第32話 天才法術士
一足先に、第3章の舞台と人物たちが出て来ます。
サーチスワードの東、パスト地方にあるプロッツの町の中央に、石造りの古風な建築物がそびえている。町の中で最も大きく古く、存在感と共に近づき難さを放つそれは、一見要塞のように見えるが法術士たちの学び舎である。
その名もプロッツ法術学院。
各地から法術士の卵を集めて英才教育を行う機関であり、著名な法術士を数多く輩出してきた名門校だ。
開校から約四百年――蝉の鳴き声が聴こえ始めたこの季節、また一年の節目を迎えている。
「それではただ今より、実技の学年末試験を行う」
校庭の一隅で、黒の制服に身を包んだ一学級の生徒三十人ほどを前に、教官が神妙な面持ちで宣言する。
「課題は『炎の流星』だ」
生徒たちの表情も真剣そのものである。順番に一列に並び、教官に名を呼ばれたら前に出て、課題を実演してみせる。
自己に宿る静なる力、すなわち霊力を高めて活性化させる。それを手に集中させ、自然界の力と連結し――炎の球を作り出す。そしてその炎を、二十歩ほど先に設置された木の板に向かって放つ。板は魔物に見立てたもので、『炎の流星』とは、火炎球で対象を撃つ攻撃系の法術なのである。
生徒たちが放つ炎は、個々人で大きさも威力も異なっている。同じ術であっても、術者の能力や力の加減によって、威力や効力、有効範囲等が大きく変わってくるのだ。
ある生徒は握り拳大の炎しか作り出せないが、ある生徒は人頭大の炎を生み出せる。的を大きく外してしまう生徒もいれば、しっかりと命中させて板を木っ端微塵にできる生徒もいる。一流の法術士ともなれば、特大の炎で岩をも砕くことができるという。
当然試験では、的に命中させることができ、破壊力が大きいほうが高評価となる。
「……七十五点。……うーん……五十八点。――うむ、九十五点!」
教官は生徒一人一人の法術を見ながら、点数をつけていく。
及第点を得てホッとした顔をする生徒、はしゃぐ生徒たちがいる一方、低得点の生徒たちは、落ち込む者たちもいれば、まだ順番待ちの生徒らに『お前も失敗しろ』といった憎まれ口を叩いている者もいる。
「次――レオニス=トゥルス!」
「はっ、はいっ」
教官に呼ばれ、一人の生徒が前に進み出た。
人形のように均整がとれた可愛らしい顔立ちに、冬の空のように澄んだ青い瞳を持つ少年だ。少し癖のある柔らかな金の髪は、襟首が隠れる長さがある。同年代の少年たちと比べるとやや小柄で、一見女の子と間違われそうな容姿だが、身に着けている制服がズボンであるように、れっきとした男子生徒だ。
本名は、レオニス=トゥルス=サーチスワード。実はサーチスワードの先代領主の子息であることは、学院長と極一部の教員しか知らない。友人たちからはレオと呼ばれるが、故郷の兄ルミナスはレオンという愛称を好む。今は亡き両親もまた……
レオンはひどく緊張していた。自分のすぐ前の生徒が、的を吹き飛ばして高得点を叩き出したのでなおさらだった。
新たに設置された木の板を前にして、レオンは一つ深呼吸し、詠唱を始める。
「我が魂は 今こそ奮う 眠れる力は 今こそ目覚めん
我が力 世に満つ力と交わりて この手に集うは望むもの」
本当なら、難度の高い詠唱抜きのほうが高評価に繋がる。それに試験はともかく実戦では、詠唱に費やす時間が生死を分けかねない。
だが、きちんと呪文を唱えたほうが霊力が安定し、威力も上がる。高評価を狙っても失敗したら台無しであるし、自分の場合はそれ以前の問題がある――
「我が焼べるは 我が力
紅く 燃ゆるもの 揺らめくものよ
明く 降るもの 煌めくものよ」
徐々に、霊力が練り上がっていく。的に向かって突き出した両手に霊力が集い、さらに力が高まっていく。
だが。
レオンの中の古い記憶が、法術を使おうという意思に反し、霊力の高まりを阻害した。活性化させた霊力がたちまち萎んでいく。
まただ。ボクは――
今自分が狙うのは木の板に過ぎないが、無意識のうちに恐れている。人を傷つけ、命を奪い得る術を使うことを。
両親を亡くした、八年前のあの日から。
八年前、魔族の大軍がサーチスワードの町を襲った。
母スピカが魔族の槍に胸を貫かれ、それを見た瞬間、レオンの精神は崩壊した。自身に内在していた膨大な霊力が外へと迸り――我に返った時には、目の前の魔族たちが体のあちこちから黒い血を蒸発させながら呻き苦しんでいた。
理性をなくしたレオンの霊力が暴発した結果だった。
あの時、霊力の暴走によってレオンが害を与えたのは魔族のみだった。だがそれは、単に運が良かっただけのことだ。自分は周囲の人々を殺してしまう可能性があった。
それに、あの暴走の直後。
レオンの力に危惧を抱いた魔族が剣を振り下ろしてきて――父アークトゥルスはレオンの盾となり――
レオンの魂に刻まれた傷は時を経て今もなお、攻撃系魔法の行使を拒絶し続けている。
しっかりしろ……!
