第1話 ある朝の一幕
さあ、目覚めなさい。
運命の時が近づいています。
あなたは、光継者――
*
朝の日の光が緑を鮮やかに輝かせながら、森の中へと降り注ぐ。風がそよげば、枝葉は優しい音色を奏で、木漏れ日の下で白や黄色の花々が踊る。まだ少し冷たい空気の中にも、暖かな生命の息吹が溢れていた。
そんな春の穏やかな情景の中に佇む、一人の少女の姿がある。
年の頃は十五、六。裾のやや長い上衣に、膝が隠れる丈のズボンを身につけている。厚手で丈夫なだけの洒落っ気のない服装であるが、それでも非常に可憐な少女だ。旋毛の辺りで束ねられた髪は、金にも銀にも見える神秘的な輝きを放っている。そして、長い睫毛に縁取られた愛らしい瞳に、華奢な鼻筋。もし知らぬ者がこの少女を見たのなら、森の精とも見紛うだろう。
しかし、今少女は何かに怯え、震えていた。
少女は唇の前辺りで両手の指を絡め、立ったまま祈り始めた。
「力に満ちたる 我らが主よ
我は唯 主をのみ誇り 切に請わん 我を勝利に導き給うを
今ぞ天の使者 我が元へ遣わし給え」
祈りながら、少女の双眸は片時も森の奥から離れることはなかった。少女のほんの十数歩先に、野兎がいるのだ。
いや、兎などではない。
頭のてっぺんから伸びる長い耳は、まさに兎のそれであるが、目は不気味に光り、閉じた口から鋭い牙がはみ出ている。その体は兎にはあり得ない大きさで、仮に横に並ぶなら、頭の位置が少女の腰の高さを超えるだろう。
魔物だ。
動物に似て異なるもの。動物を醜悪にして、はるかに凶暴にしたような生物。人を襲い、その命を奪う。百数十年ほど前からこの世界に出現するようになり、人間を苦しめている化物たちは、魔物とか魔族とか呼ばれている。
この兎もどきは、そんな魔物の一種なのだ。
兎もどきは、敵を威嚇する犬のように、兎らしからぬ低い唸り声を上げながら少女を凝視している。
少女の淡い茶色の瞳が揺れる。襲われたらひとたまりもない。しかし、少女は震える声で、なおも祈りの言葉を紡いだ。
「炎繰る御使いよ とく来たれ
高く尊き主の権能 今、我と共にここに示さん
我らが力は烈火と成りて 穢れしこの地を焼き清む――」
組まれた少女の手が、かすかに赤く光る。少女が捧げていたのは、ただの祈りではない。神の使いであるところの天使の力を借りて炎を発する、魔法の呪文だったのだ。
「『浄化の炎』!」
少女の声に応え、その手に生じた赤い光は、猛き炎と化し、目の前の魔物めがけてまっすぐに飛んでいく――
はずだった、が。
プスン……
少女の手から赤い光は儚く消え、代わりに、力の抜ける音と共に真っ黒な煙の塊が噴き出した。ただ、それだけだった。
少女は思わず、自分の両手を見ながら声を上げた。
「うそっ、また失敗!? 今日こそ成功すると――」
兎もどきの、さらに大きくなった唸り声が聴こえてくる。少女は我に返り、青ざめながら視線を魔物に戻す。魔物が嘲笑するように口を薄く開いた。
「う……っ」
少女は一歩、そっと後ずさる。
先ほどまで少女の魔法を警戒していたらしい魔物は、もう危険はないと判断したらしく、一つ吼えると、跳ねながら少女のほうに向かって来た。少女はもはや悲鳴も上げず、兎もどきに背を向けて全速力で駆け出した。
――昔よりも、魔物たちはその数を増やし、力も増している。
ここ数年、世の中ではそう言われてきた。
少女も幾度となく魔物を見てきたし、魔物の勢力の拡大は否応なく感じていたのだが、たった一人の時に魔物に遭遇したのは、これが初めてだった。魔法に挑戦したのは少々無謀だったかもしれないと後悔しつつ、とにかく逃げなければと懸命に駆ける。
走る少女の右手側、森の木々を隔ててすぐ、少女の住む村がある。ただし、隙間なく丸太を組んで造った壁が村をぐるりと取り囲んでいるため、中は見えない。魔物の侵入を防ぐための防護柵だ。
