第31話 虜囚の日々
受刑所の一日は、看守たちの鳴らす鐘の音で始まる。
早朝、牢が左右に並ぶ広い廊下を、看守が柄の付いた小型の鐘を振りながら歩き、中にいる囚人たちを起こす。
囚人は各牢に一名ずつ入れられており、看守たちに牢の鍵を外され廊下に出ると、班ごとに整列し、点呼が行われる。
そして班ごとに食堂に移って朝食をとり、労役の時間を迎える。
受刑所の囚人が課される労役は様々だが、中でも最もつらいとされるのが石切り場での仕事である。
これは、一班からアルファのいる三班が担当する。この三つの班に入れられるのは、囚人の中でも特に罪の重い者、あるいは犯罪を繰り返した者、反省の色が薄い者、所内で喧嘩や命令無視等の問題を起こした者たちだ。
ちなみにアルファが三班になったのは、例の強盗と殺人未遂の容疑のためではなく、アルファが石切り場で働くことを希望したからだ。
三つの班の囚人約三十人は、いったん手枷を嵌められ、看守たちに付き添われて罪人収容所の高い塀から出される。そして、人通りのほぼない狭い路地を通り、サーチスワードの町を流れるワーズ川の船着き場まで歩く。そこで班ごと小型の船に乗り込み、流れの緩やかな幅広の川を上り、水門を抜け、サーチスワードの市壁の外に出る。
手枷を付けられ監視された状態とは言え、ずっと受刑所の中にいることを思えば、それでもかなりの解放感だ。
さらにしばらく川を北上していくと、視界いっぱいに緑眩しい森と山々が広がる。だが目的地は比較的近く、ゆったり景色を楽しむような時間はない。囚人と看守らは川辺の簡素な船着き場で船から降り、森と森の間の、道と呼ぶにはだだ広い空間を、列を成して進んでいく。この空間も元は森だったらしいが、切り開いて平原にしたとのことだ。そしてまもなく、町から北西部にある石切り場に到着する。
岩肌が剥き出しになった山で、石工たちが作業している。石が切り出された山の斜面は、ある部分は階段状に、ある部分は断崖になっている。
石工たちが働く山の裾には、サーチスワード騎士団の団員たちが十名ほど控えている。魔族が襲ってきた際、石工たちを守るためだ。これも隊商の護衛と同じで、石工たちの雇い主が騎士団に護衛料を払っているらしい。
ここでの囚人の労役は何かと言うと――囚人はもちろん、凶器になり得る工具など持たせてもらえないし、石を切り出す技術もない。石工が切り出した石材を、石切り場から川辺の船着き場まで運び、船に積むのが仕事だ。
四角く切り出された石のうち、腕に収まるくらいの大きさのものは、いくつか台車に積むか、一つ一つ抱えて運ぶ。一辺が腰の高さに及ぶような大きな石材は、下に丸太を敷き、石を後ろから数人で押して滑らせていく。夏の強い日差しの下、汗水垂らしてヒイヒイ言いながら。ちなみにここで作業する囚人は、擦り傷等を防ぐため夏でも長袖長ズボン着用だ。
作業中はさすがに手枷を外されているが、付き添いの六人の看守が手に鞭を握り、常に目を光らせている。囚人たちがさぼろうとしたり喧嘩をしたりするようであれば、例のように食事抜きだと脅し、必要とあらば鞭を振るう。
看守たちの中でも主任は意地が悪く、少し気に入らないことがあるとすぐに持っている鞭をぶらぶらと揺らし、怯える囚人の反応を楽しんでいる。
――ここは塀の外で、身を隠せる森もある。アルファは何度か、隙をつけば逃げられるかもしれないと考えたこともあるが、囚人の証である首輪を外してもらえないことにはどこの町にも入れないし、サーチスワードの町の中にいるエクルにも会えない。
それに、看守たちは皆、囚人の脱走を阻止するために、体の自由を奪う法術が込められた稀封石を携帯している。逃げようとした囚人は、稀封石の魔法で動けなくされた後、気を失うまで鞭で打たれるという。間違ってもそれは嫌だし……アルファはおとなしく労役に従事することにしている。
