第11話 魔族の襲来
市場にいる人々に動揺が奔る。
「魔物だって……!?」
「そんなまさか……!」
魔物が、町の中に? あの市壁を突破して?
アルファも耳を疑った。
しかし、間違いなかった。魔物の姿は見えずとも、アルファは邪気を感じ取れる。魔物は確かに近くにいるらしい。
邪気はだんだん、アルファたちのいる所に近づいてくる。
しかも、相当の数が、すごい勢いで。
エクルもそれを感じるのか、顔をこわばらせた。
アルファが逃げるだの戦うだのという思考を廻らせる暇もないままに、邪悪な気配はこの場に至った。
アルファたちがいるのはちょうど市場の真ん中辺りだが、人々は西側から東側へと、慌てふためいて駆けていく。叫びながら、皆、必死の形相だった。
露店の並んだ狭い通路を、我先にと、他人を押しのけてでも進む者もいる。赤ん坊を抱きかかえている母親や、足の悪そうな老人も、可能な限りの速さで懸命に走っている。店主たちも店を放り出したまま――いや、中には売り物や金を両腕に抱えられるだけ抱えた店主もいるが――なりふり構わず逃げ出した。
売り台が倒れ、品物が地面に散乱し、人々の叫び声が響き、市は大混乱に陥った。
アルファとエクルも、その逃げる人々の波に飲まれそうだった。だが、呆然と立ち尽くしていたエクルの体が、ふいに浮いた。
正確には、ルミナスに抱えられていた。いつの間にかルミナスは、無人になった背後の露店の台の上に乗り、エクルの体を抱き上げている。片腕をしっかりとエクルの腰に回して。
ルミナスの体躯はやや痩せているが、力はあるらしい。
いや、そうじゃなくて。何か――
何か、アルファはまた苛立ちかけたが、考える間もなく、隣の露店の台の上に並んだ衣類を隅に避け、慌てて台に乗り上げた。このままでは人波に倒され踏みつけられる。
ルミナスはともかく、エクルがここにいたのでは自分だけ逃げるわけにはいかない。見れば、父も近くの台に乗り上げている。既に、腰の剣を抜いて握りしめていた。
戦うつもりだ。
父が戦うのなら、アルファもなおのこと逃げるわけにはいかなかった。
邪気の数は多い。それだけの魔物を、自分たちで相手にできるのかはわからないが……戦わなければ、確実に町の人々に犠牲が出る。
ルミナスはエクルを抱えたまま、人々が逃げる通り道とは反対側に向かって、台から飛び降りた。そして戸惑うエクルをそっと地面に下ろし、台の下に潜らせた。
「ここで隠れていてください」
「でも……!」
「ご安心を。エクレシア様は必ずお守りします」
ルミナスはまた、光継者としてのエクルに対する言葉遣いに戻っていたが、この悲鳴の嵐の中では、少し離れたアルーラの耳には届くまい。
守ると言うからには、ルミナスも戦うつもりだろう。頼もしいが、やはり三人だけで応戦できるかは不安だ。けれど、それを口には出せない。アルファは背中の荷を下ろし、台の下に落としてエクルに言った。
「荷物預かっといてくれ。おとなしくしてろよ」
エクルは心細そうな表情でアルファを見上げたが、黙って頷いた。
ほどなく、逃げて来る人々の後ろ側、つまり西側から、この騒乱の原因となったものが姿を現した。
狼のような化物たち。数は、ざっと三十匹――
一度にこれだけ多くの魔物を見るのは初めてだ。アルファは圧倒されてしまった。
市場の食べ物の香りに混ざって流れてくる、何か異様な匂いが、体をより硬直させる。
狼もどきたちは、体色は黒やら茶色やら灰色で、体長は人間の子供とほぼ同じものから、アルファの倍近くありそうなものまで。痩せこけたのから、丸々と太っているものまで。頭から長い角を真っすぐ生やしたものや、牙で口の裂けているもの……一口に狼型の魔物と言っても、それぞれに特徴がある。ただし、奇妙かつ醜悪だという点に関しては全てに共通していた。
