第8話 予兆
夕食までの時間、エクルは自分の部屋で勉強机に向かっていた。
机と小さな箪笥と寝台を置くと、足の踏み場のほとんどない狭い部屋であるが、慣れたエクルにとっては落ち着く場所だ。
エクルは今、机の上に一冊の本を開いている。
聖術の教本。幼い頃に、父カテドラルからもらった宝物だ。
何度も何度も読み返し、頁は所々小さく破れ、皮製の焦げ茶色の表紙も、傷んで色褪せている。
エクルはとうに全ての内容を暗記してしまっているその本を、まためくりながら、深く嘆息した。そしていつの間にか、幼き日の一幕を思い起こしていた。
――あれは、エクルが七つくらいの時だった。
旅で不在がちの父ドラルが、久しぶりに家に帰ってきた。
エクルは嬉しくて、父のそばを片時も離れようとせず、毎日のように聖術を教わった。
エクルの聖術はただの一度も成功しなかったが、それでも父は、根気強く基本的なことから教えてくれた。
勉強の場は、実技は人の邪魔にならない丘の上で、座学は自宅の玄関を入ってすぐの食卓。その日は後者だった。
父はエクルの隣に座り、開いた聖術の教本を指差しながら丁寧に内容を説明してくれる。
「神様に心からお祈りして、神様の使いである天使に力を借りるんだ。雷の術は雷の天使に、治癒の術は治癒の天使に――」
「風の術は風の天使に、炎の術は炎の天使に……いろんな天使がいるんだよね?」
「そうだよエクル」
エクル自身はちっとも聖術を使えないが、父や母が聖術を使う時に現れる天使の姿なら、何度も目にしたことがあった。
「術の使い手の、力を得ようとする心の動機が――少し難しいかな。使い手の願いが、間違っていなければ、天使たちは応えようと力を尽くしてくれる」
父のその言葉を聞いて、エクルは胸がちくりとし、下を向いた。
「私……どんなにがんばっても聖術が使えない……。私が悪い子だから? だから、天使は力を貸してくれないのかな……」
両目から、涙が勝手にこぼれてきた。父は、そんなエクルの頭を撫でながら、優しく微笑んだ。
「そんなことはないよ。エクルが聖術を使えないのは、まだ霊力の操作が上手くできないからなんだ。いくら天使がエクルに力を貸したいと思っても、霊力を操れないと聖術として顕すことができないんだよ」
そして、エクルを抱きしめて、「エクルはとてもいい子だよ」と言ってくれた。まるで、うんと小さな子をあやすような扱いだったが、エクルはそれを嫌だとは全然思わなかった。むしろ、長く離れて暮らしていた父に、甘えられるだけ甘えたかった。
そこへ。
「おーい、エクル!」
名前を呼ばれ、エクルは顔を上げた。勢いよく玄関の扉が開き、栗色の髪の少年が現れた。
「ヒマだから遊んでやる! 感謝しろよ」
アルファだ。遊びに来てくれるのは嬉しいけれど、いつもこんなえらそうな態度だ。
「あ、ドラル様、おはようございます」
父ドラルには、しっかり頭を下げて挨拶する。エクルは何となく悔しくて、
「私はヒマじゃないよ。お父さんに聖術教わってるの」
と、父の腕にしがみついた。
「はぁー? お前、まだ魔法の勉強してんのかよ!」
黒い瞳を見開いて、呆れたようにアルファが大声を出した。
「な、『まだ』って何?」
「お前ぜってー、魔法に向いてねぇよ。お前に魔法が使えるくらいなら、きっとオレだって使えるな。時間のムダだからやめとけって」
「ひ、ひどっ。何でそこまで言われなきゃ――」
エクルがアルファの言葉に反論しようとした時、父が言った。
「確かに、アルファも頑張れば魔法が使えるかもしれないな」
娘が言い争いをしているというのに、いつも通りの穏やかな口調だった。あるいは、二人を止めるためだったのかもしれない。少し話を逸らしている。
「え? ほんとですか?」
意外そうにアルファが尋ねた。「きっとオレだって使える」は、エクルをからかっただけで、本気でそう思っていたわけではないらしい。
「アルファにはとても強い霊力があるよ。エクルと同じくらいの」
霊力とは、誰もが持つ魂に属する力であり、魔法の源にもなる力。それくらいのことは、魔法を習得しようとする者ばかりでなく、誰でも知っている基本的なことだ。
「へー……」
ドラルの答えに、アルファは何だか呆然としている。本当に意外だったらしい。
