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双星の光継者  作者: 明谷有記
第2章 サーチスワード編
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第22話 否定

 フロリド商会の隊商がサーチスワードを発って五日目、一行は順調に進んでいた。

 前日は雨が降り、丸一日宿で過ごすこととなったが、今日はよく晴れ爽やかな風が吹き、初夏の訪れを感じさせるような気候となった。石畳の街道はぬかるむこともなく、馬車の走行は快適だ。

 やはり魔物や魔族が現れては道を塞ぐのだが、どれも強さは大したことがなく、相変わらずほぼアルファ一人で倒し続けていた。そして、少しずつ実戦の中に霊技を取り入れ、上達を図った。

 本当は、隊長から霊技を教わろうかと思ったこともあったのだが、やめておいた。ルミナスと修練した時の記憶を頼ったほうが、新たに他の者から指導を受けるより身になりそうだと考えたからだ。ルミナスは霊力はさほど大きくないが、技術的にはこの隊長よりはるか上だし、教え方がすごく上手かった。

 それに、もしアルファが隊長に霊技を教えてくれと頼んだとしても、卑屈な彼は「私ごときがあなたにお教えするこは何もございません!」と断るに違いない。

 ……隊長はアルファが魔物たちを退治する度に「さすがです!」、「素晴らしい!」、「いよっ、天才!」などといちいち褒め讃える。

 剣の腕と邪気の感知においてはアルファのほうが上であるが、それでも彼は隊商の統率については、幾度も経験し慣れているし、そつなくこなしている。少なくとも、素人のアルファからはそう見えた。不足な点があるとすれば、この媚びへつらう態度が過剰なところだろう。

 そんな隊長に苦言を呈しても無駄と思うのか、他の隊員たちも、アルファのお陰でこんな楽な護衛は初めてだとか言い出した。

 ――こう言ってはかなり失礼だが、騎士団からの護衛たちは、すっかりアルファの応援団に成り下がっているのだ。

 アルファはルミナスに敵わないのが悔しくてたまらなかったが、彼らにはそういうのはないのだろうかと不思議に思った。

 それでも、最初のような居心地の悪さは次第に薄れてきた。日が経つにつれ、やはり一緒にいることに互いに慣れてきたのだ。

 皆アルファに良くしてくれたが、特にソフィアは、アルファが疲れていないか、喉が渇いてはいないかと、やたらと気に掛けてくれた。ただし、それをベラは快く思っていないらしく、アルファにあの鋭い目つきで凄みを利かせているのだが。

 

 

 その日、隊商はまだ明るいうちに町に入った。

 毛織物産業が盛んな町で、そこにはフロリド商会の支店がある。隊商はサーチスワードから持ってきた商品の一部を、支店が仕入れた毛織物と交換するらしい。

 隊商の馬車は支店の倉庫前に停められた。馬車から荷を下ろし、倉庫に移すのだが、

「護衛の皆さん、ご苦労様です。休憩してください。宿にいてもいいし、好きに町を回ってもかまいません」

エドガーはアルファを含む護衛たちにそう勧め、商会の部下たちにも言った。

「それと、君たちもゆっくり休んでいいぞ」

「え? 荷物の移動はどうするんです?」

 部下が驚いて尋ねると、エドガーは返事の代わりに、

「移動はお前が一人で全部やれ」

とソフィアに命じた。

「お嬢様が!? それは無理ですよ!」

「我々だって一人じゃきついんですから……!」

 部下たちは抗議したが、エドガーは冷酷な表情でソフィアに言った。

「お前は下働きだ。この中で一番下だからな。それくらいはしてもらう。できないならこの町に残って――」

「いいえ!」

 ソフィアは強い口調でエドガーの言葉を遮った。

「やります。これが商売を学ぶのに必要なことならば」

 睨むように言い返すソフィアに、エドガーは眉根を寄せ、隊商の部下たちと支店の従業員たちに念を押した。

「ソフィアを手伝った者は減俸するぞ。わかったな」

 渋々、部下たちは解散し、護衛たちもそれぞれ散らばっていく。アルファもそれについて行きながら、後ろを振り返った。下ろすべき商品が載った馬車の荷台に近づいていくソフィア。ベラがその後ろを追うが、

