ヤスケサンの噂
噂好きの彼女
夏。
…夏は嫌い。
うだる様な暑さ。
纏わりつく湿気が私の乾燥肌を潤し、強い日差しが私の柔肌を虐める。
…このままだと柔らかローストチキンになっちゃう…
街路樹から響き渡るオーケストラを聞くと、嬉しくて、思わず手近な樹を蹴り飛ばしたくなる。
…ヒールが折れると困るからやらないけどね。
夏といえば昔は今より涼しくて、山野を駆け廻れば寒いくらいだったのに。
…年々暑くなってない?
近年は暑くなり過ぎて、エアコンの無い田舎の家には近寄る気も起きない。
…もう、お祖父ちゃんが亡くなって何年になったっけ?
最後に行ったのは小学生の頃だったかな…
叔母ちゃん、元気しとるかね?
今年のお盆も、手当無しの書類整理が決定している。
…ああ、もう何年もお墓参りに行って無いなぁ…。
有給?何それ美味しいの?
◆
「ねぇ…知ってますぅ?先輩。
ここだけの噂なんですけど…」
はぁ…またか…。
私は、彼女の口癖の様になった前口上を聴きながら、思わず呟きそうになった。
…いっそ、わざと呟くのも手か?
手元のアイスコーヒーの氷が溶けて、グラスの中で勝手に位置を入れかえる。
動く時のカラン…という音が、彼女の声より大きく響いた気がした。
…彼女の下らない話を聴くよりも、氷の音を聞く方が好きなんだけどなぁ。
外では街路樹にとまった蝉が五月蝿く騒ぎ立てている。
ミンミン言ったかと思えば、ツクツクと合いの手が入る。
防音が効いている店内に居ても、彼等の主義主張が耳に障り、神経を逆撫でる。
…だから、夏は嫌い。
ならば、外に出なければ良いのでは?
エアコンの効いた部屋で1日中ゴロゴロしてれば良いじゃない。
…何、その天国。
そうしたいのに、そう出来ないのが私達社会人。
人付き合いは苦手。
夏も苦手。
でも、稼がないと…。
もやしキャベツ炒めは…もう、見るのも嫌。
お肉が食べたいなぁ…。
「先ぱ〜い?聞いてるぅ?
お〜い。帰ってこーいよ〜」
彼女が、私の目の前で大きく手を振った。
…折角現実逃避していたのに、引き戻さないでよ…
彼女は会社の新人で私の後輩。
そして色々と壊れている厄介な子。
特に他人との距離感が変。
私が先輩なのだけれど…。
彼女が、私の前で尊敬語を使っている所を見たことが無い。
外回り中でも、治して丁寧語。
お客様に対してタメ口で話し掛けた時には冷や汗が出たものだ。
…あの時はお客様も驚いて、門前払いされたっけなぁ…。クソっ!
初めの頃は何度か注意したけれど、なかなか治らない。
治らないと言うより、治す気が無いと言うべきか。
私が注意すると酷くなる。
終には、先輩である私を年下扱いしてくる始末。
…確かに私はチビですけどね!
棚の上の書類に手が届かなかったからって、大声で部長を呼んで来るなんて!
どんな嫌がらせだ!?
アンタが取ってくれれば済んだ話なのに!
…ふぅ…一昨々日の嫌な事をイキナリ思い出しちゃった。
彼女の事は嫌い。
だけれども仕事上、ペアで行動する事になっているので我慢、我慢。
後輩の躾も先輩の仕事よ!
頑張れ!私!
◆
外回りからの帰り道、あまりの暑さに彼女が音を上げた。
そして途中で見かけた喫茶店に、『勝手に一人で』飛び込んだ。
新人の彼女を一人放って帰社する訳にもいかず、無理矢理付き合わされる事になった。
…喫茶店だと経費で落ちないよねぇ?
ただでさえケチ臭い我が会社。
今月も厳しいのに、やだなぁ…
そんな事を考えていたら、彼女が口を開いた。
「先輩、『ヤスケサン』って知ってます?」
◆
「…ふうん?…ヤスケさん?
そんな人社内に居たっけ?
随分と古めかしい名前だけれど。
…で、その人が社内の誰かと不倫でもしたの?」
私はアイスコーヒーを一口啜ってから、ゆっくりと応答した。
「やだなぁ、先輩。
会社の人じゃありませんよ。
その言い方だと、まるで私がいつも社内の人のゴシップばかり集めているみたいじゃ無いですか」
手を振りながら、苦笑いする彼女。
…違うと申すか…
社長の愛人の噂を拡めて、連帯責任で私までクビにされかけたのは、つい先日の事だというのに。
その報復で、お盆休み無しで働く事が決定したというのに。
勿論、手当無し。
「それじゃあ、貴女の親戚?