レオンは自分を叱咤し、辛うじて霊力の失活を食い止めた。
「駆けて 砕きて 焼き払わん
我が放つは――」
手に残る霊力と自然界に宿る火の力を連結し、両の手の平の間に炎の球を生み出す。そして――
「『炎の流星』!」
術名を唱えることを以って、魔法を発動させる。
レオンが作り出した炎の大きさは、林檎くらい。勢いよく真っ直ぐ飛び、見事に的の中央に命中し、板を大きく揺さぶった。魔法は見た目が小さく地味でも、殺傷能力が高い場合がある――
が、レオンの火炎球は着弾と同時に無数の火花と散り、板の表面を少し焦がしただけに終わった。術を放つ前から霊力が下がっていたので当然の結果だ。
教官が残念そうに評価を述べる。
「……いつも滑り出しは順調なんだがな……三十点。後日追試だ」
「はい……」
この試験が終わったら間もなく夏の長期休暇を迎え、秋には次の学年に進級のはずなのだが、その前に大きな壁が立ちはだかることとなってしまった。
レオンががっくりと肩を落としながら後ろに下がると、級友たちが寄ってきた。
「レオー。そう落ち込むなって」
「レオ君、回復系と防御系の法術なら学院で三指に入るって言われてるのにね」
「筆記もいっつも学年一位なのにな」
「ほら、レオ君って優しいから攻撃には向かないのよ、きっと」
「はは……」
慰めてもらっても、レオンは苦笑いで答えるしかない。
と。
少し離れた場所で、にわかに強い霊力が生じた。
レオンは反射的にそちらを見やる。
霊力の発生源は校庭の向こう側。学院長に副院長、上級生担当の教師たちが集い、その前に一人の女子生徒がいる。肩には少し届かない長さの黒髪が内巻きになっているのと、眼鏡を掛けているのが特徴と言えば特徴だが、多数の生徒の中にいたら埋もれてしまうであろう地味な少女だ。
しかし、レオンが感じている霊力を発しているのは、間違いなく彼女である。
その唇が何かを紡ぐごとに、霊力がますます上昇していく。距離的にレオンの耳には届かないが、法術の詠唱であろう。
術者の控えめな外見にそぐわず、霊力は派手なんてものではない。彼女――ミント=スピアはこの法術学院随一の霊力の持ち主なのだ。
同じ学院の生徒ではあっても、レオンは彼女とは学級どころか学年も違う。年齢は同じ十六なのだけど……。言葉を交わしたことはないし、今のように遠くから見掛けることが数回あったくらいだが、学院きっての天才と称され、なんと四年も飛び級しているミントの名前と顔は記憶せざるを得ない。
この学院では日常的に法術の演習が行われているため、教師も生徒も霊力の生滅する環境に慣れている。それでも彼女が法術を使う時は、学院中の意識が、彼女のあまりにも強い霊力に吸い寄せられ、ちょうど今のように授業が中断することもしばしばあった。
霊力が高まるにつれ、ミントから十歩ほど前方、誰もいない空間の地面に、仄かに青い光が生じた。かなり広い範囲が発光している。多数の生徒たちが同時に法術の演習を行える広大な校庭の、およそ三分の一にも及ぶ面積だ。
霊力を高め、自然界の力と連結させる際には、発光現象が起こる。手から術を放つ場合、高めた霊力を手に集中させ、そこで力の連結を行うため手が発光するが、離れた場所や広範囲に術を生じさせる場合には、術の発現予定場所が光を帯びるのだ。
やがてミントの霊力が最高潮に達し――張り詰めた空気が昇華された。夏の太陽に熱せられた空間に冷気が満たされ、地面を覆う光は無数の氷柱と化した。
先端の鋭く尖った、巨大な氷の六角柱が何十本と地面から生え、様々な角度で交差しながら天へと突き出す。氷柱の一つ一つが、術者の背丈の三倍はある。その様は圧巻であると共に、あちこちに陽光がキラキラと反射して、幻想的でもあった。
「すげぇ……」
「うそっ、これって『氷の群晶』よね!?」
「こんな術まで使えるのか……!」
レオンは周囲の級友たちの呆然とした呟きや興奮の声を聴きつつ、無言のままただミントの術に魅入っていた。
