08 かいじん 著 祈り 『もしも明日が』
僕と福沢加奈は多くの人ごみに混じって後楽園場外馬券売り場を出て外堀通りを飯田橋の方へ向かって歩いて行った。僕らが歩いて行く先の西の空ではもう既に日没が近付いていて日は晩秋の街並の向こう側に沈んでいこうとしている。建ち並ぶビルと紅葉し落葉しはじめた街路樹のとうかえでに挟まれて続いている歩道を冷たい風が吹き抜けて行った。
僕らはまだ、先程の競馬のレースの余韻にどっぷりと浸っていた。あのレースが終わってからまだ1時間もたっていない。
日本の馬と世界8カ国から集まった競走馬合わせて14頭が2400Mを駆け抜ける2分30秒足らずのレースで、僕らは1万200円のお金を42万2220円にする事が出来た。
僕にとっての今日、今僕の隣を並んで歩いている福沢加奈にとっての自身が生まれる
11年前、すなわち1984年(昭和59)11月25日、つい先程東京競馬場で行われた第4回ジャパンカップ(G1)。
僕らはこのレースが、今から29年後に彼女が記録映像を見た時と、同じ結果に なる筈だという前提で、馬券を買ったのだけれど、それでもレースが始まる前は期待と不安で胸が一杯だったし、レース中はハラハラドキドキし続けた。
彼女が言った通りに10番人気の日本の馬と、2番人気の英国の馬が1、2着でゴールを駆け抜けて、そのままレースが確定し、僕が3回、払い戻しの機械に並んで、払い戻しを済ませた時、ようやくとりあえずの安心感を得る事が出来た。
僕ら二人は束の間の心地良い気分の中にいた。
しかし、場外馬券場を出て、夕暮れの近付いた通りを飯田橋駅前に向かって行く内に、少しずつ僕らの心中は、僕らの置かれている現実に絡めとられて行く。
僕と並んで歩いている福沢加奈も何か自分自身の思いに耽りながら目の前に駅前の大きな歩道橋が近付いて来た街並みの方にうつろな視線を向けていた。
「ところで……君はさっきのレース以外のレース結果も知っていたりするのかな?」
僕はわざと少し浮かれた調子で福沢加奈に尋ねてみた。
彼女は僕の方を振り向いて、しばらくぼんやりとした表情をしていたが、やがて意味あり気な笑みを顔に浮かべた。
「そう言えば、さっきのレースを振り返った映像の終わりが、この時3着に終わったシンボリルドルフという馬が、この1ヵ月後に行われた、何とかって言うレースでは、 逆に今日勝った馬を最後の直線で交わして雪辱を果たしたって言うナレーションで
締め括られていた気がする。」
彼女の言葉を聞いて僕は思わず自然にニヤリとしてしまった。1ヵ月後に行われる何とかって言うレースは、おそらく毎年年末になると、テレビや新聞で話題に取り上げられている、有馬記念とか言うレースの事だろう。
・・・
1ヵ月後……。
年の終わりも押し迫った1ヵ月後、今僕のすぐ隣にいる福沢加奈は、やはりまだこの1984年の世界に留まっている事になるのだろうか? 現時点ではその可能性が極めて大きい気がする。
彼女が長い期間にわたってこの時代に留まり続ける事になった場合、今から29年後には彼女の失踪騒ぎが起こり、その後、彼女はずっと行方がわかないままになってしまう事になるだろう……。
僕は顔に表情を出さない様にして歩きながら、いろんな事が次々と頭の中に
浮かんで来るのを止める事が出来なかった。
地下鉄の駅に向かう階段を降りて営団(現・東京メトロ)有楽町線の駅に向かう。
「池袋に着いたら、どっかに晩御飯食べに行こうか」
僕は福沢加奈に聞いてみた。
「うん。……今日はおカネいっぱい入って来たもんね」
彼女が答えた。
切符を買って改札を抜け、さらに階段を降りてホームに出る。やがてホームの左端のトンネルの向こうから風を切る音と線路を軋ませる音が近づいて来て、電車がホームに入線して来た。
車内は少し混んでいたので、僕と福沢加奈はホームの向かい側の扉の所に向かい合って立った。
扉が閉まって駅を出発すると、列車はトンネルの中を重苦しい潜もった響き音を立てながら走り、窓の外を壁面に取り付けられた白色灯が次々と流れていった。
「何だか、ずっと遠くにある今まで来た事の無い街に旅行して来たみたい」
車内の様子を何気なく見渡していた福沢加奈が言った。
(君の場合、実際その通りなんだよ……)
僕はそう思ったが何と無く口には出さなかった。
彼女がそう言った後、僕は目の前で何か思案顔で車内の光景をぼんやり眺めている福沢加奈の姿を眺めながら、彼女と実際に東京から離れたどこかの街を旅している光景を想像してみた。
今、地下鉄の扉の近くに向かい合って立っている、僕と福沢加奈の姿は周囲には、高校生のカップルか、少なくとも親しい仲の2人に見えているだろう。しかし実際には、彼女は(本来この場所にいる筈の無い少女)で、もっと言えばいろんな意味で(ここにいてはいけない少女)だった。
