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魔女と王弟の恋愛事情 2

作者: なみ

ーーデイジーが命をつないだ夜



夜の帳がゆっくりと森を包みこみ、空には無数の星々が瞬いていた。風はひんやりと肌を撫で、焚き火の温もりがそれをそっと和らげる。


デルタ騎士団の野営地は、遠征からの疲れを癒すため、静けさに満ちていた。巨大な樹々の合間に張られた天幕が、焚き火の灯りでうっすらと浮かび上がり、時折馬のいななきや、薪の爆ぜる音が夜の静寂に溶け込んでいた。


兵士たちは順番に交代で見張りにつき、他の者たちは干し肉と固パンの簡素な夕食をとり終えて、焚き火のまわりに集まり、静かに談笑していた。武具を手入れする者、寝台を整える者、……それぞれが、安息を慈しむように時間を過ごしている。


ジェット・デルタ団長はその中心にいるでもなく、離れすぎるでもなく、焚き火の端に座していた。鎧を脱ぎ、粗衣の上着を羽織った彼の横顔は、どこか遠くを見つめているかのようだった。


彼の周囲には、若い兵士たちが遠慮がちに距離を保ちながらも、時折ジェットの一言に小さく笑ったり頷いたりしていた。厳格で名高い団長ではあるが、討伐ののちのこうした野営では、無用な威圧は見せず、仲間たちと同じ地に眠る。ただ、誰よりも静かに、誰よりも深く物思いに沈んで。


焚き火のそばで、少女が猫のように身体を丸めて膝に顔を埋めていた。黒髪の少女――デイジーは、父の隣で静かにその温もりを吸い込んでいる。彼女の姿に、兵たちの視線はほのかな優しさを宿したまま、そっと外された。誰もが知っている。彼女が、この国にとってどれほど特別な存在であるかを。


乾いた草の匂いがするなか、ジェットは小さく吐息をつき、腕の中で眠りかけたデイジーの肩をそっと引き寄せた。


「……デイジー」


「お父様…」


今夜だけは特別だ。討伐で命の危機にあった娘が、無事に帰ってきた。そのことだけで、心臓が痛いほどの安堵に包まれる。


「身体に違和感はないか?」


「うん」


そう言って、デイジーはジェットの腕に頭をもたれかけた。まだ小さな肩。けれど、自分より強い相手に果敢にも挑む姿を、今日この目で見た。


「怖く、なかったか」


「お父様の事しか考えてなかった」


焚き火の光が、少女を赤く染める。彼女はジェットを見上げると、少しだけいたずらっぽく笑った。


「……ねえ、お父様。ジョイとドリーとグレイのこと、気にならない?」


ジェットは、わずかに眉をひそめた。


「……なぜ、その話を?」


「だって、あの子たち……みんな、お父様に懐いてるでしょ? とくにドリーなんて、蛇の姿でお父様の胸元に巻きついてたの、見たことあるもん」


「……あれは、よくわからない。勝手に来るんだ」


「ふふ。やっぱり。……ねえ、聞かないの?」


ジェットは火を見つめ、しばらく黙った。燃える炎の揺らめきに、記憶が浮かぶ。


梟の姿のジョイが、書物を咥えて彼の書斎に現れた夜。冷え込む城の石畳に、そっと寄り添ってきた蛇の温もり。そして何より、黒猫の姿で現れていたはずの娘が、目の前で「人間」として抱きついてくる現実。


(……黒猫が人間だった。ならば、梟も、蛇も――)


心のどこかで感じていた違和感が、じわじわと輪郭を持ち始めていた。


(……誰の子かはわからない。が、あれほど自分に懐く理由は……)


「……アリエルは……お母様は、お前にはなんでも話すのか?」


「ううん。あんまり。けど……わかるよ。お母様、お父様一筋だもん。ずっと前から」


その言葉は、焚き火よりも熱く、鋭く、ジェットの胸に突き刺さった。


(……他の男と会っていたのではなかったのか?数ヶ月ほど、断られる時期がたまにあったが……)


(――妊娠を、隠していたのか)


確信が、胸の奥で確かに芽吹いた。

ジェットは手のひらを焚き火にかざしながら、しばらく言葉を失っていた。娘の小さな背が寄り添っているのに、心は激しい嵐に飲み込まれたかのようだった。


(アリエルが他の男と交わっていたとは……どうしても思えなかった)


潔癖すぎるほどに、真面目な女だった。民の命を守るために己を削り、騎士である自分の帰りを、いつも静かに待っていた。――だがあのタンザナイトの瞳が、嘘をついているようには見えなかった。


(……だが、では何故、あの子たちのことを隠してきた?)


