第一話
気が付くと私は、アスファルトのど真ん中に座っていた。
いや、この場合は「へたり込んでいた」と言った方がより正確かもしれない。
状況を把握できず、光の拒絶と歓迎を繰り返す瞳に映るのは、私の腕の中でカタカタと震えている少女。私が通っている中学校で着用を義務づけられている制服の裾を精一杯の力で握りしめていた。
一体なぜ、こんな事になってしまったのだろう。
私は脳の奥底から記憶を引きづりだして見る。数刻して浮かぶのは、必死に少女に手を伸ばす自分と、今まさに彼女を引きずらんとするトラックを凝視する少女の姿。
そうだ。確か私は、車に引かれそうになっていた少女を見て道路に飛び込んで……。
記憶が蘇った瞬間、先ほどまで私の脳を支配していた疑問は別のものへと切り替わった。
何故、私は生きているの?
重さにして1t以上もあろうというトラックとぶつかったのだ。例え何十年もかけて鍛え上げられた鋼の肉体を持つ人間であろうと、真正面から相対して無事でいられる筈はない。
ましてや私は、学業成績も運動神経も平均的な、ごく普通の女子中学生だ。
軽トラックとぶつかっただけでも骨の二、三本は折れてしまだろうと言うのに、今は1tトラックとぶつかった筈なのに、全くと言って良いほどに外傷が見当たらない。
もしかして、既に私は死んでしまったのだろうか? そんな考えがふと頭をかすめるが、すぐにそれはかき消される。
私の左胸が、普段より強く、早く、「生きている」と叫んでいる感覚があったからだ。
それだけでは無い。
私の視界の右隅に、先ほど私とぶつかった筈のトラックが見えている。
それも左半身をアスファルトに叩き付けられて横転した姿で、だ。
さらなる混乱が、私に襲いかかってきた。
思考が現実に追い付かない。
ただ一つ分かるのは、確かに私は生きていると言う事だけだった。
「………」
しばしの沈黙が、街を包み込む。
いや、ただ私の意識が野次馬達のどよめきや通行止めを食らった車のエンジン音やクラクションを拒絶しているだけで、沈黙を得ているのは自分だけなのだろうが。
ほんの少しではあるが落ち着きを取り戻した私は、周囲を見渡してみる。
歩道には人の大群が形成され、好奇に染まった無数の眼が私に向けられている。
―――――いや、違う。私だけじゃない。
見ればその瞳は、私より少し上に……そして、私の体より少しずれている様にも感じる。
私はゆっくりと顔を上げ、人々の眼が集まる一点を見上げた。
そこには―――――――
『なめらすじ~信部町天羽堂奇譚~』 ~第一譚「枯れない桜編」~
「―――――。―――――ぎ。――――天城!」
「っ!」
怒声とも取れる女性の声に、私はガバっと言う効果音が付きそうな勢いで上半身を起こした。
視界に飛び込んできたのは、私が通う信部大学の一室だった。
しかも既に私以外の生徒の姿はなく、西に備え付けられた窓からは黄昏の日差しが教室に差し込んでいる。
そして目の前には、いつもと同じ無表情を浮かべながらも、どこか呆れ気味に私を見下ろす一人の女性がいた。
美しい藍色の髪には白の三角頭巾で覆われており、髪と同色の瞳には、今にも吸い込まれてしまいそうな雰囲気が宿っている。
私は彼女の存在に気付くや否や、勢いよく膝を伸ばし、立ち上がった。
「す、すみません!」
次に口をついて出た言葉が、これだった。
この状況から導き出される答えは、一つしかない
私は21年の人生で初めての「授業中の居眠り」をしてしまったのだ。
今目の前に立っている、美しく儚い印象を受ける教授「統道鐔女」が担当する「心理学」の講義で。
統道先生は、私の謝罪に怒声を浴びせるでも許容の意を述べるでもなく、ただ短く溜息を吐いた。
「構わん。別にお前が授業中に眠った結果、単位不足で留年などしたとしても、私には特に関係は無いからな」
予想以上にシビアな発言に、私は黙ってしまった。
確かにそうかも知れないけど、何もそこまで言わなくても良いのに……。
そんな私の反応を見て、統道先生はくすりと笑った。
「冗談だ。超が付くほど真面目なお前の事だから、真に受けるだろうと思っていたからな。少しからかってしまった」
お前みたいな人間が一番からかい易いから、ついな。と続ける統道先生に、私は思わずむっとしてしまう。
この人はいつもこうだ。
意地悪な言葉で私の反応を楽しんでいる。いや、私だけでは無いのかも知れないが、少なくとも私は統道先生が私以外の人間をからかっている所を見た事がない。
私の心を弄ぶのが、そんなに楽しいのだろうか、と少し哀しくなってしまう。
そんな私の心情はどうやら顔にも出ていたらしく、統道先生は苦笑を浮かべた。
「すまんな。それより、お前が授業中に居眠りなど珍しいな。具合でも悪いのか?」
統道先生は先ほどまでのおどけた様子を消し、今度は真剣な眼差しで私に問う。
これは、本気で心配してくれている時だ。
いつもいつも私の事をからかって遊んではいても、彼女は何かと私の事を気遣ってくれる。
それは私にとっての彼女を憎めない理由であり、同時に救いだった。
「ご心配ありがとうございます。でも、本当に何でも無いんですよ。
慣れない一人暮らしで、少し疲れていただけだと思います」
「そうか? なら良いが……あまり無理はするなよ」
未だ腑に落ちない様子の統道先生だったが、それ以上詮索して来る事は無かった。