氷柱を水晶に見立てて『氷の群晶』と名付けられた、美しくも残酷な攻撃系の法術だ。
何が残酷か――敵を大地から串刺しにするという術なのだ。今回は標的なしでの発動であるが、実際に生物相手にこの術が使われる場面はあまり想像したくない。……爆炎で吹き飛ばしたり風の刃で斬り裂いたりするのも、それはそれで惨いのであるが。
『氷の群晶』の威力は絶大とされ、並みの法術士では一生の間研鑽を積んでも習得できず、宮廷法術士でさえ使いこなすのが難しいと言われるほどの超高等法術である。
本当にすごいなぁ……
周囲からミントへの拍手が湧き起こり、レオンも素直に手を叩いた。
天才たるミントもこの術にはさすがに霊力を消耗したらしく、少々足元をふらつかせていたが、拍手に応えるように観衆に向かって会釈した。あれほどの大法術を決めておきながら、驕った様子は微塵もない。
レオンは天才少女に尊敬の念を抱き、心の片隅では嫉妬も感じた。
ボクもあんな風に、ちゃんと霊力を制御できたらいいのに……
霊力――いや、自分のそれは、『魔力』と呼んだほうが近いのかもしれないけれど……
術の発現限界時間を越えて『氷の群晶』は消失し、三分の一が氷の針山と化していた校庭は普段通りの姿に戻った。超高等法術に注目していた生徒たちも、それぞれが行っていた試験や授業を再開した。
多くの視線と関心が自分から遠のき出した途端、ミントは地面に膝をついた。
広い場所を必要とする術であるため、全力でこの術を使ったのはこれが初めてだが、その消耗は想像以上だった。霊力にはまだ余裕があると思うけれど、霊力と共に削られる体力のほうは限界すれすれで、両手をついて立ち上がろうとするものの全く力が入らない。息も切れている。いっそ、このまま大地に抱きついてしまいたいくらいだ。
それでも、ミントは両手に力を入れて踏ん張る。『試験』中に醜態をさらすなんて嫌だ。もっとも、この大法術を成功させたのだから、例え倒れようが意識をなくそうが『合格』は揺るがないだろうけれど。
「スピア君! 大丈夫かね?」
「まぁ、青い顔をして……」
ミントの所に、教師たちが寄ってきた。揃いも揃って老人ばかりだが、法術学院の教員の多くが、騎士団を高齢によって退団した者たちだからだ。
「平気です……」
ミントは痩せ我慢し、愛想笑いを浮かべた。
老教師たちの間を割って、中でも特に年嵩と見える黒衣の老女が近づいてきた。
くるくるの短い巻き毛は真っ白だが、背筋が伸び、足取りも軽く矍鑠としている。それでいて、思わず「おばあちゃん!」と呼んで甘えたくなるような優しい面差しをしたその老婆の正体は、このプロッツ法術学院の学院長だ。
学院長は教師たちに声を掛けた。
「先生方、異論は?」
教師たちは首を振る。
「とんでもない。これに難癖をつけるなら、我々は教員を辞めなければなりませんよ」
「そうですとも。この学校で『氷の群晶』が使える域に達した者など、他には学院長しかいらっしゃいませんしね」
学院長はしみじみとしながらそれに答える。
「私はこの術を習得するのに、三十年以上も費やしました。ですが、彼女は一年も掛からなかった……。パストパス騎士団を退き教職に就いて早二十年――まさかこれほどの生徒に出会えるとは……ああ、私の教員人生にこれほどの幸いはありません……」
学院長の表情は恍惚とし、涙ぐんでいる。
えー? 院長先生感激し過ぎ……
ミントは内心、少し引いた。けれど、学院長自ら指導してくれた日々を思い起こしながら、つられて目が潤んでしまった。
学院長は座り込んでいるミントの前にしゃがみ、にっこりと微笑んだ。
「ミント=スピア。実に見事です。この学院で教えられることはもう何もない――特別卒業試験、合格を認めます」
「あっ、ありがとうございます……!」
