第15話 闇世の月
「アルファ=リライト。お前はソーラレア王家の血を引いているんだ」
アブレス王子から告げられたのは、予想通りの答えだった。一つしかない答えだった。だが、あまりのことにアルファは言葉が出ない。
「僕は若くして命を落としたが、弟がいた。お前はその弟の子孫なんだ。弟はリライトの姓を名乗り……身分を隠してソーラの村の中に溶け込んだ。それから代々親は子供に、ソーラレアに伝わる剣術を教え、子が成人すると、王家の子孫である事実を明かしていたんだ。けれど、お前の祖父母は、その事実をお前の父に教える前に死んでしまったから……」
そうだったのか……
祖父母が早くに亡くなったことは、アルファも聞いていた。祖父は父が幼い頃に客死したし、祖母はそれよりさらに前に世を去っていた。だから、父に伝えるべきことを伝えられなかったのだ。
「アルファすごい……」
エクルが呆然とアルファを見つめながら呟く。
確かにすごいかもしれない。奴隷の子孫と言われるよりは、王の子孫のほうがいい。まだ信じられないような心持ちだが、悪い気はしなかった。
でも、事実として素直に信じても、単純に嬉しいだけではない。
先祖だというソーラレア国王がかつて君臨していたソーラレア城は、カストルを経て、魔神ヴェルゼブルの根城となってしまっている。ソーラレアの国土全体に魔族が蔓延していると言われているし、ソーラレアは滅んだも同然の国だ。
王が国を守れなかったからだ。自分がその直孫だと思うと……責任と言うか、複雑なものを感じずにはいられなかった。
「あ、けど……アルファがアブレス王子の光継者なのは、その血筋だから? 私は――?」
エクルが首を傾げながらアブレス王子に尋ねた。
「エステルには兄弟はいなかったが、従兄がいた。エクレシアはその子孫なんだ」
「……え?」
エクルがきょとんとした。アルファもだ。アブレス王子は今、ものすごく不可解なことを言った。
「兄弟いないって――王子と双子だろ?」
アブレス王子に弟がいたなら、それはエステル王女にとっても弟であるはずで、エステル王女の従兄ならアブレス王子にとっても従兄のはず――
ところが。
「僕とエステルは、実の兄妹ではないんだ」
アブレス王子は再び、歴史を覆す衝撃の事実を口にした。
「エステルは、ソーラレア王直属の大神官の孫娘だった。僕たちに血の繋がりはない。けれど二人ともルナリル国王に育てられたために、兄妹になったんだ」
「じゃ、じゃあ何で双子ってことになってんだ? 養子とか、義理の兄妹とかまではまだわかるけど、それを双子って言うには無理あり過ぎるだろ」
「カンバート王がそういうことにしたんだ。双子ということにしなければ、僕とエステルの命を守ることができなかったから――その辺の解説もかなり長くなるから省略する」
うーん、謎過ぎる……
アブレス王子は納得できずにいるアルファたちに構わず、
「で、これからだが。あの剣のことはいったん置いておいて、早く三星臣を見つけることだ」
と話題を切り替えた。
三星臣。世界を救うため双星と運命を共にする仲間。
「ああ……エステル王女が探せって言っていたけど……」
「僕とエステルに従ってくれた三人は、第一星臣ラスター、第二星臣ミモザ、第三星臣ガレナ……お前たちは、彼らの力を継ぐ者たちを仲間にしなければならない」
ラスター、ミモザ、ガレナ……初めて聞く名なのに、アルファは不思議と懐かしさを覚えた。
「でも、三星臣の手掛かりって何もなくて……それで、とりあえずこの町に来たんだけど……」
エクルはそう言いながら、ぱっと顔を明るくした。
「あ、もしかしたらアブレス王子、三星臣がどこにいるか知ってるんじゃ――」
「三星臣を探す手掛かりならあるぞ」
「手掛かり?」
「階段の一番下の段の、向かって右側の一番隅を見てみろ。石が外れるはずだ」
アルファが転げ落ちた隠し階段のことらしい。
アルファとエクルは十数歩戻り、アブレス王子に言われた場所を調べてみた。階段を構成していた石がグラグラと動き、二つ三つ外れた。その中は小さな空洞となっており、一冊の本が入っていた。手の平くらいの小さな本で、白い革表紙には『光の書』と記されている。
「これって、ソーラの教会の床下にあったのと同じ――」
アルファは本を手に取りながら、気がついた。
「『光の書――第一星臣の巻』?」
よく見るとこちらには、『光の書』という題名の後ろに『第一星臣の巻』とあった。
「ソーラにあったのは、『運命の巻』って副題だったよね」
とエクル。
少し違うらしいが、とにかく開いてみよう。
アルファは深呼吸して目を閉じ、本を開いた。
……あれ?
