私を捨てた王国の「後始末」はいたしません
婚約破棄された令嬢が、復讐する話ではありません。
ただ十年間、王太子の代わりに背負っていた仕事を全部返すだけのお話です。
「エレノア・グランフェルト。今この場をもって、君との婚約を破棄する」
「承知いたしました」
王太子アルベルト殿下が、目を瞬いた。
「……何?」
「婚約破棄を承りました」
「いや、待て。それだけなのか?」
王宮大広間に妙な沈黙が落ちた。
どうやら皆様、私が泣き崩れるか、誰かを罵るか、殿下へ縋りつくと思っていたらしい。
けれど十年間も王太子妃教育を受ければ、人前で感情を爆発させない程度のことは身につく。
王太子アルベルト殿下の腕には、桃色のドレスを着た少女が寄り添っている。
リリア・モートン男爵令嬢。
最近、殿下がずいぶん可愛がっていると噂になっていた方だ。
「理由を伺っても?」
私が尋ねると、殿下は勝ち誇ったように顎を上げた。
「君には思いやりがない。リリアを何度も泣かせたそうではないか。それに、王太子妃となる女性には民に寄り添う優しさが必要だ。君のように書類と数字ばかり見ている女では務まらない」
「左様でございますか」
「それだけか?」
「はい」
私は一礼した。
「婚約破棄、承知いたしました」
ざわめきが広がった。
どうやら皆様は、私が泣くか、怒るか、リリア様を罵倒すると思っていたらしい。
けれど十年前から今日まで、私は王太子妃になるための教育を受けてきた。
感情を公衆の面前で爆発させないことなど、その最初に習った。
「……ずいぶん素直だな」
「殿下がお決めになったことでございますので」
私は手袋を外した。
左手の薬指に嵌められていた婚約指輪を抜き、近くの侍従が持っていた銀盆へ置く。
小さな音がした。
「では、明日から私の仕事もすべてお返しいたします」
「仕事?」
殿下が眉を寄せた。
「はい」
「何を言っている?」
「王太子殿下の婚約者としてお預かりしていた業務でございます」
殿下は一瞬黙ったあと、鼻で笑った。
「好きにしろ。君がいなくても王国は回る」
「もちろんでございます」
私は微笑んだ。
「王国とは、本来そういうものでございましょう」
◇
翌朝七時。
私は十年ぶりに目覚ましの鐘を止めて、もう一度眠った。
次に目を開けたとき、時計は九時を回っていた。
「お嬢様……!」
侍女のミナが寝室へ飛び込んでくる。
「大変です!」
「朝から元気ね」
「王宮から使者が三人来ています!」
「そう」
「そう、ではありません! お嬢様が起きてくるまで帰らないと!」
「朝食をいただいてから行くわ」
「ええっ?」
私はゆっくり身支度を整えた。
食堂には焼きたてのパンと卵、それから紅茶。
いつもなら六時に起床し、朝食を取りながら北部から届いた報告書を読む。
七時には王宮へ入り、九時の政務会議までに殿下が読むべき資料へ付箋を付ける。
そんな生活を十年間続けていた。
今日は何もない。
紅茶がこんなに香り高いものだとは知らなかった。
「お待たせいたしました」
応接室へ行くと、王宮の文官三名が立ち上がった。
「グランフェルト侯爵令嬢!」
「もう王太子殿下の婚約者ではございませんので、エレノアで結構です」
「それどころではありません!」
最年長の文官が書類の束を差し出した。
「北部三州への冬麦輸送について、商業組合が契約更新を拒否しています!」
「そうですか」
「そうですか、ではありません! 今日の正午までに署名がなければ、今年の輸送枠を西方諸国へ回すと!」
「では、殿下に署名していただけばよろしいのでは?」
三人が顔を見合わせる。
「それが……契約条件の再交渉を担当していたのは、エレノア様で……」
「はい」
「先方も、あなたとの協議を希望しています」
「お断りします」
「なぜです!」
「昨日、婚約が解消されましたので」
「それとこれとは別でしょう!」
「いいえ。同じことでございます」
私は紅茶を一口飲んだ。
「私は王太子妃となる予定でした。ゆえに王家の食糧政策を学び、各商会の代表と信頼関係を築き、殿下の名代として交渉しておりました」
「ですが、国民が困ります!」
「でしたら、王太子殿下がお働きくださいませ」
「殿下は契約の詳細をご存じありません!」
「資料はすべて王宮にございます」
「どこに?」
「王太子執務室の青い棚、上から三段目でございます」
