第2話 不思議な夢
ソーラの村を囲む防護柵には、村の南側に唯一、出入りのできる扉がある。
その扉の先に伸びる小路の両側には、レタス畑の緑色の絨毯が広がり、農園の一家が収穫に勤しんでいる。
畑を抜けると、小川が横切っている。村の東から南西にかけて流れる、村人の生活に欠かせない川だ。川の両岸には草花が茂り、蝶が舞う。
小さな石橋を越えて進むと、また、種々の畑の中を小路が真っすぐに続く。農地ばかりの土地の間に、まばらに家々や家畜小屋が建っている。どこからともなく牛の鳴き声が響き、何とものどかな空気が漂う。
村の入り口から続く小路は、やがて緩やかな上り坂となる。路の先には白い石造りの教会が建っており、その隣に、村の子供たちの学舎がある。
村の北側は緩やかな丘陵。
南向きのなだらかな斜面は、西側は牧草地となっていて、羊たちが草を食んでいる。東側の葡萄畑は、ようやく新芽が出始めた頃だ。頂上には樹齢百年を越える大きな楡の木が一本、村を見下ろしている。
村から見て反対側の斜面は、人の手がほとんど加えられておらず、色とりどりの野花が咲いているが、中腹辺りに防護柵が設けられている。村と森とを隔てているかの防護柵が、丘陵の斜面にも続き、ぬかりなく村を囲んでいるのだ。
防護柵のさらに北側には、高い山々がどこまでも連なっていて、この村より北に人里はないとされている。
修行終了の鐘が鳴った後、村に戻ったアルファは、自宅に寄って汗だくになった服を着替え、腹の足しに、台所にあったパンを一つ失敬してから校舎に向かった。
これから学校の時間だ。
村の学生たちは、年齢に応じて三つの教室に分けられていて、十六歳のアルファは上級生の教室で学んでいる。
十人ちょっとの級友たちと挨拶を交わしながら、アルファは教室のほぼ真ん中にある自分の席についた。すぐに授業開始を告げる鐘が響き、それと同時に、女性教師ファミリアが教室の中に入って来た。
その姿を見て、アルファは傍目にはわからない程度に、わずかに顔をしかめた。一限目から彼女の授業とはついていない。
やや小柄なファミリアは、 歳はそろそろ四十に届くが、そうは見えないほど若々しく、時折少女のようなあどけなさを見せることもある。だが、怒らせると手がつけられない厄介な相手なのだ。彼女の授業では、間違っても眠ってはいけない。
アルファが緊張に息を呑む中、ファミリアは早速、地理の授業を始めた。
「この国、『ルナリル王国』は九つの地域に分かれています。我々のソーラの村は『サーチスワード地方』に属していますね」
ファミリアは、黒板に貼った大きなルナリル地図を棒で指しながら解説していく。
「サーチスワード地方の北部はこのように山脈が走っていて――」
サーチスワード。
その言葉を耳にして、アルファの思考は早くも授業から逸れていった。
サーチスワードは、九つある地域の中の一つであり、また、第二の王都と呼ばれる大都市の名でもある。領主の住む『サーチスワードの町』を中心とした地域を、『サーチスワード地方』と呼ぶのだ。
同じ地域に属しながら、ソーラの村からはるかに遠く行ったことなどないのだが、そこには大規模な騎士団が存在するのだという。
アルファは時々思う。もしソーラが、騎士団を抱えるような大きな町だったなら、自分がここまできつい修行をしなくてもすんだのではないかと。
アルファが父から厳しい修行を受けさせられているのは、村を魔物たちから守るためだから。
アルファは四つで、剣を始めた。
きっかけは、絵本に出てくる英雄――歴史上に実在した世界一の剣士、『剣神』への憧れだった。
そして、ソーラの村一番の剣士である父アルーラが、身近な憧れだった。アルーラは村の男たちに剣を教えていたから、父に頼んで、アルファも教わるようになった。
アルファはみるみる上達し、村の子供たちの中では敵なしとなり、体が大きくなるにつれ、大人たちも負かすようになっていった。
だが、父は最初からアルファをしごいていたわけではなかった。あくまでも父は、他の人々に剣を教えるのと同じようにアルファを指導していたにすぎない。