「ベラ。君に頼みたい仕事があるんだ。ついて来てくれ」

とエドガーに言われ、彼女は困った顔をしつつも仕方なく、エドガーについて支店の建物の中に入っていった。エドガーが言う仕事とは何かわからないが、おそらくは、ベラにソフィアを助けさせないための口実でしかない。

 どうして娘にそんなにまで厳しくするのだろう。いや、厳しいを超えて無茶だ。大の男でさえきつい仕事を押し付けるなんて……

 ソフィアは荷台の大きな木箱を抱きかかえた。彼女は例によってふらつきながら、荷をいったん地面に下ろし、また持ち上げて倉庫に運ぼうとする。今にも倒れそうなその様子は、とても見てはいられない。

「貸してください」

 アルファは駆け寄り、戸惑っている彼女の手から箱を奪い取った。

「あ、アルファさん?」

「ソフィアさんは小さめの荷物を運んでください」

「手伝ってくださるんですか? でも、お父様はわたし一人でやれと……」

「それで怒られたら、『止めたのに無理矢理手伝われた』って言えばいいですよ」

 倉庫に箱を運ぶアルファに、ソフィアはまだ心配そうな声で言う。

「でも、わたしを助けたら減俸って――」

「会長は商会の人たちにはそう言いましたけど、オレは直接言われてないから」

 次の荷物を下ろしに掛かるアルファに、ソフィアは微笑んだ。

「……ありがとうございます。アルファさんはお優しいですね」

「……」

 何だか照れくさく、アルファは黙って荷物を運んだ。

 優しい、か……

 一部例外があるにしても、大体は男のほうが力が強いのだし、ましてアルファは毎日体を鍛えている。女が力仕事で苦労するのを見ているよりは、手伝ってやるのが当然だと思う。

 そう言えば、故郷の村で――

 籠いっぱいの農作物や水桶を持って歩いている娘たちに道で遭遇すると、アルファは代わりに運んでやっていた。彼女たちも、アルファのことを優しいと言ってくれた。

 けれど……エクルからは意地悪だと言われているし、エクルとの様子を見ている母からも意地悪だと叱られる。一番身近な人間からそういう評価をされるのだから、自分は優しくなんかないのだろう。

 つまり自分は、裏表があるとか、外面そとづらが良い人間ということになってしまうのだろうか。

 うーん……やだな、それ。

 改めて自分の性格を考えて、不思議に思う。目上の人間に敬意を払うこと以外は、別に意識して態度を変えているつもりはないのだけど。

 ソフィアはアルファに言われた通り、小さい荷を運び始めた。小さいとは言え、彼女にはそれなりの重量であり、楽ではなさそうだったが、重いとも疲れたとも、泣き言は一切言わなかった。

 どうにか荷物の移動を終えて、ソフィアはアルファに何度も礼を言い、父エドガーのいる支店の建物に入っていった。

 アルファも他の仲間たちのように休憩に入ろうかと思ったが、ソフィアとエドガーのことがどうも気になってしまい、迷いつつ建物の中に入った。

「隊商の護衛の方ですね。どうぞお座りください。お飲み物をお持ちしますので」

 居合わせた支店の従業員に促され、アルファは玄関右脇の小空間に置かれたソファーに腰を下ろした。ちょうどアルファが座った位置の正面に廊下が伸びており、左右にいくつか部屋の扉が見える。

 少しして、出された林檎の果実水を飲んでいると、すぐ近くの部屋からだろうか、やや大きな声が聴こえてきた。

「お前はシェパ産とチュア産の見分けもつかないのか。商人ならそれがどこの毛織物かくらい、一目でわからなければ失格だ」

 エドガーの声。かなり不機嫌そうだ。

「初めからわかる人がいますか?」

と、反論するソフィアの声。

「わたしもこれから勉強すれば――」

「各地の毛織物の特色については、屋敷にある私の蔵書に書かれている。お前が本気で商人を志しているならば、それくらいは言われなくても読んでおくべきだった」

 しばらくして今度は、怒鳴り声が響いた。

「お前はそれくらいの金勘定も暗算できんのか!?」

「だから! まだ慣れていないだけです! できるようになりますから!」

「口ばかり達者になりおって! お前に商才なんぞない! やるだけ無駄だ……!!」

 声が途絶えてからややあって、ソフィアが部屋から出てきた。ソフィアは薄っすらと目に涙を浮かべ、俯いて扉前で立ち尽くしていた。

 そこからはソファーに座っているアルファが見えるはずだが、気づく気配はない。アルファもまた、盗み聞きしてしまった――と言うほど耳を澄まさなくても聞こえたが――後ろめたさもあり、声を掛けられなかった。

