第9話 在らざるべきもの
目指すガフトンの町は、ソーラの村から南の方角にある。アルファたち四人はまず、防護柵の扉から村の外に出ると、森の中を歩いた。
歩きながらアルファは、茶色の地面に、真っ黒な灰のようなものがあるのを見た。風に吹かれて広がって、よく見なければわからないが、確かにある。
ここは昨日の夕方、ルミナスに出会った場所だった。熊もどき三頭と戦った場所でもある。
この灰は、魔物の残骸だ。
魔物は死後数刻経つと、徐々にその原型が崩れていき、半日もすれば、黒い灰へと成り果てる。終いには風に吹きさらされ、跡形もなく消え去るのだ。
魔物の遺骸がそのまま残っているよりは、ずっとましなのだが、元が魔物とわかって見れば、この灰もあまり気持ちのいいものではない。
血は蒸発し、骸は灰に。それ故にか、『この世に在らざるべきもの』とか『偽りの生命体』などと呼ばれる魔物。本当に不思議な存在だ。
四人はほどなく森を抜け、山を登り始めた。ソーラの村は森に囲まれ、さらにその外側を山々に囲まれているから、他の町に行くには必ず山を越えなければならない。
山道は、人が二人並んで歩ける程度の幅があり、アルファと父が前を歩き、後ろにエクルとルミナスが続く。
傾斜はわりときつい。所々張り出した木の根を足場にしながら、階段のように登っていかなければならない。もっとも、アルファたちにとっては慣れた道である。
「本当にすみませんね、ルミナスさん」
「いいえ。僕、こう見えてけっこう力あるんですよ」
振り返りながら父が詫びると、ルミナスは余裕の表情で答えた。父とルミナスの背負っている籠が一番荷物が多く重いはずだが、全く問題にしていないようだ。
「でも気をつけてください。この山は高くはないですが、けっこう急なので――」
「わあっ」
父がルミナスに注意を促すのを遮って、声が響いた。エクルが足を滑らせて、前にのめりかける。
だが、転びはしなかった。ルミナスが伸ばした腕に、体を支えられたのだ。そのままエクルとルミナスの視線が合った。
「大丈夫ですか?」
例のごとく、にっこりと微笑むルミナス。
「す、すみません、ルミナスさん」
エクルは顔を赤くしながら、跳ねるようにルミナスから離れた。そして急にはっとしたとしたかと思うと、自分の背中のほうに目を向け、胸を撫で下ろした。
「良かったー。中身落とさなくて」
エクルは、ジェームズの妻が持ってきたレタス入りの籠を背負っているのだ。――それにしても。
「お前はほんっっっとーに、どんくせぇな! 少しは気をつけろ!」
アルファは吐き捨てて、さっさと先を歩いた。またしても、わけもわからずに苛立っている。
「僕のことは『ルミナス』でいいですよ」
「え、でも……」
「いいんです。あ、僕も『エクル』って呼ばせていただこうかな――なんて、冗談ですよ」
後ろからエクルたちの会話が聴こえてくる。さらに苛々させられる。
隣を歩く父はアルファの顔を見ながら、なぜかまた黙ったまま妙な表情をしている。ルミナスのエクルへの接し方が不思議なのか、アルファの顔に苛立ちが出てしまっているのか。だが、どうしたのかともし訊かれても、この苛立ちの正体はアルファ自身にもよくわからない。
と。
ふと、アルファは前方を見た。邪気を感じたのだ。
行く手に二十歩ほどの距離の所で、茂みから魔物が姿を現した。猪型の魔物だ。でかくて不恰好な鼻が目立つ。猪もどきはこちらに向かって、山道を突進しながら下ってくる。
剣を抜き、アルファも魔物に向かって駆け登った。斜面だが慣れている。魔物を倒すのは自分の役目。動き回れるようにと、背負っているのは籠ではなく口を閉じられる布の袋。中の荷物も少なめにしてもらっている。
猪もどきと衝突する寸前、アルファは素早く左によけ、すれ違いざまに、魔物を横からを斬りつけた。ありったけの力を込めて。
魔物は絶叫し、倒れて動かなくなった。
突然、アルファの胸に冷たい感覚が襲ってきた。
今自分は、自分の中にある苛立ちを、そのまま魔物にぶつけてしまったのだ。相手は魔物であり、人間を殺す存在である以上、倒さなければならない。しかし、だからと言って、八つ当たりめいた形でその命を奪うのは……