真夏の石切り場での仕事は、体力自慢のアルファにとっても簡単ではなかった。けれどアルファは体を鍛えるという目的のために全力で取り組み、皆から怪力だと驚かれた。
常に偉そうに振る舞っている主任看守からも、牛や馬に負けないと感心されたくらいだ。
どうして牛や馬が引き合いに出されるのかと言えば、多くの人手が割かれているこの石材の運搬作業ではあるが、実際は動物に牽かせたほうが効率的だからだ。それを人間にさせている目的は、まさに懲罰に他ならない。囚人が重労働の苦しみを通し、自らの罪を反省するようにとのことだ。
昼になると、そのまま石切り場で昼食をとる。囚人たちはパンとわずかな肉を与えられて休憩し、食べ終わったらまたひたすら石を運ぶ。
夕刻、石工たちが仕事を終えると囚人たちの仕事も終わりとなり、受刑所に戻っていく。一人につき桶一杯だけの水を与えられ、汗を流して着替え、夕食を食べ、各自の牢に入れられて就寝。
そしてまた朝が来て――大体毎日その繰り返しだった。
ただ、石工たちが休みの日や雨の日は石切り場での作業ができず、受刑所内で別の仕事をさせられたり、読書を課せられたり、自由時間を与えられたりもした。
アルファには体力作りという目的があるため、石切り場での仕事が減るのは困りものだったが、自由時間にみんなで旗当て――アルファの好きな、足を使った球技――をするのは楽しみだった。
『みんな』と言うのはもちろん、他の囚人たちのことだ。初めは印象が悪かったが、共に汗を流し、共に食事をしているうちに、いつの間にか仲良くなっていた。
特にアンディとは――喧嘩で相手の骨を折ったという黒髪の青年とは、年齢が近いこともあってか馬が合った。
彼は大工の父親と家業のことで揉めて家を飛び出し、故郷の村からサーチスワードにやって来て働いていた。収容所に入る原因になった暴力は、仕事仲間が柄の悪い男に金を脅し取られているのを見て、逆上してしまったことによるらしい。被害者男も悪いし、アンディ自身もやり過ぎたと反省していたため、初めは刑罰の軽い班に所属させられていたのだが、ある日他の囚人に悪口を言われてついカッとなり、喧嘩騒ぎを起こした末に石切り場班行きになってしまったそうだ。
すぐ血気に走る自分を後悔しつつ、なかなか治せないでいるアンディだが、心配を掛けている故郷の両親にはとても申し訳ないと思っているようだ。
怒りっぽい辺りアルファと似ているし、アルファは親の話をされると弱い。だからなおさら彼に情が移るのだろう。
話を聞いてみれば囚人たちは、単純に悪い人間というわけではなく、それぞれの人生を背負っていた。罪を犯したこと自体はもちろん悪いし、償わなければならないことだが……アルファはいろいろと考えさせられた。
中には、全く理解できない囚人もいた。他人の人生を狂わせておきながら自分のことしか考えず、悔いることをまるで知らない者もいた。が、それはそれで、何故彼はそうなってしまったのかと、やはり考えさせられるのだった。
*
アルファやルミナスと再会して半月余り、ルートホール家にてエクルはまだまだ苛めに悩まされていた。
貴族の娘たちを集めたお茶会の場に同席させられ、ステラから悪口をあることないこと言われて笑いものにされたり、眠っている間に靴の中に鋲を仕込まれたり……せっかく終えた仕事をステラやリタに台無しにされ、夫人から怒られてやり直し、という例の型も飽くことなく繰り返されていった。
エクルはもちろん、覚悟もなしにこの屋敷に戻って来たわけではなかったが、それでもつらくて、部屋で一人泣くことが多々ある。
けれどエクルはその度に、監獄にいるアルファのことを思い浮かべた。
そしてまた、父カテドラルの言葉を思い出した。
『もし……どんなにつらいこと、悲しいこと……人から傷つけられることがあっても、決して人を憎んではいけないよ。相手のことを思いやって……赦してあげるんだ』