黒人の側仕えみたいな名前ね」
私は、外の蝉を眺めながら呟いた。
…どうやったら黙らせられるかな?
蝉と彼女。
「私の親戚に信長様は居ないですね〜。
…って、そういう『人』の噂話じゃないんですってば!
ウワサですよ!『ヤスケサン』の噂
…聞いた事、無いですか?」
少し上目遣いにこちらを見てくる。
外に顔を向けつつ、横目で彼女を睨んだ。
彼女のこういう仕草が嫌いよ。
こんな見え見えの仕草で、可愛いだとか言われて喜ぶのでしょう?
女のプライドは無いのかしらね…
私は敢えて応えずに黙ってコーヒーに口をつけた。
「無いんですか?本当に?
先輩の実家辺りの噂話だと聞いて、是非これは先輩に確かめないと!と、一念発起して無理矢理二人きりになったのに…」
彼女は唇を突き出して、残念さを表現しようとしている。
…アヒル口とか言うの?
私には滑稽な顔にしか見えないけれども。
…あれ?彼女に私の実家の話をしたかしら?
…きっと、同僚から聞いたのね。
こういう情報収集能力が侮れないのよ。
阿呆な癖に、噂を集める能力だけは突出しているのよね…。
下手に『此処だけの秘密』を話せば、明日と言わず、1時間後には会社中に知れ渡る。
収集と拡散。それが彼女のスタンド能力。
下手な返答は出来ない。
…また巻き添えになったら、今度は本当にクビになるかも。
此処は適当に答えて話を切り上げるのが吉。
「ヤスケさんなんて知らないわ。
田舎だからと言って、皆の名前を覚えている訳じゃないわ。
そもそも、私は子供の頃に数回行ったきりで、実家の事ですらほとんど覚えて無いわ。
ごめんなさいね。力になれなくて」
そう言って、アイスコーヒーを飲み干した。
「あれ?そうなんですか?
…名前が違ったのかな?
『ヤスケサン』じゃない?彼の言い間違いだったか…?
『ヤスケ』?『ヤクスケ』?」
彼女は俯いてブツブツと呟いた。
…彼氏持ちかよ…くそ…
彼氏情報を私で補足すんな…
彼女の様子を不審に思ったのか、店員さんが様子を見に来た。
「あの…お客様?大丈夫ですか?」
近く迄来て声を掛けると、彼女は突然顔を上げた。
「あ、アイスコーヒーをもう一杯。
砂糖、ミルク無し。ブラックで。
先輩、空になってますよ。
奢りますので、もう少し涼みましょう」
と、捲し立ててニコニコと微笑んだ。
…ちっ…
さっさと飲んで、退店しようとしたのを悟られたか。
店員さんは、彼女の突飛な行動に面食らった様に驚きながらも無言で頷き、早足で厨房に戻って行った。
空になったアイスコーヒーのグラスに残った氷が、再び、カラン…と店内に響き渡った。
◆
「それで…?
そのヤスケさん?…とやらの噂って?
…私の田舎の誰かの噂話が、なんで都会にまで伝わっているのよ?」
私は追加注文が来るまで、外のオーケストラを憎々しく眺めながら、ぶっきらぼうに彼女に尋ねた。
「そんな津山じゃあるまいし。
田舎の名前なんて、都会人には何の興味も持たれませんって。
『人』に関する噂じゃありません。
…これは、『ホラー』なんですよ」
彼女は声を潜めて、ニヤニヤしながら私を見つめた。
「ホラー?
ホラーって、貴女の様なホラ吹きじゃなくて、『怖い』方のホラー?」
意外な話に、私は店に入って初めて、彼女の顔を正面に見据えた。
「…先輩、結構毒舌っすよね…。
そうです。法螺貝でも山伏でもない、『怖い』風習の噂話です。
都市伝説と言うのか…いえ、先輩の田舎なので『田舎伝説』と言うべきでしょうか」
私が興味を持ったのが良かったのか、彼女は嬉しそうに、興奮しながら話し出した。
…田舎で悪かったな。
確かに田舎だけどさ。
今どき珍しく野火もやるさ。
ウィッカーマンみたいな櫓も建てるさ。
そういえば、子供の頃に見た時は怖かったけど、今は感慨深い物なのだろうか…?