ジョイも、グレイも、ドリーも――そしてデイジーも。


すべて、アリエルが自分に伝えずに育ててきた、小さな命。


(……いや、伝えなかったのではない。伝えられなかったのか)


「お父様?」


デイジーが不安げに見上げてくる。ジェットは我に返り、軽く娘の頭を撫でた。しっとりとした黒髪は、夜風にもかすかに揺れる。


「……すまない。考えごとをしていた」


デイジーの瞳が、焚き火のように揺れていた。


「わたしね、お父様と話したいってずっと思ってた。でも、お母様が――“それはあの人の決意を奪うことになるかもしれない”って。だから、言っちゃダメって言われたの」


「……決意を、奪う?」


「うん。お父様って、国のために全部を捧げてるでしょ。だから、子供がいるって知ったら、違う道を選ばなくちゃいけなくなるかもしれないって。……でも、わたしは知ってほしかった。わたしたちが、ここにいるって」


ジェットは、深く頷いた。


「……ああ。知るべきだ。知って、向き合わねばならなかった」


燃える焚き火の音が、彼の決意に呼応するかのように、ぱちん、とはぜた。


彼の胸の内には、もう疑いはなかった。アリエルが誰を見て生きてきたのかも、子供たちがなぜ自分に懐くのかも。すべて、ひとつの答えに帰結していた。


(あの子たちは――俺の子だ)


「……これからはずっと一緒にいよう。六人で」


ジェットの声には、これまで聞かせたことのない、柔らかく、それでいて力強い響きがあった。


「ほんと?」


「……ああ。お前たちに――ちゃんと、父として向き合いたい」


デイジーはその言葉を聞いた瞬間、目に涙を浮かべて、ぎゅっと父の腕にしがみついた。


「ありがとう、お父様……!」


その抱擁は、戦場の疲れも、心の迷いも、すべて溶かしてしまうほどに温かかった。

















ーーアリエルとジェットが、社交界に揃って顔を出した後日



デルタ王国の玉座の間は、荘厳でいて、どこか張りつめたような静けさをたたえていた。深紅の絨毯が真っ直ぐに伸び、白大理石の床が朝陽を淡く反射している。


その中央に静かに立っているのは長身の騎士――ジェット・デルタ。いつもの鎧ではなく、格式ある深緑の礼装に身を包み、真面目な顔を保ったまま、その目だけがアリエルと子どもたちを見守っていた。


隣には、正装に身を包んだアリエル。漆黒のドレスの裾を曳き、紫紺の瞳がまっすぐ玉座を見据える。


「――陛下。ただいま参上いたしました。ご報告が遅れて申し訳ございません」


ジェットが一礼すると、玉座に腰かけるデルタ王・ダンは、苦笑混じりに肩をすくめた。


「まさかお前に、すでに四人も子供がいるとはな」


「……なんとも申し開きがございません」


「ふふ。よい。さっそく紹介してくれ。……と、その前に、他のものは一度、皆退室してもらえぬか?」


王の言葉に部屋には王とジェット、それにアリエルと四人の子供だけが残される。


「では我が弟よ、その大事な家族を」


ジェットは静かに頷くと、左手を差し出した。


「こちらが、アリエル・フォード。フォード伯爵家の長女にして、私の伴侶であり、子供らの母です」


「陛下。アリエル・フォードと申します。本日はこのような場を開いていただき、恐れ入ります」


アリエルが礼をすると、ダン王はその柔らかな物腰に静かに微笑んだ。


「そうか……なるほどな。先日の舞踏会でも思ったが、ジェット、お前が一目惚れするのも無理はない。これほどの美貌とはな。これがローブを外した魔女殿か。伯爵が隠すわけだ」


