02 E.Grey 著 始まり&終わり 『公設秘書・少佐』
昭和30年代末期。ゴールデンウィークを利用して、上京した私は、「婚約者」の彼と、銀座の洋食屋・煉瓦亭で昼食をとっていた。
そこは小説家の池波正太郎が常連になっているとのことだが、このとき彼の作品は読んでいなかった。後に『仕掛け人・梅安』がテレビドラマ化され、『仕事人』になり、テレビオリジナル・シリーズでは藤田まこと演じる中村主水が登場してロングヒットとなるわけだ。
そんな瀟洒な洋食屋さんでオムライスを食べ終えると、化粧室に入り、キスに備えて、ハンドバックにいれてある旅行用歯ブラシで磨いてから、レジ・カウンターに行った。
すると、そこに、40過ぎくらいの、絹の着物を羽織った上流階級ふうの婦人が現れた。
「あの、島村先生の事務所で公設秘書をなさっていらっしゃる佐伯様じゃないでしょうか?」
「はい、そうですが? 貴女は?」
「三河鈴子といいます。三河進の妻だといえばお判りかしら」
「あ、以前、お会いしたことがありましたね。そうそう、衆議院議員の三河先生の奥様でしたか。大変失礼いたしました」
彼の名は佐伯祐。黒縁眼鏡でスーツを着込んだ30少し手前の年齢だ。いくつかの事件を解決し、テレビに取沙汰されたこともある。そのため、世間では、彼が私立探偵を副業にしていると勘違いしている。
夫人が私をみやった。
「あ、こちらは、佐伯さんの奥様?」
そういわれるのも少し慣れてきた。
「婚約者の三輪明菜です」
夫人は、「デート中でしたか。これはどうも失礼しました。ハンサムな佐伯さんには、美人さんが寄り添うものね。若いって素晴らしいわ」といい、それから佐伯をみやって、
「ちょうどよかった。ご相談にのって戴けません? 貴男は島村先生のお膝元ではいくつもの事件を解決し、作戦参謀の『少佐』って仇名がついているってこと、主人のお仲間うちでは割かし有名ですのよ」と切りだした。
なんだか、雲行きがおかしくなってきた。溺れる者は藁をもすがる。佐伯がボランティアで探偵役を引き受けるのは当然だと考えているらしい。困ったものだ。
「私のできる範囲なら」
佐伯も佐伯だ。人がよすぎる。
話は佐伯が勤めている島村清兵衛代センセイの盟友・三河代議士のプライベートな件で、よくある亭主が美人秘書と不倫関係になって、2人が夫人の食事に毒を盛っているというのだ。……いくらなんでも被害妄想ではないのだろうか。店を出て夫人と別れた後、佐伯も同じ意見を述べた。
佐伯の住むマンションで遅い朝を迎え、キッチンでハムエッグを焼いていると、リビングで電話が鳴った。事務所のセンセイからだった。
――佐伯君かね。三河の奥さんが亡くなった。
「え、どいうことですか、センセイ。昨日、煉瓦亭でお会いしたばかりですよ」
――毒殺されたんだ。警察は、亭主の三河が、愛人になっている秘書と、共謀して毒を盛ったって線で捜査をしている。三河が重要参考人ということで、警察署に引っ張っていかれた。マズイ、実にマズイ。奴と俺とは同期なんだ。できれば助けてやりたい。
そういうわけで佐伯は、またも事件に深入りしてしまったのだ。
司法解剖の結果、夫人の胃から、砒素が検出された。
やっぱり砒素か。この世に毒物は数々あれど、入手しやすいのは、青酸・ニコチン・砒素の3種だ。……というのは、金属工業での触媒や農薬・殺虫剤として、容易に手に入りやすく、毒薬として支配的な地位にあるからだ。砒素は、その中で最も速効で、確実に、ターゲットを殺せるのだ。
. * * *
三河代議士のマンションは目黒にある。煉瓦造りの五階建物のエレベーターに乗って3階で降り、報道関係者が押し掛け、警察官と揉み合いになっている。そこを2人で割って行き、部屋の中に入った。すると奥にいた真田警部がでてきた。私の住む月ノ輪村駐在所の老巡査の甥にあたる人だ。伯父が名付け親で、同姓の名将にあやかって、幸村という名前をつけていた。
七三分けの髪型で四角い顔をした、大柄な男がいった。
「『少佐』に御内儀殿、素敵な殺人現場にようこそ」
佐伯が挨拶もそこそこに、カーペットが敷かれたリビングの床から、這いながら化粧室にむかった。途中、ソファアの下に落ちていたハンカチをみつけ、大事そうに自分のハンカチで包んだ。
「……で? 警部、劇薬はなにを使いました?」
「化粧室に小瓶が落ちていた。砒素系の農薬を入れたものだった」
「警部、被害者の身内は洗いましたか?」
「夫人には御両親はすでに亡くなられていて、御主人である三河代議士との間に令嬢が1人いる。もともと夫人は、資産家のご令嬢で、莫大な遺産を相続、ご自身の資産としている。三河代議士は奥方の潤沢な資金を背景に政界活動資金としていた。……しかし、そこに美人秘書が登場する。2人はすぐに男女の関係となった。当然、邪魔になった夫人を毒殺した」