『合格』は確信していたミントだが、宣告されるとやはり喜びが込み上げた。ミントは一瞬疲労を忘れ、学院長に頭を下げ――その勢いで地面に突っ伏した。
「スピアさん!?」
「だい、じょうぶ……です……」
ミントは這いつくばった状態のまま答えた。『大丈夫』なんて大見栄だ。起き上がろうという意識など虚しく、体は言うことを利かない。
あー、しんどー……これ絶対実戦向きじゃない……
高等法術は詠唱が省略できない。そして難易度の高い術ほど詠唱が長たらしく、術の発動までに時間が掛かり過ぎるし、消耗が激し過ぎる。それにエグい。魔物を串刺しにした日には、夢でうなされること請け合いである。
せっかく習得したけど……なるべく使わないようにしよ……
倒れたまま、そんな甲斐もないことを考えているミントの体を、学院長や教師たちが起こし、肩や背中を支えて座らせてくれた。支えを失えば再び地面に転がることになるだろう。ミントは痩せているほうだが、介助してくれているのが力の弱いおばあさんたちのため、あまり安定感はない。
「厳し過ぎましたよ、この試験……」
ミントは学院長に不平を言った。浅い呼吸の中、辛うじて微笑みながら。学院長の、穏やかで気さくな人柄を知っているからこそ、冗談のように言えるのだが。
学院長はミントに微笑み返して答えた。
「もちろん、あなたならできると思ったからこそ、この術を選んだのですよ。そしてあなたは、私の想像と期待をはるかに越えた成果を見せてくれました。……倒れるくらい、大したことはありませんよ。私なんて、最後にこの術を使った後には、歳のせいか三日間昏睡状態に陥ってしまいましたから」
「そ、それ怖過ぎます……」
やっぱりこの術は封印しよう、とミントは心に誓った。
――ミントが学院を卒業する条件として提示された課題が先ほどの『氷の群晶』だが、それは法術の中でも最高難度の術の一つである。学院の生徒全員にこの条件が適用されたら、卒業できる者はほぼ皆無ということになる。これはミントにだけ課せられた試験なのだ。
それは、本来六年制であるこの学院を、ミントが二年で卒業することを望んだからだ。一、二年飛び級する生徒ならばちらほらいるが、二年で卒業という前例はなかったため、学院長はミントに特別の課題を与えたのだった。
「しかし……王宮騎士団を目指す気持ちは変わりませんか?」
学院長は急に心配そうな顔つきになってミントに訊いてきた。
「パストパス騎士団がぜひともスピアさんを欲しいと言っていましたが、残念がるでしょうね……」
「はい……何度か直接お話をいただいたこともありますけど……お断りしました」
プロッツ法術学院はパスト地方に属しており、学院の卒業生の七割が、そのまま地元にあるパストパス騎士団に入団している。
けれど、ミントはどうせなら、王宮騎士団の法術部隊に入りたいと思っているのだ。
「いえ、ごめんなさいね。そんなことはいいのです。あなたほどの実力であれば、より大きい舞台で活躍すべきですからね。あそこは随時団員を募集していますし、あなたならすぐに入団できるでしょう。一応、紹介状も準備しますけど。ただ……」
学院長の顔がますます曇るのを見ながら、ミントは黙って言葉の続きを待つ。
「知っているとは思いますが、王都は今、魔族の襲撃の最中にあります。すぐに王都に向かうのは賛成しかねますが……」
学院長はミントの身を案じてくれているのだ。
「はい、それは気をつけます。王都に向かう前に寄りたい場所があるので、まずそこに行ってから考えます」
「寄りたい場所?」
「……昔お世話になった方のおうちにお邪魔しようと思って」
「そうですか。では気をつけて……でも、スピアさんは方向音痴ですから心配ですねぇ……」
余計なお世話なんですけどー……
ミントは心の中で言い返したが、それほど悪い気はしていなかった。学院長の表情が、まるで孫を気遣う祖母のように見えたからだ。
