行きはよいよい帰りはこわい
家から城に向かって行くのは容易い。
城に向かって歩けば良いためだ。
城は心の拠り所であり道標である。
たとえ道に迷ったとしてもそれを見つけさえすればたいてい何とかなるものだ。
暖かく華やかで、人通りの多く喧騒の絶えない城下街。
ここに至るまでの苦労など簡単に忘れてしまえるほどの壮大さ。
細部にまでこだわった装飾の数々。
何気ない小道、木の根元から伸びる階段。
レンガ作りの商店は旅人を誘うように佇んでいる。
綺麗に並んだ家々は驚くべきことにそれぞれの個性を残しつつも全体としては調和が保たれている。
中央には壮麗な噴水が陽光を浴びて輝いている。
ああ、中央から端に至るまでどれをとっても美しい。
高い塔から見下ろした街々はまるで生き物のように躍動している。
そうか、私はここに至るが為に。
この瞬間を迎えるが為にここまでやってきたのだという堅固な確信さえ抱いた。
しかし、いつまでもここにはいられない。用事を済ませたならば戻らなくては。
あの陰鬱で物音一つしないあの場所へ。
人を寄せ付けず微かな光でさえ跳ね除けるあの場所へ。
後ろ髪を引かれつつ、街を後にする準備を進めるが一向にして進まない。
進めたくないのか、本当に進んでいないのかは分からないが、一日二日と出立日がずるずると遅れて行く。
ついには出発を心に決めてから一週間が経とうとしていた。
ああ、こんなはずでは無かった。
どうしていつもこうなのだろう。
素晴らしい時はいつも風のように去り、
残るのは鉛のように重い枷。
城から家に帰るのは難しい。
どこが家か分からなくなるからだ。
今日こそは。
街から一歩踏み出そうとする。
途端に心細くなった。
後ろを振り返ると賑やかな笑い声が響く。
それでも進まなくてはならない。
右足を一歩踏み出す。
左足。右足。背に街の暖かさを感じながら一歩ずつ進んで行く。
一歩また一歩。この繰り返しだ。
単調にも思えるリズムに従って歩みを進める。
するとどうだろう、心苦しい気持ちが薄らいで少しずつ愉快な気分になってくる。
夢中で足を動かす。
ふと気がつくと、街の活気が耳をすまさなければ聞こえないぐらい小さくなっていることに気づいた。
城をぼんやりと望む。
城はこのような出立ちであったか。
しばらく見ないうちに形を変えたのかと見紛うほどだった。
行く時はあんなにも頼もしく大きく堂々としているように見えた物だが、
帰る時には頼りなげに小さく儚げに見える。
しかし、変わったのは城ではないのだ。
城はあくまでも城。
私は半身を引き裂かれたような鋭い痛みに襲われる。
私は城に置いてきた宝物を今すぐにでも取りに戻りたい気持ちになる。
そんなことはできないし、気のせいだ。
宝物はそんなところには無いのはもうわかっているだろう。
ここに立っている事それが全てなのだ。
もう感傷に浸るのは辞めにしよう。
私は再び進むことにした。
私の背後で城が怪しげに蠢いている。
私はそれに気がつくことは無かった。
姿形の変わらないものなどこの世に在ろうはずがないじゃないか。
そんなことは十万年も前から分かりきっていたことだ。
霧が濃くなってくる。
城はもうとっくに見えなくなってしまった。
段々と歩くペースが落ちてくるのを感じる。
それもそのはず一寸先も見えないような状況で進むことは困難を極める。
ぐるぐると同じ箇所を回っているのではないかと疑心暗鬼になる。
結局進んでいないのではないか。
あの木は先ほど見た木ではなかったか。
あの湖は。あの道は。あの花は。
気のせいだ。気のせいに違いない。
自分に言い聞かせるようにして淡々と進む。
さっき通ったあの木とずっと前に通った木が一緒なはずがない。何もかもが違う。枝葉の数も違うし、幹の太さも、花の数も違う。周りの風景も異なっていたはずだ。
そう信じ込むことでしか正気を保つ術を知らなかった。
狂気に足を踏み入れることなどこれまで一度も無かった。神に誓ってない。私はそう断言できる。私は正常だ。断じて狂ってなどいない!私は正常だ!
霧の森を抜け、八の字の湖を越え、螺旋階段を登り、猿の洞窟を抜け、古い寺を訪れ、火の海を越え、鯨が住めるぐらい大きな大きな川を渡り、山姥の住む山を駆け、広大な沼地を通り抜け、小さな草原を渡り歩き、険しい崖を越え、薄暗い森の入り口に辿り着いた。
ようやく家に辿り着く。
私は暫しの間長い道のりを振り返った。
長かった。足腰がボロボロになりながらも休み休み何とかやってきた。
鳥が歌っているように啄む。
はて、こんな物静かな場所で鳥などついぞ見たことがない。
何とも珍しいことがあるものだな。
と思いつつ、森に入って行く。
奥は、木漏れ日が差し込み、ほのかに明るく眩しくなっている。
じめじめとした感触は気持ち薄れている。
はあ、こんな森は生まれて初めてだ。
ここが見知った場所ではないかのような不思議な感覚に包まれる。
森の雰囲気に何とも言えない気分になる。
そうこうしているうちに、家が見える小高い丘までやってきた。
家だ。家が見える。
あれが私の家?
そうか私の家はあのような出立ちだったのか。
行く時は大きくどっしり構えていたように見えた物だが、
帰ってくる時にはなんだかちっぽけで窮屈に見える。
雲の合間から晴れ間が見える。
祝福だ。私の帰還を祝福しているのだ。
私は何とも誇らしい気分なった。
少なくとも今はそう思い込むことにし、
小さな違和感に目を瞑った。
私は何かを為したのだろうか。
何かを為した気もするし、何も為していない気もする。
何処かへ行った気もするし、何処にも進んでいない気もする。
もし仮に一歩も進んでいないのだとしてもそれはそれで良かったのだ。
行っていないのならば帰ることはないし
ようよう行ったのならば帰りはこわい。
どちらもさして変わり映えしないものだ。
どちらの方が良いかなんてそんなことは帰ってから顧みればいいことだ。