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双星の光継者  作者: 明谷有記
第2章 サーチスワード編
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第34話 密偵

 サーチスワード邸執務室にて、ルミナスはネカルと共にサーチスワード周辺の戦況を確認している。

「魔族に占拠されていた北部のルインの町の奪還に成功し、ギャザの森での魔物の群れとの戦いにも騎士団が勝利……ここ数日は良い知らせが続いているな」

 報告書に目を通しながら安堵した様子のネカルに、ルミナスは頷いた。

「ええ。魔族の攻勢が弱まり、騎士団が盛り返してきていますね」

「やっと夜眠れるようになってきた……このままの調子でいってくれると良いのだが。しかしルミナス、浮かない顔だな?」

「いえ、何でもありません」

 ルミナスは平然と答えたが、本当のことを言えば、ルミナスにとって非常に残念なことがあった。

 プロッツの町にいる弟のレオンから手紙が届いたのだが、レオンは進級試験で赤点を取ってしまい、追試も振るわず、長期休暇返上の補習になってしまったそうだ。

 夏休みにはサーチスワードに戻ってくるはずだったのに……がっかりだ。

 まぁ、そんなことをネカルに話すと、「くだらん」と一蹴されるだけに違いないので黙っておく。

 それに無論、ルミナスは騎士団の大隊長としての立場と責任を自覚している。魔族との戦いになれば、当然ながら弟と呑気に休暇というわけにはいかない。

 もう長いこと会ってないな……レオン……

 と。

「閣下、情報部から報告だそうです」

 執務室の扉の外から、ネカルの護衛の声が聴こえた。

「情報部? 通せ」

 ネカルは、覚えがないとでも言いそうな顔をしながら、一応入室許可を出した。

「失礼いたします」

 執務室に入ってきたのは――

「閣下、ルミナス様! ご報告申し上げます――」

情報部第五班の班長、カーターだ。息を切らし、切迫した中にも喜びの表情を織り交ぜてこう言った。

「強盗事件の真犯人を拘束いたしました……!」

「何!?」

 ネカルがぎょっとした顔を見せ、ルミナスも思わずカーターに確認した。

「騎士団長宅の強盗事件か――!?」

「はい、もちろんです……!」

 真犯人については何の手掛かりも見つかっていなかったというのに、青天の霹靂だ。

「犯人はデンス=ドリズルという男です。八ヵ月前まで、騎士団長宅で倉庫番をしていた――つまり、斬られた被害者である倉庫番の、前任だったのです」

「前任……?」

 心当たりがありそうな様子でネカルが呟く。

「まさか……義兄から聞いたことがあるが……屋敷のメイドに手を出してクビになった使用人というのが、その……」

 カーターが首肯し、説明を続ける。

「ええ、まさにドリズルです。ドリズルは新しい仕事がなかなか見つからず、金に困っての犯行だということです」

 ルミナスはカーターに尋ねた。

「しかし、どうやって犯人を割り出した?」

「ドリズルに斬られた現倉庫番の証言です。彼は事件当時の記憶を失っていましたが――記憶が戻ったのです。元々彼とドリズルは面識があり、顔も名前もすぐに割れました。ドリズルは騎士団に捕まると、あっさり犯行を認めました」

 そして、真犯人探しにはフロリド商会の会長エドガーの協力もあったと言う。騎士団内での仕事が忙しいカーターに代わり、彼が足繁く、根気強く現倉庫番の元へ通い話を聞いたことが、現倉庫番が記憶を取り戻すことに繋がったのではないかとのことだ。

 それにドリズルは、騎士団長宅を襲う前にも何件か窃盗を働いていたと供述したそうだ。中でも、少年少女の二人組からは大金をせしめたとか。おそらくその二人組がアルファとエクルだったに違いない。

