第21話 黒魔術
大通りの南側から姿を現したのは、五十は下らない狼の魔物の群れだった。
「……そんな……」
人間たちは愕然と立ち尽くす。
魔物たちも、アルファたちの姿が見えた所でその進攻を止めた。
その狼もどきの群れの先頭に、恐ろしい化物の姿がある。
鋭い金色の瞳を持つ、狼の顔。
その狼の首が――空中に浮いている。
否。首の下、体が黒いローブで覆い尽くされているために、夜陰に溶けて見えにくかっただけだ。顔が白いため、余計に浮き立って見える。
これも人狼の魔族のようだが、先立って町を襲った第一の人狼、第二の人狼とは、印象が全く違う。背丈も彼らよりだいぶ小さく、アルファよりも低いように見受けられる。
だが、そこから感じられる邪気は。
尋常ではない。
霊技で最高潮に高められた第二の人狼の邪気より、数段上。
周辺にいる魔物たちの邪気など、無きに等しい。
と。
獣の吼える声が聴こえた。
短く数回。
第三の人狼のローブの裾から。黒いローブに同化して見にくいが、そこに一匹、真っ黒な狼もどきがいる。
――漆黒の体色以外に特徴らしい特徴がないが、アルファにはそれがあの告げ口の魔物とわかった。
仲間が倒されていく中、自分だけ逃げ出し、より強い者に取り入る。一度ならず二度までも。
黒の狼もどきの身の処し方はある意味正しいのかもしれないが、その小賢しさにアルファは怒りが湧いた。
だが、腹を立てているどころではない。
第三の人狼の値踏みするような視線に襲われ、アルファは息を呑んだ。
「なるほど。私の部下たちを殺したのはあの小僧か」
落ち着いた低い声で、第三の人狼は言った。
声の感じは、人間で言えば老年の手前くらいだろうか。魔族に歳などあるのかわからないし、あるとしても、動物の姿は人間ほど年齢を反映しないから、見た目で判断するのは難しいだろうけれど。
やはりまた黒の狼もどきに告げ口されてしまったようだが、第三の人狼は第二の人狼とは違い、非常に冷静だ。
「まったく……こんな子供にやられるとは。役に立たない連中だ」
冷静というより非情か。淡々と、嘆いてはいるが、悼んではいない。
『部下』という言葉からも、第三の人狼は、第一、第二の人狼より格上だとわかるが……部下というのは哀れむにも値しないものなんだろうか。
第二の人狼には仲間を想う心があったが、どうやら魔族も性格は個体ごとに異なるらしい。
「ルミナス=トゥルスが見つかったら知らせるという話だったから、このラウザー自らわざわざフロムの森を出てこの町の近くで待機していたというのに、届いたのはあまりにも不甲斐ない知らせだった」
ラウザー、という名らしい第三の人狼は、淡々と愚痴をこぼす。
「昼から合わせて、私の手勢はおよそ四分の一が失われた。この損失を思うと頭が痛い」
「よ、四分の一だと……?」
ロバートが戦慄いた。
第一の人狼が率いていたのが約三十匹、第二の人狼が率いていたのが約二十匹。つまり失われた手勢は約五十。それが四分の一に過ぎないということは、ラウザーにはまだ百五十もの配下があるということだ。
今ここにラウザーが引き連れているのがおよそ五十。それでさえ絶望的なのに……
「フロムの森にも……まだ百の魔物が残されている……ということか……」
力なく、団長が言う。
絶望感がより濃くなる。アルファたちは十人にも満たない。何をどうしようと、敵を防ぐことなど――
「とにかく、この礼はたっぷりとさせてもらうが、その前に一つ訊いておきたいことがある」
ラウザーは低い声をさらに低め、人間たちに問うた。
「先ほど非常に強い霊力を感じたのだが、その霊力の持ち主は誰だ?」
非常に強い霊力――アルファの頭にすぐに、幼馴染の少女の顔が浮かんだ。
間違いない。エクルのことだ。
さっきエクルは、聖術を使うために霊力を高めた。それをこの魔族も感じ取っていたのだ。
「部下たちを倒した小僧ではないな。魔法も霊技も使えぬと聞いている」
黒の狼もどきはいろいろ情報を流したらしい。まったく、いい仕事をしている。
「あれほどの霊力を持つ人間はそうはいない……もはや、ルミナス=トゥルスよりもそちらのほうが気に掛かる。放っておけば魔族の脅威になりかねん」
