第19話 潜在霊力
アルファ…………!!
少女の叫んだ少年の名が、周囲へと響き渡った。
少女のほうへと向かっていた魔物たちは、立ち止まっていた。少女の大きな声に気圧されたように。あるいは、少年の名そのものが、守りの力を持っているかのように。
宿の食堂に身を潜めている人々も、少女の傍らで倒れている老婆ハンナも、呆気に取られていた。
エクルは瞳を閉じ、指を組んだ。
できることを、一つした。それはアルファに助けを求めること。
どのくらい離れた所にいるのだろう。アルファだって戦っている。自分の声が届いたかどうか、わからない。
でも、きっと聴こえたと、きっと来てくれると、そう信じるしかない。
そして、助けを待つ間、できることがもう一つ、あるとしたら――
「力に満ちたる 我らが主よ」
エクルは祈りを捧げた。邪悪なるものを焼き払う炎を生み出す、聖術の詠唱である祈りを。
一度たりとも、まともに魔法を使えたことなどない。今この時に成功を期待するのは、あまりにも虫が良すぎるだろう。
でも、せめて。
「我は唯 主をのみ誇り 切に請わん 我を勝利に導き給うを」
今ぞ天の使者 我が元へ遣わし給え」
助けが来るまでの時間を稼ぐことができれば、それでいい。
無茶するなと、またアルファに怒られるかもしれないけれど。自分にできることが、他に思い浮かばないから。
魔物が、怖くてたまらないけど。でも、これ以上この町の人々が犠牲になるのは、もっと怖いから。
エクルは父を思った。
人々を守るために、いつも魔物に立ち向かってきた父。背後に守るべきものがあるというのが、どういうことなのか。父は、その重みを背負ってきたのだ。
自分にとって、目標と言うにも遠く及ばない父――けれど今自分の感じている思いが、父の感じてきたものと少しでも通じるところがあるのなら、それはとても嬉しい。
*
「……邪魔するなだとぉ~?」
アルファのあまりの剣幕に、人狼はわずかにたじろいだ。しかし、
「邪魔なのはテメェだろうが……!!」
また霊力を高め、逆上して向かってくる。
気迫だけで倒せるはずがないのはわかりきっている。実力の差が大きければなおさらだ。でも、早くエクルの所に行かないと――
アルファは焦りを抑え、人狼の剣をさばきながら、隙を伺う。
人狼も疲労して、動きが多少鈍ってきてはいる。
もしわずかでも勝機が見えたら、その瞬間を絶対に逃がしはしない。
と。
異変が起きた。目には見えない異変が。
霊力を感じたのだ。
人狼の荒々しく、憎しみのこもった邪気ではない。
優しく気高く、神聖でさえある霊力。
霊力は魂に属する力であるが故に、その個体の内面をそのまま映し出すと言われる。
その霊力の持ち主を、アルファは知っている。
エクレシア=オルウェイス。天才聖術士と称された神官カテドラルの娘にしてアルファの幼馴染。
間違いなくエクルの霊力だと断言できるが、それにしても相当な大きさだ。
音が距離に反比例して届きにくくなるように、霊力も離れているほど感じにくくなる。エクルは宿にいるはずなのにこんなにも強く感じるとは、エクルが普段にないほど霊力を高めているということだ。
いや、強さ云々の前に問題がある。霊力を高めて何をする気なのか。
答えは一つしかないだろう。エクルは聖術で魔物に立ち向かう気だ。
アルファはエクルに、もう魔法を使うなと言ったが、エクルは素直に聞くような性格ではないし、何より、使わざるを得ないような状況に陥ってしまったのだ。
だが、うまくいくかは分の悪い賭けだ。
霊力の大小は、術の威力や効力の強弱を左右する要因の一つとなるが、術の成否を左右するのは霊力の操作能力だ。エクルにはその操作能力が致命的に欠落している。
アルファの焦りが増す。
だが、人狼のほうがアルファよりももっと動揺していた。
「な、なんだこれは……!? 人間の霊力か!? こんな強力な霊力を持った人間がいるのか……!?」
つまり、人狼は今まで、これほどの霊力を持つ人間には会ったことがないらしい。
霊力の流れてくる宿のほう――南門付近の大通りからではもちろん、通り沿いの並木や建物しか見えないが――に目をやりながら戦慄いている。
アルファはその霊力の持ち主の正体を知っている分、人狼より早く我に返った。
今だ……!
