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第四章 禊夜

 圭介は逃げるように走った。

 泥を蹴り、濡れた草を裂き、車だけを目指して走った。

 拓海と涼介のことも、荷物のことも全て——どうでもよくなっていた。


 運転席のドアを乱暴に開け、座席に滑り込む。

 鍵を回す。

 エンジンがかかる。

 ヘッドライトが黒い雨の幕を裂いて、世界を照らす。

 いつもは押し付けられてばかりの運転役——そのことが、今だけはありがたかった。

 ハンドルを握り、カーブへ差しかかる。


 その先に——濡れた白装束の女が、ぽつりと立っていた。


——穂村、夕凪


 急ブレーキを踏む。

 タイヤが泥を噛み、車体が横滑りして止まった。

 圭介はハンドルを握りしめたまま、呼吸を忘れていた。

 フロントガラスの向こう、雨のカーテンのなかを、白い人影がぬるりと近づいてくる。


 濡れた装束は皮膚の呼吸まで奪うように張り付き、曲線を骨ごと浮かび上がらせていた。

 滴る黒髪が頬から顎を伝い、鎖骨の窪みへと落ちる。

 雨を含んだ唇は、触れれば熱を奪い尽くす氷のようで、それでも艶めきは炎のようだった——触れた瞬間、自分の皮膚がどちらに灼かれるのか、圭介には見分けがつかなかった。

 その姿は美の輪郭を超えた、触れてはならぬ何かだった。


 冷え切ったはずの車内で、圭介の皮膚だけが熱を帯びていく。

 胸の奥で、呼吸とは別の鼓動が乱れていた。


——やばい……逃げなきゃ……


 そう思うのに、体が動かない。目を逸らせない。

 視線が絡め取られ、視界の奥に何かが潜り込んでくる感覚。


 すれ違いざま、彼女は目も向けずに呟いた。

「この先、道は……崩れております」

 声は冷たく乾いていた。


 ぞくり、と背筋を撫でる感覚。

 鼓動が脈打ち、喉がひりつく。

 それは恐怖ではない。発情に似た、もっと根源的な衝動だった。

 消えかけた種火が、静かにだが確かに、炎となって立ち上る。誰よりも深く燃える、ほむらのように。


「……なんで、こんな……」

 自分の呟きが、耳の中で乾いた音を立てた。

 咄嗟にアクセルを踏み込む。だが泥に沈み、車体は呻くだけで動かない。

 まるで——この土地そのものが、逃げ出すことを拒んでいるかのようだった。

 視界が歪む。

 強烈な眠気にも似た感覚が脳を襲い、次に気がついた時、圭介は——


——また、離れの中にいた。

 畳に水が染み、黒い模様のように広がっていた。

 戻ってきた理由も経緯も——記憶に、何一つない。


「お食事を用意しました」

 引き戸越しに、空気を震わせるような声が響く。

 穂村の声。

 感情のこもらない、しかし拒めない重さを持った声。

 圭介は、まるで糸を引かれるように、膝が浮いた。

 頭の奥がじんじんと熱く、思考はうまくまとまらなかった。


 放心したまま、穂村の後ろをついていく。

 降り続ける雨が、穂村との距離感をぼやかしていく。

 通り過ぎた集会所の中。

 涼介と拓海の姿は見えなかったが、圭介はなぜか、それを気に留めなかった。


 食堂のテーブルには、湯気を立てる豪勢な肉料理が並んでいた。

 肉は深紅の汁を湛え、皿の上で呼吸するようにわずかに震えていた。

 形を崩した臓器は、まだ何かを記憶しているかのように時折痙攣し、そのたび汁が指先の血のように滲み広がった。

 それでも、不思議と食欲が湧き上がる。

 この場にいたはずの信者たちも、涼介と拓海も——その場には誰もいなかった。


「では、整えてまいります」

 穂村がそう告げると、足音も立てず奥へと姿を消す。