まるで呟くような王の声に、ジェットの眉間がぴくりと動く。


「外見で選んだわけではありません。……それに、彼女の父上が、何か?」


王は小さく息を吐き、笑みの色を深めた。


「フォード伯爵の気持ちも分からなくはないと言いたいのだ。才女で、国を護る要でもある娘を……どうにか、正当に、幸せに送り出したいと思うのは、親心だろう。してお前のような男を伴侶に選んだのだ。伯爵にしてみれば、過去のあれやこれやが霞むほどの良縁よ」


ジェットに戸惑いが滲む。


「……アリエルは、自分にとって特別でした。……それだけです」


「分かっているよ」


王はそっと頷いた。


「魔女殿は大切な存在。……だからこそ、私も彼女には、心から祝福を贈りたい。幸せになってもらわねばならぬと、本当に、そう思っている」


ジェットはその言葉に黙して、ただ静かに頭を垂れた。まるで、国の守り手としてではなく、ひとりの男として、許されたような気がしていた。


ジェットは一歩王の玉座から身を引き、子供たちへと目で促した。彼のまなざしは柔らかく、いつもの鋭さとは異なる。まるで誇り高き騎士ではなく、ただの一人の父親であるかのように――。


視線が最初に注がれたのは、一番右に立つ黒髪の少女だった。絹糸のように艶やかな長髪、タンザナイトのように澄んだ瞳。その佇まいには、幼さの中に凛とした気品があった。


王がふと目を細め、ゆるやかに顎を引く。


「……ふむ、確か魔物からジェットを庇った、黒猫だな?」


少女は一歩前に出ると、裾をつまんで上品に礼をした。動作に淀みはなく、よほど礼儀作法を学んでいることが伺える。


「はい、陛下。私はデイジー・フォードと申します。魔女アリエルの娘にして、デルタ騎士団団長ジェット・デルタの娘でございます」


その堂々たる口上に、王の瞳がきらりと光った。驚嘆ではなく、むしろ微笑ましさと称賛を込めたまなざしだった。


「見事な娘だな。賢く、誇り高い。……まさしく、次代の魔女だ」


王の声には、確かな希望と信頼があった。


次に、ジェットの隣で少しだけ不安そうにしていた少年が、そっと前に出た。白い外套に身を包み、蜂蜜色の髪がふわりと揺れる。父親譲りの整った顔立ちには、幼さと理知の気配が混じっている。


「ぼくは……ジョイ・フォードです。陛下にお目にかかれて……光栄です」


少し緊張の滲んだ声。しかしはっきりとした言葉に、王はまた目を細めた。


「……急に舞踏会に転移してきた子か。なるほど……多くの魔力を秘めているのであろうな」


ジョイが背筋を伸ばす。


王は頷きながら、穏やかな声で続けた。


「しっかり精進し、父親の言うことを聞くんだぞ。おまえのような才ある子が、真っ直ぐ育てば、この国の未来は明るい」


ジョイは真剣な表情で深く頭を下げる。ジェットはそんな息子の様子を見て、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。