「ちなみに、毒は食事に盛られていたようでしたか?」
「いや、歯ブラシに付着させていたんだ。夫人は化粧室・洗面台のところで倒れて死んでいたのです。実に計画的だ」
佐伯は内ポケットのシガレットケースをまさぐった。中身が空になっていた。
幸村警部が自分の内ポケットから、紙煙草「憩」から1本だして、渡し、ジッポのライターで火をつけてやった。
「警部なら、10日以内に解決するでしょうに」
「『少佐』の頭脳を借りれば1日で済む。9日分の捜査費用を浮かせて、ほかの事件の費用に回せるというもの」
「仕方がないですね」
「毎度ご協力に感謝する」
2人は壁にもたれかかって、美味そうに煙草を吸った。
そこで黒縁眼鏡の彼が唐突に警部にきいた。
佐伯は、室内にあった電話を借用して、どこぞに電話をした。この男には独自の情報網があるのだ。そのなかには路地の情報屋もいれば、新聞記者、アメリカCIA関係者までいるらしい。
「警部、三河代議士夫妻の令嬢夫妻がいらっしゃいましたね。新婚さんだとか……」
「ん、代議士と愛人に、令嬢夫妻が容疑者が加わったというわけか」
「そういうことです」
「『少佐』、どうせ、もう謎は解いているんでしょ。ざっくばらんと行きましょうや」
「そうですね、ざっくばらん、と行きましょう」
佐伯は警部に何事かを耳打ちした。
警部が、マンションの外に停めてある、パトカーの無線機をつかって、何事かを指示しにいった。彼が戻ってきてから30分くらしてから、三河代議士の秘書をしている令嬢とその亭主がやってきた。
代議士は、愛人ほかに、令嬢夫妻も秘書として使っていたのだ。令嬢の夫は若くなかなかの美男子だ。
「こっちを疑うなんて、お門違いだ。あのアバズレ女がやったのに決まっている」
2人はブツブツいっている。
佐伯が、令嬢夫妻の前に立って、警部が手にしていた毒薬小瓶とハンカチを2人にみせた。
「――砒素系殺虫剤です。これを使って、犯人は貴男方のお母様を毒殺し、ハンカチで指紋を拭き取った」
令嬢の亭主が片手拳を強く握り、残る手で泣き崩れる妻の背をさすった。
「奥様、お可愛そうに」
そこで佐伯は焦らすかのように、言葉を遮り、警部からまた煙草をもらって、火をつけてもらった。
「安物の煙草は高級品と違って大味だ」
「『少佐』、そりゃ、悪かったね」
警部はもう煙草はくれてやらんぞ、といった顔で腕組みしていた。
佐伯が苦笑した。
「さっき制服警官の方に試薬を吹きかけてもらったんですよ。そしたらなんと指紋の拭き残しがみつかったんです」
――あ、あああ。
令嬢の若い亭主が両手で頭を抱えて床に膝を落とした。
妻の令嬢が肩に手をやった。
「貴男、どうしたの?」
佐伯の横にいた警部がいった。
「どうしたもこうしたもない。つまり彼が犯人だったというわけです」
三河代議士の令嬢の亭主というのは、株で失敗して借金をこしらえていた。財産目当てで、令嬢を垂らしこみ結婚をするのだが、相続財産は少ない。だから母親を誘惑するとともに、代議士が例の女性秘書と愛人関係になっていると吹き込んだ。義母の歯ブラシに砒素溶液に浸して毒殺。義父である代議士と、不倫相手とされる女性秘書に罪をなすりつける。遺産が自分の奥方に全部転がり込んできたら、後はなんとでもなる。……そう踏んだというわけだ。
いうまでもなく、犯人はその場で逮捕された。
殺人現場をでるとき、私は、佐伯にきいた。
「しかし、祐さん、もし小瓶に指紋が残っていなかったら、あの凶悪犯は捕まえられなかったかと思うと、ゾッとするわ」
佐伯は警部から箱ごともらった「憩」から、また紙煙草を1本取り出し、口にくわえていった。
「指紋か、犯行は完璧に近かった。だから警部と図って毒薬の小瓶に指紋が残っていると嘘をついたんだ。予想通り、奴はまんまと引っかかった。……事件は小瓶に始まって小瓶に終わったというわけだ」
「えっ!」
私は一瞬立ち止まった。
その間に煙草をふかした佐伯が数十歩先に行ってしまった。
――待て、こら!
END
【主要登場人物】
●佐伯祐……身長180センチ、黒縁眼鏡をかけた、黒スーツの男。東京に在住する、長野県を選挙基盤とする代議士・島村センセイの公設秘書。『少佐』と仇名されている。
●三輪明菜……無表情だったが、恋に目覚めて表情の特訓中。眼鏡美人。佐伯の婚約者。長野県月ノ輪村役場職員。
●真田幸村警部……七三分けの髪型で四角い顔をした、大柄な男。東京都警視庁のキャリア組。三輪明菜の住む村月ノ輪村に駐在する、長野県警・真田巡査の甥。