心理学者たる彼女は、決して人の心の奥深くまで踏み込んで来る事はない。それは人の心を研究する者にとっての絶対的タブーであり、その行為は所詮「己の持つ技術で人を支配出来る」と考えている驕った人間の戯言でしかないのだと、前に教えてもらった事がある。
それが彼女の心理学者としての持論であり、信条でもあるのだ。
私は笑顔でありがとうございます、と返すと、統道先生は何も言わず、微笑返した。
「そう言えば天城。お前アルバイトを探しているとか言っていたが、見つかったのか?」
「あぁ、いえ。まだ見つからないんです」
「そうか。まぁ、こんなド田舎じゃあ、あまりバイト先なんざ見つからんだろうな」
先ほども少し言ったが、私は今、信部大学が聳える信部町で一人暮らしをしている。
私の実家はお世辞にも裕福とは言えないため、実家からの仕送りは殆どないと言って良い。
授業料は奨学金で何とかなるにしても、生活費は自分自身で稼ぐ必要がある。
そのためのバイト先を現在探しているのだが……統道先生も言った様に信部町は北陸の日本海側に面した田舎町に建っているため、喫茶店やコンビニは辛うじてあるにしても、商店街などは無く、娯楽施設も当然ない。
何故こんな所に大学を建てたのか疑問に思うほどだ。
さらに数件存在するコンビニや喫茶店も、大学の先輩方がバイトをしているため現在空きは無いというのだ。
このままでは不味いとわかってはいるのだが、こればかりは自分ではどうしようもない。
「最悪、隣町にでも行って探すつもりですが、私は車も持ってないですから」
「ふむ……車が無ければ、隣町までのバイトはかなりきついぞ?
私も隣町までバイトに行く生徒を少し知っているが、全員車持ちだからな」
それはそうだろう、と私は一人頭の中で頷いた。
ここから隣町までは、車でも最低20分はかかる。
バスで行くにしても運賃がかかるし、せめて自転車があれば良いんだけど……。
「はぁ……何か良いバイト先があれば良いんでけどね」
口から思わずため息が漏れてしまう。
まさか大学に来て最初にぶつかる壁がアルバイト先だとは夢にも思わなかった。
統道先生は顎に手を当てると、ふむ、と呟く。
しばし経って、おもむろにその藍色の視線を私に向けた。
「天城。お前確か、霊感が強いって言ってなかったか?」
「え? あぁ、はい」
統道先生の言葉を、私は素直に首肯した。
彼女の言うとおり、確かに私は生まれつき霊感が強い。
幽霊を見る事は日常茶飯事だったため、最初は霊と人間の区別すら付かなかったほどだ。
しかも私の場合、並々ならぬ強いものを引き寄せるらしく、この体質のおかげで様々な不思議な体験をしたのだが……長くなるので、ここでは話さないでおく。
でも、それが今の話と何の関係があるんだろう?
思わず首を傾げる私を前にして統道先生は再び思案に耽った後、再び口を開きこう言った。
「少し変わった店で良ければ、紹介してやれん事も無いが」
「え、本当ですか!?」
思わず前のめりになる私に、統道先生は若干体を後ろに逸らした。
「あぁ。採用資格は「霊感が強い事」だけらしいからな。
真面目なお前の事だし、問題ないとは思う」
「霊感が強い事が採用条件……ですか?」
私は思わず問い返す。
顔の皺も中央に寄って行ってしまう。
統道先生は、私の表情を見て苦笑を浮かべた。
「心配するな、怪しい店じゃない」
「……そうですか、安心しました」
彼女が言うのなら、おそらく大丈夫なのだろう。
出会ってまだ間もないが、そう思えるほどには私の中で彼女の信頼は高い。
「それで、場所は?」
「あぁ。この大学の裏手……信部町の外れに崖があるのは知ってるだろう?」
聞いた事がある。
ただその崖に行くには、手前に薄気味悪い雰囲気を持つ森が構えているため、町の人達も何となく避けている場所だった。
当然私も、先輩から話に聞いただけで近づいた事は無いし、近づく理由も無かった。
「その崖の上に『天羽堂』という寺の形をした店がある。
肉体労働と言うわけでもないし、給料も良いみたいだからな。そこで働くと良い。
おそらくお前ほどの霊感を持つ人間なら、採用してくれる筈だ」
「天羽堂……」
現代にしては妙に古風な店の名を、小さく音読する。
町の外れにそんな店があるなど、聞いた事もなかった。
寺の形をした、霊感が強い者を求める店……一体どんなお店なんだろう?。
名前からして、物を売ったりするお店な様な気がするんだけど……。
いずれにせよ、今の時点ではその「天羽堂」の正体は全くと言って良いほど分からなかったが、それはまぁ、行けばわかる事だろう。
ただ――――――
「何で先生は、私にその店を薦めてくれるんですか?」
これだけはどうしても聞きたかった。
統道先生にとって私は、自身が務める大学で講義を取っている、ただの一生徒でしか無い。
いくら私が霊感が強いからと言っても、統道先生が私にバイト先を紹介してくれる道理などない。
そう言う事は「学サポ(学生の私生活をサポートしてくれる大学施設)」の仕事の筈だ。
その店がよっぽど人員に困っていたとすれば話は別だけれど。
統道先生は私の問いに一瞬ぽかんとした表情を浮かべると、やがて上唇を吊り上げ、こういった。
「その店には、面白い店主がいるからな」
予想外の返答に、こんどは私が呆気にとられる番だった。
「面白い店主……ですか?」
「あぁ、不思議な奴だよ。なんせ滅多に町に降りてこないのに、信部町では知らない人がいない程の「変人店主」だからな。お前も気に入ると思うぞ」
町に降りてこないのに町で有名?
