07 Sian 著 水溜り 『ベートーヴェンを弾く少女』
ざあざあ雨降る梅雨の火曜日。沙樹は学校帰りに、週一のピアノレッスンへ行った。女子高からピアノ教室まではバスで二十分。学校前のバス停から乗っていく。
バスに揺られる間、雨はどんどん激しくなってきて。車窓に幾本も斜めの筋をつけた。
教室は先生の個人宅だ。古い住宅街の瀟洒な洋風の家で、バス通りに面している。
「今日は湿度が高いから、音が重いわね」
グランドピアノの脇に立つ先生が、沙樹の弾くベートーヴェンのソナタを聴きながらつぶやいた。
そうかも、と沙樹は心中うなずいた。今日は心なしか腕が重い。和音を幾重にも重ねたベートーヴェンの曲は、気を抜くとすぐに歯切れ悪く聞こえてしまうから要注意だ。
遮音の効いた掃きだし窓のむこうは、雨に打たれる庭。沙樹が最後の締めの音をダーンと力いっぱい弾きおろした時。視界の端に、満開の蒼いアジサイが一面咲き乱れているのが映った。
「沙樹ちゃん、やっぱりベートーヴェンが一番しっくり弾けるみたいね。発表会の曲はベートーヴェンにする? それとも他に弾いてみたいのある?」
「うーん」
教室の発表会は毎年真夏の夜に、街の記念ホールで開かれる。選んだ曲をふた月で仕上げて舞台の上で弾くのだ。
「ドビュッシー、弾いてみたいです」
つい先日、沙樹はBSのクラシック番組で、ドビュッシーのアラベスクのピアノ演奏を視聴した。あたかも竪琴を爪びいているような、とても流麗な曲。質実剛健なバッハや、重厚なベートーヴェンとは全く違う趣の繊細な曲相である。
「幻想的で、ふわっとした感じがいいなと思いました」
沙樹は去年、ベートーヴェンの悲愴を弾いた。その前はバッハのイギリス組曲。普段の練習曲はベートーヴェンやシューベルトのソナタが主で、まだ印象主義派の曲は一度も弾いたことがない。
先生はなるほど、とうなずいた。
「アラベスクとか、たしかに素敵だわね」
「あ、それ。それを弾いてみたいです」
「じゃあ挑戦してみる? でも沙樹ちゃんちょっと苦労するかもよ? ベートーヴェンと違って、腕力はむしろ必要ないから。あのふんわり感を出すのは結構難しいわよ」
「やってみます」
「それじゃ、ええと楽譜は……」
先生は書棚からまっ白い装丁の楽譜本を出してきた。
「これこれ。いつもの楽器店で購入して、来週持ってきてね。さっそく練習はじめましょ」
「はい」
先生はメモ用紙にさらさらと楽譜本の題名とISBNを書き写して沙樹に渡した。
価格は千五百円。今持ち合わせがぎりぎりあるから、今日のうちに買って帰ろう。
沙樹はそう思い立ち、教室からの帰り際、母親に、「楽譜を買って帰る」とメールを打った。
「あ。梨子からメール来てる」
『6/22 17:05 サキ、レッスン終わった? オツカレ♪』
『6/22 17:11 リコ、今終わったよー。これから楽譜買いにいく』
返信を打つと、すぐに親友からメールが帰って来た。
『6/22 17:15 JR駅前のお店でしょ? アタシも用事あって、今駅前きてる♪ 時間あるならマックしよ?』
『6/22 17:17 了解♪ マックで待ち合わせね』
楽譜を買うのでお金が無くなるが、梨子におごってもらうか。
沙樹はそう考えながらバス停に向かった。駅前の楽器店へ行くには、また二十分ほどバスに乗らねばならない。レッスンを終えてもまだ雨は降っていて。ばちばちと雨傘に穴が開きそうな音がしている。
「わ! 何これ」
バス停に着いてみると。まん前の道路が、大きな水溜りと化していた。大きいだけでなく結構な深さ。どうやら先の大地震で陥没したままの処に、雨水が溜まったらしい。レッスン前に降りた時はそれほどでなかったのに、激しい雨で急成長したようだ。
「きゃあ!」
車が通り過ぎたとたん。その水溜りの水が盛大にはねた。まるで津波のようにぶわっと。
