第20話 絆
神様――
エクルの閉じた瞼に、母と、亡き父の姿が映り、そして、幼馴染の少年の顔が浮かんだ。
一人っ子の自分に『兄』を教えてくれた――時に厳しく、時に優しい――大きな存在。
アルファ……!
心の中で、もう一度その名を呼んだ、まさにその時。
「エクル……!!」
エクルは聴いた。
少年が自分を呼ぶ声を。今、一番聴きたかった声を。
エクルは目を開いた。目の前に、いつも見慣れた、少年の後ろ姿がある。
少年の手にした剣が銀色の尾を引き、向かい来る魔物を斬りつけた。魔物は断末魔を上げ、ばたりと倒れ、動かなくなる。
続けて駆けつけた、野良着を着たボサボサ頭の男と、口髭を生やした逞しい体格の男――少年の父が、伸びている魔物たちに剣で止めを刺した。少し遅れて、自警団の団員たちも到着する。
少年がエクルを振り返った。
「エクル! 大丈夫か……!?」
そう問う少年の顔には、細い切り傷がいくつもあった。身につけている服も、所々斬り裂かれボロボロになって、血が滲んでいた。
「アルファ……」
エクルは少年の名前を呼ぶと共に、涙がこぼれた。拭っても拭ってもこぼれる涙に、顔を上げることができない。
けれど、
「……お前も頑張ったんだな」
アルファの暖かな声に、エクルは心から安堵した。
ジルたちが来てくれた時もとても嬉しかったけれど、今やっと、張り詰めていたものから本当の意味で解放された気がする。
アルファが自分もこんなに大変な状況で来てくれたことが、嬉しくもあり、やはり申し訳なくもあったけれど、「ありがとう」も「ごめんなさい」も、何一つ言葉にならない。涙は溢れて止まらなかった。
……まったく、無茶しやがって。
アルファは心の中で呟いた。
エクルのいつにも増して強い霊力を感じたが、結局――予想通りではあるが、聖術は失敗してしまったらしい。
経験上からも成功の見込みなどほぼなかったのに、蛮勇もいいところだ。
だがエクルは、自分の力を試したいとか、そんなことではなく、ただこの町の人たちを助けたかっただけだろう。今回だけは、お咎めなしだ。
「大丈夫だから、もう泣くな」
よほど怖かったのだろう。エクルはただただ泣いている。
でも、あんまり泣かれると自分もつらくなる。だんだん自分が泣かしている気までしてくる……
「アルファ君すごいじゃないの!」
横から女の声が掛かった。市場で、アルファたちの隣で腸詰を売っていたジルだ。その傍らには夫のペーターもいる。
「自警団と一緒に戦ってるって聞いたから、どんな腕っ節かと思ってたけど、本当に強いんだねぇ!」
「いやーまったく、驚いたよ。大したもんだ」
知人の予想外の力に盛り上がっている夫婦。
アルファはどうもこのところ、やたらと持ち上げられてしまう。もちろん悪い気はしないものの、調子に乗るからと、父にはまたいい顔をされないだろう。褒められるほどばつが悪くなるのだが……
「ハンナ婆さん……!」
サムの声に、アルファはハッとした。気がつくと、自分とエクルが立っているすぐ近くに、宿の主人に抱き起こされたハンナがいて、サムが駆け寄っていた。
「婆さん……大丈夫か……!?」
サムはしゃがんで、ハンナの皺だらけの手を握った。
「サム……無事だったか……」
老婆は細めた目をサムへと向けた。その声は小さく弱々しい。そしてその表情は、隠しようのない疲労を滲ませながらも、この上なく優しかった。
はきはきした物言いで、とりわけサムには毒ばかり吐くような老婆だったのに、同じ人物とは思えないほどだった。
「良かった……。夫にも、一人息子にも先立たれたワシじゃ……サム、お前まで先に逝ってしまったら、どうしようかと思ったよ……」
「馬鹿言うな。婆さんより先には死なねぇよ。約束したろ。婆さんが死んだら、俺が墓に花を供えてやるって」
サムもまた、老婆に優しく微笑んだ。
「とりあえず俺はまだまだ死なねぇから。婆さんも安心して長生きしろよ」
老婆は黙って、小さく頷いた。そして、疲労と安心からか眠ってしまった。
アルファはほっと息をついた。自分たちが駆けつける前に、ハンナも無理をしたのだろうが、大事には至らなかったようだ。周りにいた者も、皆、安堵の表情を浮かべていた。
やっと落ち着いて、泣き止んだエクルにアルーラが声を掛ける。
「無事で良かった。お前に何かあったら、ドラルに顔向けできないところだった」
「アルーラ先生ったら、そんな大げさな」
エクルはくすりと笑った。が、すぐに表情が沈んだ。
「……心配かけてすみませんでした」
もしアルファの助けが間に合っていなければ、笑っているどころではなかったのだと自覚しているらしい。
「そんな顔をするな。本当に、無事でいてくれて良かった」
アルーラはエクルに優しく微笑する。……まったく、我が父はエクルには甘いのだ。
