エッグマフィンの中の小人
それはファーストフードのチラシ広告に載っている、ごく普通のエッグマフィンだった。しばらくそれを眺めた息子がこう言った。
「ねえ、エッグマフィンの中には小人さんが住んでるの?」
「さあ、もしかしたら住んでるかもね」
「住んでたとしたらさ、中はどんな風なのかな?」
「えーとね、小人さんの国では、それは卵白及び卵黄の設置に関する基本法で禁止されてるの。だから違法なのよ」
「なにそれ。色気のない法律家って本当にきらい」
「そうね、ごめんなさい」
「それでさ、小人さんが住み続けるんだったら、マフィンに山ほど保存料を混入しとかないと大変なことになるよね」
「確かになるわね」
「だからね、小人さんは卵の代わりに干し杏子とかハーブ入りの燻製肉なんかをマフィンに入れちゃえばいいと思うんだ」
「ん、それは素敵な考えだ」
「それは建築材の代わりになるんだよ」
「なるほど」
「あとはコーヒー豆のたくさん詰まった麻袋とかも」
「それもいいわね」
「でね、マフィンの部分は時々通りがかったねずみさんが、かりかり食べたりするの」
「そう」
「でもね、夢中になって食べてる最中にたまたま通りがかったマフィンが大好きな猫さんにあっちこっち追っかけ回されて、死ぬほど大変な目に逢ったりするの」
「それはかなりのサバイバルね。猫さんはやっぱりマフィンよりねずみさんを好むのね」
「そうだね、天然物だしその分おいしいんだよ」
「自然の摂理」
「そう。でも、そんな惨劇を物ともせずに小人さんはマフィンの中で安心してこんこんと眠り続けるの」
「こんこんと」
「そう、こんこんと」
「それって中々素敵だと思うわ。考えようによっては」
「考えようによっては?」
「そう。もしかしたら、そういう考え方が必要になる日が来るかもしれない」
「ふーん、そうなんだ」
「そうね。かもしれない。でもいいのよ、今は特に何も考えなくても」
「よく分かんないや」
「とにかくいいのよ、そのままで」
「わかった、じゃあマフィンを食べる時は周りに怖い猫さんがいないかどうか気をつけるようにするね」
「えーとね、それはそういう」
「あっ、じゃあ明日のおやつはマフィンがいいな。蜂蜜がかかったやつ!」
「分かったわ」
「あっ、それと怖い猫さんは蜜蜂に追っ払ってもらえばいいね、それですべて解決!」
それを言い終わると、息子は勢いよく歯を磨きに行った。私はそれをぼんやりと視線の先に見送った。息子の中で全ては完結している。そう、今はそのままでいいのだ。
マフィンか、私も嫌いじゃない。その中でゆっくりと過ごすのも確かに良いのかも知れない。ほどよく焼けたその黄色い食物。私はその屋根の下で平和に過ごす自分を想像してみた。そう、そこは確かに平穏な、でもね…とその紙の広告を畳もうとしたその瞬間に、それは淡い靄から明確な形へと変容し始めた。
何か誰かに高らかに宣言できるような確信ではない。けれども、私の魂の小部屋のどこかに住んでいるであろう優しげなその小人は息子の無邪気で躊躇のない力強い手によって確かに守られた、という感触がそこにあった。気が付くとそれは揺るぎのない事実として荷造りがなされて、すとんと無造作にそこに置かれていた。
それは書類に記載して市役所に提出できる類のものでは決してない。しかしそれは紛れもない心の中の情景的な事実であり、私はそれを受け取り承諾できるという確かさがあった。その感触は吸い取り紙に広がる様々な色のインクのように、私の身体の隅々にまでゆっくりと染み渡って行った。
もしかしたら今夜、私は夢の中でマフィンの内奥で眠るその小人の横顔を確かに目にするかも知れない。もしそうだとすれば、同時に燻製肉のカケラがその髪の間に挟まっているのを微笑ましく目にするだろう。だから、その大事な瞬間に立ち会うために私も今夜は充分平和に寝ていなければならないといつの間にか私は考え始めていた(常識的に考えて、そんなことの為に寝ようとする人間が私の半径10km四方にいったい何人存在するというのだろう?)。
その考えは素直な子犬のように真っ直ぐにこちらを見ながらベッドの枕元に座っているようだった。そしてその素朴な視線は私の眼球を心優しく透過し続けている。
どうやら息子は歯を磨き終わったようだ。本当に久々のことだけれど、なんだか今夜はとても良く眠れそうな気がした。




