05 奄美剣星 著 雪解け 『タエがいた図書館』
在学中、東京にいたころだった。小田急線沿いの駅に寮があって、そこから、下り電車に乗って通学していた。タエという同じ年の娘がいて、また別の寮で暮らしていた。学部は違うのだけれども同じ講義を受講することがあって、ノートの貸し借りをするようになり、お茶を共にする程度の仲にはなった。満員電車では抱き合うような恰好になったこともあって、心臓がドキドキ鳴ったのを憶えている。
キャンパスがある丘から麓にくだる停年坂。そこからバスに乗って、バスターミナルのある駅で電車に乗る。
その間、シートに並んで座ったタエと未来のことについて話をした。
「奄美君、将来、なにになりたいの?」
そのころの私といえば多情なもので、なりたいものはたくさんあったのだが、焦点というものが定まらないでいた。本来なら、もうヴィジョンというものを持たなくてはならない時期になっているというのに。
「いろいろあるよ。子供のころに、画家とか考古学者とか小説家とか……。ははは。みんな夢みたいなものばかりだ」
「地元企業からパンフレットとかこない?」
「たくさんくる。デパート店員とか、メーカーの営業とか……。そうそう、温泉リゾートの社員なんてのもあったかな。どれにしようか迷ているところかな」
「タエさんは?」
「司書の資格をとったわ。クニへ帰ったら、図書館に勤めようと思うの」
「なんだか似合ってる」
「そう思う? ありがとう」
「どういたしまして」
当時はバブル期で、学生が就職活動をするよりも前に、放っておいても企業の側から求人案内が、ドサドサとポストに投げ込まれてゆく感じで、未来設計などせず、ぼんやりしていても、生きてゆくのに支障はなかったのだ。
そういう点でタエはしっかりしていた。将来に対するヴィジョンというものができていた。しかも、すらりと手足が長く目はパッチリとしていて美人の範疇にはいっていた。恋愛対象としては申し分ない。
ところがだ。私の当時の好みといまの好みは違っていて、どんなに美人でも、顎が未発達なタイプの女性に対しての採点は辛かった。(もちろん自分の容姿は棚に上げての話) そういうわけで、あまり乗り気ではなかったのだ。
卒業際のドタバタといえば、たまりまくったレポートと卒論の処理だ。卒論が原稿用紙100枚、レポート5本各20枚、合計200枚くらいだったか。2か月間、キャンパスに近い友人のアパートに泊まり込んで、提出期限ギリギリで仕上げた。
この空白が最大ミステイク。当時は、携帯電話というのがなくて公衆電話に頼っていた。連絡先とか交換していればよかったのに、タエとは、それすらしていないから音信不通になった。やがて卒業になり、自動的にキャンパスから追い出されてしまったというわけだ。このときになって、はじめて、彼女を愛していたと思い知った。
前日のドカ雪で東京は白くなっていた。
3月の卒業式当日は、午後だったため、ダイヤは回復していて、出席に支障はなかった。
会場の武道館は、卒業生と父兄を合わせて数千人もいた。会場は武道館。そこでタエの姿を捜しだすことは無理な話しだった。
月がかわって、私は、内定していた首都圏に本社がある企業に就職した。
恋人が何人か入れ替わった。
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10年近く経った。
道路には、他の車の姿はなく電柱柱が突進してくるばかりで、対向車にでくわすのはきわめてまれだった。阿武隈山地には山塊という尾根を大きくしたような台地が、海に張り出したところがある。そういうところの裾に、線路を敷き、必要に応じてトンネルを掘削していた。ローカル線JR常磐線だ。
陸前浜街道・国道六号線は、その線路と、海岸線に併行して、南北を縦断していた。そして限りなく海に近かった。茨城県北部の県境に北茨城市というところがある。大北川というのが流れていて、親潮のため、河口は砂洲で塞がれるため、どんどん、北に追いやられて、詩人・野口雨情の生家のあるあたりの、岩塊にぶつかって、そこでようやく、出口となることが可能になる。途中、海に張りだした山塊が波に荒々しく削り取られたまま孤立した絶壁・二つ島を横にみることになる。
明治の日本画壇に旋風を起こした、岡倉天心と、横山大観ら門弟たちが、アトリエ村を営んでいた磯原という岬のあたりを通り越す。県境・勿来の関の手前あたりに、美術館があり、裏手の海に寄ったところに、民宿や別荘街があった。
太陽は春の陽射しで、空は真っ青というよりは、少しもやがかった空のためか、クリアな青・水色になっていた。街道を外れて、海に寄り道することにした。
生産ラインがとまった、赤いカローラⅡに乗って、私は海にむかった。
塀に囲まれた空き地があって、セメントでつくった、いかにも素人くさい犬の像があり、「ポチの碑」とプレートに刻まれていた。その空き地の横に車をとめて歩く。砂岩の崖が続いていた。別荘街と海との間に、テラスになったところがあり、ま新しいコンクリート外壁のモダンな2階建て建物があった。