買いかぶりだ。
エクルは魔族にとって厄介でも危険でも何でもない。ただ霊力が強いだけで、まともに使える魔法など一つもないのに。
「さあ、誰だ?」
沈黙が流れる。
人間たちが誰も質問に答えないと、ラウザーは金色の目を、ギロリと光らせた。
「名乗り出る勇気もないか? それとも既に逃げ出してこの場にいないのか? あれほどの霊力を持ちながら、とんだ腰抜けだな」
見くびるな。
声に出すわけにはいかないが、アルファは心の中で反論した。
エクルはすごい勇気を持っている。戦う力もないのに、町の人たちを守るために魔物に立ちはだかったのだから。
「まあいい。口を割る気がないのなら時間の無駄だからな」
ラウザーは剛毛に覆われた太い腕をローブから出し、その胸の前でかざした。
「天より地に堕ちし者よ
血の契約に因りて 我は其の力を求む
汝が力 得ること叶わば 我は汝に 贄を捧がん」
朗々と流れるラウザーの声に従うように、ラウザーの手に、見えざる力が集い、光が生じた。黒みがかった光が。
魔法だ。
ラウザーは魔法を使うのだ。
大通りに整然と並ぶ魔物の群れの先、遠くに南門が見える。正確には、南門だったものが。
門はなくなっていた。周囲の壁ごと、抉り取られたように。
アルファたちが宿の前にいた時に爆音が聴こえてきたが、それはおそらく、ラウザーが爆破の魔法で南門を吹き飛ばしていたのだ。
今、目の前でラウザーの力が膨れ上がっていく。
そのあまりの禍々しさに、アルファは戦慄した。こんな魔法は、見たことがない。まさか――
「黒魔術……?」
アルファは呆然と呟いた。
黒魔術。悪魔の力を借りて行使する魔法。人間の世界では禁忌とされている術。
悪魔とは、神に反逆した天使たちのことを指す。つまり堕天使――『天より地に堕ちし者』だ。
悪魔たちは、神が創造した人間と世界を破滅させようとするため、同じく人間を滅ぼさんとする魔族に力を貸し与えるのである。
アルファは目を凝らしてみたが、その姿は見えない。悪魔は『姿を隠し、裏から巧妙に事を運ぶもの』などとも呼ばれる。
天使も見えたり見えなかったりするが、悪魔は霊力の感度が高い人間にも、ほぼ見ることができないと言われている。
今、悪魔はラウザーに身を隠しているのだ。
「愚かなる仇 赦しを請えど 我らは聞かず
尽くること無き我らが憎悪 狂える風と化す
其の風 前途を阻むを切り裂きて
地を血で満たし 海と成さん――」
自警団の面々も怯えている。邪気を感得できずとも、この異様な雰囲気は充分恐ろしいだろう。
「部下たちの仇だ。小僧、まず貴様から死ぬがいい」
ラウザーが、アルファのほうへと手をかざしてきた。
「『死神の鎌』!」
ラウザーの手から、黒魔術が放たれた。空間が歪んだように見え、一筋の鎌鼬が、アルファに向かって凄まじい音と力を伴って飛んでくる。
喰らったら、死ぬ。
そう直感したが、アルファの足は動かなかった。
霊力を感得する力が、逆に災いした。圧倒的な魔力の前に、まるで金縛りにあってしまったかのように動けない。
だが、アルファは見た。
父アルーラが、体ごと自分に手を伸ばしてくるのを。
父はまた、アルファの盾になろうとしている。黒魔術の刃を、その身に受ける覚悟で。
だめだ。
父は第一の人狼からアルファを庇って重傷を負い、ただでさえ、ひどく失血している。これ以上負傷したら――
「父さん……!!」
アルファは叫んだ。
体が、動いた。手を伸ばし、魔術から遠ざけるように父を突き飛ばす。
同時に、アルファの左脇腹を、鎌鼬が掠めた。
刃以上の鋭さで、アルファの脇腹は裂かれ、鮮血が噴き出した。激痛が奔る。
「アルファぁぁ……っ!」
失いかけたアルファの意識が、父の悲痛な叫びに呼び戻される。
狙いの外れた鎌鼬は、数歩後方、街路樹を上下真っ二つに切り裂いてから消滅した。幹はちょうどアルファの胴ほどの太さがあるが、その木の上部が、大きな音を立てて石畳の上に落ちた。
もしこれがアルファに直撃していたら、即死だっただろう。
「ぐ……っ」
アルファは力なく両膝をついた。うずくまり手で傷口を押さえるが、溢れるように血が流れていく。情けないが、あまりに怖くてまともに傷を見れなかった。