その後、父はこう続けた。
『お父さんには昔、どうしても赦せない人がいたんだよ』
それを聞いた時、エクルはとても驚いた。あの穏やかで優しさに溢れていた父が、『どうしても赦せない』とまで思ったその人は、一体何をしたのだろうかと。父がその内容を語ることはなかったし、今となっては知る術もないけれど、きっとよほどのことがあったに違いない。
今のエクルの心に響くのは、父がさらにその後に継いだ言葉だ。
『でも、神様は全ての人を……どんな人であっても愛される。もし自分がその人を憎めば、神様が悲しまれるんだ。でも、もしも自分が人を憎んで、そのことによって神様を悲しませてしまったとしても……神様はやはり愛ゆえに赦してくださる。醜い憎しみの心を持った自分を神様が赦してくださったから……自分もまた、その人を赦すしかなかったんだ』
幼かった頃に聞いた父の言葉が、やっとわかった気がする。たぶん自分の葛藤は、父が味わったものに比べたら、ずいぶん程度の低いものなのだろうとは思うけれど。
暗い屋根裏部屋でエクルは跪き、指を組んだ。
神様――
この屋敷で働き始めてから、いつしかエクルはあまりの苦しさに祈ることすらできなくなってしまっていた。
でも今は、心ゆくまで祈ることができる。悲しさでも悔しさでもない涙が頬を伝う。
神様……赦してくださるのですね……こんな私を――
その確信は温もりとなってエクルを満たし、力を与えてくれた。
ある日、エクルはいつも以上に仕事に追われていた。
リタが風邪を引いて体調を崩してしまい、彼女の分の仕事が、ステラの命令で全てエクルに回ってきたのだ。
リタのしていた咳がどうもわざとらしかったような気がしないでもなかったけれど……そんな風に人を疑うものではないだろう。
今やっている大広間の掃除の他、まだ衣裳部屋、浴室、書斎の掃除に、庭の草むしりも残っている。
今日中に終わるのかな……
途方に暮れそうになりつつ、エクルは首を振る。考える暇があったら手を動かしたほうがいい。
エクルが必死で大広間の窓を拭いていると、そこへ何故かルッカがやって来た。
「……アタシ、今ちょっと手が空いたんだ」
彼女は淡々と言い、大広間の床を箒で掃き始めた。
「ルッカさん……?」
エクルが戸惑って見ていると、ルッカはそのまま床を掃きながら言った。
「……アタシが手伝ったらいけないか?」
と。少し照れたように。エクルは首をぶんぶん振った。
「ありがとうございます……!」
嬉し過ぎて、思わず涙が滲んだ。
ルッカのおかげで、エクルはどうにかその日のうちに全部の仕事を終わらせることができた。そしてありがたいことに、ルッカはその後もエクルの仕事を度々手伝ってくれるようになった。
ステラから嫌がらせを受け、夫人から事あるごとに叱られては借金の話を出される――それがつらくないとは言えないけれど、以前のように悪い感情に囚われて思い詰めることはなくなった。
ステラや夫人に対して無意識のうちに抱いていた恐怖心のようなものもだんだんと薄れ、少しは余裕をもって接することができるようになった……と思う。
仕事そのものは楽しんでできるようになったし、裏ではルッカが味方してくれるので心強かった。
それに、リタも変わった。彼女は次第に、ステラのいない所ではエクルに意地悪をしなくなったのだ。
*
サーチスワード騎士団本部では、連日大規模な訓練が実施されている。この日も、広大な庭に二千の騎士団員が集い、魔族との戦闘を想定した模擬戦を繰り広げていた。
「動きが遅い!! 訓練だからと言って手を休めるな……!!」
その模擬戦を監督するルミナスは、団員たちに向かって檄を飛ばす。
「皆も知っての通り、今このサーチスワード周辺において魔族による被害が拡大している! この町もいつ魔族の襲撃を受けてもおかしくない状況であることを忘れるな……!!」