エクルとしては少し悔しかった。両親以外に誇れるものがない自分にとって、強い霊力を持っていることだけが、かすかな自信を与えてくれているのに。同じくらいの霊力がアルファにもあるなんて。
「でも、強いのはいいけど、エクルと同じくらいってのがなぁ……」
アルファが不服そうに呟いたので、エクルはムッとした。同じと言われて納得できないのは、いつも聖術の修練を重ねてきた自分のほうだ。
エクルは何か言い返してやろうと思ったが、やめた。ふと見た父の顔が、いつものように穏やかに微笑んでいて――その一瞬で気持ちが鎮められたのだ。
それはさておき、エクルは改めて父をすごいと思った。
自分や人に霊力があるということを認識するには、霊力に対する感度が高くなければわからない。それも、霊力を高め活性化させた段階で初めてわかるのが普通だ。
だが父は、霊力を高める能力のないアルファの霊力まで、感じることができるのだ。
一見しただけでその人の『内に宿る静なるもの』である霊力を見抜ける。そんなことは、エクルはもちろん、母グレースにも不可能だ。霊力に対する感度が誰よりも鋭敏な、父ならではの能力だ。
自分がどんなに修行を積むとしても、父のようにはなれないと思う。
自分が魔法の才能に欠けていることは、アルファに言われるまでもなく、実は自分でちゃんとわかっている。報われない努力なら止めてしまったほうがいいのかもしれないと、時々そんな思いになることもあった。
でもやっぱり、少しでも父や母に近づきたい。
これからも聖術の勉強を頑張ってみよう。エクルは心の中でそう決意した。
けれど――
意識を追憶から戻しながら、エクルは再び溜息をついた。
自分はもう十六になる。あれから何年も経っているのに、いまだに聖術はほとんど進歩していない。自分が情けなくてたまらない。
それなのに、こんな自分を、あの伝説の光継者だと言う人物が現れてしまった。
そんなはず……ないのに……
母グレースに呼ばれ、エクルは食卓に着いた。
今日の夕食は、焼きたてのパンに、野菜たっぷりのシチュー、レタスとゆで卵のサラダ。おいしそうだ。これらの材料の多くは、村の人々からのいただき物である。彼らに、そして、何よりも神様に感謝して、食べ始める。
食事は、アルファの家でご馳走になることも多いけれど、基本的には母と二人きりだ。
父の生前は、父が旅からたまに帰ってきた際、家族揃って食卓を囲むことが何よりの幸せだった。淋しくないと言うと嘘になるかもしれないが、いつも自分のそばにいて守ってきてくれた母の存在は、本当に大きい。
エクルは食事をしながら、今日もいつものように、学校であったことなどをあれこれと母に話していた。
すると唐突に。
「エクル、何かあったの?」
母にそう尋ねられ、エクルは思わず、口に運んでいた匙を止めた。
向かいの席に座る母は、同じく食事の手を止めて、優しい眼差しでこちらを見ている。
「何だか元気がないみたいだけれど」
普段通りにしているつもりだったのに、母には見抜かれてしまった。
「……あのね、いつものことなんだけど……私、今朝森で魔物に襲われて、またアルファに助けてもらったって、その話はお昼にしたよね。でも……」
エクルは一瞬、言おうかどうか逡巡したが、言葉を続けた。
「私は、アルファが怪我をしても治してあげられないし……何にもできないんだなーって。私も聖術が使えたら良かったのに……」
こんなことを話せば、母はまるで自分の能力を嫉妬されているように感じてしまうかもしれない。事実自分は、母に羨望以上のものを感じているかもしれない。けれど、自分の心の中にあるものを、母に聞いてほしかった。
「――ねぇ、エクル」
母はこちらを見つめたまま、微笑んで言った。
「誰かを助けるとか、誰かのためになることって、何も特別な能力だけじゃないの。例えば、誰かが笑顔で接してくれたら、それだけで幸せな気持ちをもらえることがあるでしょう?」
穏やかで、ゆっくりとした口調。けれどもそこには、自分の言葉を確信している力強さもある。
「だから、自分が何もできないなんて、そんなことは絶対にないの。あなたがアルファ君の力になってあげられることだって、きっとあるから」
他人が聞けば、落ち込む娘を慰めるための詭弁と思うかもしれない。けれど、エクルにとって母の言葉は、例え悩みを直接解決してくれるものではなくても、不思議と力を与えてくれるのだ。