エクルもまた、アルーラに微笑み返した。アルーラを見つめるその瞳には、尊敬と安らぎと、揺るぎない信頼が映っている。
共に過ごす日々の中でエクルが時折見せるその表情に、アルファは少し、胸が痛む。エクルがアルーラに、亡き父カテドラルの姿を重ねていることがわかるから。
「自警団もみんなここに来たってことは――」
宿の主の後ろにいる男たちが口を開いた。
「南門から襲ってきた魔物たちは、全部倒したってことか!?」
「ああ。苦戦したが、どうにか」
と、いまいち存在感が希薄な団長がそれに答えた。
「でも、自警団以上に、こちらの親子とサムが活躍してくれた」
と、アルファとアルーラ、サムのほうを腕で示して言ってくれたのは、意外なことに、アルファたちをソーラレア族と罵ったあのロバートだった。
「やっぱりさすがねぇ」
「うんうん。ありがとう! 本当にありがとう」
「ありがとうございます。あなた方は町の恩人です」
皆が、アルファたちにこぞって感謝の言葉を掛けてきた。
「いやー、サムもご苦労だったなぁ」
「サムが町にいてくれて良かったよ。お前が騎士団から出戻った時にゃ、何やってんだと思ったが」
町の男たちに礼を言われると、サムは片手で老婆の手を握ったまま、もう一方の手でボサボサの頭を掻いた。何だか照れくさそうにしている。
町の人々は、今度はエクルのほうを向いた。
「お嬢さんにもお礼を言わなければ」
「えっ?」
エクルは頓狂な声を上げた。
「そんな、私……! やっぱり魔法失敗したし、結局何もできなかった上に、逆に助けてもらって……」
申し訳なさそうに、俯いてしまうエクル。
「そんなことはないさ! あたしらは、その勇気と優しさに助けられたんだからね」
と、片目をつぶりながら言うジル。
「そうだそうだ。ありがとよ、お嬢ちゃん」
「本当に、さすが、あのカテドラル様の娘さんだ」
町の人々が、笑顔で口々にエクルを讃えた。いつも両親に引け目を感じていたであろうエクルにとっては、たぶんこれが、最大級の褒め言葉だろう。
エクルは身の置き場がないといった様子で、俯いたまま、また泣きそうに目を潤ませている。アルファは思わず、笑みがこぼれた。
いつの間にか、雲が晴れ、月が姿を顕していた。地上は街路樹の光玉のために明るく、上空にはさほど意識が向いていなかったのだ。
皎々と光を放つ、真ん丸の月。今夜は満月だ。
今、中天にかかる真夜中の月はアルファの目に、暖かみさえ感じるほどに明るく、美しく見えた。自然と、全ての艱難を乗り越えたかのような気持ちにさせられた。
「では皆さん、中へお入りください。戦いでお疲れでしょう。料理人に言って、何か暖かいものを準備させますから」
宿の主人が誘うと、
「おー、それはありがたい!」
「戦の後は腹が減るからなぁー」
自警団の何人かは喜んで応じようとしたが、団長がそれを制した。
「ちょっと待て、休むのはまだ早い」
「えー? 何でですか、団長」
「もう魔物は全部倒したじゃないですか」
「それはそうだが、念のため警戒を続けるべきだ。せめて、スプライガ騎士団が来るまでは」
団員たちは少々不満そうな顔をする。
「この期に及んで、また魔物が来ますかね。……まぁ、一匹町の外に逃げられはしましたが、わざわざ戻って来るとは思えませんし」
「えっ!?」
アルファは思わず声を上げた。
「逃げた魔物がいたんですか!?」
「あ、ああ……でも、一匹だけだ」
問われた団員はアルファの驚きように驚いている。
「それは私も気がつきませんでした」
と、やや声を低めて、父アルーラが言った。その言葉は、好ましくないことだという響きを帯びている。
人狼を相手に精一杯だったアルファも、多数の敵と戦っていた父も、逃げた魔物に気づけなかった。
他の団員が思い出したように言う。
「確かに逃げたのがいたなぁ。真っ黒い、すばしっこいのがいて……でも、目の前の魔物を防ぐのがやっとで、止めるヒマなんてなかった」
「そうとも。俺なんか、敵の数が減って『やった!』って思ったぞ」
真っ黒い……
不吉な予感がアルファの胸を掠めた。
人狼の傍らにいた、真っ黒な狼もどきのことを思い出す。アルファが昼の人狼を殺したことを告げ口したと思しき、小憎らしい魔物。
まさか、あいつか?
他にも黒い体色の狼もどきはいたと思うが、奴以外はあまり印象に残っていない。
その逃げたのが奴かどうかはさておき。
仮に、逃げた狼もどきが一匹戻ってきたところで、退治するのは容易だ。早めに発見しさえすれば、何の問題も起こらないだろう。
だが、もし、新たな魔物たちを連れて襲ってきたりしたら――
想像が、悪いほうへと傾いていく。
そもそも、魔物の群れが巣食うと言われるフロムの森だが、これまでにガフトンの町を襲ったのがその軍勢の全てだったのだろうか?