しばし目をつぶったまま待っていたが、アルファは恐る恐る目を開けた。
手の中の本は開かれているが、アルファが予測していた事態は起こらなかった。
『運命の巻』を開いた時には、眩しい光と共にエステル王女が現れたから、てっきり今回もそうかと思ったのだが……
エクルはアルファと同じ想像をしたらしく、まだぎゅっと目を閉じている。
「何も起きないみたいだぞ」
「えぇ? あ、ほんとだ……」
エクルに声を掛け、少し間の抜けた反応を楽しみつつ、アルファは『第一星臣の巻』の中身に目を落とした。
『第一星臣ラスターの後継者は、自ら共に行くことを望むであろう。』
最初の頁にその一文が記されていた。どういうことなのかと思いながら、アルファは頁をめくる。
だが、白紙だった。横から本を覗き込んでいるエクルも首を捻る。次々にめくってみるも、薄い本は最後の頁まで白紙だった。
「これのどこが三星臣の手掛かりになるんだ!?」
アルファは思わず、喧嘩でもするような勢いでアブレス王子の所まで駆け戻った。
「ちょっとアルファ! 落ち着いて!」
エクルも急いで追ってきた。アルファは別に怒っているというほどではなく、純粋に疑問が抑えられなかっただけなのだが。
アブレス王子のほうは落ち着き払った様子で答えた。
「その言葉は予言のようなもの。お前たちが光継者として正しく前進していけば、いつかは成就する――つまり第一星臣が仲間になる、ということだ」
「そんなこと言ったって……その予言じゃ何の糸口にもならないぞ。名前とか出身地とか書いてあるならともかく……」
「確かに、言葉自体には役立つ情報はないかもしれない。でも光の書を集めるんだ」
「集める? 他にも光の書があるのか?」
「全部で七冊だ」
「七冊も!?」
これがあと五冊もあり、それを揃えなければならないというのか。
「光の書は光継者にとって必要なもの。そしてまた、苦労して集めていく過程はお前たちを成長させてくれるだろう。そうやって旅していくうちに、必ず三星臣に巡り会えるはずだ。三星臣とは出会う運命になっているのだから」
運命、か――
何でもその単語で済まされるわけではないが……出会えるというなら信じよう。
「じゃあ、あとの五冊はどこに――」
「僕は知らない。自力で探すんだな」
「おい……」
世界は広いのに、どうやって探せと……所在のわからない本五冊を手に入れなければならないなんて、三星臣の手掛かりになるどころか、もっと遠くなってしまったような気が――
いや、それでも三星臣とは出会う運命なのか。そう思うことにしよう。深く考えたら負けだ。
エクルもアルファ同様、アブレス王子のにべもない返答にがっかりした顔をしていたが、何を思い立ったか、
「あの、アブレス王子……訊きたいことがあるんだけど……」
と切り出した。
「なんだ?」
エクルは少しためらうように尋ねた。
「霊輝光って、どうすれば目覚めるの……?」
聞くなり、アブレス王子は申し訳なさそうな顔をした。
「それは言葉では説明できない……語ってわかるものでもないし……エステルから受け継いだお前の力は、特に難しい。そう簡単に使えるようにはならないだろう」
「え? 特に難しいって……?」
エクルが怯えるようにまた質問した。それはどういうことなのか、アルファも気になる。
アブレス王子はエクルに微笑んで言った。
「裏を返せば、それだけ強力ということなんだ。だからエクレシア、失望することはない。そうだ、この際せっかくだから話しておこうか――双星と三星臣は光の天使の力を得られるが、三天使の光を同時に操ることができるのは、エステルとその光継者であるエクレシアだけだ」
同時に操る? エクルだけ?
