02 紅之蘭 著 切り札 『ハンニバル戦争』
. ハンニバル戦争
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. 1 切り札
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紀元前二〇四年。
エイ、ホ。エイ、ホ……。
掛け声が海原に響く。
おびただしい数の櫂が、規則正しく動いていた。
漕ぎ手は奴隷三百人からなり、操る櫂は五階からなる船体の窓からのびていた。
黒髪の美麗な少年が、若い家庭教師に連れられて甲板に上った。
左舷の船縁に身を乗りだした二人の眼前には、紺碧の地中海、その奥に、緑に覆われた大地が望めた。
「あの白い町は?」
「カルタゴ市ですよ、ハンニバル様。背後にみえる山はアトラス山。雪解け水が豊かな森を育みそこを切り開いて沃野となし、町を栄えさせているのです。――もともとカルタゴは、杉の国レバノンからやってきたフェニキア人・交易の民。貴方様のご先祖・バルカ家の方々も彼の地を植民都市とした貴族の一員です」
ハンニバルと呼ばれた少年はカルタゴ貴族バルカ家の人だ。広大な家領が同市の南方に存在し、船団はそこからきた。
家庭教師は、シレヌスというギリシャの知識人だ。
ハンニバルと呼ばれた少年がまた訊いた。
「祖先が植民都市を築いたように、われらも植民都市を築くというのだな?」
「はい、新カルタゴだそうです」
「新カルタゴ? なんて独創性のない名前なんだ」
「『新』とつくとなんだかワクワクします。いいと思いますよ」
「そういうものか」
船団は五隻からなっていた。しばらくゆくとバール・ハモンの柱がみえてきた。ジブラルタル海峡の両岸にそびえる岩塊で、ギリシャ語でいうならヘラクレスの柱だ。そこを抜ければ大西洋にでて、南にむかえばアフリカ沿岸、北にむかえばヨーロッパ沿岸を航行することになる。しかし船団はそうせずに、地中海に沿って北上し、スペイン半島の中ほどに上陸した。
船団が着いたのは建造中の港で、ハンニバルの父親ハミルカルが出迎え、息子を抱き上げた。鍛え上げられた体躯をした将軍で、カルタゴ随一の門閥・バルカ家の当主だ。
宿敵ローマとの抗争・第一次ポエニ戦争は敗戦だったのだが、友軍が連敗するなか、唯一常勝していた指揮官だ。
また、敗戦直後、本国の議会・百人会は、前線で戦っていた傭兵たちに賃金を支払わないことを決定。結果、本国や地中海中に散らばっていた各植民都市にいた傭兵たちは一斉に蜂起して叛乱を起こした。これを鎮めたのも彼の力によるものだった。
ハミルカルは新カルタゴ初代総督となった。その人が広大な開拓地における新都の完成を見ぬまま没すると、息子ハンニバルはまだ十八歳だったので、姉の夫であるハシュドゥルバルが第二代・新カルタゴ総督に就任し、それを完成させた。
二代目はローマと上手く付き合い、スペインにいた各部族を手名付けて、領域を拡大していった。
. * * *
紀元前二二一年、反バルカ家勢力が放った刺客により暗殺された。ついにハンニバルが同家の家長となり、第三代新カルタゴ総督となった。二十六歳のときだった。
将軍を兼ねた青年総督は、スペイン半島の南部の諸族を相手に連戦連勝を重ね、瞬く間にそこを支配下に置いた。いまやカルタゴは第一次ポエニ戦争時の国力に回復する勢いだった。
そして二十八歳になった年である紀元前二一九年、彼は意を決し、新カルタゴの北方にあるザグントというローマの同盟市・ザグントを攻略した。
ギリシャ人の家庭教師シレヌスは、そのまま弟子である将軍の副官になって従軍していた。彼は、帷幕にいた黒髪の青年・ハンニバルに訊いた。
「このザグント攻めについて、ローマは黙っておりますまい」
「先代がローマと交わしたエブロ条約では、カルタゴ領域は、スペイン半島エブロ河以南となっておる。だが現実にローマの同盟市サグントは南岸にある。何という素晴らしき矛盾。そこで条約に従いわが軍はザグントを頂くというわけだ」