休みが取れたら、久しぶりに帰りたいなぁ…。
休みなんて無いけど。
「貴女がホラー好きだとは知らなかったわ。
それで、私のド田舎の話が聞きたいと?」
「私は他人の愛憎劇がパンケーキ並に好みですけど、ドロドロと粘着する様なホラーはクレープ並に好きなんです」
…クレープ…パンケーキ…どういう基準なんだろう?どちらが上?
「…で、紆余曲折ありまして、ある怖い噂話を手に入れましてね…。
もしその裏付けがあれば、怖い噂話に箔が付くかな…と。
そうすれば、女子達やお局を怖がらせるのに使えるかなぁ?と、思いましてぇ…ね?」
腹黒陰険な会話内容をニコニコ爽やか笑顔で語る彼女。
「ね?…って、アンタ…良い性格してるわよね…」
私は呆れて、改めて彼女をまじまじと眺めた。
…コイツ…私の言った『ド田舎』をスルーしやがった。少しは否定しろや。
「私の田舎に関して話す前に、その噂ってどんな内容?
もし悪い噂なら、拡めたら承知しないよ?」
私は、ニコニコと彼女に微笑み返した。
少し怒気が表出していたかも知れないけど、先日の様なトラブルは御免なので容赦はしない。
「悪いって言えば悪いかも知れませんね〜。いえ…怖いのかな?
噂が本当なら、…って前提になりますけれども。
だから、先輩に確かめたかったんですよ〜」
私の怒気には気付かなかったのか、気付いても気にしない性格なのかは、よく分からない子。
彼女は意にも介さずに、勝手に話し始めた。
◆
これは田舎の風俗から派生した噂。
座敷童子伝説にも酷似している。
ただ、起源は遠野とは遠く離れた私の田舎だそうだ。
「それで?
…私は、自分の田舎にも民俗学にも詳しくないけど、それでも良いの?」
「良いですよ〜。
そういう風習や風俗が先輩のお祖父さんの家にでもあれば、噂くらい聞いているかな…と思った程度のことですので…」
『噂のヤスケサン』
家に一人で居ると、何処からか子供の走り回る足音がする。
天井裏から子供の笑い声や話し声が聞こえてくる。
寝ていると布団の中に誰かが潜り込んで来るが、捲ってみると誰も居ない。
夢の中で『お姉ちゃん』と呼ばれる。
男性の場合は『お兄ちゃん』。
『噂のヤスケサン』は、被害者?より年下である事が多いからだそうだ。
何故か、兄弟の少ない人や、一人っ子のみが感じたり聴こえたりするらしい。
他にも、家人や客人が居ると隠れてしまうらしい。
家族と暮らしていたり、シェアハウスに住んで居ると出て来ない。
つまり、ボッチ専用の座敷童子。
そこまで聞いて、私は何か引っかかる物を感じた。
「それの何処が『噂』に関係あるの?
…ただの座敷童子じゃない?」
「実はですね…。
この話は聞いた人に伝染するんです〜。『噂』を介してね〜。
座敷童子は家に付くと言われますが、『ヤスケサン』は人に憑くのです。
先輩、一人っ子の一人暮らしでしたよね?」
「…おいコラ」
「鹿児島弁も喋れたんですか〜?
流石は先輩。博識ですね〜」
…なんかちょくちょく気に障る奴。
喧嘩売ってるとしか思えないんだけど?
「つまりアンタは…噂の収集やら補填とやら適当な事言って、自分に憑いている『ヤスケサン』を私に押し憑けようとしている…と?」
「それもありますね。
大丈夫です。実害は無いようなモノですし。
単純に起源に関して興味があるのも本当です。
事実、この話の派生原因は先輩の田舎だそうですよ?」
…それもある…とか認めやがったよ。コイツ。
「それでですね、先輩。
先輩のお祖父さんは、『ヤスケサン』の名前を口にした事はありましたか?
『ヤクスケサン』でも良いですよ?」
「もし口にしてたら、今頃私の周りにも座敷童子が彷徨いていたでしょーが」
「ですよね~…」
そう言いながら、運ばれて来た私のアイスコーヒーに勝手に口をつけた。
…このヤロウ…私のコーヒーを…
私は奪い返して、卓上にあった砂糖を放り込んだ。
「あ…砂糖なんて入れたら不味くなるじゃないですか〜。も〜」
またもアヒル口でぶつくさ文句を垂れる彼女。
私は無視して一口飲んだ。
…はぁ、甘さが身に染みる。
◆
「ただ、先輩の田舎が派生元なのは確実なんですよ〜。
都会まで拡がるってことは、先輩の狭いド田舎で知らない人は居ないと思うんですよね〜」
…ド田舎言いやがったよ。『狭い』までつけやがって。
「それか、呼び名が違うのかも?