今、村を魔物から守るための柵は、少女が逃げ込むのを拒む障害ともなっていた。柵は少女が手を伸ばしても上に手が掛けられない高さがあり、ましてや魔物から逃げながらではとてもよじ登れないのだ。
村の柵には、開閉できる扉を設けた出入り口が一箇所しかないため、村に逃げ込むためには、そこに向かうしかない。
しかし。
少女はいくらも進まぬうちに、地表に伸びていた木の根につまづき、地面に胸が着くほど勢いよく転んでしまった。慌てて身を起こすが、振り返ると、もうすぐ後ろに兎もどきが迫っていた。
兎もどきが咆哮し、両の後ろ肢で地を蹴った。そして、牙を剥き出しにしながら少女に飛びかかる。
少女はぎゅっと目をつぶり、身をかがめ、叫んだ。
「助けて、アルファーーっ!!」
次の瞬間――
けたたましい悲鳴と共に、血飛沫があがった。
「――っ」
恐る恐る目を開いた少女の前に、自分と魔物の間に立つ、一人の少年の後ろ姿があった。
少女のもとに駆けつけたその少年が、手に持つ長剣で魔物を斬りつけたのだ。
少年の質素な白の上着を、どす黒い返り血が染めた。が、魔物の血はすぐに、しゅうしゅうと音を立てて蒸発していく。服に着いた血も、刃を濡らした血も、瞬く間に跡形もなくなった。
刀身と、少年の栗色の髪が、木漏れ日を浴びてきらめく。少女はそれを目にすると同時に、少年に救ってもらえた実感を伴って、顔をぱぁっと輝やかせた。少女はもう一度叫んだ。
「アルファ……!」
その少年の名前を、今度は嬉しそうに。
腹に斜めに線の入った兎もどきは、どさりと倒れ、そのまま動かなくなった。
アルファ=リライトはそれを見届けると、すぐさま少女を振り返った。
「エクル! 大丈夫か? ケガしてねぇな?」
「うんっ、大丈夫!」
エクルことエクレシア=オルウェイスは、嬉しそうに答えた。
「ありがと。助けてくれて」
それは、なんとも無垢な、心から感謝しているのが伝わる笑顔だ。
「そっか。良かった」
そう言いながら、アルファはエクルから目を逸らし、腰のベルトに結んだ鞘に剣を収めた。
アルファはエクルの呼ぶ声で駆けつけたのではない。それより前に、何か異様な気配を感じ取り、もしやと思い慌てて駆けて来たのだ。
間に合ってほっすると、急に、心配より照れくさい気持ちが大きくなった。ごまかすように、思いついたことを口にする。
「それにしても、最近ますます魔物の数増えて――ん?」
アルファは気がついた。清涼な朝の森の中を漂う、かすかな異臭に。
「……この煙の匂いは……」
まさか。頭の中に、ある推測が浮かぶ。
アルファはエクルに視線を戻した。エクルがびくりと硬直しているのを目にして、推測は一瞬で確信へと変わり、驚きと同時に怒りが込み上げてきた。
「エクルッ! お前、実戦で魔法試したな!?」
アルファはエクルを睨むようにして見ながら怒鳴りつけた。
駆けつける前に感じた異様な気配は、二つあった。一つは魔物が持つ特有のもの――いわゆる『邪気』、そしてもう一つは、離れた場所からでははっきりとはわかりかねたのだが、エクルの魔法だったのだ。
「お前の魔法が成功したことが一度だってあったか? なんて無茶なことすんだよ! 死ぬ気か!?」
「で、でも、極限状態に追い込まれれば、潜在能力とかいうやつが目覚めたり……?」
エクルは、恐る恐る反論してきた。だが。
「お前に潜在能力はないっ!」
アルファはさらに語気を強め言い放った。うなだれるエクルに、なおもたたみかける。
「お前には魔法の才能なんてねぇ! 自分でもわかるだろ! きっぱりあきらめろっ! いいな!?」
本当に腹が立ったのだ。アルファは同じ森の中にいたし、気配を察知したから駆けつけることができたが、もし、もう少し遅かったら? 失敗するに決まっている魔法を試す暇があるなら――
「いつも言ってんだろ! 万一魔物が出たら真っ先にオレを呼べって!」