それが変化したのは、アルファが八歳の時だった。
その頃はまだ村を囲む防護柵もなく、ある日、村に魔物が入り込んだ。
尾が異常に長い、狐のような風貌の魔物だったが、その場にアルファとエクルは居合わせてしまった。近くにいたのは、農家の夫婦と散歩中の老人だけ。戦いの心得のある者はいなかった。
皆、慌てふためいて逃げようとしたが、アルファは農夫の持っていた鎌を引ったくり、魔物の前に立ちはだかった。逃げても獣の速さにかなうはずもない。少なくとも、誰か一人は餌食になってしまうと思ったからだ。
とても怖かった。けれど、誰にも傷ついてほしくなかった。
アルファは意を決して魔物に向かっていった。魔物との初めての戦い。魔物の鋭い牙や爪を、祈るような思いでかわしながら、震える手で握る鎌を、魔物に浴びせた。
刃から伝わってくる生き物の感触――魔物とは言え、幼い心は痛んだ。命を奪うということが恐ろしかった。だが、殺さなければ殺される。何度斬りつけたか、ようやく魔物は動かなくなった。
初めて魔物と戦い、自分一人で倒したのだ。
その後からだ。父の剣の手ほどきが、だんだんと厳しさの度を増していった。
今でこそ、精神的も肉体的も父の厳しさについていけるが、昔は本当につらかった。
全身の筋肉が痛み、疲れ果てて倒れても、時に泣き喚いても、父は決して、指導の手を緩めはしなかった。アルファを鍛えることに、無情なまでに徹していた。訓練というより拷問。あまりの過酷さに、アルファは途中で記憶が飛んだり、気を失うこともしょっちゅうあった。
また、魔物と戦うことも強要された。
父はしばしば、アルファを魔物の出る山まで連れて行き、魔物を倒せと命じた。アルファは、村に魔物が出た時には、みんなが危ないと思ったからこそ決死の覚悟で戦ったのだ。わざわざ自分から魔物のいる場所に出向くなど、父は正気ではないと思った。
だが、アルファが怯えて逃げ出そうとすれば、父はそんな息子を掴んで無理にでも魔物の前に立たせ、戦わせた。
アルファは父が理解できなかった。恨めしくもあった。地獄のような特訓の日々。なぜここまでしなければならないのか。あんまりだと思った。
だが父は、アルファにこう言い聞かせた。お前にはきっと、剣の才能がある。その才能は、人を助けるためにある。だから、その才能を生かせるように、努力しなければならないのだ、と。
死ぬほど努力しなければ開花しない能力なら、それを才能と呼べるだろうか?
アルファはそんな風に反感を持ったこともある。
しかし結局、父を信じて修行に耐える日々は、十六歳になった現在でも続いているのである。今でも充分きついが、自分が修行に打ち込むことに疑問を抱くことはなくなった。
――だが、今も一つ、どうにも納得できないことがある。
エクルが一緒に修行をする意味があるのかということだ。
もともとは父と二人だった修行に、エクルが加わってから、もう五年くらい経つだろうか。
――エクルは、それまで魔法の勉強をしていた。その両親が魔法の優秀な使い手で、当然エクルも期待されていたのだが、これが、いくらやっても全く上達しなかった。
そこで、せめて、ということで、なぜだかエクルも修行に参加することになったのだった。誰が言い出したのか、アルファにはいまだにわからない。
しかし、今朝森で魔物に襲われたように、危険なことはたくさんある。
それに、アルファとエクルでは体力差があり過ぎて、大概、アルーラは二人に別々に課題を与えている。息子のアルファには容赦ないが、エクルに対しては、いくらか遠慮しているように見える。親友の娘であるところのエクルを、我が子同然に思っているようだが、女の身にあまり無理なことをさせるのは忍びないのだろう。
それでもなお、アルーラはエクルに指示を与え続ける。アルファは何度か父に、エクルは修行をやめてもいいのではないかと提言したが、父は、エクルにやる気があるからと答えるばかりだ。