『ヤスケサン』、『ヤクスケサン』…若しくは、他の呼び名でも良いのですけど…
何か聞いてません?」
…なんで彼女はこんなにも必死なのだろう?やはり隠している『何か』がある?
正確な『呼び名』を知らないと、何かしら『障る』のかしら?
だとしたら、私も知っておいた方が良いか…。
ヤスケではなく、『ヤスケサン』。
ヤクスケではなく『ヤクスケサン』。
若しくは他の呼び名か…。
そういえば…
「あれは確か…小さい頃、お祖父ちゃんの家に泊まりに行った時だったかしら…?」
私が話し始めると、彼女は嬉しそうに身を乗り出した。
「もしかして『ヤスケサン』に遭いました?遊びました?」
食い入る様に、何かを期待する様に、私に強い視線を向ける彼女。
私は古い記憶を探し、子供の頃に思いを馳せた。
「そうそう…ええ…そう…、遭ってはいない…けど…。
夜中に天井裏から誰かの喋る声がして、怖くてお祖父ちゃんの布団に潜り込んだ事があったわ。
その時お祖父ちゃんが、『あれはヤク〜様だよ。お前を護って下さる護法神様だから、怖がっちゃなんね。』とか言ってたわ。
『子供を護るヤク〜様』とか。
酷い訛りだから聞き取れなかった憶えがあるわね。
でも…ヤクスケさん?では無かったような…?
それに今迄、私の周りで子供の声を聞いた事は無いわ。
だから、貴女の言う『ヤスケサン』や『ヤクスケサン』とは別物だと思うわよ」
…彼女の言う『ヤスケサン』がお祖父ちゃんの言う『ヤク◯◯様』と同じなら、一人暮らしを始めた時には付いて来ていた筈だし。
「あちゃ〜…やっぱ違ったのか〜。
漢字は難しいからなぁ…
元の名前は何なのかしら?」
彼女は手を組んでウ〜ムと唸った。
「漢字?」
彼女の言葉に思わずオウム返しをする。
「多分ですけど〜…
噂が伝わる過程でですねぇ…読み間違いが発生したんじゃないかと思うんですよねぇ。
漢字の音訓とか?」
…ああ、成程。
私の田舎で漢字表記されていた『何か』が、噂として伝播する過程で読み方だけが変わってしまった…と言いたいのか。
「先輩、お祖父さんが何て呼んでいたか思い出せません?」
彼女は口に手を当て、首を傾げながら尋ねてきた。
その仕草に何故か苛つく。
「思い出す必要があるの?
話を聞いた限りでは、お祖父ちゃんの話してくれた神様と、貴女の言う『ヤスケサン』は別物だと思うけど…?」
アイスコーヒーの氷を口に含んで、喋り過ぎた喉を冷やす。
仕事以外で、彼女とこんなに多く話したのは初めてかもしれない。
少し疲れた。
「別物が噂として伝播する過程で、呼び名だけでなく内容も変化したならば、実は大元は同じかも知れません。
そもそも『ヤク』が合ってるなら、それが同じ可能性は否定出来ません」
…確かに。
口だけじゃなくて頭も回るのね。意外。
となると…普段の馬鹿な振りは、私を馬鹿にしていただけなのか…。ムカつく。
しかし、好奇心からかな?それよりも…やはり何か必死な様子ね。
どうして、そこまで噂の出所を調べたいのかしら?
「何故…そんなに名前に拘るの?」
私が不審に感じて、疑問をハッキリとぶつけた。
彼女は、少し焦った表情をしてから口をつぐんだ。
…直球過ぎたかしら?
もっと搦め手で攻めるべきだった?
そんな事を考えていると、彼女は少し口を開き、小さな声で話し出した。
「…今は言えません…が、先輩が名前を思い出してくれれば全てを話します。
…このままでは危険なのです。私も…先輩も…」
悪い事をしている自覚がある様で、申し訳無さそうにこちらを見ている。
…やっぱり『障り』があるじゃないの!
いえ…『祟り』かも知れないわ。
お祖父ちゃんが『護法神』と言うだけの事はあって、実は強い神様なのかも?
それを螺子曲がった噂話で怒らせた?
彼女ならやりかねない!
これは、本腰を入れて思い出さないと…
彼女の巻き添えは、もう勘弁!