 ソフィアは部屋の前から立ち去らず、何を思ったか、自ら閉じた扉をわずかにまた開き、中を覗いた。

 部屋の中にはまだ、エドガーの他に支店の人間もいるらしい。話し声がする。

「え? 会長、毛織物は予定の半分しか大市に持って行かないのですか?」

「ああ。パード高原の羊毛が不作だという情報が入った。しばらくすれば値が上がるだろう」

「なるほど。それまで倉庫で寝かせておくわけですね」

「それから……先ほど少し店のほうを見てきたが……価格の設定がちょっと高いのではないか?」

「それは……やはり魔族の影響で流通に経費がかさんだりしていますからね。仕入れ値も上昇して……」

「それはわかるが、食料品の値段だけでももう少し下げてくれ。あれでは貧しい家庭が飢えることになる。赤字すれすれでもかまわん」

「……わかりました」

 扉の狭い隙間から覗きながらその会話を聞いているソフィアの表情は、尊敬と誇りに満たされていた。先ほどまで父からけなされ、しゅんとしていたことなど、もはや忘れてしまったかのように。

 

 *

 

 夜遅く、エクルは仕事をようやく終えて屋根裏部屋に戻り、寝台に倒れ込んだ。

 ルートホール家のメイドになって十日。この部屋は、毎日わずかな暇を見つけては少しづつ片付け、ずいぶん過ごしやすい空間に変わったが、エクル自身は既に身も心も疲れ切っていた。

 ルートホール夫人はやたらと人使いが荒いし、ステラとリタはどういうわけなのか何かにつけて嫌がらせをしてくるし、ルッカは無愛想だし……

 この屋敷は母一人娘一人なのに、なぜ三人もメイドが必要なのかとエクルは最初疑問に思った。

 けれど、夫人もステラも頻繁にお茶会を開くし、一日に五回も六回も着替えたりする。肩揉みを日に一時間以上課すし、とにかくメイドの仕事は増えるのだ。

 夫人がどうやって生計を立てているのか謎だったけれど、夫人には亡夫の残した不動産がサーチスワードの一等地にあり、何もしなくても収入を得られるらしい。

 無駄に贅沢しないで少しは貧乏人に施してやればいいのに――とは、ルッカのげん

 ルッカはルートホール家にかなりの不満を持っているらしい。基本無口だが、ルートホール家の悪口に繋がるような話は自らエクルに聞かせてくれる。

 ルッカはこの屋敷の他の人間たちとは違い、エクルに悪い感情までは抱いていないようだ。けれど味方というわけでもなく、エクルの相手をするのは面倒くさそうで、かなりつれない。

 ちなみにルッカからの情報だが、夫人には実はステラの上に娘がもう一人いて、この家で唯一まともな人間だったそうだ。婿をもらっているけれど、母と妹の性格がひどいので、夫を哀れに思った彼女はあれこれ理由をつけて別居し、こちらには滅多に顔も出さないという……

 今エクルを最も悩ませているのは、ステラだ。

 リタもエクルに嫌がらせをしてくるし、エクルを良く思っていないのは伝わってくるけれど、彼女はよくステラと一緒にいるから、おそらくその影響だろう。

 嫌がらせ――

 最初は、気のせいだと思った。気のせいだと思いたかった。

 そう簡単に人を悪く思うものじゃない。大体、嫌がらせなんてされる覚えもないし、向こうにも意味がないだろう、と。きっと、まだ自分が仕事に慣れていなくて上手くできないから、いろいろ厳しく教えようとしているのだろう、と。

 ところが、日が経ち、エクルが少しずつ仕事をこなせるようになっていっても、ステラたちから感じる悪意は消えなかった。

 これはほんの一例だが――

 

 ある日、エクルが夫人に頼まれて廊下を掃除していると、ステラから庭に来てほしいと声を掛けられた。エクルはまだ掃除の途中だと答えたが、ステラはいいから来てちょうだいと言う。