言っても無駄かもしれない。アルファとしては納得できないが、説得するのはほぼ諦めている。
エクルは毎日、真面目にアルーラの言いつけに従っている。アルーラがアルファにつきっきりで、放っておかれるとしても、自分は自分の与えられた課題をこなす。けれど困ったことに、いまだに魔法のほうも諦めてはいないらしい。
本人のやる気とは裏腹に、まるで進歩がないのが悲しいところだ。それだけ才能がなくてもまだ努力を続けているのは、ある意味感心なのだが……さっき魔物に挑んだような、あんな無茶な真似は、もう、絶対にしてほしくない――
「サーチスワード地方の東側は、このようにパスト地方と面していて――」
アルファが過去から現在に思いを巡らしている間に、地理の授業はかなり進んでいた。
いつの間にか黒板に書き連ねられた文字を、アルファは慌ててノートにとる。
しかし、まともに授業を受けようとすると、今度はひどく眠くなってきた。ファミリアの凛とした声も、アルファにとってはまるで子守唄。修行で思い切り体を動かした後の授業は、はっきり言ってかなりつらい。
黒板の文字が、何重にもぼやけて見える。寝てはいけないと思いつつも、瞼は重くだんだん下がってくる。だめだ、この授業だけは、眠るわけにはいかない。アルファは腿をつねったり、手のひらにペン先を押し付けたりして奮闘する。だが、徐々に体が前にのめっていく。やがて、意識が途絶え――
気がつくと、アルファは真っ白な世界にいた。
上も下も、前も後ろも、右も左も、無限に広がる白の空間。そこにアルファは立っている。いや、浮いているのか。足は自分の体重を感じていない。
不思議な感覚。知らない世界。けれど、なぜか心地良さを感じる。
――アルファ……
ふいに名を呼ばれアルファが振り返ると、いつの間にかすぐそばに、まばゆい光に包まれた一人の少女の姿があった。
飾りの少ない、ドレスのような白の長衣を纏い、編みこんだ髪を後ろで丸くまとめているが、よく知った顔だった。
エクルだ。
いや、違う。よく似た他人か。
面立ちは瓜二つだが、今、目の前にいる少女は、エクルよりも若干大人びた雰囲気を持って、遠く感じられる。
それに、この少女を包んでいる光は何だろう?
白い光。白一面の世界にあって、なお美しく神秘的に輝いている。
光の少女はアルファに微笑み、口を開いた。
「アルファ。運命の時が近づいています」
声も幼馴染とは違う。口調だってエクルに比べて淑やかだ。やはり別人なのだとアルファは改めて思った。
いや、そんなことより。
『運命の時』?
何のことだとアルファが尋ねようとした瞬間、少女を包む光が輝きを増し、少女の姿を覆い隠した。輝きは更に膨れ上がる。アルファも光に包み込まれる。まるで、春の日差しのように暖かな光だ。あまりの眩しさに、自分の姿も見えなくなる中、遠く、少女の声が再び聴こえてきた。
「あなたは、『双星』の『光継者』なのです――」
え――!?
「アルファ!」
自分を呼ぶ叫び声が耳に飛び込むと、間髪入れずに脳天に何かがぶつかった。
「――っ」
気がつくと、目の前は茶色だった。
……木目……机だ。
どうやら机に突っ伏して寝てしまっていたらしい。
またこの夢か……
アルファは体を机に倒したまま、夢の内容を思い返した。
エクルそっくりの少女からの、あり得ない宣告。
アルファはここ数日、繰り返しこれと同じ夢を見続けていた。そしていつも、目覚めた時には、あの白い光に包まれた時に感じた温もりが、体に残っている。
普通ならば、この体験を気味が悪いと思うだろうか。けれど、あの白い光はあまりにも優しく、なぜか、わけのわからない、懐かしいような感覚さえも抱かせるのだ。
不思議すぎる夢だ。ただの夢とは思えない。
だが、まともに考えようとも思えない。
なんでオレが『光継者』なんて……
あり得ない。こんな夢を見たことをもし誰かに話したら、きっと笑われるだろう。
どうしてこんな夢を何度も見るのだろう。しかも授業中にまで――
授業中!?