『この世に在らざるべきもの』と呼ばれる魔物の命を絶つことでさえ、心が痛まないわけではない。けれど、昔、戦争をしていた時代には、人間同士が殺し合っていたのだ。
もしその時代に自分が生まれていたら。
相手は敵だと割り切って、人をこの手に掛けることができただろうか。当たり前のように殺したのだろうか。
それは想像もできないことだ。だから、自分の戦う相手が、まだ魔物で良かった。短い時間の中に、そんな思いが廻った。
「ふーん、大したもんだ」
ルミナスの感嘆したような声に、アルファは我に返った。振り返ると後ろに、父たちが追いついて来ていた。
大したもんだと言われても、ルミナスこそ相当な腕の持ち主だろう。実はアルファは、一度ルミナスと手合わせしてみたいと思っていた。でも、申し出ることができない。父の見ている前で負けてしまったら、父のしごきがますます苛烈になってしまうに決まっているからだ。
「そう言えば、ルミナスさん」
再び歩きながら、父が思い出したようにルミナスに声をかけた。
「いろんな場所を旅して回っているんですよね。昨夜は子供たちが騒がしくてゆっくりお話できませんでしたが、聞かせていただけませんか。ルミナスさんが見てきた、町の様子や――魔物のことを」
旅の話は昨日も聞いたが、それはあくまでも、幼い弟たちのために語ってくれた、旅の楽しい一面だけだ。
普段はほとんど村の中にいて、出掛けるとしても隣町にしか行っていないから、遠くの地域ではどうなっているのか、とても気になる。時々噂は流れてくるが、やはり、実際にその目で見た者に聞きたいのだ。
「うーん……そうですね。やっぱり、魔族の勢力はどんどん大きくなっていますよ。本当に僕は、いろんな所を見てきました。でも……」
ためらいがちに、ルミナスは言った。
「この辺りはそれでも少しマシみたいですね。出てくるのは魔物ばかりですし」
「じゃあ、ルミナスさんは魔族と戦ってきたんですね?」
エクルが驚いて尋ねた。
魔物と魔族。何が違うのか、と言えば――ほとんど同じだ。
厳密には、人間を襲う化物たちを、総じて魔族と呼ぶのだが、魔族にも様々ある。
ほとんど野の獣と変わらないものもいれば、動物の顔と体を持ちながら、人間のように直立歩行し、武器を操り、人語を解するものもいるという。
だから、魔族の中で、より獣に近いものを魔物と呼び、より人間に近いものをそのまま魔族と呼ぶのが通例となっているのだ。
ソーラの村の近辺では、魔物しか出たことがない。アルファは狭義での魔族と戦ったことはおろか、見たことさえもなかった。エクルや父も同じだろう。ただ、そういう存在もあるらしいという、噂で聞いた知識があるのみだ。だから、エクルの問いにルミナスがどんな風に答えるのか、アルファはとても興味があった。
「やだなぁ、呼び捨てでいいと言ったのに。――あ、魔族ですね。もちろん何度も戦ってきましたよ」
と、とぼけた上で答えたルミナス。アルファはまた苛立って、思わずきつい口調で言った。
「じゃあ、ルミナス。武勇伝でも聞かせてくれよ」
日頃、目上の人間は敬うものだと父から教えられている。これまで、親たちの前ではルミナスに対する態度を気をつけていたのだが、もはや無理だ。
「武勇伝ね。いっぱいあり過ぎて話せないよ」
ルミナスはくすりと笑った。アルファの棘を、歯牙にもかけない余裕の笑みだ。何だか馬鹿にされているようで、また気に食わなかった。そんなことを感じる自分が勝手なんだろうか。
「魔族は、やはり魔物よりも強いんですよね?」
父がルミナスに尋ねた。
――アルファはほっとした。ルミナスへの口の利き方を父に咎められるかと思っていたのだが、その気配はない。
「そうですね。中には例外もありますが、大概は魔族のほうが手強いですよ。魔族の強さもピンからキリまでですけど」
ルミナスは淡々と答えた。
「人間を脅したり、騙したり。巧みな心理戦を仕掛けてくるのまでいる。理性に欠けてて、人を見れば即襲ってくる動物もどきは、まだかわいいものですね。――でも、魔物だろうと魔族だろうと、いずれにしても一般の人間では太刀打ちが難しい。とにかく悲惨ですよ。襲われた所は。僕が訪れた中には、魔族に滅ぼされて廃墟になっていた村もありましたし」