「絵本図書館……」
私は思わず、表札を、声にだして読んだ。篤志家が私財を投げ打って建てたものらしい。
崖の真下にあるのに、入り口はいまいるところから、けっこう戻って、岬の下を半周し、そこにどうにかたどり着いた。
1階ロビー・カウンターで、司書さんたちが、忙しく絵本を整理していた。挨拶をして、本棚がいくつも並んだところにゆき、絵本を手にしてみる。『桜の王子様』というベルギーの作品があり、頁をめくっていた。
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昔、丘の上のお城に住んでいる可愛いお姫様がおりました。ある日、おやつの時間。お姫様が、片手に盛った桜ん坊を食べようとしたとき、一つが地面に落ちて転がってしまい泣き出しました。ところがどうでしょう、転がり落ちた桜ん坊から芽がでて、お姫様が美しく成長したころ、立派な木になって、桜ん坊が実るようになりました。さらに何年かして、桜の木に見慣れない馬が繋がれていたました。そうです、素敵な王子様が、結婚を申し込みにきたのです。
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そんな話だった。
絵本を読み終えたちょうどそのときだ。前を、重たそうに数十冊重ねた本を抱えた女性職員が通った。少し離れたところで、本棚を整理し始めた。
私は、彼女のエプロンにつけられた名札に、タエと書かれていたのをみいだした。なんたる偶然。こんなところに就職していたのだ。
「タエさん……」
「え?」
テレビドラマや舞台演劇みたいに、彼女はほんとに、バサッと絵本を床に落として、こっちをみた。
それから、彼女は、顔を真っ赤にして、カウンターから、職員控室に逃げ込んだ。
1階フロアでの閲覧者は10人くらい、職員がタエ以外に2人いた。皆が一斉にこっちをむく。たまらず私は上気した。
数秒、どうしようかと思案した。なにかにつけ鈍い私なのだが、ここ一番というところだ。かつてないくらいに機敏になれた。いま、ちゃんと話しておかないと一生後悔するだろう、という結論に達したからだ。
たまたまカウンターにいた、同じくらいの年齢の、同僚女性に、頼み込む。
「奄美といいます。タエさんの大学同期です。それ以来会っていなかったんです。卒業間際のドタバタで連絡もしないで申し訳なかったって、いいたかったんです。すみませんが、彼女に、これを渡して戴けませんか?」
私は、買ったばかりの携帯電話の番号を裏書きした、名刺を渡した。
素っ頓狂な顔をしていた同僚女性は、
「納得しました。あの子、シャイだから……」
といって、奥から、タエの腕を鷲づかみにして、引っ張りだしてきてくれたというわけだ。
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それから、また10年経った。
3・11の大震災が発生してほどなく、勤め先に、無理をいって長期休暇・帰省の許可をとっておいた。
帰省の日、明け方まで降っていた春のドカ雪が積もっていた。整備工場はどこも閉まったままだったので、自分で、ノーマルタイヤを、スタッドレスに、交換した。
「なにも、こんな日じゃなくて、明日でかけりゃいいのに……」
と自嘲気味につぶやくのだが、自分を抑えられずに、エンジンキーを回した。
高速道は破壊され不通になっていた。正誤の情報がラジオを飛び交ってい、ネット上でも、道路事情は判らなかった。しかし、応急修理のつぎはぎだらけで一部が一車線、波打ってはいるものの、陸前浜街道はなんとか通ることができた。北茨城市を通過した。ナビは当てにならない。直観が頼りになった。
水戸にきただけで丸一日かかってしまい、そこで車中泊をした。
翌早朝、出立し、知らない町を通過したときのことだ。工事のための迂回路があって、市街地を迷う一幕もあったが、警察署駐在所に寄って助言をきいた。警官たちも全面的には把握していなかったが、それでも、
「山道は崖崩れで不通になっている可能性があるから、なるべく、浜街道を北上するといいですよ」
という助言はとても役に立った。
なにせ、ちょっと山際に寄った枝道を通ると、道路のドまん中に、横滑りしてきた家が、通せんぼしていたのだから。
地盤の弱いところは、地割れしていたし、橋が落っこちていて、なかなか向こう側に渡れない。どうにか本線に戻ると渋滞になった。信号も復旧しておらず、警官や警備員が手信号をやっていた。
ところが、日立市の北側にある高萩市を抜けたあたりで、あれほど渋滞していた道路がガラガラにすいてきた。そして北茨城に入るところで、封鎖ゲートと、工事関係以外の車両の立ち入りを禁止ず」という看板があった。
「ここまできて、郡山を迂回するのかよ」
と思わずぼやいてハンドルを回しかける。
そこに、警備員が駆け寄ってきて、
「看板が残ってますが、ちょうどいま、応急工事が終わったところで、通れますよ」
と報せてくれた。
(助かったあ!)