「三星臣はそれぞれ、光の三天使のうち、自分と最も『波長』が合うひとりからしか力を借りることができない。例えば、波長が最も合うのが赤の光を司るフレイムなら、赤の光しか使えない。僕や僕の光継者であるアルファは、三天使全員から力を借りられるが、単発でしか使えない」
「……待てよ。それってつまり――」
アブレス王子の言わんとしていることをアルファはおおよそ理解したが、次の補足に止めを刺された。
「霊輝光使いの中でも、エクレシアは別格だ。力が目覚めれば、エクレシアは人類で最強になれる」
……は?
「ウソだろ!? こんなドジでトロくてマヌケなエクルが最強!?」
「嘘を教えてどうなる? 実際、エステルは僕より強かったぞ」
あり得ない……
「何と言うか……他の霊輝光使いは、エクレシアが覚醒するまでの守護者に過ぎない。言うなればそう、オマケみたいなものだ」
そこまで言うか……!?
アルファは打ちひしがれ、もはや声にならなかった。王の子孫であるということが誇りならば、エクルに負ける屈辱はその誇りより何倍も大きい。
「そんなまさか……私がそんなに強くなれるなんて……」
エクルは俯きがちにそう言った。先ほどのアルファの質問――エクルの悪口に他ならない発言を無視してしまえるほどに、自分でも信じられないようだ。
「――光の三天使は、覚醒したエステルを祝福して『闇世の月』と呼んだ」
アブレス王子はエクルを励ますように、力強く言った。
「その光継者であるお前も、きっとなれる。『夜のごとく暗き世界に輝く、大きな光』に――」
戸惑いを残しながらも、エクルが顔を上げた。アブレス王子は再び微笑み、エクルを真っすぐに見つめた。
「エステルも初めから力を使えたわけじゃない……なかなか目覚めずに、ずいぶん悩んだこともあったんだ。だから心配することはない」
それはそれは優しい表情だった。アブレス王子とそっくりなはずのアルファが、自分にはこんな表情はできないと思うくらいに。
アルファにとっては、ひどく妙な光景だった。自分の目の前で、自分とよく似た幽霊が、エクルに顔を近づけて、愛おしそうに見つめている。彼らの顔と顔の距離は、頭一個分もない。
ちょっと待て。何でそんな――
見てるこっちが恥ずかしい。アルファは顔が熱くなった。
「あ、あの……?」
エクルはアブレス王子の眼差しに耐えかねたように、半歩後ろに下がった。その頬を真っ赤に染めながら。
すると、
「あ、すまない……」
アブレス王子も慌てて後ろに引き、やはり顔を赤くして言った。
「あんまりエステルに似ているんでつい……僕はここから出られなかったから、もう百二十年逢っていないし……」
それでか、とアルファは思った。そんなに長いこと会っていなかったら、懐かしくてたまらないのも当然だろう。まして双子の妹なら――いや、血の繋がりはないのだったか。それでも、兄妹として育ち、世界を救う戦いに共に身を投じた仲間であれば、それなりの情の繋がりというものがあるのだろう。
けれど、エステル王女に重ねてエクルを見つめたアブレス王子のあの瞳は――『妹』とか『仲間』に対するものとは、どうも質が違うような……
では何なのかということは、この時のアルファにはまだ、よくわからなかったのだが。
それより、他にまた気になる発言があった。
『ここから出られなかった』と。
「ここで百二十年もオレたちを待ってたって言ったけど――ただ待ってたんじゃなくて、出たくても出られなかったってことか?」
アルファが尋ねると、アブレス王子の表情は目に見えて沈んだ。
「……そうだな。僕はヴェルゼブルとの戦いで死んだ後――気がつくとここにいた。不思議な力が働いて、どう足掻いても、この部屋から出ることは叶わなかった。その回廊にさえ、出ることができない」