私の頭はさらに混乱していく。一体どんな店主さんなのだろうか?
しかも、今の返答じゃ「店を薦める理由」になったとしても、「私に店を薦める理由」にはならない気もする。
私が再度それを問うと、統道先生はまたぽかんとした後、今度は苦笑を浮かべ、
「可愛い教え子が困っているんだ。手を差し伸べるのは当然だろう?」
彼女の回答に、私は思わず噴き出した。
どうやら彼女は、私が思っていた以上にお人よしな様だ。
普段はクールで、人の心の奥底まで見透かしていそうな言動もあって人から疎遠にされがちの彼女だが、その実心の奥深くに持っている親しい者たちへの愛情は人一倍のものなのだろう。
私もその中の一人に入っているのかと思うと、嬉しいのと同時に少しこそばゆいものだった。
「ありがとうございます、統道先生」
「構わん。私は店を紹介しただけで、実際にお前を生かすも殺すも、その「変人店主」なんだからな」
「それでも、嬉しいです」
今の想いを真っ直ぐに伝えると、統道先生は少し目を見開いて、視線を私から外してしまった。
その頬が心なしか赤いのを見て、私は思わず苦笑する。
「それで、その店主さんなんですけど……一体どんな人なんですか?」
「ん? あぁ、そうだな……一言で言うなら、さっきから言っている通り「変人」以外の何者でもないな。
人間との交流関係はあまり広くないみたいだが」
「人間との」という言い回しに若干疑問を抱いた私だったが、今は触れないでおく事にした。
「統道先生は、お付き合いは長いのですか?」
「まぁ、それなりにな。実家が神社だって事もあって、私も霊感はそれなりに強い方だからな。
でも、正直アイツと話すのは少し苦手でなぁ……」
「苦手、ですか?」
「嫌い、ってわけじゃないんだけどな。
アイツは驚くほどマイペースでな。予想外の行動は取るし何考えてるのか分からんし……何だか調子が狂うんだ」
これにはさすがに驚いた。
26歳の若さで大学教授にまでなった心理学者の彼女の口から「何を考えているのか分からない」なんて言葉が出るなんて思っても見なかった。
「でもまぁ、根は良い奴だよ。最初こそ付き合いに苦労するかも知れんが、すぐに慣れるだろう」
「そう、ですか」
正直話に聞いている限りでは、あまり関わりたくない気もするけど。
でも、彼女が良い人だって言うんだから、大丈夫だろう……多分。
それに、その「変人店主」さんには少なからず興味もある。
「関わりたくない」と言う気持ちより、「会ってみたい」と言う気持ちの方が強い気さえする。
話だけで誰かに惹かれる、なんて生まれて初めてだ。ますます興味が湧いてきた。
「取りあえず、今から行って見たらどうだ?」
「え、今からですか?」
別に私に用事は無いが、もう日も落ちかけてきている。
それにいきなり「バイトさせて下さい」なんて言いに行ったら迷惑だろう。
「大丈夫だ。基本的に「来る者拒まず」な奴だからな。
それにアイツ、今日は店にいる日だと思うから」
「店にいる日?」
私の脳裏に新たな疑問が過った。
さっき統道先生は確か「あまり町に降りてこない」と言っていたはずだ。
なのに「今日は店にいる」というのは、少しおかしいんじゃ?
「まぁ、行けば分かるさ。最初は信じがたい事ばかりかも知れんがな」
「???」
ますます訳がわからない。
とにかく、一度店に行ってみるしかなさそうだ。
「分かりました。これから行ってみます。
それと、最後に一つ良いですか?」
「何だ?」
「その店主さんの名前を教えてほしいんですけど」
「あぁ、そういえば言ってなかったな」
統道先生は一泊おき、私に「天羽堂の変人店主」の名を告げた。
「鳴釧八雲と言う男だ」