沙樹は傘の柄を握り締め、慌てて後ずさった。その時こつんと背中に大きなドラム缶が当たった。バス亭がある所は住宅の合間の砂利が敷かれた狭い空き地で、隣近所がこっそり物置にしている。ドラム缶に阻まれてそれ以上後ろに行けず、沙樹の足元はびっしょり濡れてしまった。
うらめしげに缶を見やれば。中にはいろんなゴミが詰まっていてひどく重そうだ。
「やだもう……」
沙樹は空き地の奥へ逃れた。次から次へと車がやって来る。そのたび水溜まりがぶわっと跳ねる。大雨のせいか、バスはなかなか来ない。待ち合わせに遅れそうだ……。
沙樹は親友にメールを打った。
『6/22 17:25 リコごめん、バスこない。遅れそう』
『6/22 17:27 のんびり待ってる~。焦んな~♪』
こんな時、大らかな梨子の性格はとてもありがたい。でも申し訳ないので、沙樹はバスが来るまで何度もメールを送った。
『6/22 17:33 バス待ちの人増えてきた。水たまりの水しぶきスゴくて、みんな奥に後退中』
『6/22 17:35 サキ、すでにびしょぬれと予想』
『6/22 17:38 あたりw』
傘越しに眺めれば。バス亭と気づいて速度を落としてくれる車もある一方で、反対にわざとアクセルを踏んでくる車もある。
雨は一向に止む気配が無く。水溜りはますます大きくなってきた。水しぶきが空き地の奥まで襲ってくるようになってきて、バス待ちの人達は車が通るたびに身構えた。
そんな中、猛スピードで高級スポーツカーがザアッと横切り。ひときわ大きなしぶきをあげていった。
バス待ちの人達は思わずどよめき、一斉に後ずさる。
「ったく、うざ!」
列のはじにいる背広姿のサラリーマンが、チッと舌打ちをした――。
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『6/22 17:43 報告! 超イケメン発見! その人アタシのそばにやってきた! ゴメンどいて、だって。何するかと思ったら、いきなりアタシの近くに置いてある大きなドラム缶たんがえたー!』
『6/22 17:45 ちょ、サキ、何ぞそれ?! kwsk!』
『6/22 17:50 イケメン、ドラム缶水たまりのど真ん中にドン! 車みんなよけて走ってくよー! イケメン、マジグッジョブ! マジ神! しかもアタシ、ハンカチ差し出されたww ずいぶん濡れたな、これで足を拭くでござる、って♪ そんでやっと、バス来たよー!』
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午後六時十五分過ぎ、沙樹が駅前のファストフード店に入ると。梨子は幸せそうにシェイクを飲んでいた。
「サキ、おつかれ!」
「リコ、遅れちゃってごめん」
「どんまい。ほら座りな。あ、シェイク何味にする?」
「え、イチゴがいいけど……おごってくれるの?」
「ご・ほ・う・び♪」
「え?」
沙樹はきょとんとした。
「あんた、嘘つく時はほんとハイテンションになるよねえ。普段は大人しいお嬢様なのに」
梨子はくすくす笑った。
「ドラム缶移動させたの、あんたじゃないの?」
「えっ、私には無理よ。あんな重いの動かすなんて」
「ピアノって腕力要るから、あんた毎日ダンベルで鍛えてるじゃない」
梨子は笑いながら席を立ち。沙樹の分のポテトとシェイクをカウンターで買って戻ってきた。
「リコ、ほんとに違うってー」
「わかったわかった、そういうことにしといたげる。けど」
梨子はニヤニヤしながら沙樹の前にトレイを置いた。
「『足を拭くでござる』って、いつの時代の人なのー。マジうけるわー!」
「いや私もびっくり、ありえないよねー!」
ころころ笑いあう二人。箸が転げても可笑しい年頃だ。
頬杖をつく沙樹の両袖は、べっとり黒く汚れているのだが。梨子はあえてそこには突っ込まず、それからしばらくの間、モテない同士の盟友とイケメン話に花を咲かせたのであった。
つづく?