その僕の理解や能力をはるかに超えた、非現実的でありながら歴然とした現実の前では、僕が今考えている事は、無意味でナンセンスな事のように思えた。そんな事を考えたりしている内に池袋に到着した。
地下鉄を降りて、人ごみに混じって2人で出口に向かう階段を登っている時に僕はふと気づいた。
池袋で食事しようなんて言ったけど、考えてみれば東口を出たサンシャイン60の方は、彼女が昨日の夜、極めてショッキングな出来事に出くわしたばかりの場所だった。
「とりあえず、西口の方に出てみようか」
さり気無い感じで、彼女にそう聞いてみた。
「……私はちょっと、東口の方に行ってみたい」
福沢加奈が答えた。
僕らは駅の地下から階段を登ってパルコ前の駅前広場に出た時は、もう日は落ちて空はかなり暗くなり始めていた。
交差点を渡って目の前のサンシャイン60ビルを見上げながら雑踏の中を サンシャイン通りの方に歩いて行く。夕闇に包まれていく中、たくさんの人が行き交っている街中を歩いていると、僕等2人の存在が、とても無力でちっぽけなものの様に感じられた。
「ねえ、春介クン……」
暗くなってサンシャイン60ビルの所々の窓の照明がくっきりとしはじめた辺りを憂い顔で眺めながら歩いていた福沢加奈が言った。
「ワタシはやっぱり、これからずっと(ここ)にいる事になるのかな……」
それはおそらくお互いに切り出すのを、なるべく先延ばしにして来た、あるいは切り出し方やタイミングがわからないままでいた話題だった。
しかしその事についていつまでも何も触れないでいられる訳も無かった。
「いや、すぐに戻れるよ。……その時までの時間はそんなに長くはかからない」
僕がきっぱりとそう答えると彼女は少し驚いた目で僕の方を見た。
「どうして、春介クンにそんな事がわかるの?」
「とりあえず、どっか食事する所を決めよう」
彼女の質問に答えるかわりに僕は言った。
彼女の質問に答えられる筈が無かったからだ。
.
♪ 今日の日を思い出に そっと残しましょう ♪
♪ そして心の垣根に 花を咲かせましょう ♪
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「この歌、どっかで聞いた事がある……何て曲だったっけ?」
どこからか聞こえて来る歌声を聴いて福沢加奈が僕に尋ねた。
「もしも明日が」
僕は答えた。今年の初めにヒットした、わらべの歌だ。
「ふーん。この時代の歌だったんだ」
彼女は言った。
「ねえ、ワタシ達が出会えた記念に2人でプリクラ撮ろうか?」
ゲームセンターの近くを歩いている時に福沢加奈が言う。
「ぷりくらって何?」
僕は彼女に質問する。
福沢加奈は僕の顔を見て急にクスクスと1人で笑い出し、それから、「いや、何でもない」と言った。
僕らは結局、サンシャイン通り沿いにある、(デニーズ)に入り、僕は和風ハンバーグの福沢加奈は洋風ハンバーグのセットを注文した。
僕らの案内された窓際の席からは色とりどりのネオンと照明に照らし出された通りを
行き交っている人々の姿が見下ろせた。
1ヵ月後のクリスマスに向かって、これから少しずつ街の彩りは華やかになって
いくだろう。
「本当に今日はありがとうね」
注文し終わって少し落ち着いた頃に福沢加奈が言った。
「もし、昨日の晩に春介クンと、あのコインランドリーで出会ってなかったらワタシは今頃どこでどうしていたのかわかんないよ」
僕は何と言えばいいかわからなかったので、曖昧な笑みを浮かべ、それから視線を窓の外の方に向けた。
「……お礼なら僕の家の洗濯機に言えばいいよ」
しばらくしてから、僕は言った。
「洗濯機に?」
福沢加奈は小さく笑って首を傾げた。
「僕の家の洗濯機が壊れてなかったら、僕は昨日の晩、あんな時間にコインランドリーに行く事なんて無かった。……あの洗濯機はいつもいい(せんたく)をする。故障するタイミングだってバッチリだ」
福沢加奈はしばらく黙って僕の顔を眺めていたがやがて小さくクスクスと笑い出した。
「せんたく機だから?」
「せんたく機だから」
僕は少し恥ずかしくなって、そう言った後、視線を窓の外の方に向けた。
「春介クンって、ワタシと同じ年なのにどっかのサラリーマンみたいな喋り方するね」
福沢加奈が言った。
「そうかな?」
僕が言った。
・・・
「この後、あの(公園)に行きたい」
食事が終わって飲み物を飲み終わった時、伏目がちに福沢加奈が言った。