「なんでそんな……」
もし百二十年もこんな地下に閉じ込められたとしたら、アルファはきっと頭がおかしくなってしまうだろう。この空間は個人の部屋としては広いが、暗いし床と壁だけで何の面白みもないし、とても耐えられそうにない。
アブレス王子は、
「お前たちに伝えるべきことを伝えるため。それと――贖罪の意味合いもある」
と答えた。
罪を贖う……? 英雄に一体何の罪が……
「僕たちは魔族のない平和な世界を築かなければならなかったのに――果たせなかった。その結果、光継者が使命を果たす時まで、長く人類を苦しめることになったからな……この幽閉はその罰だ」
「罰なんて……! 命と引き換えにしてまで、魔神を封印して世界を救ったのに――」
あんまりだ、と言いたげなエクルに、アブレス王子は首を振った。
「封印では本当の解決にはならない。現に魔神ヴェルゼブルは復活し、魔族は日々勢いづいている。それに――双星が魔神を封印したと言われているが、実際にはエステル一人の力だ。魔神の封印は、三天使の光を最大限に使えるエステルにしかできない芸当だった。僕はエステルの封印が成功する前に、ヴェルゼブルの力で死んでしまったし」
「そうなのか……? 伝承どころか、教科書に書いてある歴史も嘘ばっかりじゃねぇか……」
アルファは愕然としてつい言ってしまったが、後悔した。アブレス王子の表情が、あまりにも悲痛だからだ。
「そうだな。それなのに僕まで英雄扱いされて……心苦しいばかりだ……僕は世界を救うどころか、下手をすれば――」
アブレス王子は言葉を飲み込んだ。
その瞳が微かに揺れるのを、アルファは見た。アブレス王子が何を言い掛けたのかひどく気になったが、訊けなかった。とても訊いていいような雰囲気ではなかった。
と。
突如、アブレス王子の体が白く光りだした。
「あ――」
王子自身が驚きの声を上げる。
その霊体は元から仄かに発光していたが、少しずつ輝きが増していく。光が強くなるにつれ、アブレス王子の姿は霞んでいく。
「アブレス王子!?」
何事かとアルファとエクルは焦ったが、当のアブレス王子は、微笑を浮かべながら静かに言った。
「どうやら、やっとあの世に行けるみたいだ……」
……たぶんアブレス王子は、アルファたちに会い、語るべきことを語り、ここにいた意味を全うした。『贖罪』の時が終わり、解放されるのだ。
アブレス王子はあからさまに喜びを表現しているわけではないが、ずっとこの時を待ち望んでいたのに違いない。
「もっとたくさん話してやりたいことがあるけれど、僕が語らずとも旅の中で全てを知っていくようになるのだろう」
消えゆくアブレス王子は瞳に強い思いを込め、アルファとエクルの顔を見た。
「……ここに来てくれてありがとう。これからも頑張るんだ。僕はいつでもお前たちを見守っているから」
アブレス王子の姿は白く輝く光の中に溶けて消え――
「いつかまた会おう――」
別れの挨拶と共に、光も、アブレス王子の気配も、完全に消え去った。
部屋の中は薄暗くなった。アルファはもちろん光玉を持っているのだが、アブレス王子の去り際の光が眩かったために、元よりも暗くなったように感じられた。
「アブレス王子……」
エクルが名残惜しそうに、王子が先ほどまでいた辺りを見たまま呟いた。
アルファも心残りがあった。魔神ヴェルゼブルとの決戦がどんなだったのかとか、どうやって剣神と呼ばれるほどの腕を身につけたのか等、アブレス王子に訊きたいことはまだ山ほどあった。
だが、それを残念に思うよりも、アルファには引っ掛かることがあった。
先ほどアブレス王子から聞かされた話の一つが、心の中にわだかまりを残していたのだ。