悲惨だと言いながら、そこに感情は見て取れなかった。それがアルファには不思議だった。
話を聞いたアルーラやエクルのほうが深刻な顔をしている。いや、エクルの顔は深刻というより悲痛で、目を潤ませている。アルファの心にも重いものが垂れ込めている。
それは、単に悲惨な話を聞いたからではなく、実際に悲惨な現場を目撃してしまったことがあるからだ。
あれは、今から半年前のこと。
かつて、ソーラの村からほぼ真西に、ゴウズという小さな町があった。
ガフトンよりも、徒歩にして一時間ほど近かった。つまり、ソーラから最も近い人里だったが――
今はもう、存在しない。
もともと、アルファたちが商売に行くのはゴウズの町だった。
半年前のあの日も、アルファはいつものように、父とエクルと村人数人とで、商品を担いでゴウズに行った。
だが、通い慣れた町で待っていたものは、あまりにも凄惨な光景だった。
町の入り口から中へと伸びる道を、血塗れの人々が埋め尽くしていた。
折り重なるように倒れている、親子らしき者たち。何かの包みを大事そうに抱えたまま倒れている者。目を見開いたまま、胸から血を流している者。腕や足を喰いちぎられている者。臓物を抉り出されている者……
死んでいるのは一目瞭然だった。
魔物の群れに襲撃された後だったのだ。
眼前の惨状に、アルファは足がすくんだ。
道に並んだ建物も、所々、屋根や壁が無残に崩れ落ち、血が飛び散っていた。小さいながらも活気のあった町は、見る影もなかった。
さらにアルファは、無数の亡骸の中に、知人たちの姿があるのを発見し、より強い衝撃を受けた。アルファたちが何度もゴウズに通ううちに、すっかり顔なじみになった者たちだったのに……
信じたくなかった。悪夢の中に迷い込んでしまったのだと、そう思い込みたかった。震えそうな奥歯を、ぐっと噛み締め、ふらつきかけた体を、どうにか縦に保った。
エクルはその場で卒倒したが、無理もなかった。
多数の死者を出したゴウズの町には、スプライガ騎士団が来ていた。
スプライガ騎士団とは、ガフトンの町から更に南に存在する、スプライガという大きな町の騎士団で、かのサーチスワード騎士団の支部にあたる。
騎士団はゴウズの町で、生存者の救援活動と、事後処理に当たっていた。町の人間の半数以上が魔物に殺され、もはや安全を確保できないため、残りの人々を全てスプライガに移住させるという話だった。
アルファたちはどうすることもできずに、気を失ったエクルをアルーラが背負って、ソーラの村へと引き返していった。
どのように帰ったのかはよく思い出せない。アルファの頭の中は、ひどく混乱していた。覚束ない足取りで歩きながら、ただ父の後を追った。
村に着いても、その日は食事が喉を通らなかった。
夜、自分の部屋の扉を閉めて寝台に横になると、目頭が熱くなりそれまで堪えていたものが溢れ出した。
アルファは枕に顔をうずめ、強く唇をかんで、声を殺した。抑えようとすればするほど、体は震え、呼吸は浅く苦しくなった。心臓は何かがまとわりついたように、重く、痛んだ。
……この世界が魔物に支配されつつあること、至る所に魔物が溢れ、人々を苦しめていること、多くの町が魔物によって滅ぼされたことも……話には何度も聞いていた。聞くたびに、心を痛めてきた。
でも、それをこの目で見ることは、こんなにも耐え難いことだったのだ。
結局、耳で聞きながらも、本当は何もわかっていなかった。
自分も、弟を一人、魔物によって亡くしている。それがあまりにも悲しい出来事だったことは、間違いないが――それでも、弟の死が、あのように残酷でなかったことは、残された家族にとってまだ救いだったかもしれない。
この時アルファは、せめてソーラの村は自分が必ず守ると決意を新たにした。
そして、それからより一層修行に励むようになったことは言うまでもない。
ゴウズの惨劇からしばらくして――四ヶ月前から、アルファたちは代わりにガフトンの町に行商に出ることになった。
行商は月に一度、つまり、ガフトンへ行くのは今回で四回目になる。