「そして……その腕の中の子らが、蛇の双子か?」


静まり返る謁見の間に、王の声が低く響いた。玉座に腰かけたまま、鋭い眼差しをジェットへと向ける。


ジェットは一歩前に出て、胸に抱いた双子を見下ろした。彼らはまるでその場の緊張を感じ取っていないかのように、安らかな寝息を立てている。


「……彼らの名は、ドリーとグレイ。母の名にちなんで、どちらも古き言葉で“愛しきもの”の意を持つ名です」


その声は静かだったが、確かな想いがにじんでいた。


王のまなざしがふたたび赤子たちに注がれ、ゆっくりとした言葉が続く。


「……この子たちも、お前の子か?」


ジェットの口元が、わずかに引き結ばれる。そして、頷いた。確信している。


「はい。アリエルと、私の子でございます」


王のまなざしが、じっとジェットを見つめる。そこには叱責も驚きもない。ただ静かに、深い理解が浮かんでいた。


長い沈黙の末に、王はゆっくりと口を開いた。


「……ここに、デルタ王国の未来が並んでおるのだな」


玉座の上で微笑んだ王の目が、まるで父親のように柔らかくなる。


「この国を護り続けた魔女と、剣を掲げた騎士。その絆が、今こうして形となって……見事なことだ」


ジェットはそっと双子を抱き直しながら、胸に湧き上がる感情を必死に抑えていた。


――ようやく、すべてをこの手に抱くことができた。これから先、絶対に守る。


その決意は、戦場で何度も剣を掲げた日々よりも、遥かに重く、そして揺るぎないものだった。


「ありがとうございます、陛下。……この子たちは、私たちの宝です。国のためにも命をかける覚悟がございます」


アリエルの言葉に、王は静かに頷く。


「そなたは、よくぞ隠し通してきたな。国のために力を使い、家族のために盾となる。その姿を、これからは国の誇りとして見せよ」


その言葉に、アリエルはゆっくりと頭を下げた。


「はい。ありがたいお言葉」


芯の強さがある声が広間に響く。


王は再びジェットに視線を戻した。


「ジェット」


「はい」


「……おまえは、とうに“家族”を持つ器だったのだな。母上のことも、父王のことも……色々あったが、こうして血の繋がった命たちが、堂々と王宮に立つ様を見れば、私は兄として誇らしい」


その声には、王としてではなく、一人の兄としての温かさが宿っていた。


ジェットの肩がわずかに揺れる。彼はまっすぐに頭を下げ、短く言葉を返した。


「……ありがとう、ございます」


それは騎士としての礼ではなく、一人の弟としての感謝だった。彼の背に刻まれた覚悟は、この瞬間をもって、国全体へと伝わっていく。


そして、その様子をじっと見ていたジョイが、ふいに小さく手を挙げた。


「陛下!」


その澄んだ声に、皆の視線が少年に集まる。ジョイは背筋を伸ばし、堂々とした様子で続けた。


「ぼく、お父様とお母様と一緒に、国を守れるような魔法使いになります!」


一瞬の沈黙の後、王は朗らかに笑った。


「うむ、頼もしいな。そなたが成長する日を、楽しみにしておるぞ、ジョイ・フォード」


ジョイの顔がぱあっと明るくなり、アリエルはそっと目を細めて微笑んだ。その横で、ジェットもまた、誇らしげに我が子を見つめていた。


――こうして、フォードの子らは王宮に名を連ねた。


それは新たな時代の幕開けであり、長く秘された愛と絆が、ようやく日を浴びた瞬間だった。



















王都の北にある、石造りの屋敷。

ジェットは家族を連れて生家へと帰った。

門をくぐると、そこには静かな時の流れに包まれた大きな屋敷が佇んでいた。灰色の石壁は長い年月の重みを物語っていたが、丁寧に磨かれた窓枠や艶のある黒鉄の扉が、こまやかな手入れを証している。赤褐色の屋根瓦は整然と並び、苔むした蔦はあえて残されたように壁面を優雅に彩っていた。


中庭には季節の花が咲き誇り、小径の敷石には塵ひとつなく、足を踏み入れれば石畳に心地よい靴音が響く。


アリエルはジェットの背中を見上げる。彼の表情はどこか硬く、どこか懐かしさを堪えているようにも見えた。


「……お屋敷、久しぶりなんですね」


アリエルがそっと声をかけると、ジェットは小さくうなずいた。


「母上が亡くなってから、まともに帰ったのは……何年ぶりだろうな」


彼の母が亡くなったのはアリエルがデイジーを身籠ってすぐだった。彼をそばで支えたかったのだが、はじめてのつわりで思うように動けずそれが出来なかった。アリエルは今でもそのことを後悔していた。