そしてそれは、アルファが自覚するよりも大きかった。
*
気がつくと、アブレスは見知らぬ場所に立っていた。
そこは、花畑だった。見渡す限りの花畑だ。何十――いや、何百種類もの花々が色鮮やかに、どこまでもどこまでも地面を覆い尽くしている。
上には澄んだ青空が広がり、穏やかな光が空間を満たしている。
「ここがあの世――霊界なのか……?」
アブレスは驚きを禁じえなかった。花々の芳香が鼻腔をくすぐり、暖かで心地良い、夢のような場所だ。
肉体が滅び霊魂となっても、生きている時と同じように匂いや温度を感じられる――そのことは、幽閉されていた地下室でも確認済みで、アブレスは地下のカビ臭さや冬の凍るような寒さに耐えて過ごしたが……
ここはなんて、美しい世界だろう。
アブレスは屈んで、足元に咲いていた薔薇の花々を眺めた。アブレスがいたサーチスワードの町の気候では、もう少し季節が進まなければ咲かないはずだが……ここは霊界だ。不思議なことではないのかもしれない。
アブレスは薔薇に手を伸ばした。
……あの地下では、匂いや温度は感じられても、物体に触ることはできなかった。あの地下にあった物体と言えば、床と壁と天井を成す石くらいしかなかったが、アブレスが触れようとすると、アブレスをそこから出させまいとする結界のような不思議な力に阻まれた。壁を這っていた蟻を捕まえてみようとしたこともあったが、蟻はアブレスの手をすり抜けてしまった。霊体では、地上の物質で構成されたものに触れることはできないらしかった。
だが、この霊界に咲く薔薇には、触れることができた。花弁は薄くしなやかで瑞々しく、棘はチクチクと――指先はしっかりと薔薇を感じた。
五感というものは、生前も死後もほぼ変わらないようだ。むしろ死後のほうが研ぎ澄まされているかもしれない。……霊にまつわる感性を第六感と呼ぶならば、霊体が受ける感覚を五感を呼ぶのは適切なのか不明であるが。
そして、五感のうち、味覚に関しては実証できていない。人が食物を摂取する意味は、味を楽しむ以上に肉体の機能を維持するためであるが、肉体を失った霊は何も食さずとも問題がない。アブレスは何故か空腹を覚え苦しんだこともあったが……食べないとしても、それ以上死にようがなかった。そもそも、あの地下室に食べる物などあるはずもなかった。
……いや、一度だけ、味を感じたことがあったろうか。
アブレスは死んでからまだ間もない時――あの牢獄に等しい地下室で、自分を呪ったことがあった。
光の天使の力を授けられながら使命を果たせず、そして大切な仲間たちも、最愛の人も守れなかった。
己の不甲斐なさに強く唇を噛むと、錆びた鉄の味がした。唇が切れ、出血したのだ。霊の体でも、痛みを感じるばかりでなく、傷つき、血も流れるのかと驚いたものだった。
アブレスは屈んだまま、目の前に広がる花の世界を再び眺めた。
確かに美しい。
けれど、ここにはアブレスの他、誰もいない。
これでは、気が狂うほどに孤独だった地下の牢獄と、何も変わらない――
「アブレス様――!」
不意に、声が聴こえた。懐かしい声だ。
アブレスは声のしたほうへと目を向ける。
はるか前方、虚空に光が生じ、二つの人影が現れた。黄緑色のローブに包まれた短躯に、緋色の武闘着を纏った長身。
それは、かつて命を預け合った仲間たち。
「ミモザ……!! ガレナ……!!」
アブレスは立ち上がり、二人の名を大声で叫んだ。
「アブレス様……!!」
ミモザとガレナはこちらに向かって飛んできた。空を鳥のように。風よりも速く。鳥が獲物を狙う様さながらに急降下し、アブレスの目の前に降り立った。
二人は涙で顔をくしゃくしゃにしていた。アブレスもまた、再会の喜びに涙を堪えることができなかった。