ギリシャ人の副官は額に汗を浮かべ、そしてまた将軍に訊いた。
「もう一つ、ザグントの守りなど貧弱なもの。五万もいるわが軍が一気に襲い掛かれば、瞬く間に陥落してしまいますのに、なぜそうなさらない?」
「ローマが怒ってカルタゴに宣戦布告させる。そうすれば、条約を破ったのはわれわれではなく奴らだ。大義名分を手に入れることができる。そのための時間稼ぎだ」
青年将軍はあまり多くを語らない。
副官シレヌスの眼前でやらかしている貧弱な城壁で囲われたサグント攻略も、無駄に時を弄んでいるようだった。
やがてローマから、元老院議員からなる使節一行が詰問にやってくると、応対にでたシレヌスに、取り次ぐように申し付けたのだが、将軍は、
「うちの傭兵どもは血気に早っておりましてな、陣に入ったら何をしでかすことやら……」
という答えを返してきた。
「糞ガキめ、同盟市ザグントがローマ本国から遠いことをいいことに、やりたい放題をしおって。近いうちに煮え湯を呑ませてくれる!」
ローマの使節を乗せた船は、そのまま、カルタゴ本国へと向った。
本国の最高機関・百人会は、ローマ使節の話を訊いて、ハンニバルを弾劾するどころか、逆に、
「さすがはカルタゴ随一の武門・バルカ家棟梁だけのことはある。ハンニバルは今やスペインの南半分を征服したというではないか。あの凶暴で何を考えているか分からぬ連中を手なづけ、傭兵として飼いならしている。なかなかできることではない。彼ならできる。ローマの奴らに、先の敗戦の屈辱を晴らしてやれるというものだ」
といった。
指導部層にいたカルタゴ百人会の議員・ハンノン翁は、
「あの暴れん坊は危険人物だ。もしこのまま奴が、ザグントを陥落させたりしてみろ、第二次ポエニ戦争が勃発する。皆よ頭を冷やせ、第一次ポエニ戦争のころのカルタゴと、ローマとの国力比は逆転しているのだぞ。総力戦になったら勝てる相手ではない!」
と息巻いたのだが、カルタゴ本国議員の大半は、若き天才の連戦連勝という甘美な言葉に酔いきっていて、老人の苦言に耳を貸そうともしない。
それは一般市民にもいえることだった。
「ハンニバルこそカルタゴの切り札だ!」
と通りに出て叫び熱狂していた。
一行が市門から出ようとしたところを囲まれかけ、危ないところで振り切った。
(これはヤバイ)
生命の危険を感じた使節は、船に逃げ帰り、そのまま故国の元老院にその旨を報告した。かくして、ハンニバルの策謀に乗せられた格好で、ローマはカルタゴに宣戦布告する羽目になった。それは、第二次ポエニ戦争とも、「ハンニバル戦争」とも呼ばれることになるものだった。
. * * *
密偵からローマ側による宣戦布告を知ったハンニバルは、敵の同盟市ザグントを八か月も包囲したままにしておいた配下の軍勢に、急きょ、突撃を命じた。
すると攻城用兵器・衝車が市門をあっさりと破り、続いて方形に隊列を組んだ重装歩兵が、機械のように規則正しく行進し、市街地に攻め込んで占領。こうして、象が蟻を踏みつぶすかの如く、瞬時に攻め滅ぼしてしまったのだ。
住民は奴隷として捕縛され、略奪された莫大な資財は、カルタゴ本国への貢納・傭兵たちへのボーナス・軍団経費に三分割された。本国に戦利品を送ったのは、支持を取りつけるためだ。
当時の戦争感に善も悪もなく、単に「弱肉強食」の四文字があるだけだった。
ザグント市を見下ろす高台にカルタゴ軍本陣があり、そこに戦象に乗った青年将軍が崖下を睥睨していた。彫の深い横顔。黒髪を偏西風が撫でていた。
ギリシャ人の副官・シレヌスは象上の人を見遣って苦笑した。そんな彼は、翌年、カルタゴの若い将軍によるローマ大遠征に随行し、戦記を著述することになろうとはこのとき夢にも思っていなかったのだが……。
. つづく
【参考文献】
1 塩野七生 「ハンニバル戦記 上・中・下巻」 (新潮文庫 『ローマ人の物語 3・4・5巻』 新潮社 1993年)
2 長谷川博隆 『ハンニバル』 (講談社 2005年)