しかもそれだけではない。その魔物たちの真ん中に、一際目立つ存在がある。
二本の足で直立し、布の服の上に簡素な皮の鎧を纏った、狼の顔を持つ化物。体の造りは人間に近く、その背には大きな弓を背負い、手には大剣まで持っているが、剥き出しの太い腕は灰褐色の獣の毛でびっしりと覆われている。
半狼半人。物語に出てくる狼人間、人狼を思わせる。
これは野の獣に近い魔物とは違う。初めて見る――魔族だ。魔物よりもさらに手強いと言われている存在。
アルファは自分の顔が引きつっているのを感じた。
市場から逃げ出す人々の、最後尾がアルファたちの前を通り過ぎていく。
『人狼』の魔族は狼もどきたちと共に、無人になった通路を、左右に並ぶ露店を見回しながら闊歩している。
「ったく、市場つっても大したモンはねぇみたいだな。まぁ、こんなちっせぇ町じゃ、しょうがねぇか」
大きな牙の覗く口を開き、溜息混じりに人狼が声を発した。片手を腰に当てながら、首を軽く横に振る。
やはり、人語を話せる魔族だ。その声は、人間の若い男と変わらない。表情や仕草まで人間に近い。
「なっ、なんだこりゃ……!?」
「魔物がこんなに……!!」
突然、通路の東側から声が聴こえ、アルファは振り返った。そこには、西側からやってきた魔物の集団を目の当たりにして慄いている男たちの姿があった。
鼠色の制服を着た、二十代後半と思われる男二人組。先ほど、市を見回っていた自警団の団員たちだ。この騒ぎで駆けつけて来たらしい。
よく見れば、彼らの後ろにもう一人いる。野良着を着た、鳥の巣のようにボサボサの頭をした男。彼にも見覚えがある。市で花を売っている男だ。
彼は今、花ではなく剣を手にし、顔をこわばらせながらも、魔物たちに向かって構えている。どうやら戦う気だ。
なぜ花売りがわざわざこんな所に、とアルファは一瞬思ったが、震えている自警団の二人組より彼のほうがまだ落ち着きがある。ともかく兵は多いほうがいい。
「ほーお、逃げ出さねぇ勇敢な人間共がいるじゃねぇか」
人狼が愉快そうに言った。人狼は、自警団と鳥の巣頭の登場で、その手前の台上にいたアルファたちの存在にもようやく気づき、こちらから二十歩ほどの距離を保った所で、魔物たちと共に歩みを止めた。
人狼は魔物たちに向かって言う。
「てめぇら、この人間共を好きにしていいぜ。俺はその間にめぼしいモンがねぇか探す。もしスプライガから騎士団が来ると面倒だから、その前にはずらかるぞ」
市場の売り物を物色するつもりらしい。化物のくせに。魔族は姿が人間に近い分、物品に対する感性も人間に近いのか。
――などと考えている場合ではない。
人狼と狼もどきたちは主従関係にあるらしい。人狼の言葉に応じて、狼もどき共がアルファたちに向かって駆けてくる。
ただ全部ではなく、人狼の前面にいた十匹程度。一度にかかって来ないのはありがたいが、それでも経験のない数だ。牙を剥いて向かってくる魔物の群れが、怖くないと言えば嘘になる。
だが、父アルーラは台から飛び降り、襲い来る魔物たちに猛然と向かっていく。戦うしかないのだ。アルファは急いで父に続いた。
先頭の一匹が父に飛び掛かる。父はその懐に潜って斬りつけ、崩れる魔物の体から素早く身をかわした。その父に襲い掛かる別の一匹を、アルファが薙ぎ払う。
露店の並んだ通路は、戦うにはいっそう狭い。斬られた魔物たちがぶつかり、売り台はまた倒れ、壊れ、上に乗っていた品々が散らばる。
個々の魔物を倒すのは難しくないが、群れ相手となると、やはり戦いにくい。次の魔物がアルファたちに向かってくる。アルファは父と背中を預け合い、身を守ることを考えながら、掛かってくる敵を払う。
戦うアルファたちの脇を、別の魔物たちがすり抜けていった。自分の前にいる魔物を相手にしながらの一瞬の出来事に、止める手立てがない。
