第二章 雨祷
質素な食事を済ませ、三人は離れと呼ばれる古い建物に案内された。
時計の秒針は沈黙し、時を刻む代わりに、無数の雨粒が屋根を指で叩くように連なり落ちていた。
その密やかな律動は、やがて何かを呼び覚ます合図のように思えた。
夜九時。
彩雨の会の敷地内に鐘の音が一度だけ鳴り響いた。
離れの窓から外を覗く。
土砂降りの雨の中、傘も差さず、ずぶ濡れになりながら、信者たちは一糸乱れぬ足取りで集会場の奥へと進んでいく。全員が一点を凝視していたが、その顔には人間らしさの要素が何一つなかった。
離れの畳は、水脈がすぐ下を流れているかのように冷たく湿り、足裏に吸いついた。壁の隙間からはぬるりと苔が這い出し、柱の木肌は内側から滲み出すように黒ずみ、沈黙の中で呼吸をしているようだった。
この場所に夜通し閉じ込められる——その瞬間、喉の奥が薄い膜で塞がれたように、乾きとも違う苦しさが広がった。
雨音に寄り添うように、微かな別の律動が混ざり込んでいる——そんな錯覚があった。
「……今、なんか……変な音聞こえなかった?」
誰も返事をしなかったが、三人とも耳をそばだてていた。
「——ズ……ッ……ズ……、ズ…………ズ……」
雨の律動に紛れて、何かが土を這うような気配が、一呼吸遅れて追ってくる。涼介は窓の隙間から外を覗いたまま、声を潜めて言った。
「絶対なんかあるって。拓海、カメラ頼む」
圭介が慌てて立ち上がる。
「やめとこうよ、マジで。入るなって言われたじゃん」
だが涼介はすでに、そっと引き戸を開けていた。
雨の音が一瞬、止んだように思えた。
引き戸の外から吹き込んだ冷気に、圭介は思わず肩をすくめる。
「……マジで行くのかよ」
雨は本降りになっている。
視界はぼやけていて、懐中電灯の光がぬかるんだ地面を僅かに照らすだけだった。
「一応マイクも回しとくか? こんな雨だと拾えるかわかんねえけど」
拓海がバッグから小型レコーダーを取り出し、胸元に留める。
「ほんのちょっとだ。ちょっと覗くだけでいい」
涼介の声は、落ち着いているというより、どこか現実と離れていた。それが圭介の不安を鈍く逆撫でた。
「なぁ……やっぱやめようって。なんか、おかしい。身体の芯から……骨の奥から、冷えてんだよ……」
「圭介、悪いけど、ちょっとだけ待ってて。戻ってくるから。な?」
拓海が手短に言い残すと、雨に紛れて二人の足音が遠ざかっていった。
離れの中に、圭介だけが残された。彼は座ったまま、震える手で自分の膝を抱いた。
空間そのものの温度が、ゆっくりと下がっていくように感じる。その寒さは皮膚からではなく、背骨の髄から滲み出すようだった。
雨音。風の音。そして、またあの音が戻ってくる。
——ズッ……ズッ……
——……ズッ……ズ……、ズ……
圭介は耳を塞いだ。——最初は、雨がどこかで滴り落ちる音だと思った。だが違う。雨はこんなふうに、皮膚の内側を這ったりはしない。
その音は、骨の奥から聞こえている気がした。
涼介と拓海は建物の影に身を潜めるように、集会所の裏手へ移動した。
雨は体温を奪うだけでなく、二人の感覚を鈍らせていく。
「こっち……光、見える」
拓海が指差した先、朧に滲む光が本堂の障子の隙間から漏れていた。
人の声が、低く、連続音のようにうねっていた。まるで喉の奥で濁った水を転がし続けるような、湿ったうねり。
「……これが、祈りかよ……?」
涼介が小声で呟く。
障子の影に、ろうそくに照らされた人影がいくつも揺れている。全員が一方向を向いて跪いているように。
壇上には何かの影が立っている。
目で見ているはずなのに、視界が滑る。
重力のような、夢のような、不在そのもののような。それは柱よりも高く、床よりも深く、光そのものがその輪郭を拒むように、形を定めることのない揺らぎだった。
拓海が構えるカメラは、何も捉えることができなかった。レンズ越しの光景は、まるで黒い布をかぶせたように真っ暗で、像が浮かぶ気配すらない。
バッテリー残量は出発前にフル充電してきたはずだった。だがファインダーの隅に、突如として赤く点滅する。『Battery Empty』——赤い文字が点滅した刹那、カメラはそれ自体が目を閉じたかのように、完全に沈黙した。
雨のざわめきに紛れ、二人の背後——視界の水面の端に、数の辻褄を狂わせる一つが滲んでいた。
足音も呼吸もなく、それはただ、距離という概念を侵食するように近づいていた。
二人は、気づくことができなかった。