屋敷の扉が開くと、ひとりの老執事が姿を現した。灰色の髪にきちんと整えられた身なり。背筋は真っ直ぐで、その瞳には懐かしさと驚きが入り混じっていた。


「お坊ちゃま!……おかえりなさいませ。ご連絡をくれればきちんとお迎えしましたのに」


「ただいま、ハロルド。元気そうだな。」


「もちろんでございますとも。そちらのご婦人とお子様たちは……。?……目の色が……。っっ!!」


ジェットは小さく笑い、隣に立つアリエルと、後ろに並ぶ4人の子どもたちに目を向けた。


「紹介しよう。彼らは……俺の家族だ」


ハロルドの目が見開かれ、そして震えた。


「……まさか」


「彼女がアリエル・フォード。それに俺の娘のデイジー。息子のジョイ。あと、双子のグレイとドリーだ。」


アリエルが緊張した面持ちで一歩前へ出て、深くお辞儀をする。


「アリエル・フォードと申します。長い間、ジェット様の子供たちを連れてこれず申し訳ありませんでした。」


執事は一瞬、時の流れが止まったかのように硬直した。

だがすぐに、慌てだす。


「お顔をお上げください、お嬢様……! そんなふうに頭など……!」


彼の声は震え、戸惑いと、そしてどこかに宿る敬意が滲んでいた。


「私などに、謝る必要などございません。きっと、いろいろ事情がおありだったのでしょう。大変でしたね」


ハロルドは優しく彼女を包みこんだ。


「デイジーです!よろしくお願いします!」


デイジーがその場を明るくするために、少し元気すぎるカーテシーをした。

ハロルドは胸を押さえ、震える手でハンカチを取り出した。


「上手に挨拶できましたね。……ジェット様に、こんな可愛らしいお子様たちが」


屋敷の奥から足音が響いてきた。こつこつとした、少しせっかちな足音。そして、ドアが開く。


「ハロルド、来客ですか?なにか問題で…も……」


出てきてのは立ち姿が凛とした老婦人。灰色の髪をきちんと結い上げ、無駄のない所作が気品を漂わせていた。けれど、ジェットの姿を見るなり、動きがふっと止まる。


ジェットが静かに言った。


「マティルダ。俺だ。久しぶりだな」


彼女はほんの一瞬、感情を抑えるように目を閉じ、そしてゆっくりと笑みを浮かべた。


「……まあ、なんとお懐かしい。お帰りなさいませ」


ふと彼女首を傾げてジェットを見た。そして、彼の後ろに視線を彷徨わせた後、じっとジョイの顔を見つめ思わずつぶやく。


「……坊ちゃまにそっくり……」


ジェットは子どもたちの背に手を添えた。


「私の……子どもたちだ。デイジーと、ジョイ。そしてグレイとドリー。彼女は私の婚約者アリエルだ」


「……まあ……」


一瞬で、言葉を失ったマティルダの瞳が揺れた。

再び頭を下げようとするアリエルに、マティルダは急いで寄り添い「大変だったわね」と優しく声をかける。


「おめでとうございます、坊ちゃま……。なんと、なんと嬉しいことでしょう。ああ、この手でまた、お小さい方々に触れられるとは……」


すると、デイジーが一歩進み、スカートの裾を摘んで礼をした。


「はじめまして。私はデイジーと申します。こちらは弟のジョイです。」


「まあ、なんと礼儀正しいお嬢様。……奥様の面影がございますわ」


マティルダは膝を折って目線を合わせると、そっと手を差し伸べて少女の手を包んだ。


「お会いできて光栄です。ようこそおいでくださいました。少しお話を交わしただけで、お育ちのよろしさが伝わってまいります。頑張っていますのね。……ジョイ様も、よろしゅうございますか?」