 ルミナスはまたカーターに尋ねる。

「それで、捕らえた犯人はどこに?」

「現在騎士団本部に拘束中ですが、これから罪人収容所に移送します」

「そうか。では早速行こう」

 ルミナスが執務室の扉へと向かいながら誘うと、カーターは少々戸惑うような表情を見せた。

「え? ルミナス様もですか?」

 ルミナスは首を縦に振り、わざとらしいほどはっきり答えた。

「迎えに行かなければならない。犯人に仕立て上げられて投獄された()()を」

 それを聞いてネカルが黙っているはずはない。

「こらルミナス……! もう連中に関わるなと何度言えば――」

「閣下」

 ルミナスはネカルを振り向き、義憤と侮蔑を込めて鋭く睨めつけた。

「無実の少年を投獄し、不当に拘束し続けた――その責任をどう取るおつもりですか?」

 もはや反論の余地もなく言葉を失ったネカルに、ルミナスは背を向け、執務室を後にした。

 

 *

 

 囚人たちの働く石切り場では、朝からやかましく蝉が鳴き、強い日差しが照りつけていた。

 立っているだけでも暑さで体力を消耗する。看守ディックは、石切り場から川辺の船へと石を運ぶ囚人たちを気の毒に思いながら、その様子を見守っていた。

 囚人たちは力を合わせて巨大な石を運んでいく。つらい作業に愚痴をこぼす者くらいはあるが、彼らには妙に一体感があった。

 ディックがここの任に着いて最初の頃は、もっと雰囲気が悪かった。食事抜きの刑や看守の持つ鞭を恐れ、あからさまに問題を起こす囚人は少なかったが、はかどらない作業に苛立ち、それを他の囚人のせいにして反目し合っていた。それが、次第に一人の少年――アルファを中心にまとまったのだ。

「よーし行くぞ!!」

「オーッ!!」

 アルファの掛け声に、皆が応える。大の男たちが一番年下の少年に従い、それを厭わないのだ。ディックは見慣れているが、異様と言えば異様だ。

 アルファはここにいる誰よりもよく動き、作業をこなしている。けれど、仲間たちが彼を認めたのは、おそらくその働きぶりのためだけではないだろう。

 アルファは不思議な奴だ。

 まだ幼く、少々生意気な所もある。牢の中で腕立て伏せをしていたり、何かにつけて『修行だ』と言ったり、ちょっと変な所もある。他人に関心が強く、いろいろ話を聞きたがる(ディックも何故看守になったのか、とかたくさん質問された)。他の囚人の身の上話で涙ぐんだり(本人は『泣いてない』と言い張る)、他の囚人たちが猥談を始めると顔を真っ赤にして走って逃げたり、おもしろい奴だ。

 そんなアルファを煙たがる者たちももちろんいたが、アルファはほとんどの囚人と仲良くなってしまった。ディック自身、いつの間にかアルファを気に入ってしまった。

 よくやるよなぁ……

 ディックは率先して働くアルファにまた感心しつつ、近くに立っている先輩看守に声を掛けた。

「すみません。少し行ってきます」

「おお。早くな」

 行ってくるのは、用を足しに、である。囚人の監視役が少なくなるので、必ず他の看守に一声掛けて了承を得なければならない。

 ディックは石切り場と船着き場を繋ぐ道から、森の茂みへと入っていった。

 一人になるこの時間は少々緊張する。魔物でも出てきたら大変だ。

 ――ディックはかつて、騎士に憧れサーチスワード騎士団に入団した。貴族や大商人の家系くらいしか騎士になれなかった昔とは違い、現代では騎士への門は大きく開かれている。だが、入団後の厳しい訓練に耐えられずに、脱落してしまう者も少なくない。ディックもその一人だ。そして、騎士団の関連機関である収容所の勤務に回されたのだ。

 そんなわけで、腰には一応帯剣しているものの、ほとんど飾りだ。魔物に襲われても身を守る自信がない。

 さっさと用を済ませ、ディックが持ち場に戻ろうと回れ右した時――

 ん――?