ようやく思い出し、アルファが慌てて机から顔を上げると、教壇から身を乗り出したファミリアが肩を震わせながらこちらを睨んでいた。
さっき頭に走った衝撃は、どうも彼女にチョークを投げつけられたらしい。凶器がどこに落ちたか見当たらなかったが、彼女の授業中に居眠りをしてこの罰を受けるのは、しばしばあることだったから。
……まずい。
アルファは身構えた。本当の罰はここからなのだ。
ファミリアは、アルファを睨めつけながら一筋の涙を流し、声を張り上げた。
「私の授業ってそんなにつまらないかしら!? 母さん悲しいわっ」
そう、ファミリアはアルファの母だ。息子のアルファから見ても若く美しく、普段は優しい、申し分のない母なのだが、いったんこうなってしまうと、アルファにとって世界で二番目に恐ろしい存在と化す。
「あなたって子は親の気も知らずにっ」
「か、母さん! 落ち着いてくれよっ」
校庭にまで聞こえるであろう大声で喚く母を、どうにかなだめようとしたアルファだったが――
がらっ。
突如、戸を開く音に、教室中の視線がその方向に注がれる。そして勢いよく開かれた扉の向こうから、アルファにとって世界で一番恐ろしい存在が飛び込んできた。
父アルーラだ。
「ファミリア……!」
父は母に駆け寄り、その手をしっかりと握り締め、優しい眼差しで見つめた。
「もう大丈夫だ。泣かなくていい」
「あなた……」
母は潤んだ瞳をうっとりとさせ、父を見つめ返している。ここが教室であることも、今が授業中であることも無視するかのように、二人の世界を展開している両親。
しかし、これは嵐の前の静けさだ。アルファは、この後起きる事態に備え心積もりをする。やがて、母に向けられていた穏やかな父の眼差しが、瞬時に鋭いものに変わり、アルファに突き刺さる。
「アルファ! また母さんを泣かしたな! まったくお前という奴は……!」
父にがっしりと胸倉を掴まれる。
「いいか、今度母さんの授業で寝たら『素振りしながら兎跳びで校庭三百周』の刑だ! わかったな、この大馬鹿者……!!」
特大の雷を落とされた。鼓膜が震え、体が硬直する。
授業中に眠る。母に泣かれる。父から大目玉――という一連の流れは、過去から飽きるほど繰り返されてきた。
眠らなければいいのだが、わかっていつつ体が言うことをきかないし、父に叱られるのも慣れそうなものだが、本当に怖いのだ。修行中にどやされるより何より、母を泣かせた時が最も危険である。
父も母も、教育熱心なあまり、時に見境をなくしてしまう。以前は――だいぶ以前になるが、こうではなかった。こんな風になったのは、たぶん、アルファが初めて魔物を倒してから。剣の稽古が厳しくなったのと、同時期だったと記憶している。
自分たち親子によって授業が中断され、級友たちにはさぞ迷惑だろう。すまなく思っているが、彼らのほうがこの光景にすっかり慣れており、平然としている。
「ご、ごめんなさい……」
アルファは、情けなく、小さな声で両親に謝る。だが、そう簡単に赦してもらえないだろう。頭の中で必死に弁明を考えていると。
キーン……コーン……
授業終了の鐘が鳴った。
なんだ、もうそんな時間だったのか。アルファは力が抜けた。あとほんの少し、眠らずに耐えていれば無事乗り切れたのに、なおのこと悔やまれる。
まだ怒られると思ったが、両親は意外にも、鐘と共にあっさり教室を後にした。ぴたりと寄り添い、微笑み合いながら。
「お茶にしましょう、あなた」
「ああ。お前が淹れるお茶は最高にうまいからなぁ」
……いつでもどこでもこの調子なのだから、本当に仲のいい両親だ。
父は村長、母は教師。
アルファが見て、大部分の村人から尊敬されているが、この一面に関しては、長としての威厳がどうの、教育者としての立場がどうの、非難する声がないことはない。友人たちからも、からかわれたりするが、でも、アルファは何だかんだそんな両親が好きだったりする。
ともかく、魔の一時限目は終わった。
両親が去り、アルファがほっと一息ついていると、左隣の席から声が掛かった。
「アルファ、大丈夫?」
心配そうにこちらを見てくる少女。エクルだ。
アルファは思わず、エクルの顔をしげしげと見つめた。――やはり、夢に出てくる光の少女とよく似ている。
「……私の顔、何かついてる?」
エクルが左手で自分の頬に触れながら、戸惑ったように訊いてきた。アルファは我に返り、内心焦った。あの夢の話なんてできない。
「大丈夫じゃねーよ! お前何で起こしてくれなかったんだよ!?」
ごまかそうと慌てて口にしたのは、理不尽な文句だった。
「う……私もウトウトしてて、アルファが叱られる声で目が覚めて……」
すまなそうに答えるエクルに、アルファは大げさな溜息をついて、恨みがましくまた言う。
「ったく、しょーがねぇな。次こそ気をつけろよ」
「うん――って、えぇ? 眠らないように頑張ろうよ! っていうか私のせいなの!?」
「当たり前だろ。お前のせいじゃなくて誰のせいなんだよ」
「自業自得だよ! それにアルファいつも、起こしたって起きないくせにっ」
さらに理不尽な言葉に、むきになって反応してくるエクル。アルファはおかしくてつい、からかいたくなる。
「そりゃお前の起こし方が悪いに決まってんだろ。そーだ、お詫びの印に今度なんかおごれ」
「何それっ。アルファはいっつも勝手なことばっかり言って――」
そんなアルファとエクルの様子を見ながら、級友たちがおかしそうに、
「ホント、この二人も仲いいよな」
「ほんとよねぇ」
などと話しているのは、言い争っている当人たちには聞こえないのだった。