「うんっ。おばあさまは手があったかいね」


「あらあらまあ、おばあさまなんて勿体ないお言葉。どうかマティルダとお呼びくださいね?ふふ……」


ジェットは、その光景に胸の奥が、じんわりと温かくなった。


「マティルダ……子どもたちに、お前を紹介できて本当によかったよ」


マティルダは一度小さく頭を下げたあと、真っ直ぐにジェットを見つめた。


「坊ちゃま。ようやく……あなた様が幸せを手にされたこと、心から……心から、嬉しく存じます。奥様もきっとお喜びになっているでしょう」


マティルダは視線をジョイに戻す。


「ジョイ様のお手も、とても温うございますね……」


マティルダのしわの刻まれた手が、そっとジョイの小さな手を包み込む。その手の温もりを感じながら、彼女は懐かしげに目を細めた。


「坊ちゃまが小さかった頃も、こんなふうに、いつもあたたかいお手々をなさっておられましたよ」


「……おとうさまと、似てますか?」


ジョイが首をかしげて尋ねると、マティルダは目元にほのかな涙を浮かべながら、やさしく微笑んだ。


「ええ、とても。けれど、お目元はお母様に、そっくりでいらっしゃいますね」


「うん!」


嬉しそうに笑うジョイの髪に、マティルダはそっと手を伸ばし、撫でた。その指先は、長年の働きで固くなっていたが、まるで羽のように柔らかく、くすぐったくて、ジョイは小さく身をよじらせて笑った。


「坊ちゃま……これほど愛らしいお子さまを、こんなにも健やかに育てられて……」


彼女の声に、深い感慨と喜びが滲んでいた。


「……ああ。彼らの母が、すべてだ」


ジェットの低く穏やかな声に、アリエルは目を見開いた。内心、少しだけ戸惑う。実際のところ、子育ての半分……あるいはそれ以上はジェットに頼っていたのだ。彼もそのことは承知しているはずなのに――それでも、そう言ってくれるのが彼らしいと、胸が温かくなった。


アリエルは小さく一礼しながら、静かに名乗る。


「はじめまして。私はアリエルと申します。至らぬところばかりではございますが……どうか、よろしくお願いいたします」


その言葉に、マティルダは目を潤ませ、深く頭を下げた。


「まあ……とんでものうございます。坊ちゃまが心を許されたお方にお会いできて、わたくし……この上なく嬉しゅうございます……」





その夜、屋敷の一角にある静かな居間で、マティルダはアリエルと向かい合っていた。デイジーとジョイはすっかりなじみ、近くで本を読んだり、お茶を味わったりしていた。


「……今日は本当にありがとうございました。子どもたちもとても嬉しそうで……私も、少し肩の力が抜けたような気がします」


アリエルが礼を言うと、マティルダはふふ、とやさしく微笑んだ。


「まぁ、もったいのうございます。……こうしてお嬢様と坊ちゃま方にお会いできたことは、長年この屋敷に仕えた私にとって、何よりのご褒美でございますわ」


「……嬉しいです」


アリエルがそうつぶやくと、マティルダはそっと手を取り、少しだけ身を乗り出した。


「アリエル様。私は、あなたさまを誇りに思うのですよ。坊ちゃまのお心を射止め、ご子息方をこんなにも健やかに育てられて……それは並のことではございません。あなたさまは、強うございます。そして、どこまでもお優しい方」


「……ありがとう、ございます」


静かに、アリエルの目に涙が浮かんだ。それを見て、マティルダはにっこりと笑う。


「さあ、涙を拭いて。今日からは、こちらの屋敷も"我が家"でございます。わたくしも、執事のエリオットも、そして坊ちゃまも――皆さまの味方でございますよ」


「はい……」


そのとき、ジェットが扉を静かに開けて入ってきた。手には紅茶のカップを二つ。


「アリエル。少し冷えたと思って、温かいのを持ってきた」


「あら……ありがとう、ジェット」


「マティルダ。子どもたちの様子はどうだ?」


「お二人とも、とてもお行儀がよろしく、よく笑い、よく食べていらっしゃいます。坊ちゃまが小さい頃と、何も変わりませんわ」


ジェットは少し照れたように笑い、デイジーの頭を軽く撫でた。


「……あんまり甘やかされると、図に乗るからな」


「それは、父上の方ではございませんの?」


マティルダの返しに、アリエルも子どもたちも笑った。


そんな、やさしくあたたかな時間の中で。


ジェットはふと思った――かつて母を喪い、孤独を知った自分に、こんな日が訪れるとは思っていなかった。けれど、今や、そばには愛しい人と、愛おしい命たちがいる。


――守るべきものが多いと、こんなにも幸せなのだな。







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