私は心から安堵した。
車のガソリンメーターは半分にを示していた。給油所はどこも閉まっていた。高萩市から郡山市を迂回していわき入りするとすれば、燃料がもつかどうか危ういところだった。
二つ島の頂きを覆っていた王冠のような松の茂みは、大津波でぶっとび、焼夷弾で焼かれた摩天楼のようになっていた。
街道沿いの民宿・民家は、壁をぶっ飛ばされて、屋根を残してガランドウ。そのまわりには、流木やらススキのようなものがまとわりついている。海にせりだした浜街道のアスファルトは、半分抉られたようで、そこに応急で詰め物をして、どうにか通れるようになっていた。
「絵本の美術館」がどうなったか気になった。
いってみると、予想はしていたが、1階が潮を被って、海を見晴らしたフランス窓のガラスが砕け散って、内部が滅茶苦茶になっているのをみて、ショックを憶える。私は、ぶっ飛んだ扉を抜け、タエと再会したあの1階ロビーにいってみた。海水で滲んだ絵本『桜の王子様』が足元にあるのをみつけた。
ウグイスが鳴いていた。
感傷にひたってばかりもいられない。私は、勿来の関を超えて、茨城県側から福島県側に入った。
勿来海岸と駅のある市街地は、浜辺から数メートル高かったのが幸いしてか、無事だった。しかし活況といえば、茨城県では市民が津波の後片付けを一家総出でやっていたのに対し、福島県側にでた途端、まるで、人気というものがなく、通りは、火星にでも不時着したら、恐らく目にするかのような、風景だった。
店はどこも閉まっていて、稀にみかける人は、フード付きのヤッケに、ゴーグル、マスクといった格好で歩いていた。その頭上にある電光掲示板が、「原発事故のため富岡から先は通行止めです」と教えていた。
私は車を、勿来の関から、小名浜港を経由し、平方面にむかって走らせた。
小名浜港に係留されている船は、津波のときに沖合に逃げて助かった漁船、それから、原発事故関係の作業員が宿泊するために接岸された商船大の帆船・海王丸くらいのものだった。
水族館やヨットハーバーは、強烈な波で破壊され、市場付近の商店街が壊滅。家々には、藻がへばりついた自家用車に混じって、釣り船やら漁船が、突き刺さっていた。魚市場近くの防波堤には貨物船が乗り上げて船体がへにゃりと変形している。そんな光景を横目に、海砂がまき散らされた道路を抜けて、どうにか、実家に戻った。
近在では、地震に驚いたのか、ウグイスは鳴いていない。というか野鳥そのものがどこかにいってしまい、山々は異様な静寂に包まれていたのだ。
大谷石の塀はなぎ倒されて側溝をふさいで蓋になり、歩道のようになっていた。屋根瓦の半ばが落っこちて、軒下で砕け散っていた。
私はポンコツ車を、その家の前に停めた。すると、エンジン音をききつけた番犬が、けたたましく、吠えだした。
車のドアを開けるや、玄関から駆けてきて、
「お帰りーっ」
と、妻が、勢いよく跳びついてきた。
私はその年、Uターンして起業する予定だった。妻には、先に実家に戻って、準備をしてもらっていた矢先の被災だったというわけだ。実家のある地域は、原発事故にともなう避難区域から、20キロ南にそれていたのが救いだった。
――なんとかなる。
相変わらずウグイスは、どっかにいったままだが、ドカ雪は翌日には解けて消えた。そして庭では、緋寒桜と紅梅の花が一斉に咲き誇りだしたのだった。
そうそう、いいそびれるところだった。……読者諸兄はもうお気づきのことであろう。私の妻というのが、あのタエだ。
END
※ 物語はフィクションで、登場人物、絵本美術館も架空。また、ここにいる奄美は実在ではなく、筆者のペンネームを主人公に被せただけです。
作品に登場する「絵本図書館」のモデルは、茨城県ではなく、県境を越えた福島県の「いわき市絵本美術館」。震災後に補修工事をして、現在は再開しているとのことです。下記はホームページ。
→ http://www.kankou-iwaki.or.jp/sightseeing/tourist_facility/4944
話変わってこんなものがあります。地文の技巧レベルを計る面白いサイト・文体診断ロゴーンというもので、久しぶりに試してみました。本作品の評価は、読みやすさ・硬さ・表現力・個性が、A・B・A・A。余は(自己)満足じゃ。同サイトを以下に示します。興味のある方は、ぜひお試しあれ。
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