三人は走って帰った。
十五分後。
今度は五人来た。
「エレノア様! 帝国大使が本日の会談を中止すると!」
「そうですか」
「理由は『交渉責任者が変更されたため』とのことです!」
「当然でしょう」
「来月の関税協定が――」
「新しい責任者を紹介なさってください」
「誰を?」
「私に聞かれましても」
私は首を傾げた。
「私は昨日、解任された人間ですから」
◇
昼になる頃には、侯爵邸の前に王宮の馬車が列を作っていた。
父は窓からそれを眺めながら、腹を抱えて笑っている。
「笑い事ではございません、お父様」
「いや、すまん。しかしな。十年も娘をただ働きさせておいて、辞めた翌日にこれではな」
「王太子妃教育の一環でしたから」
「それをただ働きという」
父は笑いを収めた。
「エレノア。本当にいいのだな?」
「何がでしょう」
「戻らなくて」
私は少し考えた。
悲しくないと言えば嘘になる。
十歳のとき、十四歳だったアルベルト殿下と婚約した。
最初は優しい方だった。
勉強が嫌いな殿下に代わって資料を読み、要点をまとめた。
外交が苦手な殿下に代わって各国の言語を学んだ。
人の顔を覚えるのが苦手な殿下のため、貴族名鑑を作った。
殿下が失敗すれば、一緒に謝った。
成功すれば、殿下の功績になった。
それでよかった。
私は王太子妃になるのだから。
「戻りません」
答えるまでに、それほど時間はかからなかった。
「そうか」
「はい」
「では好きに生きろ」
父はそれだけ言った。
十年間で初めて、誰かにそう言われた気がした。
◇
三日目。
王太子殿下本人が来た。
「エレノア!」
「ごきげんよう、殿下」
「今すぐ王宮へ来い!」
「お断りいたします」
「命令だ!」
「何の権限による命令でしょうか」
殿下が止まった。
「私はグランフェルト侯爵家の娘ではございますが、王家の臣下として官職をいただいているわけではございません。まして殿下の婚約者でもございません」
「……屁理屈を」
「法でございます」
殿下の顔が赤くなった。
「王都東区の結界が明日で期限切れになる!」
「存じております」
「ならば更新しろ!」
「なぜ私が?」
「君が担当していただろう!」
「先日までは」
「エレノア!」
「殿下」
私は声を荒らげなかった。
「結界更新には王家の魔石庫から大魔石十二個を払い出す必要がございます。申請書は一か月前に提出しております」
「そんなものは見ていない!」
「殿下の机へ置きました」
「いつだ!」
「先月十四日です。赤い封筒でございます」
殿下の顔から血の気が引いた。
覚えがあるらしい。
「……あれは」
「はい」
「リリアが、難しい書類ばかりで気が滅入ると言うから……」
嫌な予感がした。
「まさか捨てたのですか?」
「捨ててはいない! 邪魔だから箱に入れさせた!」
「どちらへ?」
「知らん!」
私はため息を飲み込んだ。
「では、お探しください」
「だから君が来て――」
「いたしません」
殿下が目を見開く。
「何?」
「後始末は、いたしません」
「王都の民が危険にさらされてもか!」
「申請は期限の一か月前に済ませました。私が責任を持つべき仕事は完了しております。その後、書類を読まずに放置した方の責任まで引き受けるつもりはございません」
「君は冷たい女だ!」
「そうかもしれません」
私は笑った。
「ですから、思いやりのあるリリア様をお選びになったのでしょう?」
殿下は何も言えなかった。
◇
結界は切れなかった。
王宮中の使用人が総出で箱を探し、深夜になって赤い封筒を発見したらしい。
更新は期限の二時間前。
めでたし、めでたし。
――とはならなかった。
五日目。
孤児院の院長が侯爵邸を訪れた。
「補助金が止まりました」
私は言葉を失った。
これは王宮の仕事とは少し違う。
王太子妃教育の一環として、私は王都の孤児院や施療院を視察していた。
予算不足を知り、王家の慈善基金から定期的に資金が流れる仕組みを作った。
「どうして?」
「王宮から、今年度の支出承認がされていないと」
すぐに分かった。
毎年、王太子の署名が必要だった。
これまでは私が書類を用意し、殿下へ説明して署名をいただいていた。
「申し訳ありません」
「エレノア様が謝ることでは」
「ですが子供たちは待てません」
私は父に頼み、侯爵家から三か月分の資金を貸し付けた。
寄付ではない。
