第12話 青年の正体
斬りつけられた父の左肩から、鮮血が噴き出す。
アルファは一瞬、心臓が止まりそうになった。
父に押された勢いで尻餅をついたが、自分の上に覆いかぶさるように倒れてくる父をどうにか支える。
「父さん……!」
「……大丈夫だ……」
父は片膝を立てて屈み、気丈にも微笑んだが、激しい痛みを堪えているためかその表情は歪んでいた。右手で押さえている肩の傷から、血が勢いよく流れ出している。
アルファは唇を噛んだ。自分の躊躇が、甘さが、父をこんな目に遭わせてしまったのだ。
「ちっ。邪魔しやがって……!」
人狼は絶好の勝機をものにし損ね、焦りの表情を見せながらも、しゃがんだままのアルファたちに大剣を突き出そうとする。
「二人まとめて串刺しにしてやる……!」
これ以上、父を傷つけさせない。
アルファは剣を握り、素早く立ち上がる。父を庇って前に出た。
剣を振り上げ、人狼の大剣を払う。
人狼の手から大剣がするりと抜けた。それが地面に落ちるより早く、アルファは剣で人狼の心臓を貫いた。
今度は迷いなく、正確に。
「よく、も……」
人狼にさも恨めしそうな目で睨まれ、アルファは視線をわずかに逸らし、人狼に突き刺している剣をいったん押してから一気に引き抜いた。
人狼の胸から真っ黒な血が噴き出し、アルファの顔や服に飛び散ったが、即座に蒸発していく。
人狼は音を立てて仰向けに倒れた。金色の瞳は見開かれたままだが、光は失われている。
死んだのだ。
「アルファ! 来るぞ……!」
心が沈む暇もなく、父の声でアルファが顔を上げると、また目の前に狼もどきが迫っていた。主を殺されて仇を討とうというのか、ますますいきり立っている。
アルファはそれを素早く斬って身を守る。
再び霊力を感じて見ると、老婆が先ほどと同じ捕縛の魔法を放っていた。通路を西側に逃げていく魔物が二匹いたが、あえなく肢が凍り動けなくなる。自警団の二人組がすかさずとどめを刺しに駆け寄る。
逃げる魔物をわざわざ倒すのは、魔物がこのまま素直に町の外まで逃げてくれるとは限らず、人々が襲われる可能性があるからだろう。
これでも、アルファがざっと見て、まだ動ける敵が七、八匹残っている。
と、ふいに、赤いものが目についた。
狼もどきたちの中の、灰色の毛の一匹――その体に、飛び散るように付着した赤い液体。
人間の血だ。
魔物の血なら、もっとどす黒い。それに、空気に触れたそばから気化してしまうはず。
アルファは思わず周りを見回した。暗い色の魔物ばかりで気づかなかったが、よくよく見れば、黒や茶色の体毛をした狼たちの顔や体も血で汚れていた。
この場には、怪我をした人間は父しかいない。父の血が、魔物たちに? いつの間に、しかもこんなに多く……それとも――
「く……っ」
呻きながら、父アルーラも剣を振るい魔物を払う。利き腕の右腕は使えるが、負傷した左肩からはまだ血が流れている。父の服を染める赤が広がってゆく。
「父さん……!」
アルファは気が気ではない。だが父は、
「敵に集中しろ……!」
それだけ言って、苦痛の表情を浮かべながらも剣を振る。
確かに、次々に魔物が襲ってくるこの状況では、隙を見せれば一気に喰いつかれてしまうだろう。どんな怪我をしていようが安静になどしていられない。戦わないことは、すぐさま死を意味するのだから。
理屈はそうだ。けれど、動きのぎこちない父を、額に脂汗を浮かばせながら怪我を押して戦う父を、心配せずにいられるわけがない。
父に無理をさせたくなければ、一刻も早く魔物を全滅させる以外にない。
そう思って、アルファが柄を握る手に力を込めた時――
目の前にルミナスの姿が躍り出た。
ルミナスは、アルーラに飛び掛ろうとしていた狼もどきの一匹を薙ぎ払った。
アルファは驚いた。
ルミナスはエクルを守ることに徹し、後方にいたはずだ。いつの間にここまで上がってきたのか。
「アルーラ先生……! 大丈夫ですか!?」
すぐ近くからエクルの声が聴こえ、アルファはさらに驚いた。
エクルがアルーラに駆け寄ろうとしている。通路ではなく並ぶ露店の裏側から。台の下に隠れていたはずが、我慢しきれなくなったらしい。
「危ねぇだろが! 下がってろバカ……!!」
エクルはアルファの声で踏みとどまったが、心配でたまらないといった顔でこちらを見ている。
おそらく、ルミナスがここまで来たのは、エクルが出て来てしまったから仕方なくだろう。
ったく……!