聞き返すまでも無く、あの(公園)と言うのは彼女が昨日の晩、今から29年後の同じ場所から、目を瞑っていたほんの短い間にこの時代の風景を目にした最初の場所の事だ。
「そうだね……とりあえずそこに行ってみようか」
僕らは立ち上がって店を出て、再びザワついた通りに出た。
空はもうすっかり暗くなっている。
僕らはサンシャイン60ビルの方へ向かって歩き出した。
どこからか坂本龍一の(メリークリスマス・ミスター・ローレンス)が聞こえて来る。
「これって、何かの映画の音楽だよね?」
福沢加奈が僕に聞いた。
「(戦場のメリー・クリスマス)。……あの映画観た事ある?」
僕がそう言うと福沢加奈は小さく首を振った。
「そう言えば、あの映画のラスト・シーンに出て来る様な場所がかつて、あそこにあったんだな……」
僕は目の前の夜空に向かって聳え立っているサンシャイン60ビルの方を指差して言った。
「ラスト・シーンに出て来る様な場所?」
「あの映画に出て来たのは外国の刑務所だけど……あのビルは巣鴨プリズンの跡地に建ってるんだよ」
「池袋にあるのに何で巣鴨なの?」
「昔は東池袋じゃなくて西巣鴨だったらしい」
そんな事を言いながら歩いている内にサンシャイン・シティー手前の交差点の所まで来た。ふと、隣を見ると福沢加奈の表情が少しこわばっている様に見えた。
交差点の少し先の方、サンシャイン・シティー前の通りの右側に(SEIYU)の看板が見える。問題の場所が近付いて来て、僕も自分が少し緊張して来るのを感じる。信号が変わって僕らは交差点を渡りサンシャイン・シティーの向かい側の歩道を西友に向かって歩いて行く。
僕には(たぶん、福沢加奈にも)ひょっとしたらと言うかすかな期待感があった。彼女が29年後の世界で(彼女にとっての昨日の晩)、出会ったと言う(空野瑠奈)とかいう名の若い女占い師とその場所で出会う事が出来るのではないか。もちろん、その可能性は到底高いとはいえないだろう。むしろ無いと考える事の方が自然だ。何しろその占い師を名乗る女性は、福沢加奈と一緒に2013年からこの1984年にやって来た訳では無い。
福沢加奈一人を2013年の11月下旬の土曜日の夜から、この(僕にとっての)現在に送り込んで来た。
もっとも、それがその謎の女性の仕業だとはっきり証明し結論付けるのは到底、不可能な話だ。仮にその(空野瑠奈)とか言う女性がこの信じ難い出来事を意図的に引き起こしたと仮定して、一体、何故そんな事が可能なのか? アインシュタインにだって皆目わからないだろう……。その目的と言うものが仮にあるとしてそれは一体何なのか?
自分自身では答えが出る筈の無い疑問に囚われながら、それでも半ば祈る様な気持ちで、僕は福沢加奈と西友の手前の道を右に入って行ってファミリーマートを通り過ぎた。
そして誰もいない真っ暗な小さな公園の入り口にたどり着いた。
僕と福沢加奈は公園の中に入り、真ん中辺りに立って、しばらくの間無言のまま南東の護国寺辺りの上空に広がる夜空をぼんやりと眺めていた。
(正直、わかっていた事だけど祈りは却下された)
僕は呆然とそんな事を考えていた。
すぐ隣で無表情で空を眺めている福沢加奈がどんな思いでいるのかは僕にはわからない。振り返ると、間近にはるかに見上げる高さのサンシャイン60ビルが見えた。
「昨日の晩にここに来た時には、ここにははじめレンガ畳が敷き詰められていたの」
公園の土の地面を見ながら福沢加奈が言った。
「そして目の前にアウルタワービルが見えていて、こっちにはエアライズタワービルが見えた」
もちろん今、彼女の視線の先には真っ暗な夜空が広がっているだけだ。
僕は彼女の今見ている方向を眺め、そこに2棟の高層ビルが建っている光景を想像してみたがうまくイメージが思い浮かばなかった。
僕と福沢加奈は何もする事も、話す事もないまましばらくの間、その公園の中にいた。
「そろそろ、帰ろうか」
僕がようやく言うと、福沢加奈はうつろな目で小さく頷いた。
公園を出て、もと来た道を駅に向かって歩き始めた。
福沢加奈は来た時とは違って、僕の少し後ろをゆっくりと付いて来る。ファミリーマートの辺りで振り返ってみると、うつむいて歩く彼女は今にも泣き出すんじゃ無いかという表情をしていた。
「僕にはたったひとつだけわかっている事がある」
人気の無くなったあたりで、僕が後ろに向き直って言うと、彼女は顔を上げて僕の方を見た。
「明日は君にとってとても素晴らしい1日になる」
僕はそう言って、怪訝な表情で僕を見ている彼女に自信たっぷりに笑って見せた。
ファイト・オア・フライト(挑戦か逃走か)反応……。
こういう状況ではとにかく前に出るしかないと思った。
かいじんさんのこの作品は、本誌第7冊第41集以来の連作です。