 逆らえずに庭に行ってみると、木を植えるから穴を掘るようにと命じられた。とにかく深くと言われて、足元を泥だらけにしながら固い土をスコップでひたすら掘っていると、そこに夫人が怒鳴り込んできた。

「うちの自慢の庭園に何をしますの!? しかも廊下のゴミもほっとらかして……!!」

「え? それはステラお嬢様が――」

「まぁ! ステラのせいにするんですの!? なーんて根性の腐れた娘ですの……!?」

「ちょ、ちょっと聞いてください、私は――」

「言い訳なんて聞きたくありませんの! 黙って真面目に働くんですのよ! このままではいつまでも借金が減りませんのよ……!」

 その時ステラはリタと共に、エクルの叱られる様子を窓から眺めながら、笑っていた。

 

 そして今日。

 エクルは夕刻よりだいぶ早い時間にステラから厨房に呼び出され、スープを作れと言われた。

 普段はルッカが料理担当だが、今日彼女は別の仕事で忙しいので、先に一品だけでも作っておいてほしいとのことだった。

 食事は、母が忙しい時に時折作る程度だった。久し振りだから上手くできるか不安だったが、エクルは心を込めて調理した。村で日頃食べたり作ったりしていたのはソーラレア料理が多かったけれど、ルナリル式の料理にも慣れ親しんでいる。村では皮ごと食べるジャガイモやニンジンも丁寧に剥き、味付けにも注意を払った。

 味見をしてみると――会心の出来だった。食材がいいということもあるだろうけれど、これまで自分が作ったスープの中で一番美味しかった。

「ワタシにも味見させてほしいですわ。なるべく多めに」

 ステラから声が掛かった。彼女はまるでエクルを見張るかのように、ずっと厨房にいたのだ。

 エクルはこのスープならきっと気に入ってもらえるだろうと期待しながら器によそい、匙と一緒にステラに渡した。

 ところが、ステラは器の中のスープをしばし注視した後、

「こんなモノ飲めませんわ……!」

と叫びながら、エクルの顔に向かって器を投げつけた。

 スープが顔に降り掛かり、器が額に当たった。熱さと痛みにエクルは呻き、額を押さえ――これにはさすがに黙っていられなかった。

「な、何するんですか!? いくら何でも――」

「こんな不味いモノを作っておいてその態度は何ですの!?」

「そんな、飲んでもないのに――」

「飲まなくてもわかりますわ! まったく不愉快なメイドですわね……!!」

 ステラは怒りながら去っていった。

 どうして……?

 エクルは厨房にあったタオルで顔を拭ったが、またすぐに濡れてしまった。涙のせいだ。

 何でここまでされなきゃいけないの……?

 一生懸命仕事してるのに。慣れてきて、自分ではこなせるようになってきたと思っているのに。毎日怒られるばかりで……

「アンタ、ここで何してんのさ?」

 エクルが泣きながら床に飛び散ったスープを雑巾で拭いていると、厨房にルッカが入ってきた。

「え……ルッカさん、今日は忙しいから私がスープを作るようにって、ステラお嬢様が……」

「はぁ? アタシそんな話聞いてないぞ」

「え……?」

「……これ、アンタが作ったの?」

 ルッカは鍋に入ったエクルのスープを小皿に盛り、口をつけた。

「なんだ、美味いじゃないか」

「ほっ、ほんとですか!?」

 収まりかけていた涙が溢れてきたエクルに、ルッカは真顔で、返事に困ることを言ってきた。

「ステラ嬢は確かに性格が悪い――」

 ……そんなこと言っても大丈夫なの? 

「でも、アンタほど嫌がらせされるメイド見たことないぞ」

「やっ、やっぱり嫌がらせに見えます!?」

「どう見てもな」

 ルッカは籠から食材を取り出しながら、言った。

「アンタ、よっぽど恨みを買うようなことしたんじゃないか?」

 ……そんなこと言われても、身に覚えがないし……

「さっさと床拭いて出てきな。アタシの仕事のジャマだから」

 ルッカはもはやエクルの顔も見ず、夕食の仕込みを始めた。やっぱりつれない。エクルは淋しく思いつつ、『恨みを買うようなこと』について考えみたが、思い当たる節が全くなかった。