エクルが出て来たところで何ができるでもなく、自分の身を危険にさらすだけだ。おとなしくしていろと言ったのに。
が、エクルを叱っている暇はない。とりあえず、魔物退治が先決だ。
敵に向かおうとして、しかしアルファは、またしてもルミナスの剣に目を奪われてしまった。 ルミナスは、細身の剣を片手で振るい、襲い来る魔物たちを次々と仕留めていく。あるものは一刀両断に、あるものは心臓を一突きに。
その姿は、舞でも踊るかのように軽やかで優雅だった。華麗な中に、鋭さと、得体の知れぬ恐ろしさまでも内包していた。彼に初めて会った時の印象が蘇る。
アルファはその剣技に魅入ってしまい、そして強い衝撃を受けた。
ルミナスは、ソーラの村一の剣士である父とも自分とも、格が違う。多数の魔物を相手にすることに、あまりにも慣れた戦いぶりだ。腕は立つだろうと思ってはいたが、まさかこれほどとは。
ルミナスはそのまま、アルファたちが手を出すまでもなく、瞬く間に魔物を全滅させてしまった。何という技量だろう。
自警団の二人組が、わぁっと歓声を上げた。
魔物を撃退できたことは嬉しいが、アルファの中にはその他の感情も交錯した。羨望。悔しさ。あるいは妬みか。
「う……っ」
父が小さく呻いて膝をついた。
アルファは我に返り、父に駆け寄った。出血したまま動き回っていた父だが、ついに限界が来たのだ。早く父の怪我を手当てしなければ――
「アルーラ先生……!」
エクルが駆けつけてくる。アルーラのそばにしゃがみこみ、祈りの形に指を組む。こりもせず治癒の聖術を使うつもりらしい。
「よせ。どうせ効か――」
「そうじゃ、怪我をしておったな」
アルファがエクルを止めていると、法術士の老婆が歩み寄ってきた。
「すまんの。敵が多くてなかなか近づけなかったもんでな」
そう言いながら、老婆はアルーラの肩の傷口に手をかざした。
老婆の手の平から光が生まれ、傷口を包む。
――治癒の法術だ。
同じ治癒の効果をもたらすものでも、天使の力を借りる聖術とは、やはり力の質が違っているとアルファは感じた。
老婆は、魔物との戦いで攻撃の法術を使う時は呪文を詠じていたが、今回は無言で力を発動させた。術の難度の差もあるだろうが、どうやら、攻撃の術よりも治癒の術のほうが得意らしい。
老婆の術によって、アルーラの流血はすぐに収まり、傷が塞がっていった。
「ありがとうございます……」
父は老婆に礼を言うと、その場に倒れ込んだ。
「父さん……!」
父の目は閉じられている。取り乱しそうなアルファに、老婆は冷静な声で言う。
「心配ない。気を失っただけじゃ。出血が多かったからの」
「ありがとうございます。本当に……」
ほっと一息、アルファが老婆に頭を下げると、老婆は首を振り、微笑んで言った。
「何のこれしき。礼を言うのはワシのほうじゃ。おぬしがおらなんだら、ワシはあの魔族の剣で真っ二つになっとったじゃろう」
ルミナスもこちらに近づいてきた。
「アルーラさん大丈夫?」
「ああ、法術で治してもらったから……」
アルファは冷たい地面から父の上体を起こしながら答えた。父はやはり気を失ったままだ。
魔物の群れと戦った後でも、ルミナスはいつも通り涼しい顔をしている。アルファはやはり悔しい気がしたが、今は安堵の思いのほうが強い。魔物も全て退治されたし、父の怪我も治してもらったし、これでもう安心だ。
ふとアルファが隣を見ると、エクルも本当にほっとした顔になっている。
隠れていろとの言いつけを破った軽はずみなエクルに、腹は立ったものの――
アルファたちが助かったのはルミナスのおかげと言って過言でないくらいだが、ルミナスは
エクルのその軽はずみな行動によって動いたのだ。
いや、むしろエクルは、ルミナスにアルファたちを助けさせるために、あえてその行動を取ったのかもしれないのだ。
いずれにしろ、エクルが危険な真似をしたのは、アルファが弱いせいだ。そう思うと、自分が情けなくてエクルに怒ることなどできなかった。