王家が支払うべき金だ。
その日の午後、私は初めて自分から王宮へ手紙を送った。
『孤児院補助金につき、支出承認が未処理です。三か月分をグランフェルト侯爵家より立替済み。返済期日は月末といたします』
それだけ。
翌日、殿下から返事が来た。
『君は王国を困らせて楽しんでいるのか?』
私は紙を裏返した。
返事を書く価値もなかった。
◇
一週間後。
王宮で緊急貴族会議が開かれた。
なぜか私にも招待状が届いた。
父に相談すると、
「行ってみればいい。今度は客としてな」
と言われた。
なるほど。
客なら悪くない。
久しぶりに入った会議室では、アルベルト殿下が疲れ切った顔をしていた。
隣にはリリア様。
彼女も以前のような華やかな笑顔ではない。
「エレノア」
「ごきげんよう」
「座れ」
「私はどの立場で?」
「……参考人だ」
「では失礼いたします」
席に着く。
宰相が立ち上がった。
「現在、王国では複数の行政上の停滞が発生している」
壁の黒板に項目が並んだ。
北部食糧輸送。
帝国関税協定。
王都結界。
孤児院補助金。
南部治水工事。
騎士団装備更新。
王立学院奨学金。
港湾使用料改定。
私は眺めながら思った。
思ったより多い。
「これらの多くを、エレノア嬢が事実上管理していたことが判明した」
「管理ではございません」
私は訂正した。
「殿下が滞りなく判断できるよう、事前準備をしていただけです」
宰相が苦い顔をした。
「その事前準備がなくなった結果がこれだ」
「では後任を置くべきでしょう」
「簡単に言うな!」
アルベルト殿下が机を叩いた。
「君が十年かけて覚えたものを、一週間で誰が引き継げる!」
「一週間で引き継ぐ必要はございません」
「何?」
「私は十年間、資料を残してまいりました」
私は宰相を見る。
「引継書もございます」
「……あるのか?」
「はい。分野別に二十七冊」
会議室が静まり返った。
「なぜ誰も知らない!」
「殿下へ何度もご説明しました」
アルベルト殿下を見る。
「『長いから要点だけ言え』と仰いましたので、以後は私が要点をご説明しておりました」
何人かの貴族が顔を伏せた。
笑いを堪えている。
「では、その二十七冊を持ってこい」
「王宮にございます」
「どこだ!」
「王太子執務室の青い棚です」
「青い棚……」
「はい」
最初の日に文官へ伝えた場所だ。
宰相が頭を抱えた。
「誰も読んでいなかったのか……」
私は少しだけ同情した。
「エレノア」
殿下の声が低くなる。
「戻れ」
「お断りいたします」
「王太子妃に戻せと言っているのではない」
「では?」
「顧問として雇う」
会議室がざわついた。
「給金も出す。望む額を言え」
私は殿下を見た。
十年間。
欲しかった言葉ではなかった。
けれど、初めて私の仕事に値段が付いた。
だからこそ、答えは決まっていた。
「お断りいたします」
「なぜだ!」
「もう、やりたくないからです」
自分で言って、驚いた。
そんな理由で断っていいのだろうか。
十年前の私なら考えもしなかった。
けれど父は言った。
好きに生きろ、と。
「私は外交官になりたかったのです」
「……何?」
「十二歳の頃、帝国から来た女性外交官にお会いしました。五か国語を操り、自分の言葉で国を動かす姿が、とても格好よかった」
誰にも話したことがなかった。
「ですが私は殿下の婚約者でした。王太子妃になるのだから、個人の職など必要ないと諦めました」
「なら王太子妃になれば外交もできる!」
「殿下」
私は笑った。
「昨日、私との婚約を破棄されたではありませんか」
今度こそ、会議室のどこかから小さな笑い声が漏れた。
◇
会議から三日後。
帝国大使から手紙が届いた。
『我が国の外務院に空席あり。興味があれば話をしたい』
最後の一文には、
『あなた自身の名で交渉する姿を、一度見てみたい』
とあった。
私はその手紙を何度も読んだ。
「行くのか?」
父が聞いた。
「外国ですよ」
「知っている」
「侯爵令嬢が、他国で働くなんて」
「前例はないな」
「お父様は止めないのですか?」
「止めてほしいのか?」
「……いいえ」
「なら決まりだ」
父は新聞を開いた。
「お前の席は、お前が決めろ」
◇
出発の日。
王都の駅には、思いがけない人物がいた。
リリア様だった。
「エレノア様」
「ごきげんよう」
「……ごめんなさい」
私は少し驚いた。