ミモザとガレナはアブレスの前に片膝をつき、頭を垂れた。
「ようやくお会いできた……」
「百二十年、この時を衷心よりお待ちしておりました……」
アブレスも膝をついて屈み、二人の顔を覗き込むようにしながら言った。
「顔を上げてくれ……心配を掛けてしまってすまなかった……」
二人に会い、アブレスの胸には懐かしさと慕わしさが溢れ――それから、後ろめたさが、悔悟の念が押し寄せた。目には、先ほどとは違う種類の涙が込み上げる。
「ミモザ、ガレナ……本当にすまなかった……ヴェルゼブルとの決戦で僕は……君たちを死なせてしまった」
昨日のことのように思い出されるあの戦いの結末が、胸を抉る痛みとなってアブレスに襲い掛かってくる。
「僕が……王子としての立場と、天から与えられた使命を肝に銘じ、己を律していれば……少なくとも君たちは死なずに済んだ……それに僕は、世界を救えなかったばかりか……世界を滅ぼしかけた」
そう、光継者たちには話せなかったが、一歩間違えば、アブレスのせいで世界が滅んでいたかもしれないのだ。
あの時、アブレスは――
「申し訳ない……どんなに謝罪しても償えない……」
アブレスは声を詰まらせながら、再度二人に詫びた。
「こんな人間に……君たちの主君たる資格はなかったのに――」
「何をおっしゃるのですか……!!」
思いがけずガレナから怒鳴りつけられ、アブレスは仰け反りそうになった。
「資格って何です!? 私がお仕えすると決めた以上、何があろうとアブレス様は主君です……! 臣下は主君と栄枯盛衰を共にするもの! 主君を失った臣下が生き長らえて何になりますか……!?」
ガレナの気質は生前と変わっていなかった。誰が相手でも物怖じせず、自分の思いを主張しようとするところも、義理堅いところも。
アブレスが呆気にとられ、言葉を返せずにいると、ガレナは怒りの表情を笑顔に転じて言った。
「私は、最期までお供できたことを誇りに思っています。当然、これからもご一緒させていただきますから」
晴れやかで勇ましい笑み。一番、ガレナらしい表情だ。
「アブレス様……百二十年前のことを、ずっと気に病んでおられたのですね……」
ガレナの横で、ミモザが静かに言葉を紡いだ。
「我々はアブレス様のお心を――計り知れないとしても、少しは理解しているつもりです。恐れながら……もし、あの時アブレス様がなさったことが過ちであったとしても、そしてそれを天が責められたとしても……どうして我々に責めることができるでしょうか……」
相手の心を推し量り、言葉を選ぶようにゆっくりと話す。ミモザもまた、生前と変わっていない。ミモザは控えめで柔和な笑みを浮かべてアブレスに言った。
「私ももちろん、ガレナ共々今後もアブレス様にお仕えいたします」
二人の厚意が、アブレスにはこれ以上なく胸に沁みた。
――百二十年前の後悔は消えないし、自分が情けなくてどうしようもない。だが今は――
「ありがとう。二人とも……」
二人に甘える形になるが、アブレスにはそれしか言えなかった。
アブレスは心から臣下たちに感謝しながら、ゆっくりと立ち上がった。ミモザとガレナも次いで立ち上がる。そして、アブレスはまたこの美しい世界を眺め遣った。
――ミモザとガレナに再会できて、アブレスは本当に嬉しかった。けれど、アブレスが誰よりも逢いたかったのは――
しかし、いくら周りを眺めて待っても、アブレスが期待する変化は起こりそうにない。
「ここには……他に人はいないのか……?」
あまりにも浅ましいことに思えた。こんな愚かな主君を赦し待ち続けてくれた二人に、この質問をするのは。だがそれでも、アブレスは訊かずにいられなかった。
その質問には、二つの意味がある。