それは、ミントが家族の温もりに飢えているゆえかもしれない。ミントは祖母どころか、母の顔も知らない。母はミントが物心つく前に亡くなってしまったから。それに父も――記憶の中の父の姿は、三十代半ばで止まり、そのまま永遠に老いることがない。王宮騎士団にいた父は、魔族との戦いで殉職したという。
――父の訃報を受け、ミントが悲しみに打ちひしがれたのは、もう六年ほど前になるだろうか。
けれど、その時出会ったある人物が、ミントの心を癒し、力を与えてくれた。ミントが魔物に襲われた時には、命も救ってくれた。
その人の名は、カテドラル=オルウェイス。魔族から人々を救うために各地を旅していた、天才聖術士としても知られる神官だ。
幼かったミントは夢を持った。
『わたし、いつかドラル様と一緒に魔族と戦って、みんなを助けるんだ――』
ドラルが旅路に戻った後、ミントはその夢のために法術の勉強に力を入れ始めた。
ドラルが使っていた聖術にも興味はあったが、周りに聖術を使える人間が誰もいなかったため教わることができなかった。
それに、自分の父も法術にかけてはやはり天才と呼ばれる部類だったため、その才能を受け継いでいることを期待したのだ。ミントはとにかく一生懸命法術を学んだ。
けれど、ある日、ドラルが亡くなったという噂を聞き、ミントは目標を失ってしまった。しばらく気の抜けた状態で過ごし……それでも、次の目標を立て、決意した。
亡き父と同じ王宮騎士団に入り、そこで人々のために戦おうと。そのためにプロッツ法術学院で本格的に法術の勉強に励み、今その全課程を終えた。
これから、王宮騎士団に入団するため、王都リュネットに向かって旅立つ。
でもその前に。
恩人ドラルの故郷であるというソーラの村に行きたい。
前から一度、ドラルの墓を訪ねたいと思っていた。花でも供えながら、感謝を伝え、法術学院卒業を報告しよう。
それともう一つ。
ドラルの娘に会ってみたい。
『私には、君と同じくらいの娘がいるんだよ』
ドラルは確かそう言っていた。
今は王都ばかりでなく、ソーラがあるサーチスワード地方も魔族の悪さに手を焼いているらしい。ミントは法術には自信があるが、これから単身旅に出ることを思うと、心細さもあった。魔族の他、残念ながら世の中悪い人間も多いわけで、女の子の一人旅なんて本当なら絶対すべきではないだろう。
だけど、どうしてもソーラの村に行きたい。
とにかく用心しながら行けば大丈夫――
だよね、たぶん……
試験合格後、大法術を使った疲労から自分では身動きできないミントは、学生寮の自室まで教師たちに運んでもらい、まだ午前中だったにも関わらず、すぐ深い眠りに落ちた。昼食にも夕食にも起きることはなく、翌朝までぐっすり眠ってしまった。
ミントは慌てて旅の支度を整え、学院長をはじめとする教員たちに見送られながら、学び舎を後にした。
いざ、ソーラの村へ――
*
人々から天才聖術士、義人と崇められたカテドラル=オルウェイス――そのただ一人の愛娘、エクルことエクレシア=オルウェイスは今日も今日とてルートホール家のメイドとして働いていた。
エクルはルートホール夫人の寝室で、椅子に掛けた夫人の肩を揉んでいる。
今は夏。屋内外を問わず、何もせずとも汗を掻くほど暑いが、この部屋は涼しい。壁に『冷却板』という、氷の魔法が込められた稀封金属の大きな板が設置されており、冷気を放って室温を下げてくれているのだ。うだるような暑さから救ってくれるありがたい代物なのだけれど、それなりに高価で維持費も掛かるため、夫人とステラの寝室にしかない。
だから、本来この部屋に呼ばれたなら、暑さからの解放を喜んで然るべきだろう。でも……
「ああまったく、あそこの仕立屋ときたら……! こちらにお金があると思って、いいように値段を吊り上げますのよ。それから従妹、ワタクシの顔を見るたびにお金を貸してくれ貸してくれと。見え透いたお世辞ばかり並びたてて……ああ、あのおべっか使い! もううんざりですの。それに――」