「何についてでしょう」
「私、何も知らなかったんです。アルベルト様から、あなたは冷たい人で、婚約者なのに何もしないって聞いていて……」
何もしない。
思わず笑いそうになった。
「王太子妃になれば、綺麗なドレスを着て、舞踏会に出て、慈善活動をすればいいと思っていました」
「私も十歳の頃は似たようなものです」
「でも、今……毎日、書類が山ほど来て」
でしょうね。
「アルベルト様は『エレノアならやっていた』って」
私は黙った。
「私、王太子妃になりたくありません」
「そうですか」
「怒らないんですか?」
「なぜ私が?」
「だって、私が……」
「リリア様」
私は彼女の手を取った。
「一つだけ、経験者として申し上げても?」
「はい」
「嫌なものを嫌と言うのは、早い方が楽です」
彼女は目を丸くした。
「誰かの期待に応えるためだけに十年使うと、取り戻すのが大変ですから」
汽笛が鳴った。
「では」
「エレノア様!」
列車へ乗り込もうとした私を、彼女が呼び止める。
「これから、何をするんですか?」
私は少し考えた。
帝国外務院との面接。
新しい街。
知らない人々。
自分の名前で行う交渉。
怖くないわけではない。
でも、不思議と楽しみだった。
「まだ分かりません」
私は答えた。
「だから、行って確かめてきます」
◇
三か月後。
帝国首都。
「エレノア!」
聞き覚えのある声に、私はペンを止めた。
外務院の受付で、アルベルト殿下が立っていた。
少し痩せたように見える。
「どうしてこちらへ?」
「帝国との関税協定だ!」
「ああ」
私はようやく思い出した。
本日は王国との交渉日だった。
「君が帝国側の交渉官だと聞いた」
「正式には補佐官でございます」
「同じことだ!」
「かなり違いますが」
殿下は机へ両手をついた。
「エレノア。戻ってきてくれ」
「そのお話でしたら以前お断りしました」
「違う!」
殿下は周囲を気にして声を落とした。
「婚約を戻したい」
私は瞬きをした。
「リリア様は?」
「婚約していない」
「そうでしたか」
「彼女は王宮を出た。今は王立学院に入り直している」
少し嬉しかった。
「君がいなくなって、分かった」
殿下は俯いた。
「俺は、君が何もしていないと思っていた。何でも簡単にできるから。俺が決めれば、全部勝手に進んでいくものだと」
「そうでしょうね」
「謝る」
殿下が頭を下げた。
王太子が。
人前で。
「すまなかった」
昔の私なら、この瞬間をどれほど望んだだろう。
殿下が私の努力に気づいてくれること。
感謝してくれること。
必要としてくれること。
でも。
「謝罪は受け取ります」
私は言った。
「では――」
「ですが、戻りません」
殿下が顔を上げた。
「なぜだ?」
その問いに、もう迷わなかった。
「こちらに、私の席がありますので」
私の机。
私の名前が書かれた書類。
私自身の判断を求めてくれる上司。
失敗すれば私が叱られ、成功すれば私が褒められる。
当たり前のことばかりだ。
でも私には、それが新しかった。
「それに殿下」
「……何だ」
「本日の関税交渉ですが」
私は書類を一枚差し出した。
「昨年度まで王国側が受けていた優遇措置は、今年から廃止となります」
「待て」
「帝国側の判断です」
「君が決めたのか?」
「まさか」
私は微笑んだ。
「私は補佐官ですので、資料をまとめて要点をご説明しただけでございます」
殿下の顔が引きつった。
どこかで聞いた台詞だったのだろう。
「エレノア……」
「交渉は会議室で承ります」
「少しくらい融通を――」
「いたしません」
「まだ何も言っていない!」
「存じております」
私は立ち上がった。
「ですが殿下」
胸元には、帝国外務院の徽章。
左手の薬指には何もない。
それが、とても軽かった。
「私を捨てた王国の後始末は、もういたしませんので」
廊下の向こうで会議開始の鐘が鳴った。
私は自分の資料を抱え、自分の席へ向かった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「婚約破棄された令嬢が復讐する」のではなく、
“今まで当然のように背負わされていた仕事を、ただ返す”
という形の物語です。
エレノアの選択を楽しんでいただけましたら、評価やブックマークで反応をいただけると、次の作品を書く際の参考になります。
空席あり