 視界の端で、草むらから何かがはみ出しているのが見えた。

 肌色の何か。

 五本の指。人間の手――

「ひっ!?」

 ディックは驚愕し、尻餅をついた。草むらの中に人が倒れていたのだ。

 肌衣だけを身に着けた男が横向きに倒れ、目を閉じたままピクリとも動かない。

 しかも――

 ディックは恐る恐る、倒れた男に近づいてみた。それはよく知った顔。ディックの上役で、石切り場の看守と囚人をまとめる主任である。

 その主任の首には、何か太いもので締めつけた跡が――

 ディックは再び驚愕し、そのあまりの衝撃に悲鳴さえも上げられなかった。

 主任は死んでいる。それも、何者かによって殺された――

 ディックは無我夢中で走った。

 向かうのは、元の持ち場ではない。石切り場、石工たちを護衛している騎士団員たちの所だ。

 ここでの看守の代表者が死んだ。この異常事態では、自分より少しばかり上の先輩看守たちに報告するより、直接騎士に知らせたほうが混乱が少ないのではないかと思ったのだ。

 山裾にいる騎士たちの数人が、息を切らして走ってくるディックに気づき、振り返った。

 ディックは彼らに向かって叫んだ。

「大変です……! 主任が亡くなりました……!! 森の中に遺体が――!!」

 この知らせに騎士たちは顔をしかめ、こちらに冷やかな視線を注いできた。

「何寝ぼけたことを……」

「貴様、ふざけているのか?」

 騎士たちは何故か誰一人、驚きさえもせず、ディックの言葉を嘘と決めつけている。

「そんな、ふざけるなんて滅相も――」

 反論するディックに、手前にいた騎士団員が奥を振り返りながら言った。

「おたくの主任ならそこにいるだろ」

 な――っ……

 鎧姿の騎士団員たちに交じり、ただ一人苔色の制服を纏った看守がそこに立っていた。その顔は、紛れもなく主任その人だった。

 そんな馬鹿な……あの遺体は確かに――

 ディックは呆然とし、寒気を覚えた。死んだはずの男が険しい表情を浮かべ、こちらに視線を送ってくる。日頃から主任は部下や囚人たちにやたらと威張り散らし、ディックもしばしば叱り飛ばされていたが、今ほど彼を恐ろしいと思ったことはない。

 ()()は、本当に自分の上司なのか――

「昼前から夢でも見てたのか?」

「これだから騎士団の落伍者は……」

 騎士たちがディックをからかうように声を掛けてくる。ディックはまだ、自分の目を信じることができない。

 その時、叫声が聴こえてきた。

「き、来てください……!! 一大事です……!!」

 ディックはハッとし、その声がしたほうを見た。石切り場の全視線がそちらに向かう。

 声の主は、騎士団員の一人だ。ディックが先ほどまでいた森のほうから、ただならぬ表情をしながらこちらへ走ってくる。そしてまた叫ぶ。

「森の中で主任看守が殺されています!!」

 ディックは、やはり自分が見たものは間違いではないと確信した。

 だが、それではここにいるのは――?

 石切り場の騎士たちの隊長が顔をしかめ、走ってきた部下をたしなめる。

「君まで何を言うんだ。しっかりしてくれ」

「本当なんです! 首を絞められて、肌着だけの状態で――!!」

と必死に喚く部下。ディックもすかさず便乗して訴える。

「そうです! 自分が見たのと同じです!!」

 騎士たちが顔を見合わせる。

「隊長……さすがに変では? 二人も目撃者がいるなんて……」

「だが、現に主任看守はここに……」

 森から駆けてきた騎士は主任看守の姿がそこにあることに気づき、青ざめた顔を一層青くした。まるで幽霊でも見ているかのような表情だ。

 と。

 隊長は突然何かに思い当たったかのように顔色を変え、目撃者である部下に尋ねた。

「その遺体は制服を着ていなかったのか――?」

「は、はい。何故か周りにも見当たらず……」

 部下の回答を聞くや否や、隊長は声を張った。

人化じんかだ……! 全員構えろ!!」

 空気が張り詰め、その場の全騎士団員が、主任看守を取り囲んで武器を構えた。

 ディックは何が起こったのか把握できず、きょろきょろと首を左右に動かした。だが、『人化』と言うことは――

 騎士たちに武器を向けられても、主任は全く動じる様子がなかった。ただ、ぼやくように言った。

「あーあぁ、バレちまった……こんなことなら、ちゃんと埋めて隠しときゃ良かったかねぇ」

 自分の知る主任であれば、絶対に使わないであろう軽い口調。それが終わると同時、ボン、という小さな爆発音と共に彼の体から黒い煙のようなものが噴き出し、一瞬で彼の身を覆い隠した。黒煙はまた一瞬のうちに晴れたが――中にいたものの姿は、その瞬く間に変化していた。