一気に人狼との間合いを詰める。
卑怯かもしれない。でも、これが最初で最後の勝機かもしれない。
アルファは迷わず、人狼に向かって剣を突き出した。
人狼はアルファの動きに気づいたが、もう遅い。
アルファは剣で、人狼の心臓を鎧ごと貫いた。昼の人狼にしたのと同じように。
横に避けつつ剣を引き抜くと、人狼の胸からどす黒い血が噴き出す。
「この……」
人狼は憎しみのこもった目でアルファを見ながら、どうと前のめりに倒れた。
「ラ……ザ……さま……」
擦れて消え入りそうな声で、人狼が何かを言ったように聴こえたが、はっきりとは聴き取れなかった。それを確認する間もなく、人狼は力なく目を閉じた。
人狼が最期に何を言おうとしたのか、アルファは引っかかったが、気に留めている場合ではなかった。
時間がない。
人狼の手下の魔物たちは――
見れば、残っているのは一匹だけだった。それも、アルーラの手によって間髪入れずに斬り伏せられた。
「やった……!!」
「俺たちの勝ちだ……!!」
サムと自警団の団長、団員たちは歓喜に沸いた。
「良かったー。何かよくわからんが、魔物たちの動きが急に鈍くなって助かったな」
おそらく、魔物たちは人狼同様、エクルの霊力を感じ取って慄いたのだろう。
霊力を感じなかった人間たちは、この町の危機がまだ去っていないことに気がついていない。
「宿のほうに魔物が行ったかもしれない……!!」
アルファは彼らの呑気さに苛立ち、叫ぶように訴えて、宿屋に向かって駆け出した。
「ええっ!? 何だって!?」
「それはどういう……」
事態が飲み込めずに混乱している彼らの声が後ろから聴こえてくるが、説明している暇はない。
「宿のほうから大きな霊力を感じます! おそらく、魔物を相手に魔法を使うためでしょう……!」
これは父の声。父も、魔法は使えないが、霊力に対する感度はそこそこ高いのだ。
後ろを追ってくる父の足音が聴こえ、次に複数の足音が響き始めた。皆で宿に向かう。
アルファは全力で走った。
人狼との戦いで相当疲労したはずなのに、まだこんなにも速く走れる自分が不思議だった。
エクル……! 無事でいてくれ……!
エクルに意図はなくとも、結果的にアルファはエクルに助けられた形になった。今度は自分が、エクルを必ず助ける。
*
「炎繰る御使いよ とく来たれ
高く尊き主の権能 今、我と共にここに示さん」
少女の手に、見えざる力が集い、赤い光が灯った。赤い光が、激しく揺れ動く。
「……なんという霊力じゃ……」
倒れたまま、老婆は我知らず呟いた。
魂に属する力と言われる霊力。それが、少女から嵐のごとく吹き出している。あの、か弱そうな少女のどこに、こんな力があったのか。
ハンナは七年前、少女の父だというカテドラル=オルウェイスが聖術を使うのを間近で見たことがあった。その時も、カテドラルの霊力の飛び抜けた強さに驚かされたが……この少女の霊力は、それをも凌ぐのではないだろうか。
魔物たちも、少女の霊力に圧倒されていた。うろたえるような声を小さく上げながら、それ以上、少女に近づこうとはしない。後ずさっているものもある。明らかに、少女の力に動揺している。
ついに、三匹のうち最後尾の一匹は道の反対側へと逃げ出した。
「我らが力は烈火と成りて 穢れしこの地を焼き清む――」
エクルは両腕を前へ伸ばし、目を見開いた。
「『浄化の炎』!!」
この町にいる人々を助けたい。
どうか、神様――
想いを乗せて、魔物へと力を放つ。エクルの手で踊るがごとく揺れていた赤い光は、炎と化した。
だが、それは。
蛇の舌のような――揺らめく細い細い炎。
その炎は、強大な霊力と共に一瞬で消失してしまった。標的の魔物には、届くはずもない。
失敗――
もともと無謀な賭けではあったが、いつになく霊力の高まりを感じていたし、見えないながらも天使の気配はあったから、もしかしたらと期待も抱いたのだが……やはりだめだった。
普段なら、この結果でも飛び跳ねるほど嬉しかっただろう。いつも、この術では煙しか出せなかったのだから。