通り抜けた四匹の魔物たちは、通路の先にいる人間たちを目指す。
いつの間にか前に出てきていた自警団の二人組と鳥の巣頭の男に二匹が向かい、あとの二匹が、さらに先にいるルミナスに向かう。
ルミナスはエクルが身を潜めている台の前に立ち、剣を握った右腕をわずかに前に突き出している。見た目こそ普通に立っているのとさして変わらないが、それが彼の構えらしい。気配には隙がない。
とにかく、エクルに危険が及ばないでほしい。ルミナスの腕ならばたぶん、魔物の二匹くらい問題ではないだろうが、自分もエクルのそばにいたほうが良かったか――
そんな思いも湧いたが、アルファの視線は手前の男たちに引き戻された。
自警団の二人組は、剣を構えてはいるものの、怯えて腰が引けてしまっている。魔物たちが掛かってくると、片割れはでたらめに剣を振り回し出し、もう一方は硬直して動けなくなった。
彼らは何をしに来たのか。これではすぐに殺されてしまう。助けたいが、アルファには別の魔物が襲い掛かり邪魔してくる。アルファは焦った。
が、それも一瞬だった。
鳥の巣頭が、二人組に気を取られていた魔物を横から斬りつけ、彼らを救ったのだ。なおかつ、鳥の巣頭は自分に飛び掛かってきた魔物も何とかかわし、すかさず後ろに回り込んで斬った。
アルファから見ると少々動きが大きいが、そこそこ剣の心得があるようだ。
アルファも彼らに注意を奪われている場合ではない。自分の目の前の魔物を斬り払う。隣で父も魔物を斬り、こちらの残りはあと二匹。それの攻撃を警戒しつつ、アルファは再び通りの先に目をやった。
今まさに、ルミナスに向かって魔物が飛び掛ったところだった。しかも、二匹が同時に。
だが、ルミナスは少しも表情を変えない。剣を持つ右腕を斜めに振り上げ、その一振りで、二匹を同時に薙ぎ払った。
ルミナスなら大丈夫だと思ってはいたが、その剣の速さと鮮やかさはアルファの想像を超えていた。
斬られた魔物たちは、声もなく地に落ちてゆく。
「アルファ……!!」
父の怒鳴り声にアルファはハッとした。ルミナスの剣に目を奪われていた隙に、狼もどきの牙が左から迫っていた。アルファは身をよじって何とかかわしながら、敵を斬り伏せた。
「余所見している場合か!」
父からもっともな喝を入れられる。
先発の十匹はどうにか退治したが、空気は変わらず、むしろ、より張り詰めていた。
父は叱るのを一言で止め、通路の西側を見据えている。
そこにはまだ、人狼の魔族と、その手下の魔物がたくさん残っている。これからが本番、というわけだ。
「な……んだと……?」
人狼は、アルファたちの足元に転がっている手下の遺骸を見ながら呆然と呟いた。その鋭く恐ろしい金色の目を見開いて。そして放心はすぐさま憤怒へと形を変える。
「人間ごときに……!」
人狼は吼えるように背後の魔物たちに命じた。
「あの人間共を皆殺しにしちまえ……!!」
命令に従い、残りの二十ほどの魔物がアルファたちに向かって駆け出した。
が――
「我が魂は 今こそ奮う 眠れる力は 今こそ目覚めん」
どこからか、渋みを帯びた声が聴こえてきた。歳を取った、女の声だ。
「我が力 世に満つ力と交わりて この手に集うは望むもの」
これは――
アルファは『見えざる力』を感じ、その力と声の発生源と思われる場所に目をやった。
アルファから見て前方。人狼の立つ位置よりだいぶ手前の左側、露店の並ぶ通路からわずかに外れた位置。倒れた売り台と売り台の隙間から、人の姿が見える。
老婆だ。
真っ白な長い髪をなびかせた、背の小さな老婆。装いも、ケープと長いスカートというごく普通の町民の服装で、戦いの場には不似合いだが――間違いない、アルファが感じている見えざる力は、この老婆の霊力だ。
人間に向かっていた魔物の群れも、老婆の霊力を感じるのか動きが鈍くなる。