 その場に立っていたのは、獅子の顔をした魔族だった。

 人間に近い体の構造をしており、下半身は看守の制服に長靴ちょうかのままだが、上半身は肩幅も胸板もかなりのもので、制服がはち切れている。

「やはり魔族の密偵か! やたらと騎士団のことを訊いてくると思ったら……!」

「どうりでいつもと様子が違ったわけだな……!」

 騎士たちは魔族に対して嫌忌を表す。

「まっ、魔族……!?」

 作業場の石工たちは悲鳴を上げ、ひどく動揺している。ディックも声こそ出しはしなかったが、彼らの恐怖はよくわかる。これまで()()が石切り場を襲ってきたことは何度もあり、その都度騎士団員たちが撃退していたが、()()が出てきたことなどなかった。しかも、人間の中に何食わぬ顔で紛れ込んでいたのだ。

「落ち着いて……!!」

「下がっていれば大丈夫だ……!!」

 騎士たちが慌てている石工たちをなだめる。

 ディックはようやく状況が呑み込めてきた。

 魔族の中には、自らの姿形を変えられる能力を持つ者たちがあると聞く。獅子の魔族は主任看守を殺して彼に化け、制服を奪って身に着けていたのだ。主任に成り済ましていた目的は――

 魔物に比べ知性が高い魔族からすれば、お宝を積んだ隊商ならまだしも、石切り場を襲って騎士団と事を構えても益がないだろう。それに、人間を殺したいという欲求を満たすだけなら、その辺の旅人を襲ったほうが楽だ。

 この魔族がわざわざ主任に化けて潜入した目的は、やはり騎士団に探りを入れるためなのだろう。

 魔族は獅子の顔に陰気な笑みを浮かべ、騎士たちに言った。

「ザンネン。せっかく上手く入り込んだと思ったのに……これでも結構苦労したんだけどねぇ? あのオッサンこっそり殺して化けて、邪気抑えたまま人間の振りして……」

 口調ばかりでなく声そのものも若くなり、ディックが知っていた主任看守のものではなくなっていた。

「どうしてもサーチスワード騎士団の情報が欲しくてねぇ。本当なら騎士団本部に忍び込むのが一番いいが、どう考えても無理だからこっちに来たのさ。犯罪者の面倒見てる看守も騎士団員と繋がりがあるから、少しは内部情報を聞き出せるんじゃないかと期待してたんだが……見つかっちまったもんは仕方がないねぇ。それに、こんな所で仕事してるお前らじゃどうせ、大した情報握ってないだろうし」

 魔族の言葉に、騎士たちが憤慨する。

「うるさい!!」

「よくも抜け抜けと……!!」

 たぶん図星なのだろう。騎士団から派遣させる護衛は基本的に、騎士団内部のことを把握していなくても勤まるものだ。

「にしても困ったねぇ。任務に失敗した時どうすりゃいいか、ラッシュ様から指示されてないし」

 相変わらず軽い調子で魔族が放ったその言葉が、騎士たちを震撼させた。

「ラ、ラッシュ……!? あの六鬼士の――!?」

「お前はラッシュの差し金で来たのか……!?」

 ラッシュの名は、ディックでも聞いたことくらいはある。何でも、相当地位の高い魔族らしいが……

「おおっと、いけない。うっかり口を滑らせちまったねぇ」

 魔族は口から牙を覗かせ、ニタリと嗤った。

「そうさ。俺はラッシュ様の配下、レイダーだ。お前ら、ここまで聞いたからには生きて町まで帰れると思うなよ? これが騎士団本部にばれたら、俺がラッシュ様に怒られちまうからねぇ。ここで口封じさせてもらう」

 レイダーと名乗った魔族は勝手なことを言いながら、またさらに気味の悪い笑みを浮かべる。ディックは背筋が凍った。

「おのれ……なめるな……!!」

 騎士の隊長ともう一人が、剣をかざしてレイダーに突進してく。

 レイダーは騎士たちに囲まれていて、逃げ場はない。

 だが。

 突然、レイダーの右手の爪が伸びた。奴の手は、獣の肌をしていても人間と同じように五本の指がある。親指を除く四本の指爪が、腕ほどの長さに伸びたのだ。先端は獣の爪の特徴を残し、内側に湾曲し鋭く尖っている。