昼の第一の人狼の率いる群れ、夜の第二の人狼の率いる群れ……
もしも、それ以外にもまだ、魔物らが森に残っているとしたら――
アルファは身震いしそうになった。
それはただの想像に過ぎないが、少なくとも、休憩とか食事とかを望めるほど楽観視できる状況にはない。
「とにかく、自警団は南門へ戻るぞ」
「了解です」
あくまでも、『念のため』の対処のつもりらしく、団長と団員たちの口調にも様子にも、緊張感というものが伺えない。
そればかりか、団長はアルファたちに、
「ソーラの親子さんは、サムと一緒に宿で休んでいてください。後は自警団にお任せを」
などと、危機意識のまるでないことを言う。
「本当にお疲れ様でした」
団長から労いの言葉を掛けられた直後。
アルファは気づいた。
その挨拶の間違いに。
遠くで生じた、邪気に。
それはアルファがかつて感じたことのない、強大な邪気だ。
今自分がいる場所とは距離があるというのに、全身が怖気立った。
隣にいるエクルが体を硬直させ、父が表情を凍らせた。
「どうかしました?」
邪気を感知できない自警団の面々は、アルファたちの様子を訝しんでいる。
アルファは彼らの鈍感さが腹立たしくも、逆に羨ましくもあったが、どちらの感情も邪気への恐怖によってすぐに消された。
どうしたのかと問われても、アルファにも詳細はわからない。
唯一わかるのは、敵が、とてつもない敵が現れてしまったということ。
「たぶんまた魔族が――」
ほとんど喚くようにアルファが説明しようとした、その時。
南門の方向から、爆音が轟いた。
それは何よりもはっきりと、事態の急変を皆に知らしめた。
「爆発……!?」
「一体何があったんだ!?」
皆、動揺して声を上げた。
頭の中ではすっかり戦闘終了だった団長も、不意打ちに遭って一瞬取り乱したが、それでもやはり自警団の長。それに相応しい行動を取ろうと努め、まず、ジルたち一般の人々に指示を出した。
「すぐ避難を! 宿に戻るんだ!」
人々は急いでそれに応じる。
「自警団、出動するぞ……!」
続いて団長は団員たちに命じ、アルファとアルーラの顔を見た。無言だが、その悲壮な眼差しに彼の思いを察し、アルファたちは頷いた。
団長は先頭を切って駆け出し、団員たちは怯えながらもしっかりとそれを追う。
アルファと父は出遅れたが、エクルが避難しようとしないからだ。
エクルは心細そうにアルファたちを見つめている。
敵のあまりにも恐ろしい邪気を、エクルも感じているはずだ。そんな敵のいる場所に向かうことがどんなに危険であるかも、わかっているのだ。
「大丈夫」、「心配するな」、アルファがそう虚勢を張ったところで無意味だろう。エクルの不安を和らげてやれるような言葉は、見つからない。いや、アルファ自身が不安に襲われて、強がる余裕もない。
「早く逃げなさい」
アルーラがエクルに、静かに言った。父も、それしか言えなかった。
「アルファ……アルーラ先生……」
震える声で、二人の名前を呼ぶエクル。ただそれだけで、その場から動こうとしない。
だが、ありがたいことに、そんなエクルをジルが無理やり引っ張って行ってくれた。ジルに感謝しながら、アルファは彼女らに背を向け、父と共に自警団の後を追った。
サムも眠っているハンナを宿の主に託し、こちらに駆けてくる。
目指すは、南門。
エクルを助けるために宿に駆けつける時、アルファは夢中で、他の事は考えられなかった。たぶん父アルーラもそうだった。そして、サムや自警団の男たちまでも。
町に入り込んだ魔物をやつけるため、全員が宿に向かった。一人の見張りも残さずに。
結果、再び敵が近づいてきたというのに、物見やぐらの警鐘が鳴らされることはなく、敵の手によると思われる爆音が響くこととなった。
間抜けと言えば、この上なく間抜けだが、今回ばかりはその失策が逆に命拾いになったと言えるかもしれない。
もし見張りが残っていれば、強大な邪気を持つ敵に即、殺されていただろう。
町の人々は既に全員避難させてあるから無事だし、今のところの被害は最小で済んだと思われる。
問題は、この後だ。
どの道、敵との戦いは避けられないだろう。殺されるのが少し早いか、遅いかの差に過ぎないのかもしれないが――
アルファは走りながら首を振った。そんな悲観をしてはだめだ。それならいっそ、何も考えないほうがいい。
自警団とアルファたちは路地を抜けながら、最短距離で南門に向かった。
獣の咆哮と、無数の足音が聴こえてくる。近づいてくる。
アルファたちとそれらは互いに、みるみるその距離を縮めていく。
そしてついに南北の大通りに出て、敵の正体が目に入ると、驚愕のあまりアルファたちの足は動かなくなった。
いつの間にか20話ですが、なかなか話が進みません……
これから第1章のボス(?)戦に突入です。