「……うん……」
エクルは頷いた。表情が緩んだのが自分でわかった。
いつも母は、エクルの話を、どんなに長くてもじっくりと聞いてくれる。励ましてくれる。その能力で人の体を癒すのみならず、微笑みと言葉で心を癒すことにも長けているのだ。
……けれど。
エクルの心を曇らせている原因はもう一つあったが、そちらの話はできなかった。いつも母には何でも話せるのに、そのことだけは、どうしても言えなかった。
エクルが、光継者だと言われた話は。
そんなはずない……のだし、母に余計な心配を掛けてしまうことになるだろうし……
いや、ルミナスという青年が現れるのがあと数日早かったら、笑い話としてとっくに話していたかもしれない。
でも、今は怖い。
なぜなら――
この数日、眠りにつく度に、エクル自身が不思議な夢を見るからだ。
早々と夕食を済ませ、エクルは教会の礼拝堂に向かった。
いくつもの蝋燭に火を灯し、祭壇の前で祈りを捧げる。
まずは、幼馴染のために。
――神様、どうか、アルファをお守りください。
アルファはいつも、村を守るために必死に修行して、魔物とも戦ってくれています。どうかアルファが、危険な目に遭わないように――
アルファのために、自分は何ができるのか。
今すぐしてあげられることは、祈ることだった。せめてもの思いを込めて、エクルは心から願った。
そして、エクルは尋ね求めた。
――私が光継者だなど、どうして、そんなことがあるでしょうか――
『光継者は、この世界を魔族から救うために、神様が遣わしてくださる使者』
幼い時、父ドラルにそう聞かされた。
だからエクルは昔からずっと、祈ってきた。
『神様、どうか一日も早く、光継者をお遣わしください』と。
光継者が現れるのを、ずっと待っていた。
待ち望んでいた対象が、まさか自分自身だなんて、そんなはずがない。
――神様、なぜ、今このような事態が起きているのでしょうか。そんなはずはないと思いながらも、恐ろしいのです――
*
ルミナスも共にガフトンの町に行くことが決まると、明日の朝は早いからと、アルーラはルミナスを客間に案内した。
いつもなら、アルファは夕食後に再び、裏庭で父と手合わせさせられるのだが、今日はもう遅いせいかないようだ。
少し喜びつつ、アルファもさっさと自分の部屋に引き上げた。
けれど、その晩は横になってもなかなか寝付けなかった。
夢のお告げ。
ルミナスとの出会い。その意味。
自分が光継者だなど、そんなわけないと思うのに、偶然にしてはでき過ぎていて、でもやはり信じられなくて。
自問自答を繰り返しながら、何度も寝返りを打つ。
こんなに考え事をすることは滅多にない。考えすぎて気持ち悪くなり、疲れ果て――いつの間にか、と言うかようやく、アルファは眠りに落ちた。
気がつくと、アルファは教会の中にいた。
白い大理石の床。左右に置かれたたくさんの長椅子。最奥の祭壇。アルファはその馴染みの礼拝堂の、真ん中の通路にいる。
突如、祭壇の前に眩い光が臨んだ。美しく神秘的に輝く、白い光が。
その光の中に、一人の少女の姿がある。
ドレス風の白い長衣を着て、編みこんだ髪を後頭部でまとめている、エクルそっくりの少女。
光の少女は微笑んで、唇を開いた。
「ついに時は至りました。アルファ、あなたの運命が、ここで待っています」
え? それはどういう――
アルファがその言葉の意味を尋ねる間もなく、白い光がいっそう眩く輝いて、アルファの視界は奪われた。暖かく優しい光に完全に飲み込まれ、そして――
気がつくと、アルファは寝台の上にいた。
――夢……
頭がぼうっとしているが、ゆっくりと体を起こす。薄暗い中で、右を向けば、寝台に立て掛けられている愛用の剣や、両親に与えられた参考書が山積みになった勉強机が見える。
ここは間違いなくアルファの部屋だ。礼拝堂ではなく。
今回は夢の内容が、何度も繰り返し見てきたものとは、少し違っていた。
幼馴染にそっくりな少女が出てくるのも、眩い光に包み込まれて目覚めるのも、目覚めてなお体に残る光の温もりも、いつもと同じ。
だが、場所はいつもの真っ白な空間ではなく教会だったし、少女の告げる言葉も変わっていた。
時は至った、運命が待っている、と――
どういうことだ?