「何……!?」

 レイダーに斬り掛かった隊長は、声と表情に驚愕を露わにする。

 レイダーはその長い四本の爪で、隊長の剣を軽々と受け止めた。そこにもう一人の騎士の剣が迫るが、レイダーはニヤリと嗤う。足で隊長の腹に蹴りを入れてふっ飛ばし、自由になった爪でもう一人の騎士の剣を弾き飛ばす。

 そして――

 鋭い四本の爪が、騎士を薙いだ。金属の胸当てが守る胸部を避けて、腹部を。

 騎士から鮮血がほとばしり、狂気に満ちた獅子の顔を染め上げる。騎士は腹を押さえながら前にのめり、大地に伏した。

 騎士たちがやられた仲間の名を叫び、石工たちから一層大きな悲鳴が上がる。

 ディックもこの光景は決して受け入れられなかった。騎士団から脱落したディックでも一度だけ戦場の経験があり、人間が魔物の手に掛かる瞬間を目の当たりにしたことがあるが、それでも……

「まずは一人」

 言いながらレイダーは倒れた騎士の体を蹴り上げ、自分を囲む騎士たちの円から大きく外側に飛ばした。

 切り出された石材の上に飛ばされた仲間の元に、一人の騎士が急いで駆け寄った。この石切り場で唯一の法術士だが――彼は倒れた仲間を間近で見、がくりと肩を落とした。仲間は治癒の術で癒す間もなく、既に息絶えていたようだ。

「どーしたぁ? 掛かって来ないのかぁ?」

 レイダーが他の騎士たちを挑発したが、騎士たちは誰一人、動くことができない。レイダーに向かって武器を構えているが、顔には恐怖と焦燥が浮いている。

 おそらくレイダーは正体を看破された時点で、ここの人間を皆殺しにすると決めたのだ。その上でわざわざラッシュの名を出して要らぬことを教え、自分の力を見せつけ、人間たちの恐怖心を増長させて喜んでいる。全員の口を封じる自信と、それを裏付ける強さを持っているのだろう。

 ディックの顔に背中に、汗が流れる。この暑い日差しのせいではない。むしろ寒気がする。いつしか蝉たちも鳴くのを止めていた。

 どうする……!?

 騎士があんなにもあっさりやられたのを見れば、ディックの力でどうこうできるはずもない。一刻も早くこの場から逃れたい。だが、真っ先に逃げ出せば真っ先に狙われるのがオチだろう。それに、仮にも誇り高き騎士を目指そうとした自分が、一人で逃げ出すなんて。

 と。

 足に何かが当たった。いや、当たったと言うより――掴まれている?

 ディックは驚いて声が出そうになったが、こらえた。レイダーの気を引いてしまっては困る。そっと足元に視線を落とすと――なんと、先ほどレイダーに蹴飛ばされていた隊長が這いつくばってディックを見上げていた。

 いつの間にここに!?

 と思うも、あくまでも声は堪える。

 隊長はディックに小声で言った。

「稀封石を使ってくれ」

 稀封石――? そうか――!

 ディックはそっと、懐を探った。看守は皆、囚人の逃亡を防ぐために稀封石を携帯している。

 指で懐の稀封石を探り当て、握り締めながら取り出す。大丈夫だ。レイダーはこちらの動きに気づいていない。

 手の中の稀封石に目を落とす。正八面体の結晶は、透明だがほんのり茶色に色づいている。

 からの稀封石は無色透明だが、魔法を封じると変化が起きる。わかりやすい例を挙げると、炎の魔法を込めると結晶の中に小さな炎が揺れ、電撃の魔法を込めると、結晶の中に小さな稲妻が生じるようになる。この結晶の場合、一見何の魔法が封じられているのか判別できないが――持ち主であるディックはよく知っている。