 食べたことのない肉の味に夢中で食らいつく。

 信じられないほど腹が減っていた。

 噛むたびに、繊維がじゅるりと裂け、血の味と甘さが滲んだ。いつかどこかで——これが何かを知っていたような気がしてならなかった。


 食べ終えた時、テーブルの上はすっかり空になっていた。

 顔を上げた先、穂村が、まるでずっとそこにいたかのように佇んでいた。

 その姿は、先ほどとはまるで違っている。

 鮮やかな猩々緋の着物が、まるで血をまとったように、彼女の身体にぴたりと張りついている。


 圭介の中で、言葉にならない命令のような衝動が膨らんでいく。まるで、ずっと以前から決まっていた役割を思い出したかのように。

 穂村の手を掴み食堂の奥、滝のような雨のカーテンを通り抜け本堂へ向かう。


 本堂の奥、口を開けたような大穴の前に、祭壇がぽつりと置かれていた。

 周囲には骨のようにも見える太い木組み。そしてその中央に、濡れたような光を湛えた一振りの剣が、静かに伏せられていた。


 祭壇の前で、圭介はふと振り返る。

 そこに宿っていたのは、すでに圭介自身の眼差しではなかった。ただ、穂村をまっすぐに見つめ、視線を絡ませる。

 穂村の指先が、何の導火もなく、ただ意志だけで火を灯した。

 木組みに巻かれていた注連縄がぱちりと音を立て、朱の火が広がり始める。

 夜と雨に閉ざされた世界が、徐々に焔に浸されていく。

 燃えゆく焔の明滅が、二人の影を歪ませる。そのまま、穂村は何も言わずに祭壇に横たわった。

 圭介は戸惑うこともなく、彼女の隣へ歩み寄った。


 肌が重なる——

けれど、世界は音を持たなかった。


 焔が揺らぐたび、世界の縁が、静かに溶け落ちていくようだった。

 交わりの瞬間、圭介はなぜか泣きたくなった。それが歓びなのか、哀しみなのか、自分でもわからなかった。

 彼女の身体は、まるでずっと前から自分を受け入れるためだけに在ったように思えた。


 ——そして、すべてが満ちたあと。

 圭介は静かに目を閉じ、何も言わずに呼吸を止め、傍らの剣を手に取る。

 重くもなく、軽くもなかった。

 あまりにも自然に手に馴染んでいた。まるで最初から、彼の一部であったかのように。


 後ろから優しく彼女の身体を抱きしめる。

 肩越しに見えたその横顔は、すでに人としての気配はなかった。

 それでも彼女は美しく、そして静かだった。


 圭介は、その胸ごと、自らの身体へと刃を突き立てた。

 炎が、はぜる音を立てて跳ね上がる。

 流れ落ちる血に、穂村の胸元から溢れた墨のような液が絡みつく。

 深紅は瞬く間に漆黒へ呑まれ、二色は渦を巻きながら脈打ち、圭介の内側を染め上げていく。

 皮膚の下で色が混ざり合い、やがて何色とも呼べぬ闇色となって、骨にまで浸み込んでいった。


「……これで——百八」


 その声と表情は、意識が朧に沈むなかで最後に目にしたものだった。


 穂村の瞳には、何千年という歳月を超えてなお、何一つ変わることのない待ち人の色が宿っていた。

 けれどもう、圭介にはそれを理解することはできなかった。


 墨のような濁流が、やがて床を呑み、柱を、屋根を——そして、集落そのものを押し流していく。



 人気のない廃集落を、一人の女が歩いてくる。


 秋晴れの陽光が、彼女の猩々緋の着物をきらめかせる。


 その足取りには一切の迷いも、焦りもない——


——ただ一点を見つめながら、僅かに唇を吊り上げる。




——————

『復劒頭垂血、激越爲神、號曰闇龗、次闇山祇、次闇罔象。』

——日本書紀 巻第一 神代上

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