かっとなり、言い募ってしまった。けれどエクルを見ると、その目が潤んでいる。
「……私、いっつもアルファに助けてもらってばかりだから、だから……自分で何とかしなきゃって……ごめんなさい……」
うつむいたまま、少し掠れた声で答えるエクル。
急速に、アルファの胸の中に罪悪感が膨れ上がった。無茶なことをするエクルのほうが悪いと思いつつも、泣かれるとどうしようもない。大きく溜息をついて、
「あ~、もういい。次から気をつけろ」
と、ぶっきらぼうにこの話を打ち切る。ちょっと言い過ぎたと思いつつ、謝りはしない。
と、そこへ。
「こらーっ!」
叫びながら、壮年の男が走ってくる。口髭を生やした、逞しい体つきの背の高い男。アルファの父、アルーラだ。
「今は修行の時間だろう。二人して何をのんびりさぼってる!」
そうなのだ。今、アルファとエクルは『修行』の最中だったのだ。
二人は、毎朝アルーラの指導で、体を鍛えさせられていた。その訓練の一環に持久走があり、村の周囲を、森を抜け、丘を登り下りしながら何周も走るのだが、その途中エクルが魔物に遭遇して、一騒ぎしたわけだ。
「時間がもったいない――」
父は言いながら、アルファに斬られた兎もどきの遺骸に気づき、その顔をしかめた。
「そうか。魔物が出たのか。二人とも大丈夫か?」
「ああ」
「はい。アルファが助けてくれました」
「しかし、魔物の数はどんどん増えていくな……」
と、アルーラは腕組みしながら、重々しく呟いた。
「ああ。昨日の夕方にも一匹退治したばっかなのに」
答えながら、アルファは父の胸中を推し量った。父は村の長だ。村を守る責任を負いながら、誰よりも魔物のことで頭を悩ませているに違いなかった。
アルファたちの暮らすソーラの村は、森と山に囲まれた、小さな田舎の村だ。基本、静かで、のんびりした平和な所だと言えるだろうが、時々、防護柵を乗り越えて村の中に入り込んできた魔物に、村人が傷を負わされたり、家畜を喰われたりという被害に遭っていた。
噂では、いくつもの町や村が、魔物によって滅ぼされたという。何より、半年ほど前には、ソーラの村の最寄町も魔物の群れに襲われて多数の死者を出した。自分たちの村も、いつそうなるか、わからないのだ。
父は、その重々しさを自ら振り払うかのように、
「と言うことは、もっともっと修行して強くならなければならないということだな」
と、にやりとアルファに笑いかけながら、指をさしてきた。
「よし、次は腕立伏せだ!」
アルファが父の命令に従って地面に手を着こうとすると、エクルがアルーラに尋ねた。
「あの……私は?」
アルーラはちょっと困ったような顔をして、それから答えた。
「マリーさんの家に行って水汲みを手伝ってあげなさい」
「水汲み?」
「腕の力を鍛えるための修行だ」
「あ、なるほどー」
取って付けたようなアルーラの指示に、エクルは素直に納得したらしい。ちなみにマリーというのはソーラの村に住む一人暮らしの老婆で、いつもはアルーラが井戸の水を汲み上げてやっているのだ。
「時間になったらそのまま終えていい。頼むぞ」
「はいっ」
元気よく返事をして、エクルは村に向かって走っていく。アルファはその背に声をかけた。
「エクル! もし魔物が出たら呼べよ。すぐ行ってやるから!」
エクルは走りながら笑顔で振り返り、答える。
「うん。アルファ、ありが――」
ごん!
大きな鈍い音と共に、エクルは行く手に伸びていた低い枝に頭をぶつけた。両手で頭を押さえて痛がる。
大丈夫かと心配そうに問うアルーラに、エクルはなんとか笑って、平気だと答える。
「今日も朝からどんくささ全開だな」
アルファも心配しないではないが、つい馬鹿にしたくなる。
エクルは顔を赤くして、負け惜しみを吐きながら再び走り出す。
「今日もって何っ!? 私は別に――」
どさっ!