エクルは夫人から、諸々の不平不満を聞かされていた。長時間に及ぶので、まともに聞いていると気が滅入る。それこそ、直射日光の下で汗を流しながら雑草でも抜いていたほうが、まだ精神的にはましだった。
「それは大変ですね……」
エクルはただ一言答え、ひたすら肩を揉む。
夫人の相手をするのが面倒で適当に返事をしている――というわけではない。夫人の言葉にエクルの考えを挟むと、例えば「仕立屋さんや従妹さんにも何か事情があるのかもしれませんよ」というようなことを言うと、夫人は必ず機嫌を悪くするのだ。夫人はエクルに意見を求めているわけでも、ましてや解決してほしいと思っているわけでもなく、ただ話を聞いてほしいだけなのだろう。
そうしてエクルが少し同情を示すと、その分夫人は気が晴れるらしかった。貴族の世界も、贅沢で優雅なだけではなく、いろいろややこしいのだろうと思うと、実際夫人が気の毒だった。
そのうち、夫人の口数がだんだん減っていった。いつもと違う様子にエクルがおかしいと思っていると、夫人は椅子に座ったまま眠ってしまった。
夫人は以前なら、エクルを寝室に入れる時は、盗みでも働くのではないかと露骨に警戒を見せていたのだが。
少しは、信頼してもらえるようになったのかもしれない。
……よほど疲れているだけなのかもしれないけれど。
夫人の疲労が少しでもとれるよう、エクルはそのまま肩揉みを続けた。
夜、エクルはステラの寝室に呼び出された。
夫人の部屋と同様、冷却板の恩恵によって涼しい。寝間着のステラは寝台にうつ伏せになり、「いつものを」と横柄に命じた。
エクルはそれに応じ、ステラの首から腰まで揉みほぐしていく。
「ちょっと、そんなんじゃちっとも効きませんわ! 心がこもってないからですわよ!」
頭を少し持ち上げ、きつい口調でエクルに文句を言ってくるステラ。
いつものことだ。けれど苦情を言う割には、よくエクルを指名してくる。
エクルはにこりと笑い、
「それは申し訳ございません」
の一言で流した。ステラはそれが気に食わず、むきになる。
「反省の色が見えませんわ! ワタシを馬鹿にする気……!? ああ、アナタのせいでせっかくの冷却板の快適さが半減ですわ!」
これも大体いつもと同じ反応で、エクルは今さら怖がることもない。
「そんなつもりはありません。でも私がいることで気分が悪くなるようでしたら、今夜はこれでお暇させていただきますね」
エクルは寝台の脇でステラに仰々しくお辞儀をし、部屋の扉に向かってさっさと歩き出した。
「……っ! エクレシアのくせに生意気ですわ……!!」
ステラが枕元に置いてあった本をエクルに投げつけてきた。エクルはひょいと首を曲げ、それをかわす。これまでに食器やら雑巾やら様々なものを投げられてきたので、いつの間にか避けるのも上手くなっていた。本は大きな音を立てて扉にぶつかり、エクルの足元に落ちた。
「どうしてよけるんですの!?」
ますます怒りだすステラ。
「……当たったら痛いですから」
エクルは本を拾い上げて寝台のステラの所に戻り、ステラに手渡した。
「本は読むものですよ」
「っつ、そんなことはわかってますわ……!! ああ本当に生意気なメイドだこと! 罰としてあと二時間続けなさい……!!」
実のところ、ステラはエクルが怒らせても怒らせなくても、何だかんだと理不尽な理由をつけて長時間拘束する。夫人のほうは、エクルが誠実に仕事に取り組めばそれで満足してくれるのだが、ステラはエクルが何をしても気に入らない。どう足掻いてもステラを納得させるのは無理なので、エクルはステラの機嫌を損ねるとしても、堂々としていることにしたのだ。
エクルなりの、ささやかな復讐――というか遊び心だったりする。顔を赤くしてキーキー金切り声を出すステラを見ると、やっぱり悪い気がすることもあるけれど。
神様、これくらいは赦されますよね?