「しかし、おぬしらはずいぶん腕が立つのう。見ない顔じゃが?」
再び老婆から声を掛けられた。そこへ、鳥の巣頭が口を挟む。
「この子たちなら俺、時々この市で見かけてるぞ」
と、アルファとエクルのほうを指さしながら。アルファは毎月、顔に似合わず花を売っている彼が気になっていたが、彼のほうもアルファたちの存在に気づいていたようだ。
「市で?」
「月に一度、ソーラの村から行商に来ているんです」
アルファが老婆に答えると、自警団の二人組が口々に言った。
「そうか、ソーラの村か。遠くから来て、魔物の群れに出くわしたんじゃ、そりゃ災難だったね」
「でも、おかげで俺らは助かったけどな。あー、ほんと良かった良かった」
危険が去って、彼らは浮かれていると言えるくらい明るい表情だ。そんな彼らに、老婆は呆れた様子で言う。
「しかしまあ、自警団は頼りにならんのう」
「そう言わないでください、長老。自警団の仕事は見張りと見回りが主で、実戦経験なんてほぼないんですから」
「そうそう、これでも頑張ったんですよ。俺は逃げ出さなかった自分を褒めてやりたいです」
と二人組。
『自警団は有事の時、魔物と戦えるよう訓練されている』とアルファは聞いていたが、実態はそうではないらしい。武器商人セーブズが、「彼らがどこまで当てになるやら――」などと洩らしていたのは、このためだったのか。
「いくら頼りないって、ハンナ婆さん、あんまり無理するなよ。もう歳なんだから」
今度は鳥の巣頭が苦々しい表情で言った。
「うるさいサム! 年寄り扱いするな! ワシは元スプライガ騎士団員じゃぞ」
老婆は、サムというらしい花売りに向かって両腕を振り上げ、怒りを表わす。が、背が低いため妙にかわいらしく見える。髪は真っ白だし、顔の皺も深く多い。長老と呼ばれていることからしても確かにかなり歳を取っているだろうが、声は大きく何とも元気だ。
サムはおっかなそうに首をすくめた。
「団員たって、婆さんは救護班だったろ。それに、とっくの昔に定年退職――」
「黙らんか! スプライガ騎士団をクビになったお前が、エラそうなことぬかすな!」
「ぐ……っ」
老婆からのきつい一言に、サムは言葉を失った。
アルファはこの二人がスプライガ騎士団にいたことを聞いて少し驚いたが、納得いった。
ハンナという法術士の老婆。元救護班なら、治癒の術のほうが得意なのは当然だろう。
サムも、どうりで魔物と戦えるわけだ。どうしてクビになったのかは、アルファの知る由もないが。
「そりゃともかく……立場ねぇな。元騎士団員たって、田舎だと思ってたソーラの村の少年たちのが全然強いんだもんな……」
サムは面目なさそうな顔をして、ボサボサの頭をかいた。アルファがいつも市で見かけていた無愛想な花売りは、意外にも表情豊かだ。
だが、彼は『ソーラの村の少年たち』と一括りにしているが、アルファとルミナスの間にも歴然とした実力差がある。それにルミナスはソーラの人間ではないし……
「そういや、ルミナスはサーチスワード騎士団の団員だっけ?」
アルファは思い出してルミナスに尋ねた。ルミナスは皆の会話を聞くよりは、周囲の様子を見回していている。
「ルミナス……?」
ルミナスが答えるより早く、サムが呟きながら顔色を変えた。まじまじとルミナスの顔を見、そして叫んだ。
「――って、まさかあのルミナス=トゥルス!? サーチスワード騎士団で、最年少で大部隊の隊長に抜擢されたっていう……!?」
え? 何だそれ。ルミナスが――
「えーーーーっ!?」
アルファはエクルと同時に大声を上げてしまった。自警団の二人組も盛り上がる。
「そりゃすごい! サーチスワードの大部隊っていや、確か二千人規模じゃないか。それを指揮してるなんて!」
「その歳で大したもんだな~。どうりでめっぽう強いわけだ!」