 稀封石を使えば、誰でも魔法使いの気分を味わえるという。しかし、稀封石に込められた魔法を発動させるためには、その魔法の術名を唱える必要がある。

 ディックはレイダーに稀封石を向け、

「だ、だだ、『大地のいましめ』……っ!!」

緊張でどもりつつ込められた術の名を唱え、その力を解き放った。

 ディックの手の中の稀封石が淡い光を発する。

「な……っ!?」

 レイダーは発光に気づいたが、もう遅いだろう。所謂いわゆる『霊力の感度』というものを持たないディックには感じられないが、見えない拘束の力がレイダーを襲うはずだ。

 そして――

「か、体が動かない……!!」

 間もなく悲鳴に近い声が上がった。

 しかし、それは予期しなかった者から。

 その声を発したのは、あろうことかレイダーではなく、ディックから見てレイダーの斜め後ろにいた騎士だった。

 ディックは標的を外したのだ。

 うわあぁぁぁー!? 俺の馬鹿ぁぁー!!

 人生最大の危機に、取り返しのつかない失敗をやらかしてしまった。

 ディックが稀封石を使ったのはこれが初めてだ。先輩看守からは、狙いを定めて唱えるだけで簡単、と聞いていたのだが。命中させるには慣れが必要なのか、ディックが緊張し過ぎたせいで照準がずれてしまったのか……どちらにしても、状況はまずい。

 一つの結晶には一つの魔法しか封じられない。ディックの稀封石は今のでからになってしまった。それに稀封石は貴重なため、看守一人につき一個しか配給されていない。

 ディックが成功していれば、レイダーの動きを止めている間に騎士たちが攻撃し、倒すことができたかもしれないのに――

「何やってんだ!!」

「これだから騎士団から脱落した奴は……!!」

 騎士たちから怒号が飛んでくる。返す言葉などない。面目がないのもあるが、どんな罵声もまともに聴こえない。

「みんな落ち着け!! 魔族に集中しろ!!」

 這いつくばっていた隊長がさっと立ち上がって部下たちに命じる声も、すぐ近くでしているはずなのにやけに遠い。

 ディックの意識の大部分は、レイダーに奪われている。出る杭は打たれると言う。おそらくレイダーはディックを……

 レイダーは稀封石で動けなくなった騎士を眺め、

「ふうん。なるほどねぇ。拘束の術か」

感心するように言ったかと思うと、ディックのほうに顔を向けてきた。獅子の瞳が、牙を覗かせた口元が、冷たく嗤っている。

 やはり――

 ディックは全身から血の気が引くような感覚に襲われた。その場に硬直し、後ずさりさえできない。まるで、自分のほうが捕縛の魔法を掛けられてしまったようだ。

 レイダーは自らの顔の前に長い爪をかざし――

「お前が犠牲者第二号かぁ」

喜々として言うと同時に駆け出す。

 ディックは一瞬で間合いを詰められた。レイダーの鋭い爪が、ディックの胸部目掛けて突き出される。

 もう駄目だ。終わった――

 ディックが死を覚悟した、その時。

「――何っ!?」

 突然レイダーが叫び、後ろに跳んでディックから離れた。

「こ、この凄まじい霊力は――!?」

 レイダーの視線はもはやディックにはなく、ディックのはるか後ろに向いている。

 ディックの近くにいた隊長も、レイダーを警戒しつつレイダーと同じ方向を見る。彼の顔には、レイダーが強者だと知った時よりさらに大きい驚愕が浮かんでいた。

「この霊力……一体誰が……」

 れ、霊力って――?

 霊力の感度を持たないディックにとっては、霊力とか邪気とか訳がわからない。そんなものを感じる力がある奴の世界は、きっと別次元なのだろう。

 一体何事なのか。ディックも後ろを振り返った。

 見えるのは、いつの間にか船着き場へと逃げ出した石工たちの背中。

 そして、石工たちが走り去った場に――その波に取り残されたように、栗色の髪の少年が立っていた。

 煤色の囚人服姿ながら、貴族の礼装が似合いそうな整った容姿は、あるいは武人の鎧を纏っても様になるであろう精悍さを備えている。少年はその端正な顔を勇ましく引き締め、その黒い瞳で獅子の魔族を見据えている。

 ディックは思わず、少年の名を呼んだ。

「アルファ……!!」

 

 

 



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