一つは純然たる疑問。霊界とは、肉体を失い、霊魂となった人間たちが訪れると言われる世界だ。そこにこの二人しかいないということがあるだろうか。
もう一つは、ある人物との再会を切望する心の、遠回しの表現だった。
「……霊界は非常に広大です。今我々がいるこの花畑の空間は、この世界の微細な一部に過ぎません。実に様々な場所があり、人々の住む町もあちこちに存在しています。ですが……」
ミモザは涙ぐみ、言葉を詰まらせながら答える。
「残念ながら、エステル様はいらっしゃいません……」
英明なミモザは、アブレスが最も知りたかったことを見抜いていた。
「一度、我々の元に、光の三天使が現れて教えてくれたのですが……エステル様も、アブレス様と同じように地上界で幽閉されていると……それがどこかは、教えてくれませんでした……」
『地上』とは、単純に地面の上を指すだけでなく、天や霊界の対義語でもあり、肉体を持って生きる人間の世界を表す。
「そうか……霊界に来れば、逢えると思っていたんだが……」
アブレスは平然を装って答えはしたが、その声は、自分が聴いても悲しいほど力がなかった。
――アブレスは望む時に、光継者の様子を脳裏に映すことができる。だから、ソーラの村の教会で、アルファとエクレシアの前に現れたエステルの姿を見た。だがあれは、エステルそのものではなく、エステルの姿を映し出した光の幻影でしかなかった。
エステル自身はどこかに幽閉されているというのなら――やはりアブレスと同じく贖罪の時を送っているのだ。
アブレスにとって、エステルと離れていること以上の刑罰はない。自分の罪はまだ赦されていないのだ。百二十年閉じ込められたくらいでは、到底贖えるはずもなかった。
しかも、エステルがまだ幽囚の身であるのに、自分だけ先に解放されてしまうなど……心苦しくて気がどうかしてしまいそうだ。
だが、アブレスは辛うじて己の精神を保ち、もう一人、特に会いたかった人物のことを尋ねた。
「……ラスターは……?」
三星臣のうちの残りの一人。アブレスとエステルに、最初に仕えてくれた人物である。
しかし、ガレナが苦しげな表情で首を振った。
「……ラスターも行方がわからないのです……やはり地上にいるそうなのですが……。ちなみに、我々二人はこの世界のいろんな町や集落を巡りましたが、生前に縁のあった人々には、ほとんど会えませんでした。カンバート王や王宮騎士団の団員たち、自分の家族なども探してみましたけれど……何分広い世界ですから、見つけるのは容易ではなくて」
「そうか……」
アブレスはまた、力なく答えた。
エステルとラスター。
アブレスにとって、世界よりも大切だった娘と、誰よりも信頼した臣下。
真っ先に思い浮かべたのはその二人のことだったが、他にも会いたい人はたくさんいた。実の両親、育ての両親、弟、剣の師など……しかし残念ながら、彼らにも会うことは叶わないらしい。
いつかは皆、再会できると信じたいが、待つこと以外に自分は何かできるのだろうか。あまりにも歯痒い。
けれど――
「僕は、百二十年間一人だった。でも、これからは君たちがいるんだ。それがどんなに心強いか」
アブレスはミモザとガレナに微笑んだ。それは間違いなく本音だ。
「そんな……」
「もったいないお言葉です」
いたわしげにアブレスを見ていた二人もまた、微笑んだ。
「僕は来たばかりで、この世界のことは右も左もわからない。だからいろいろ教えてほしいけれど、今僕が一番気になるのは、この百二十年君たちがどう過ごしてきたかだ。聞かせてくれるかい?」
「はい、喜んで」
「えー、まず、我々二人は死んでから、気づいたらこの場所にいて――」
二人の尽きぬ話に、アブレスは時間を忘れて聞き入った。