確かにルミナスは最初に会った時、ルミナス=トゥルスと名乗り、サーチスワード騎士団から来たと言っていた。
だが、そんな大そうな肩書き付きだなんて。
「本当なんですか?」
驚きの抜けない顔でエクルが尋ねると、
「ええ。一応、『サーチスワード騎士団第三大隊』の隊長を務めています」
ルミナスはにこりと微笑んだ。
「おい、そんなの聞いてねーぞ!」
アルファは抗議したが、ルミナスは悪びれもせずにただ一言。
「だって言ってないし」
……この男は。
「あー、やっぱりあのルミナス=トゥルスか~」
サムが鳥の巣頭を掻きながら言う。
「一年前、俺がまだスプライガ騎士団にいた時、サーチスワード本部で大隊長に就任したってぇ、十七歳の天才少年の噂が流れてきてな。まあ、噂でしか知らなかったし、俺はその後すぐクビになっちまったけど。まさかこうして本人に会うとはなぁ」
どうやら、昨日の体育の時間に噂になっていたのも、ルミナスのことだったらしい。
一年前……ってことは、ルミナスは今は十八ってことか。
アルファはルミナスを二十歳くらいだと思っていたが、実際は自分と二つしか違っていなかったのだ。それなのにあの実力と落ち着き。何だか敗北感が余計大きくなった気がする。
「しかし、大部隊の隊長が、どうしてガフトンくんだりにおるのじゃ?」
一人沈黙を守っていた老婆ハンナが、ルミナスに問い掛ける。疑問に思うのは当然だ。まさか、エクルが光継者だと夢のお告げがあったからはるばる会いに来たなどとは、それこそ夢にも思わないだろう。
「いろいろ事情がありまして。それより――」
ルミナスはまともに答えず、何やら話を変えようとしたが。
「いやー、しかし噂通りだったな。ルミナス=トゥルスは武芸に秀で、容姿端麗ってな」
噂の人物に会えて興奮しているのか何なのか、サムはまだ語っている。
「オマケに頭も切れるって言うし、騎士団員の羨望の的だな。それに家が――」
「そんなことより」
ルミナスは先ほどよりわずかに強い調子で、サムの発言を制した。そして、真剣な面持ちで再び周辺を見回しながら言う。
「魔物たちは一体どこから町に侵入したんでしょうか? しかも、この町にはやぐらがあって見張りもいるはずなのに、警鐘も鳴らされませんでしたね」
「いや、ワシは市の近くにおったからこの騒ぎで駆けつけたが、もうおぬしらが魔物たちと戦っておったし……」
「俺たちだって最初っから市にいたからなぁ。わかんねぇ」
「そう言えば変だよな。何で鐘は鳴らなかったんだ?」
ハンナとサム、自警団の二人組が顔を見合わせた。
アルファも魔物退治のことで頭が一杯だったが、言われてみれば確かに謎だ。
「町を見廻ったほうがいいかもな」
と自警団の二人が頷き合う。
ルミナスがアルファに向かって言った。
「宿をとってアルーラさんを休ませたほうがいい」
「えっ? 宿って――」
今まで、行商に来てもずっと日帰りだった。アルファたちが戻らなかったら、ソーラの村でどれだけ心配するだろう。
……でも。
アルファは空を見た。いつの間にか、だいぶ日が傾いてきている。日が暮れるのも時間の問題だ。気を失った父を背負い、戦えないエクルを連れて長い道を歩くのには、かなり無理がある。
サムが市のある広場から南東方向を指した。
「宿は向こうだ。ほら、あの赤い屋根の建物だ。東西の大通り沿いの大きな宿だからすぐにわかるぞ」
サムの指差すほうに、確かに赤い屋根の建物が見える。いや、手前に並ぶ建物が視界を遮って、正確には屋根しか見えないが。この場所から近いし、迷わず行けそうだ。
ルミナスがエクルに小声で話しかける。
「エクレシア様も宿でお休みください。私は念のため町の様子を見てきます」
言うが早いか、ルミナスは自警団の二人組と共に、魔物の群れが現れた方角へと駆けていった。
「ワシも行かねば」
老婆ハンナが腰を曲げながら、おぼつかなげな足取りでルミナスたちの後を追う。その隣をサムが歩く。