……エクルは今度は足元の小石に躓き、派手に転んだ。言ってるそばから自らのドジさ加減を実証してしまったエクルは、無言で素早く体を起こし、そのまま走り去っていった。
アルファはその姿を見ながら、思わずふっと笑った。
……ったく、どんくさい幼馴染を持つと苦労する。
「四百十五、四百十六、四百十七……」
父アルーラの無機質な声が、森の中を流れていく。
アルファは父の声に合わせて、腕を曲げては伸ばす。それを延々と繰り返すのだ。
父から目標として掲げられる数字があるのだが、これが途方もなくきつい。
次第に腕が疲労から震えはじめ、血が上った頭は熱を帯びる。しかし、父はそんなアルファの様子など意にも介さぬように、変わらぬ調子で淡々と数え続ける。
アルファは必死に回数を重ねていくが、やがて限界が来る。曲げた腕を、伸ばせない。腹にも足にも、もう力が入らない。とうとう地面に突っ伏した。自分を受け止めてくれる大地に、一瞬、解放の安堵を覚えるが。
「こら、まだ途中だろう! そんなことで剣が振るえるか!」
大声で父にどやされる。
回数が多すぎるんだ、と内心思うが、黙って再び始める。反論しても、父を怒らせ事態が悪化することこそあれ、決して好転しないということを、アルファは長年の修行を通して思い知っている。
そして、ヘロヘロになりながら、やっとのことで達成する。
その後、腹筋、背筋に反復横飛び……と続き、一連の体力作りが終了した。だが、修行はこれだけでは終わってくれない。
森の南側には、アルファの修行のために造られた広場がある。そこに移動して、次は父との手合わせだ。
父は腰の剣を抜き、構えた。使うのは真剣。五歩ほどの間合いをとって、アルファも剣を構える。
「行くぞ!」
父が向かってきた。いつも、先に仕掛けるのは父と決まっている。
右上から向かってきた父の剣を、自分の剣で受け止める。父は剣を翻し、右から左からと次々に剣を打ち出して来る。アルファはそれをさばいていく。アルファも父に攻撃を返し、また返される。
アルファは体力作りで既に疲れきっている。村一番の剣の腕を持つ父とやり合うのは、あまりにもきついが、父は一切手加減などしてくれない。むしろ、凄まじい気迫で迫ってくる。
一瞬も気を抜くことのできない激しい攻防。息が切れ、腕がしびれる。疲労だけではなく、その緊迫感のために。
だが、これもいつものことだ。アルファはただ、必死に剣を振るう以外にない。
「わ……っ!」
縦薙ぎの父の剣が、アルファの前髪を数本、空に散らした。父の一撃を力の入らない腕で受けるのではなく、かわそうと後ろに飛んだのだが、避け切れなかった。
「動きが鈍い! そんなことでは命がいくつあっても足りないぞ!」
怒鳴りつつ、父はさらに剣を振りかざして向かってくる。
その時。
キーン……コーン……
村から鐘の音が響いてきた。父の動きが止まる。
助かった……!
これはアルファにとって救いの音色だ。その鐘が意味するのは、朝の修行の終了なのだから。
「もうそんな時間か……」
父は残念そうに呟きながら、剣を鞘に収めた。
「遅刻はするなよ」
「わかってるって」
アルファもさっさと剣を収める。父の手前、あまり嬉しそうな顔をするわけにはいかないと思いつつ、それでも解放感が態度に表れてしまう。
「じゃ、父さん、行ってきます!」
陽気な声で言って、アルファは村に向かって駆け出した。
森の中に一人残されたアルーラは、走り去る息子の後姿を見ながら微笑んでいた。だがその表情は、なぜか淋しそうでもあった。
アルーラは小さく呟いた。
「強くなれ。今よりもずっと」
本人にしか聴こえはしない、独り言のようなその声は、暖かく、しかし重く、切実さが滲んでいた。
「運命の時が来る前に――」
アルファの姿は、すぐに木々の向こう側へと消えていった。