老婆は鋭い眼光でその魔物たちを見つめながら唇を動かす。
「澄みて硬きもの 凍てつくものよ 追いて 逮らえて 逃さざれ」
これは魔法のための詠唱に違いない。普段、グレースやエクルが使う聖術とは違う――おそらくは法術。自分の霊力と、自然界に宿る力を連結させて発動する魔法だ。
「我仕掛けるは 凍れる罠――」
老婆は青みががった光を帯びた手を、魔物の群れへと向けた。
「『氷の枷』!」
たちまち、その手から氷の礫が飛び、狼もどきたちに襲い掛かる。術を喰らった五、六匹の魔物たちは悲鳴のような声を上げた。
致命傷になるほど強力な術ではないらしいが、ほんの一部、氷の礫が当たった部位が凍りついている。魔物たちはもがいたが、凍った肢や首を動かすことができない。
敵の数が多い時には有効な術だ。いい所に助っ人が現れてくれたものだ。この調子なら、残りの魔物たちもどうにか――と、アルファは希望を持った。
が。
「――んのクソババァ!! 邪魔すんじゃねぇ……!!」
思わぬ伏兵に、人狼は怒りを露わにし、老婆に駆け寄ると大剣で斬り掛かった。
「ハンナ婆さん……!!」
鳥の巣頭が叫んだ。
老婆はただ、棒立ちのまま、ひっ、と声ならぬ悲鳴を上げる。
老婆から一番近くにいたアルファは、咄嗟に人狼と彼女の間に飛び込んだ。
ギィィィ……ン!
金属音が響く。間一髪、アルファは自分の剣をかざして人狼の剣を受け止めた。
人狼は驚いた顔をし、剣を引き後ろに飛びのいた。
と思いきや、すぐさま再び向かってきた。今度は最初からアルファを狙って。頭上から、両腕で剣を振り下ろしてくる。
アルファは、これをまた受け止めた。
「何……っ」
人狼は先ほどよりさらに驚いた顔を見せた。まさか防がれるとは思っていなかった、そんな表情だ。
アルファ自身も驚いた。二撃目は最初の一撃より重かったが、それでも、予想したほどの衝撃は来なかったのだ。人狼はより力を入れてくるが、アルファの腕も剣も動かない。
狼もどきたちが、人狼に加勢すべくアルファに向かってきた。近くでそれをアルーラが斬って防ぐ。鳥の巣頭も、法術士の老婆を背に庇いつつ、アルファを助けようと剣を振っている。
だが敵の数は多い。一体相手に時間を割いてはいられない。早く人狼を何とかして、逆に父たちを助けなければ――
アルファは力を込めて、敵の剣を押し返した。人狼が慌てて後ろに退く。
今度はこちらから攻める。一、二、三発、アルファが打ち込んだ剣を、人狼はさばくが、その形相は必死だ。
「何なんだ、てめぇは……!? 人間の――しかもガキのくせに……!」
人狼は動揺の色を隠さなかった。その様子に、こちらは逆に余裕が生まれる。
魔族がどれほどのものかと思ったが、この程度ならば、父アルーラのほうがよほど強い。魔族の強さもピンキリだとルミナスが言っていたが、こいつは弱い部類に入るのかもしれない。
剣を繰り出すこと七発目、アルファの強力な一撃を受けきれず、人狼は大きく体勢を崩した。
今だ……!
人狼の皮の鎧くらいは、剣で貫けるはずだ。アルファは人狼の心臓を狙った。
だが。
恐怖に染まった人狼のその表情に、アルファの腕は止められてしまった。
どこから見ても、異形の化物には違いない。それでも、より人に近い姿していて、人格――という表現が正しいかわからないが、それらしきものを持っている存在を殺すことに、ためらいが生じてしまったのだ。
人狼はアルファの迷いを見逃さなかった。しめた、とばかりにその表情を変化させる。体勢を立て直し、剣を握り直すと、アルファに斬りかかってきた。
アルファは急いで守りの構えをとろうとしたが、間に合わない。
斬られる。
そう思った刹那――アルファは見た。
アルファを人狼から遠ざけるように横から抱え、自らの左肩に凶刃を受けた父アルーラを。