「婆さん、あとは若いもんに任せとけって」
「うるさい! 年寄り扱いするなと言うとるに!」
アルファも町の様子が気になったが、もう魔物の邪気は感じないし、人々の悲鳴も聴こえてこない。たぶん心配いらないだろう。
アルファは父を背負い、素直に宿に向かうことにした。
村に持ち帰るはずだった荷物は、大きな籠の中に一つにまとめてエクルが背負った。行きの荷物ほどではないが、全員分となるとけっこうな重量になってしまう。アルファは父をおぶいながらでも少しは荷物を持てると言ったのだが、エクルは全部自分が運ぶと言って聞かなかった。
「これくらいしか……」
エクルは言いかけて言葉を飲み込んだ。
自分にはこれくらいの事しかできないから、これくらいはさせてほしい。エクルはそう思っているのだ。
仕方なく、荷物はエクルに任せることにした。アルファたちは魔物の大量の死骸が転がった市場を後にし、宿の赤い屋根を目指して路地に入っていった。
歩きながら、アルファは父の大きな体の重みを全身で、そして心で感じた。傷は癒えたが、父は力なくぐったりとしている。
アルファを庇ったがために。
胸に痛みを覚えながら、アルファは昔の出来事を思い起こした。
あれは、アルファが八歳の――父からの地獄の特訓が始まって二、三ヶ月の時だった。
アルファは一度だけ、父に逆らったことがことがある。
その日もアルファは父に山に連れて行かれ、魔物との戦いを余儀なくされた。怖い思いを押し殺し、何とか退治したアルファだったが。とうとう耐えかねて叫んだ。
「もう嫌だ……! なんでこんなことしなきゃならないんだ……!」
大事な剣を、叩きつけるように投げ捨てた。
「父さんなんか……父さんなんか大っ嫌いだ……!!」
そう吐き捨て、父に背を向けて、山道を下に向かって駆けた。
「待て! アルファ……!」
父は追って来たが、待つはずはない。しかし、すぐに止まらざるを得なくなった。行く手にあった茂みの中から、いきなり魔物が現れアルファに襲い掛かってきたのだ。アルファの頭の中は真っ白で、動くことなどできなかった。
けれども、アルファの両眼は確かに捉えた。アルファを抱きしめ、魔物の盾となった父の姿を。
魔物の爪が、父の脇腹を払った。血が飛び散った。父は苦しそうに呻き声を洩らしながらも、魔物に向き直り、剣を抜いて斬った。そして魔物が倒れると同時、父は脇腹を押さえて膝をついた。傷を押さえる手も、真っ赤に染まっていた。
「父さん……! ごめんなさい! ごめんなさい……!」
自分のせいだ。アルファはぼろぼろ泣きながら、ひたすら父に詫びた。だが、父は。
「怪我はないか、アルファ」
そう言って、優しく微笑んだのだ。どんなに傷が痛むだろう。それなのに――
それは衝撃だった。父に抱いてきた、これまでの日々の不満やわだかまりが、全て吹き飛んでしまうほどに。
決して父には勝てないことを、アルファはその時思い知った。疑いようのない愛情の前に、ただ無力だった。逆らうことなど、どうしてできるだろう。
――その後も続く父の容赦ない稽古に、アルファは苦しみ、やりきれない思いが湧いてくることもあったが、その度にこの出来事を思い出した。そうして、自分の中の思いを消化して、乗り越えてきたのだ。
*
誰もいなくなった市場。
地面は様々なもので埋め尽くされている。倒れた売り台に、飛散した無数の装飾品や食べ物、そして――狼に似た魔物たちの大量の亡骸。
胴体を真っ二つに斬られたものや、串刺しにされたもの――町に侵入した魔物たちは、人間によって残らず制裁を受けた。
――はずだったが。
魔物たちの死骸の中から、一匹が体を起こした。
周囲の様子を伺うように、ゆっくりと。
真っ黒な体毛に覆われたその体には、傷一つない。
戦いの混乱の中、仲間の魔物たちの死体に紛れ、邪気を抑えて息を潜め、難を逃れていたのだ。
黒い狼もどきは、無人であることを確認するとその場から走り去った。