八年前、サーチスワードに魔族が襲来した時のことが――破壊された町並みの中で、両親の亡骸にすがって慟哭したあの時のことが、ルミナスの頭の中には常にある。そして、あの悲劇を絶対に繰り返さないという決意が、団員たちへの指導に厳しさとなって顕れる。
団員たちは初めこそ腰が引けた様子だったが、よくついて来てくれている。ルミナスの気迫が町を守る決意から来ていることを、団員たちも汲んでくれているから――いや、団員たち自身がその覚悟を持っているからだ。
……しかし、困った。
アルファの面会に行ってからもう二十日も経ってしまったが、ルミナスは魔族への対策に追われ、強盗事件の真犯人についての調査には全く手が回らない。
アルファと縁のある、情報部第五班のカーターたちにも頼んでいるが、どういうわけかそれに勘づいたらしいネカルが、わざわざ彼らにたくさんの仕事を押し付けており、やはり調べが進まない状況になっている。
さて、どうしたもんか……
エクルのことも気掛かりだが、ルミナスにはせいぜい、時折人を送って、ルートホール家の敷地の外からこっそり様子見させるのが関の山だった。報告によると、エクルはルートホール夫人とその娘からいびられながらも、健気に頑張っているようだ。
ルミナスとしては早くエクルをそこから救い出してやりたいのだが、彼女自身が望んでそこに戻った以上、ルミナスが余計な介入をすれば、彼女の努力を無駄にすることになりかねない。エクルの置かれる状況がわずかでも悪化したら、ルミナスは無理にでもエクルを屋敷から連れ出すつもりでいるが、今は堪えて見守ることにしている。
ルミナスは訓練に勤しむ目の前の団員たちへと意識を戻したが、そこへちょうどネカル付きの騎士がやって来た。
「ルミナス様、ネカル様がお呼びです。大至急とのことでございます」
……ネカルには、ルミナスをやたらに呼び出す傲慢な悪癖がある。どうせ今回も大した用ではないのだろう。
ルミナスはそう思いながら、訓練の指揮を部下に任せ、渋々ネカルの執務室に向かった。
だが、ルミナスは執務室に入るなり、ただ事ではないと悟った。
ネカルの表情がひどく消沈していたのだ。
机に両肘をつき、組んだ指に顎を乗せ、背を丸めて座っている姿は平素よりさらに小さく見える。そしてその口から、あまりに信じがたい言葉が告げられた。
「――たった今、王都から伝令が来た。王都が魔族に攻め込まれていると」
「な……リュネットが……!?」
これにはルミナスもさすがに、落ち着き払ってなどいられなかった。
「王都を攻撃するだけあって、魔族は大軍らしい……中央に、サーチスワード騎士団からの応援を要請された」
ルナリルの八地方の領主たちは、ルナリル国王に忠誠を誓い、軍役の義務を負っている。
しかし、今はサーチスワードの情勢も良くないのだ。この状況で援軍を出すことは、かなり厳しい。
だが、軍役を拒めば領主はその座を罷免されることになっているし、国王のいる『中央』が最も強い力を持っている。万一、王都リュネットが陥落するような事態になれば、ルナリルの国そのものが弱体化し、サーチスワードだけを守ったとしても、わずかに生き長らえるに過ぎないだろう。
どの道、援軍は送らざるを得ない。
「私をお呼びになったということは……私にリュネットへの援軍を率いろということですね?」
ルミナスが問うと、ネカルは首を横に振った。
「いや……送るのは別の者だ。ただ、こういう厳しい状況であることを知ってほしかった。お前はサーチスワードを救ってくれ。頼む……」
ルミナスは驚いた。こんな弱気なネカルは初めてだ。
ルミナスが騎士の見習いだった時から、ネカルは幾度も最前線にルミナスを送り出した。ネカルはもしや、自分の後をトーラスに継がせたいあまりに、ルミナスを死地に放り込んで殺す気ではないか――ルミナスはそんな邪推をせざるを得ない時もあったのだ。