掠っただけの黒魔術の刃につけられた傷は、決して浅くない。
「アルファ! しっかりしろ……!」
父は、傷口を押さえるアルファの手に自分の手を重ねながら、アルファを励ました。だが、その表情はひどく動揺している。
ふと、アルファの耳に、石畳を駆ける小さくも早い足音が聴こえてきた。同時に、自分を呼ぶ、よく知った声が近づいてくる。
「アルファ……!」
それは、幼馴染の声だ。涙交じりの。
幻聴――かと思ったが違う。
エクルがいる。ここにいる。
アルファの所に駆けてきて、アルファの怪我を見る。その目から、大粒の涙がポロポロと溢れ出す。
町の人たちと一緒に、宿に避難したのではなかったのか。どうしてわざわざこんな所に来たのか。危険だとわかっているはずなのに。
怒ってこの場からエクルを遠ざけたいところだが、今アルファにはそれだけの力もなかった。
「愛に溢るる 我らが主よ
我 身も魂も主に捧ぎ 唯願う 主の御手 我と共にあらんことを」
うずくまるアルファの傍らで、エクルが治癒の聖術の詠唱を始めた。泣きじゃくるのを堪えているような、何を言っているのかが辛うじてわかるような、震える声だ。
バカ。一度も成功したことないくせに。そんなんじゃ、なおさらうまくいくはずねぇだろ。
「……オレは……大丈夫……だか、ら……」
父とエクルを少しでも安心させようと、アルファはやっとでそう口にした。痛みのあまり、まともに声が出ない。エクルは聴こえていないように、詠唱を続けている。
「聖術か! なるほど、先ほどの霊力の持ち主はその小娘だったわけだな」
ラウザーが感嘆するような声を上げた。
「よし、まとめて灰にしてやろう」
ラウザーが再び詠唱しながら、力を高め始めた。
「天より地に堕ちし者よ
我は汝を讃えて崇め 其の力 与わるを欲す」
また黒魔術を使うつもりだ。
まとめて、か。石造りの市壁を吹き飛ばすような術が使えるラウザーだ。その気になればアルファたちを全員、一度に殺せるだろう。それを、あえて最初はアルファだけを狙ったのは、他の人間の恐怖心を煽って楽しむためだったのかもしれない。
――失われていく血液。まともに今の状況を考えることも、アルファにはできはしない。ただ、魔族の動向からは目を離すまいと、苦痛に歪めながらも顔を上げていた。
父が、アルファの血に濡れた手で、自らの剣の柄をぐっと掴み立ち上がった。
「お前たちにはこれ以上、手を出させはしない……!」
言うが早いか、アルーラはラウザーに向かって駆けてゆく。
ロバートとサムが、やけくそを起こしたかのように吼えながら、アルーラの後に続いた。
だが、当のラウザーは、かまわず黒魔術の詠唱を続けている。
「隠れし神は 我らを裁けず
人の嘆きて泣くは 我らが心を潤し 叫ぶは 我らが力の糧と成る」
少しも動じず、むしろ笑ってでもいるような表情。
アルーラはラウザーに斬りかかる。
だが、突然、ラウザーの背後の狼もどきが前に飛び出し、アルーラに突っ込んでいく。
アルーラは身をよじってかわしたが、次の瞬間には、サムやロバート共々、十もの狼もどきに完全に囲まれてしまった。
これでは、下手に動くことができない。
それだけでなく、残りの狼もどきたちがラウザーの前に二重三重の列を成して並び、壁となった。
ラウザーが黒魔術の呪文を唱えている間、手下の魔物たちがその隙を守っているのだ。これでは、ラウザーを倒すどころか、近づくことも不可能だ。
狼もどきたちはラウザーを守ることに徹しているらしく、それ以上、アルーラたちにも、アルファたちのほうにも襲い掛かってはこない。
しかしそれは少しも、安全を意味するものではない。
こうしている間にも、ラウザーの邪気が、みるみる膨らんでいく。その手には、黒みを帯びた赤い炎。邪気が高まると共に、炎も大きくなっていく。
エクルの詠唱が、ラウザーよりも先に完了した。光の雨がアルファに降り注ぐ。眩しく優しい雨が、包み込むように。
けれど――
傷が治る気配はない。ほんの少しも。傷を押さえているアルファの手の、指の間から血はこぼれてゆく。