 ――そうだ、訊いてみればいいんだ。

 エクルは思い切ってステラの部屋に乗り込んだ。

「ステラお嬢様。私が何かお嬢様の気に障ることをしてしまったなら教えてください。謝ります!」

 リタとお茶を飲んでいたステラは、眉をひそめてうそぶいた。

「――……あら、どうしてそんなこと訊くんですの?」

「……私はここへ来て以来、仕事の手を抜いたことは一度もありませんし、大きな失敗もしていないはずです。でも、お嬢様たちの私への接し方を見れば、私のことを嫌っているとしか……その理由が知りたいんです。理由がわからなければ、私は納得も、自分の悪い所を直す努力もできませんから――」

 エクルは緊張しながらも、思うところを正直に告げて訴えた。ステラは大仰に首を振り、飲んでいた紅茶の器を受け皿に置いた。

「それくらい自分で考えなさい――と言いたいところだけど、そうね、特別に教えてあげますわよ」

 ステラは息を呑むエクルを指差し、断罪するがごとく言い放った。

「アナタなんか存在そのものが気に入りませんわ!!」

 そ、存在って……

 次にリタがつかつかと歩み寄ってきて――

「よくもステラお嬢様に口答えを! まだ仕事いっぱい残ってんでしょ!? さっさと出て行きなさいっ」

 エクルはリタに廊下へと突き飛ばされ、思い切り扉を閉められた。

 

 

 屋根裏部屋で思い出しながら、エクルの目にはまた涙が滲んだ。

 存在さえ否定されて、どうしようもない。

 ……どうしようもないということは、つまりは悩んでも意味がないということだ。体も疲れているし、何も考えずにさっさと休みたかった。

 けれど、眠りは遠かった。悔しさや悲しさが間断なく襲ってくる。

 どうしてこんな目に遭わなければならないのだろう。できるなら逃げ出したい。

 だけど叶わぬことだ。エクルは夫人から、この屋敷の鉄柵の外に出ることを禁じられている。借金を残して逃亡することを警戒されているからだ。

 普通に扱ってくれるなら、逃げようなんて思わないのに。

 それに、逃げたところで行く当てもない……

 エクルは寝台から上体を起こし、心の中で呟いた。

 神様……どうしてこんなことになってしまったんでしょうか……?

 寝台に座ったまま、小さな窓に目を向ける。少しでも外の世界を見たくて――けれど涙で全てが霞んで見える。

 エクルは袖でごしごしと乱暴に涙を拭った。

 こんなことで泣いててどうするの……!?

 自分に問い掛け、叱責する。

 魔族に虐げられている人々のことを思えば、これくらいのことは何でもないはずだ。これくらいのことに耐えられなくて、どうやって魔族と命懸けの戦いができるだろう。

 ――そう思うと、悩むのが馬鹿馬鹿しくなってきた。そして、いくら苦しいからといって、自分のことしか見えなくなっていたのが恥ずかしくなった。

 いつでも、どこにいても、自分は光継者だという事実を忘れてはいけないのだ。

 今の状況が一生続くわけではない。長くても数ヵ月。借金を返済できるまで、どうにかやっていこう。

 ……今頃アルファはどうしてるかな……

 エクルは毎日のように考えてしまう。アルファも仕事で苦労しているのではないか、風邪でも引いていないか、心配で仕方ない。

 それに、物心つく前から、アルファと顔を合わせない日はほとんどなかった。こんなに長く離れているのは不思議で――淋しかった。

 心配で淋しいけれど……でも、アルファはきっと頑張っている。つらいことがあっても簡単に諦めるような性格ではないし、口は悪いけれど、言ったことはちゃんと守ってくれるのだ。

『待ってろ……! すぐ迎えに来るからな……!』

 アルファは必ず来てくれる。だからそれまで自分も――

「よーっし、頑張ろー!」

 記憶の中のアルファに励まされ、エクルは寝台の上で大きく上体を伸ばし――

「ぎゃーっ!?」

 ……ひっくり返って頭から床に落ちた。

「ちょっとエクレシア! うるさいですわ!!」

「今何時だと思ってますの!?」

 下の階から怒鳴るステラとルートホール夫人に、エクルは慌てて謝った。

「すっ、すみませんすみません……!」

 その時ふと――アルファの声が聴こえそうな気がした。

『ホントどんくせぇな、お前は』

 エクルはつい、小さく呟いた。

「そんなことないってば……」





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