少々朦朧とする頭で、アルファは懸命に考えようとした。
が。
「アルファ! 時間だぞ!」
夢の余韻は、勢いよく部屋の扉を開いた父アルーラによって消し飛ばされた。
「なんだ、起きているなら早く支度をしろ」
「わかってる。すぐ行く」
父はアルファを急かして、さっさと行ってしまった。
アルファはカーテンを開き外を見た。空が明るくなってきている。のんびりしている場合ではなかった。
普段から、朝の修行のため起床は早い。月に一度だけ、隣町に行く日には修行がないのだが、遠出になるため、やはり早起きしなくてはならないのだ。
アルファが身支度を済ませて食事の部屋に行くと、母がてきぱきと朝食の準備をしていた。 昨夜夜更かししていた弟たちはまだ眠っているようだが、既に父とルミナスは食卓に着いていた。ルミナスは昨日の旅装束を着て、きっちり身なりを整えてある。
やっぱり一緒にガフトンに行くのか。月に一度の遠出を、アルファはいつも楽しみにしているのだが、今日はどうも気が重い。
ともあれ、アルファは父とルミナスと共に、朝食をパンとスープで簡単に済ませ、母に見送られ家を出た。
アルファと父は大小の籠を、一つは背負い、一つは前で抱えて歩く。籠の中身は、玉葱やチーズ、村の女たちの手織りの布など。村の人々が前日までにアルファの家に預けていたもので、これからこれをガフトンに持って行って売るのである。
ルミナスも持つと言ってくれたのだが、父は、とりあえずすぐそこまでだからと辞退した。
父が前を歩いている。後ろを行くアルファは、少し迷ったが、気になっていたことをルミナスに尋ねた。
「昨日は何か夢見たか?」
父に聞こえないように、小声で。ルミナスは首を振った。
「いや、なーんにも。朝までぐっすりさ」
「何にも?」
アルファは思わず聞き返してしまった。自分はいつもと夢の内容が違っていて、何かあるのではないかと構えていたのに、ルミナスのほうは夢そのものさえ見ていないとは。
「たぶん、もう光継者本人に会えたから必要ないってことかな」
ルミナスは夢を見なくなったことを、それほど気にしてはいないらしい。アルファもそれ以上、夢の話をするのは止めた。
自宅からほんの十数歩、アルファたちは教会の表側に出た。
教会の前にはエクルが立っていた。毎朝の修行の時も、ガフトンに行く時も、いつもこの場所で待ち合わせをしているのである。
「おはようございます。――あれ、ルミナスさん?」
エクルは、アルーラとアルファの後ろについてくるルミナスを見て、驚いたような顔をした。驚きというかむしろ、怯えに近い表情だったかもしれない。けれど、ルミナスは笑顔で挨拶する。
「おはようございます。実は、僕も一緒にガフトンの町に行くことになって。よろしくお願いします」
「え? えっと、はい、よろしくお願いします……」
エクルは一応挨拶を返したが、困惑しているのかぎこちない。ルミナスの目的がガフトンに行くことではなく、自分だとわかっているからだろう。
ルミナスは頭一つ分背の低いエクルの顔を覗き込みながら、またにっこりと笑って言った。
「今日もあなたにお会いできて嬉しいです」
「……はぁ」
エクルはさらに困った顔になる。
アルファは横からルミナスを睨んだ。そんな態度じゃ、アルーラが不審がるだろう。――それにしても、こうも気分が悪いのはなぜか。
「ジェームズさんたち遅いな」
前と後ろの重い荷を降ろしながら、アルファは呟いた。えらく不機嫌そうな声になり、自分で驚く。別に、ジェームズたちに怒っているのではないのに。