今のこのネカルの変わりようは、魔族による事態の深刻さをより強くルミナスに実感させた。
*
「今日の旗当てもアルファがいた組が圧勝だったよなー。不公平だろこれ」
「えー? オレ『アルファは直接旗を狙わないこと』とかいう不利な条件ちゃんと守ってるだろ」
「いーや! いっそ『アルファは一切球に触れないこと』にすべきだ」
「お、そりゃいいや」
「何だよそれ!? オレ何がおもしろいんだ!?」
「うーん、それなら『頭だけは使っても可』とか」
「良かったなぁ、アルファ」
「良くねぇよ!」
「お前たち若いな……たかだか球蹴り遊びにそんなに熱くならんでも」
「よく言うぜ。自分だってはしゃいでるクセに。なぁ?」
「んー、確かに」
「そ、そんなことはないぞ!?」
ある晩、受刑所の食堂にて、アルファは同じ班の仲間たちとワイワイ言いながら夕食を食べていた。いつもと同じく、楽しい雰囲気だった。
途中までは。
「そういや、さっき看守たちが話してるのを聞いちまったんだが……どうやら、リュネットが魔族に攻め込まれてるらしい」
元騎士団員の横領犯グスタフが洩らした言葉で、場の空気が大きく変わった。
「ええっ、王都が……!?」
「マジで……!?」
驚愕の声を上げるアンディや空き巣狙いのブレッド。アルファはあまりのことに反応できなかった。
「でも、ここさえ安全なら別にいいかな~」
と呑気に言う食い逃げ常習犯のデービッド。無言で頷く殺人犯のフィル。
「けど……もし王都が潰されたりしたら、サーチスワードだってヤバイと思うよ?」
と連続放火魔パトリス。
その話を聞きながら、アルファの頭の中には、かつて魔族に滅ぼされたゴウズの町やリーコールの町の情景が呼び起こされてしまった。そして、胸が締めつけられるように感じた。
魔族による犠牲が、また大きく広がってしまうかもしれない。それなのに……
王都の話題で盛り上がる仲間たちを余所に、アルファはテーブルの下で拳を握った。
光継者であるはずの自分は、牢獄にいて何もできない。
もし自由の身であるとしても――今の自分にはまだ、王都を救うに役立つほどの力はないが、囚われの現況はあまりにもどかしかった。
また別の日。
石切り場の労役に出発する前、アルファは別の班に見慣れない囚人たちが増えているのを見つけ、近くにいた看守ディックに尋ねた。
「……また新入りか?」
「ああ。髪の長いほうの男は、これまでに総額七十万リル以上騙し取ったっていう詐欺師で、背の高いほうは、別れ話のもつれで付き合ってた女を刺したとかいう話だ」
時々……アルファはふと思うことがある。
光継者は魔神を倒して世界を救うのが使命だが……その後の世界は、本当に平和なのだろうか。
魔族がいてもいなくても、たぶんこういう犯罪は後を絶たないのだろう。
不安定な世相が犯罪を助長することはあるかもしれないが、根本は魔族のせいではない。
魔族なんて、初めは存在しなかった。人類の歴史が始まって以来、何千年、あるいは何万年とも言われているが、世に魔族が登場したのは、ほんの百二十年前に過ぎない。
百二十年前、時のソーラレア王カストルは、禁断の魔術によって魔族をこの地に召喚してしまった。
それは、戦争が生んだ憎しみによって。
魔族なんかいなくても、人間は歴史上で常に戦争を繰り返し、人間同士で傷つけ合ったり憎しみ合ったりしてきた。
人間は、人類を滅亡に追いやろうとする魔族たちに苦しめられているが、つまりそれも、元はと言えば人間自身の責任なのだ。
――人間の罪と争いの歴史の始まりは、神話の世界に遡る。
唯一の王――人間の世にまだ一つしか国がなかった時の王が、神を裏切って悪魔と契約を交わした。それゆえに、そこからあらゆる罪と闘争が生じるようになったと言われている。