ステラの背中を指圧しているうちに、部屋が暑くなってきた。ちょうど、冷却板に掛けられた氷の魔法の効き目が切れてしまったのだ。こうなると、魔法を使える人を呼び、再び氷の魔法を込めてもらわなければならない。冷却板や光玉など、稀封石を使った品に魔法を注入するのを生業としている術者たちがいる。
けれどもちろん、こんな夜分には来てもらえない。ステラが暑くて眠れないと言うので、エクルは扇で寝台のステラをあおぐことになった。
ステラはエクルに背を向けて横になっている。エクルの顔を見ていたくないそうだ。そして、延々とエクルの悪口を言ってくる。
夫人の愚痴はともかく、これは自分のことを言われているため、まともに受けてしまうと相当負荷が掛かる。必要以上に落ち込まないように、エクルはそれをなるべく聞き流すことにしている。
言いたい放題言った後、ステラは眠りに落ちた。
エクルは扇をあおぐ手を止めて、ステラにそっと薄布を掛けた。暑くて寝苦しい夜でも、お腹くらいは覆ったほうがいいだろう。
言葉も顔つきもきついステラだが、寝顔だけはあどけない。それを見ながら、エクルは何とも言えない、微笑ましいような気持ちになった。
……人って、変わるものかもしれない。まさか自分が、ステラを可愛いと思えるようになるとは思っていなかった。
エクルはそっとステラの部屋から退出し、屋根裏の自分の部屋へと向かった。
――今の自分なら、この屋敷での生活が続いても耐えられるだろう。
けれど。
いつまでも続いてはいけないものだ。
エクルはこの屋敷の敷地外には出られないが、買い出しに行くルッカから外の情報を聞ける。今、王都リュネットは魔族の進攻を受け、サーチスワード騎士団もまた、周辺の魔族たちに苦戦しているらしい。そのせいか、サーチスワードの町の活気にも陰りが見えるという。
魔族と命懸けで戦う騎士たちや、犠牲になった人々を思えば、エクルが置かれる環境など楽園のようなものだろう。およそ二ヵ月前、大事な本を破かれてどん底に沈んでいた時の自分を思い出すと、恥ずかしくてたまらない。
自分の無力さを噛みしめながら、エクルはまた心から祈った。自分が光継者としての役割を果たせる日が来るように。
けれどその前に、もっと切実に願うのは――
アルファが牢から出られること。
同じ光継者であるアルファがいなければ、エクルは頓挫してしまった旅を再び始めることができない。アルファが理由なく牢に囚われていることが悔しいし、何より、アルファがどう過ごしているのか心配だ。
アルファが一日も早く牢から出られるように。
そして、エクルがまだ望むことは――
アルファに、そばにいてほしい。
一人でいても頑張らなきゃいけないとエクルは思っているし、現に努力もしているつもりだ。でも、心のどこかが空虚だった。アルファが一緒なら絶対に感じない淋しさを、ふとした時に嫌と言うほど感じてしまう。
これってやっぱり、アルファを頼っちゃってるからなのかな……
……だめだなぁ、私。
エクルは少し情けない気持ちになりつつ、蒸し暑い屋根裏で眠りにつくのだった。