だが今は、それどころではない。エクルの額から頬に、汗が流れ落ちた。
二匹の魔物たちは、拍子抜けしたような変な鳴き声を発し――しかし、すぐさまエクルに向かって来た。目を剥いて、激しく咆哮しながら。エクルの力に無意味に怯えさせられたことを、怒っているかのように。
あ……
エクルはあまりの恐怖に声も出ない。
霊力を消耗し、体に力が入らない。後ずさろうとして、尻餅をついてしまった。左手が街路樹の根に触れる。
エクルは夢中で根元の土を鷲掴みにし、迫ってくる狼もどきの先頭の一匹めがけて思い切り投げつけた。
顔に土を喰らった魔物はひるみ、首を振りながら悶えている。エクルが苦し紛れに投げた土は、うまいこと狼もどきの目に入り、足止めに成功した。
が、魔物はもう一匹いる。苦しむ仲間の脇をすり抜けてエクルに向かってくる。
と。
エクルの頭上すれすれを、何か大きなものが勢いよく飛んでいった。
その何かが、エクルを襲おうとした狼もどきの顔面に直撃する。
魔物は間抜けな呻き声を上げながら、あえなくひっくり返った。
おそらく、自分の身に起こったことを理解しなかっただろう。エクルにも、何が起きたのかわからなかった。
魔物にぶつかった何かが、ガタンと大きな音を立てて石畳の上に落ちる。
椅子。間違いなく、それは椅子だった。背もたれのある頑丈そうな……これは確か、宿の食堂にあったもの。
なんでこんなものが……
「エクルちゃん……!」
突然、後方から声が掛かって、エクルが驚いて後ろを振り返ると、倒れている老婆ハンナのさらに後ろに、何故かジルがいた。その夫のペーターと、宿の主人、一緒に宿に避難していた男性たちも三人ほど共におり、彼らは手に各々、松明や包丁なんかを持っている。
「皆さんどうして……」
呆然とするエクルに、魔物の唸り声が降ってくる。
椅子を喰らった狼もどきはまだ伸びているが、土で目潰しされたほうの魔物が、視界が回復して再び飛び掛ってきたのだ。
だが、ペーターが手に持っていた松明を魔物に投げると見事に命中し、魔物は炎の熱と痛みに悲痛な鳴き声を上げた。
そして、魔物がひるんでいる隙に、なんとジルがこちらに向かって突進してきた。
ジルは落ちている椅子を拾い上げ、背もたれを両手で握ると、
「うりゃぁあ!! あんたもお寝んねしな……!!」
魔物の頭に思い切り振り下ろした。
恐ろしい音がして……こちらの魔物もあえなく伸びてしまった。
……人間って、案外強いのかもしれない。
「大丈夫かい!?」
エクルはジルに両肩を掴まれて揺さぶられながら、頼もしく思った。
宿の主たちが、倒れているハンナの体を起こしてやりながら声を掛ける。
「長老、しっかりしてください」
「心配いらん……少し……疲れただけじゃ……」
弱々しい声だが、老婆は答えてくれた。
「良かった、長老もお嬢さんも怪我はないようですね」
ジルたちは、危険を冒してエクルたちを助けに来てくれたのだ。エクルは涙が出るくらいありがたかった。
でも、そう言えば、最初に飛んできた椅子、下手したら私の頭に当たってたかも……
思い返して少しぞっとしつつ、エクルは涙を隠しながらジルたちに頭を下げた。
「ありがとうございます……! 助けていただかなかったらどうなってたか……」
心の中は複雑だった。
本当にありがたかった反面、自分が至らないせいで、彼らまで危険に晒してしまったことが申し訳なかった。
「何を言ってるんだい。お礼ならこっちが――」
エクルに何か言葉を返そうとしたジルの声が、途切れた。
突如響いた、魔物の咆哮によって。
一匹の狼もどきが、真っすぐにエクルに迫ってくる。
これは、先ほどエクルが聖術の詠唱をしていた際、逃げ出した一匹だ。状況を見て戻ってきたらしい。
エクルはその存在を忘れていたし、完全に油断していた。たぶん、助けに来てくれたジルたちも、三匹目のことなど頭の中になかったろう。
エクルの瞳は、間近に襲い来る魔物の姿を確かに捉えているが、体が動かない。ジルたちの悲鳴が上がる。
エクルはぎゅっと、目を閉じた。