神話の、想像も及ばないほど遠い遠い過去の出来事が、現在もなお人間に影を落としている。とにもかくにも、人間の罪というのはそれほどに根深いということだ。
ちなみに、魔族を召喚したカストル王は『歴史上最大の罪人』とも呼ばれているが、一部の歴史家の間では、その神話の王と並ぶ『二大愚王』と称されているらしい。彼らには共通点がある。どちらも悪魔に魂を売り、自らの過ちによって、世界の運命と後の歴史までも狂わせてしまった。
たった一人の失敗がどれほど重いのか――それを考えると、アルファは寒気を覚えた。
「おい、どうした?」
「べ、別にっ。今日も暑くなるんだろなーって」
アルファはおそらく深刻な顔をしてしまっていたのだろう。ディックから心配そうに尋ねられ、慌てて誤魔化した。
「確かに暑そーだな。てかお前いつも気張り過ぎだし、ほどほどにしとけよ」
「君が一緒にいるおかげで、石切り場の仕事もずいぶん楽になったけどね」
「でも倒れたら意味ないもんなぁ」
「若いんだし体は大事にしてくれよ」
仲間たちの気遣いに感謝しながらも、アルファは自分の抱える事情をここの誰とも分かち合えないことに、少し淋しさも感じた。
――再び、魔族のことを考えてみる。
魔族を倒しても平和な世の中になるとは限らない……そう思うとやはり苦しいが、魔族のせいでたくさんの悲劇が生まれているのも確かだ。それは絶対に止めたい。
人間の罪がどうのこうのは、悩んでみても――悩むのが全くの無駄ではないかもしれないが――残念ながらアルファに解決できる領分ではないのだろう。魔族を止めることこそが、光継者としての自分の役目なのだ。
だから今は、ここを出て旅を再開する時のために備えよう。
アルファは石切り場の労働を通してだけではなく、狭い牢の中でも朝晩腕立て伏せやら腹筋運動やらをして体を鍛えている。時には静かに瞑目し、戦闘の身のこなしや霊力操作を思い描く。ここでは真剣はおろか木剣さえ持たせてもらえず、素振りもできないが、戦いの感覚を忘れぬよう、できる限りのことはしている。
それと、暇さえあれば収容所の所長に無実を訴え、領主ネカルに話をするよう頼んでいる。無理だと断られるばかりだが、聞いてもらえるまで諦めないつもりだ。
そして毎晩眠りに就く前、窓から夜空を見上げるのも習慣となった。
手も届かないほど高い、格子付きの小さな窓の向こうに、今宵もアルファは月の姿を探す。
闇世の月――『夜のごとく暗き世に輝く、大きな光』。
アブレス王子のその言葉を聞いてから、アルファはいつしか、月を見ればエクルを思い浮かべるようになっていた。
エクルが元気でいるか心配だし、自分がいつここから出られるのか不安もある。
けれど、エクルもきっと戦っている。自分と同じ使命を持つ者。離れていても、エクルの存在はアルファを力づけてくれた。
月を見上げながら、アルファは心の中で呟く。
待っててくれ。いつになるかわからないけど……必ず迎えに行くから――
と。
「何やってるんだ、アルファ?」
看守のディックが声を掛けてきた。光玉を手に、牢の並ぶ廊下を見回りしている。彼はいつの間にかアルファを、『三七三』ではなく名前で呼んでくれるようになっていた。
「早く休め。疲れてるだろう?」
「ああ、もう寝るさ」
アルファが答えながら固い寝台に横になると、ディックは茶化すように言った。
「にしても、夜空を眺めて物思いに耽るとは……ははーん、さては恋人のことでも思い出してたな~? あの娘、エクルって名前だっけ?」
「なっ!?」
アルファは思わず、寝台からがばっと身を起こした。
「あいつは別にそんなんじゃ……! 幼馴染だし、妹みたいなもんで……!」
「ふーん?」
ディックはニヤニヤ笑っていたが、
「こらそこ! 何を騒いでいる!?」
「す、すみません……!!」
「何でもありません……!!」
一緒に見回りに来ていた主任看守から怒鳴られ、アルファ共々謝る羽目になったのだった。