「すぐに来るだろう」
と、父アルーラ。父は自分も籠を地面に置きながら、それ以外は何も言わず、だが、なぜか妙な表情をしていた。
アルファたちの仕事は、ガフトンで開かれる市に行く村人たちの護衛と、商売の手伝いだ。今回は村人代表で、レタス農家のジェームズとその弟、それから果樹園のマークが一緒に行くことになっているのだが、まだこの集合場所に来ないのだ。
しばらく待っていたが、彼らはなかなか現れなかった。
やっと人影が近づいてきたと思ったら、ジェームズの妻だった。
彼女は見知らぬ旅人の姿に若干驚いていたが、ことの次第をアルーラに説明しだした。
「すみません、村長。うちの人、昨日の晩から急に熱出して。ただの風邪みたいなんだけど弟にも感染っちゃって、もう、二人して寝込んじゃってねぇ」
「それはまた……大丈夫なんですか?」
「まあ、健康だけが取り柄だから、すぐ治ると思うけど……そうそう、マークさんもぎっくり腰で動けないんですって」
「え? マークさんまで?」
村人代表が皆行けなくなるなど、こんなことは今までなかった。予想外の事態である。
「うーん……」
父は腕組みしながら、しばし悩んでアルファたちに言った。
「今日はガフトンに行くのは止めたほうがいいかもしれんな」
ジェームズの妻は残念そうに、
「そうですよねぇ。一応朝、少しだけ採ってきたんだけど……」
と、斜めを向いて背中の籠を見せた。やや小さめの背負い籠には、レタスがぎっしり詰まっている。
「僕が口を挟むのもなんですが」
ルミナスが言い出した。
「良かったら、僕も荷物を運ぶのをお手伝いしますよ。せっかくですから」
村人たちが運んできた売り物の中には日持ちしないものもあるし、月に一度の市は村の貴重な収入源だ。
みんなで悩んだが、結局、アルファ、父、エクルとルミナスの四人でガフトンに向かうことになった。四人で荷物を分配し、傷まない品物の中で持ちきれない分は、仕方ないので村に置いていくことにした。
話と荷物がまとまると、四人はいったん教会の中へ向かった。ガフトンへ出立する前には、みんなで道中の無事を祈るのが習慣なのだ。
教会の扉をくぐる時、アルファは何とも言えず緊張していた。
そこが、今朝見た夢の舞台だったからだ。
『あなたの運命が、ここで待っています』
夢の少女は、確かに礼拝堂でそう言っていた。一体何があると言うのか――
だが。
中に入っても、特に変わった様子はなかった。
いつもの、美しく整然とした礼拝堂が、そのままあるだけだった。アルファは少し拍子抜けしつつ、何もなかったことにかえって安堵した。
みんなで短い祈りを終えると、アルファは後ろ髪を引かれながらも、みんなと共に礼拝堂を後にした。
そしていつものように、エクルの母グレースに見送られてガフトンへと出発した。
アルファたちが遠出をする時は、グレースが村に魔物除けの結界の聖術を掛けてくれる。これで並みの魔物は、村に近づくことができなくなる。
結界の術は霊力の消耗が相当大きく、常に張り廻らすわけにはいかないのが難点だが、丸一日は問題なく保つ。だからこそ、アルファたちは安心して村を留守にできるのだ。
――この日、ガフトンに行くはずだった村人たちが揃って体調を崩したのは、アルファたちをガフトンに行かせまいとする、何らかの力が働いたからだったのかもしれない――
と、アルファは後から感じることとなる。
この時、まだ誰も知らなかった。
まさかガフトンの町で、あんな事件に巻き込まれることになろうとは――