王子ザイドだ。まだ少年といった年頃で初陣を飾らせようと、兄である第三王子ファイサル将軍が任命したのだ。
帝国軍が守備している「トライアングル」小平野を囲む西・東・南の尾根のうち、西尾根は義勇軍がでて釘づけにした。また東尾根は、本隊から遊撃隊がでて牽制した。そして最後に残った南尾根を、叛乱軍主力部隊が総攻撃をかけたというわけだ。
帝国三個大隊のうちの一隊を率いてきた老将ハミト・ファフリは、前線司令部に設置した電話をつかって、後方に連絡したのだという。
「儂が軍人になって40年が経つのだが、いまだかつてアラブ兵が、仲間割れもせずに、これほど執拗に襲かかってきたことなどなかった。後方の予備部隊を早急に前線に投入してくれ。そう、全員だ。いまこなければ万事休すだ。判りましたな!」
だが、帝国の予備部隊が戦線に投入される以前に、戦闘はほぼ終わっていた。
――もはやこれまでだ!
老将が、帝国騎兵に加わって最後の突撃を仕掛けたのだが、叛乱軍側の機銃掃射で一網打尽となった。
「トライアングル」は袋のようなもの。守備する帝国軍は、文字通り「袋の鼠」の状態だった。三方を包囲され、その一辺を食い破られて、パニックに陥った。連中は、東西の尾根がぶつかったところにあるきわめて狭い岩塊の裂け目で、先を争って脱出しようとして、かえって動きが鈍くなる。また先を行く仲間の兵士が転ぶとその上を踏み潰して後続が進む。挙句は将棋倒しだ。
退路の岩の裂け目を貫けた帝国敗残兵も惨めだった。先回りした叛乱軍駱駝兵や義勇軍兵が殺到し、落ち武者狩りというレクレーションを楽しんだ。
これは砂漠に生きる者の遺伝子に組み込まれたもの。宿命なのだ。もはや何人にも彼らの「饗宴」を止めることはできなかった。しごく当たり前のように、虐殺には、僕の親衛隊兵士も加わっていた。
それで僕は素直に勝利を喜べない……というか嫌悪感さえ感じたわけだ。
「トライアングル」に陣取っていた帝国兵1000のうち、600名が戦死、100名が行方不明となっている。脱出の汽車に乗れたのは50名足らず。降伏してどうにか捕虜となることが許された帝国兵は250名だった。
引用・参考文献/
T・E・ロレンス著、J・ウィルソン編、田隅恒生訳 『知恵の七柱』 平凡社 2008年 第4巻61-88頁(第93-95章)及びその訳注による。