06 有俐沙 著 水溜り 『DROP』
DROP
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起
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濡れた傘ほど邪魔な荷物はない。
湿気って広がる茶髪を片手でいじりながら熊谷瑞希はそう思った。
年齢は20歳前後。二重の大きな目は綺麗というより可愛らしさを強調させている。女性らしい身体つきには白い七分丈のフレアブラウスと花柄の紺を基調とした膝丈のキュロットスカート。必要最低限の物しか入れられそうにないショルダーバッグを右側に抱えていた。
バイト帰りの夜の混んだ電車の中。浮腫んだ片足を軸にして座席の端にもたれつつ、スマホを取り出し操作し始める。
SNSに打ち込まれる、『やっとバイト終わったぁ』という呟き。それに数人から返ってくる『お疲れ様』という労いの複数のリプライ。
それらに彼女は少しの安心感を覚えるのだった。顔は見えずとも――それが日常的に繰り返されるごくごく定式化したものでも――自分のことを心配してくれる誰かがいるという妙な安心感である。
定期的に通知される天気予報で明日も雨と知り瑞希は小さなため息をつき、携帯音楽機器を取り出して曲をランダムで流し始める。ヘッドフォンから漏れる音楽に近くの男性が、「うるせぇな」と舌打ち混じりに言うが、勿論彼女には聞こえていない。
『雨って嫌だなぁ、じめじめするし髪は広がる。土の臭さも好きじゃない。余計な荷物も増える……』
SNSに発信される呟きを打ち込みながら長いため息をついた。
電車は乗換線が複数ある大きめの駅についた。車内の乗客の半数近くがそこの駅で降り、そして降りた数より多くの乗客が車内へ流れ込む。瑞希は手短に自分がいた近くの空いた席へと体をねじりこんだ。
(……あ)
座った瞬間、座った席の目の前に立っていた男性と一瞬目が合った。彼は少し苦い顔をして、手にもっていた本へ目を移す。
しまった、と彼女は内心思った。ここは優先席である。目の前にいるのは70歳くらいの白髪の初老の男性。確実に、この席に座ろうとしていたところを自分が横取りするような形になってしまったのだ。しかし、車内はすでに満員状態であり、今からここを離れて座れる席などない。ここは、譲るべきか否か。
「あの――」
そう瑞希が声をかけるのと同時、隣に座っていた女性からも同じ言葉が発せられた。
「よろしければここの席、どうぞ」
にっこりと愛想の良い笑顔を浮かべ、その女性は席を譲る。
「すいませんねぇ」
と男性が返すと
「いえ、次で降りるので」
このやりとりを横目でちらっとやり過ごし、瑞希は居たたまれない気持ちになりながら目を強く閉じた。
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承
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濡れた傘ほど邪魔な荷物はない。
雨に濡れた髪をタオルで拭きながらこの日も瑞希は強く思った。
いつものようにバイト帰りの電車の中。
(明日も雨。洗濯物が溜まってく……)
先週から続く毎日の雨。バイトと自宅の往復しかしないが日に日に着るものが減っていくのに瑞希は嫌気が差していた。
スキニーの裾は水を含んで少し重く、それを一層不快な気持ちにさせる。少しでも雨を楽しもうと、アクリルでできた雫の形のイヤリングをつけてみたが、全くテンションは上がらなかった。
日課のようにSNSに書き込まれる『バイト終わった』と返される『お疲れ様』のやりとり。
今日も誰かしらのリプライがきて瑞希は少し満足したのか、音楽機器を取り出しヘッドフォンを装着して、周囲に少し漏れるくらいの音量に上げ音楽を流し始めた。彼女の斜め前にいる中年女性が横目でちらりと見るが、無論彼女はその視線には気が付かない。
『毎日毎日雨ばっかで嫌だなぁ』
SNSに言葉を打ち込みながら、大きなため息がもれる。
そして、電車は駅へと流れ込む。乗客の過半数が降り、それ以上の人数が乗ってくる。瑞希は、近くの空いた席に素早く体を収めた。そして、周囲を確認して、優先席じゃないときちんと確認してから、スマートフォンの画面と向き合った。
雨での湿気により車内にこもった熱気が暑くもなく寒くもなく丁度良い気温にしていて、いつの間にか目をつぶっていたらしい。ヘッドフォンの重さで頭が前のめりになり、瑞希は目を覚ました。ずれたヘッドフォンをきちんと耳に当てながら、ドアの上の表示を見る。降りる駅は――過ぎていた。
「っえ?!」
慌てて立って今止まっている停車駅で降りようとしたが、立った瞬間、無情にもドアは閉まった。
(最悪だ……)
瑞希が疲れた顔で座っていた席に座り直すと、右腕が軽くたたかれた。
「ふふ、お姉さん」
隣に、白髪の老婦が笑顔で座っていた。慌てて、音楽を止め、ヘッドフォンを首にかける。
「これ、お姉さんの落とし物じゃない?」
そう言って差し出された皺だらけの手に、雫のイヤリングが一つ、ちょこんと収まっていた。
「あ……」
「あなたが寝ているときに落ちたから起きたら渡そうと思って。起きたと思ったら慌てて降りようとするから、渡し損ねるところだったわ」
どうやら、ヘッドフォンがずれたときにイヤリングが片方取れてしまったようだ。
「……ありがとう……ございます」
消え入りそうな声でお礼を言うのが精一杯だった。せめて顔を見て言わなければ、と顔色を窺うように老婦の目を見た時だった。
「狭い画面のむこうだけを見ていると近くにある大切なもの、落としちゃうからね」
そう言った老婦の垂れた優しそうな細い目は、澄んだ青い色をしていた――ように見えた。
しかし、瞬きをして再び開いて見えた瞳は日本人らしい色をしていた。
「まもなく……に到着致します」
車内アナウンスが流れ、やがて電車は次の駅に到着した。
「こっ、これで失礼します。」
ぺこりと軽いお辞儀をして瑞希は電車を飛び出した。
(つづく)




