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第三章 黙呪

 気がつけば、圭介は畳の上に横たわっていた。


 どれほど時間が過ぎたのか、それとも止まっていたのか——圭介には見当もつかなかった。

 雨も風も途絶え、世界は薄いガーゼに包まれた標本のように、色も音も命の温度も失い、ただ現実の形をなぞるだけの静けさに沈んでいた。


 とてつもなく喉が渇いている。舌が重く貼りつき、首筋には冷えた汗が滲んでいた。だが寒気は、皮膚ではなく骨の奥を這っていた。


「……涼介。拓海……?」

 呼んでみたが返事はない。

 あたりを見回すと、二人の荷物だけが残されている。どちらの布団も皺一つなく、まるで最初から人の体温を許さなかったかのように無垢に整っていた。


 立ち上がると、頭蓋の内側で、泥をぶつけられたような重い衝撃が響く。ひどく寝起きが悪い——というより、寝た覚えがまったくない。

 いつの間にか意識を落とされていたような、記憶の端をすり抜けた何かがあったような。


 外の空気を吸うために、引き戸を開ける。

 昨夜の雨が嘘のような晴天だった。空は異様に青く、その青は皮膚のように薄く張り付き、下に潜む別の色を必死に隠しているようだった。

 濡れた地面が放つ空気は重く、腐葉土のような匂いが立ち上っている。


 建物の外に出てすぐ、集会所の方角を振り返る。扉は閉じられ、何の物音もない。

——夢だったのかもしれない

 そんなふうに思いかけた瞬間、地面に落ちているものが、圭介の目に留まる。

 泥にまみれた、濡れたカメラ。拓海のもの。

「……え?」

 咄嗟に電源を入れ、最新ファイルを倍速で再生する。

 映像は闇一色だったが、そこに目が知覚を拒む何かが蠢いている——そんな確信めいた錯覚があった。

 光も音もなかったのに、なぜか視界の奥がざわめく。音のない空間で、圭介は、誰にともなく言葉を零した。

「……涼介、拓海……」

 呼ばなければ、消えてしまいそうだった。

 カメラを握ったまま、圭介は集会所へと向かう。

 泥と鉄のような匂いが漂い、近づくにつれより強く鼻を突く。


 集会所の入口の前に人影が見える。まるで圭介が来るという事実そのものを、最初から知っていたかのように、穂村はそこにいた。

 白い装束で、身動ぎすらせず立ち尽くしている。その顔に感情はなく、けれどこちらをしっかりと見据えていた。

 圭介が声をかけようとしたその時——。

「お二人なら……中で、静かにお休みになっています」

 圭介の言葉が生まれるよりも早く、彼女の声が脳の奥へと滑り込んできた。まるで何を言おうとしていたのかさえ、あらかじめ知っていたかのように。


 穂村が集会所へ続く扉を開く。

 泥と鉄の匂いがより一層濃くなり周囲を包み込み、冷たい風が建物の奥から流れ出てくる。


 集会所の中央。

 薄暗い空間に敷かれた2つの布団の上で、涼介と拓海が横たわっていた。

 圭介が慌てて駆け寄る。

 二人の目は開いている。だが、どちらも焦点が合っていなかった。瞬きはなく、空間のどこか——圭介の先を見ていた。

 瞳の奥にはこの場の景色ではない、曇天と雨粒が逆光に滲む映像のような色が揺らめいている。

 肌に触れれば、人の温もりではなく、夜明け前の石のような冷たさが返ってくる。


「今宵は、彩られた儀の夜です。あなたも、その一端を担ってください」

 その言葉は、決してお願いではなかった。有無を言わせぬ静かな圧力が、圭介の全身を締める。

 穂村が音を立てずに建物を出ていく。

 息を呑んだまま、圭介はただ穂村の後ろ姿を目で追うことしかできなかった。沈黙の中に、唐突に声が割り込む。

「……圭介、どうした」

 涼介の声。

 驚いて振り返ると、涼介は布団の中から顔を起こしていた。

 表情はどこか、まだぼんやりとしている。

「涼介! 大丈夫!?」

「うーん……なんか、頭も身体も重くて……何も考えられねぇ……」

 涼介は額に手を当て、ゆっくりと身を起こす。その顔に、いつもの皮肉っぽい笑みも、調子づいた目の光もなかった。


「……代わりに、撮ってきてくれないか。俺たちの分まで」

 その一言が、圭介の背筋を氷刃でなぞった。声の抑揚、言葉の間合い、湿った呼気までもが——あの穂村の声と寸分違わなかった。

 ぞわり、と首筋を何かが這い登る。

「……分かった」

 そう返すのが精一杯だった。

 この場から一刻も早く離れなければいけないという、原始的な本能が圭介を動かす。

 集会所の扉に手をかけ、開ける。

 そこにあるはずの光は、消えていた。


「……嘘だろ……さっきまで……」

 信じられず、扉の縁に立ち尽くす。

 外は、天地が引き裂かれるような暴風雨だった。泥が軋み、風が地を裂き、枝が引きちぎられるたび、空が呻いていた。

 轟音が圭介の鼓膜を叩く——まるで、生き物が吠えているかのように。だが、——圭介の背後にある室内には、音がなかった。

 屋根を打つ雨の音も、木造の軋みも、床を這う風のざわめきも。

 扉を開けるまで、そこは世界から剥がし取られた一片の無音——音の死骸だけが漂う空間だったかのように。


 ふと振り返る。

 拓海と涼介は同じ姿勢で、布団の上に沈んでいた。だが、彼らの呼吸すら——、どこにもなかった。


「……なんなんだよ、これ……」

 終わりきった世界と、始まり損ねた世界——

色を失った雨と、まだ濡れていない空がせめぎ合う境界線。


 その狭間に、ひとりきりで立たされている——その錯覚が、圭介の皮膚と意識をゆっくりと裏返し、内側の色まで滲ませる。

 それが二度と元には戻らないことを、皮膚が先に知っていた。

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