◆
『ヤク◯◯様』…ねぇ…
そもそも漢字で『ヤク』なんて多くないでしょう…。
約…薬…焼く…?…嫌な想像が膨らむわ。
訳…役…妬く…そういえば…
『ヤク』と呟いた時に、彼女が初めに話した『ホラー』という言葉と結び付いて、頭の中に『厄』という漢字が浮かび上がった。
「厄…災厄の厄?
でも、神様の名前に付けるかしら…」
私はボソッと独り言ちた。
それを聞いた彼女は、突然手を打った。
「そうそう…そうかも知れません。
災厄の厄か〜。そうそう、そうだったんだ…」
ウンウンと一人で納得して頷いていた。
…ホントに厄ならマズくない?
「災厄って悪い事よね?
神様に『厄』なんて付ける?」
…災厄級の悪い神様じゃないわよね?
お祖父ちゃんが、そんなものを私の護法神にするとは思えないけど。
「知らないんですか?先輩。
女の子の節句で飾る雛人形。
厄払いの形代で、護り神なんですよ?
つまり、護法神ですよね?」
…本当に変な知識を持ってる。
噂収集の過程で無駄な知識を付けまくったのかな?
営業では、彼女の無駄知識に助けられた事もあるから悪い事では無いのだけれど。
「その雛人形を、ウチの田舎では『厄…何とか様』と呼んでいたと?
そもそも、屋根裏に雛人形?」
「本当に雛人形かどうかは知りませんが、それに類似する『何か』なのは間違い無いのでは?
お祖父さんも言ってたのでしょ?
子供を護る厄払い〜♪」
何故か、急に機嫌が良くなる彼女。
…何なんだ、この子?やっぱり訳わかんない。
そういえば…彼女は、『怖い』噂話だと言ってたのに、これまで『怖い』要素が無かった。
それは、彼女が意図的に話さなかった中に、『危険』な要素があると言う事。
『噂』を聴いた私も逃れられない『危険』なのか…。
でも、私は『危険』な部分を知らないわけで…。それは、噂を聴いていない事になるのでは?
解決する事が正解なのか?
それとも、彼女を見捨てて逃げる事が正解なのか?
彼女一人残して逃げる事に…良心の呵責が…
…全く無いわね。
逃げようかしら?
でも、既に『噂』を知ったと判断されたら、現時点でアウト…か。
「後は『厄◯◯様』の◯◯が分かれば解決です!」
勝手に盛り上がって、勝手に話を進めて行く。
本当に自分勝手な子。
「私は、『スケ』にも意味があると思うんですよ!
厄スケ様?そもそも、『スケ』ってどんな漢字かしら?」
…助ける…梳ける…透ける?いやらしいわね。
「いやらしいと感じるのは、普段からいやらしい想像しているからでは?
私は見られても困りません!」
…勝手に人の思考を読むな!
私の思考を利用して、どんどん話を拡げていく。
こうやって皆を知らず知らずに巻き込んで、情報を無理矢理引きずり出すのね。
本当に厄介な子。
「厄介な子…」
思わず、口から考えていた事が溢れた。
思わずではなく、意趣返しにわざとだったかも。
「ヤッカイ…?ヤクカイ?どんな漢字でしたっけ?」
彼女はキョトンとした顔で、こちらを見た。
…色んな知識があるくせに、漢字には弱いか?
私の溢した悪口じゃなくて、漢字に注意が向いていたようね。
私は、グラスの表面に着いた水滴を指にとった。
そして、研摩と油性塗装で滑らかに仕上げられている品の良いテーブル表面に、水滴で『厄介』の字を書いた。
「カイ…介…スケ…。
ヤクスケ…ヤッカイ…!
そうですよ!多分そう!」
彼女は手を叩いて喜んだ。
店内に彼女の笑い声と拍手が響き渡り、店員さんが怪訝な表情でこちらを睨んだ。
「厄介様ですよ!
子供を護る神様の名前!」
「喧しい!周りの迷惑を考えろ!」
彼女の叫ぶ口を押さえて、黙らせた。
店員さんは眉根を寄せながら、こちらから視線を外した。
…ああ、顔を覚えられた。
もう二度とこの店には来れないわ…。
◆
「先輩は『名前』を思い出して下さった。
その御礼に、私も全てを話します」
彼女は、急に居住まいを正して私の顔を正面から見据えた。
私は少し気圧された。
「先輩。
『個』というのはどうやって確立するか知ってます?」
先程まで喜びながら騒いでいた彼女とは打って変わって、突然真面目な話をし始めた。
「な…何なのよ、一体…
『個』?個性の個?
知らないわよ」
彼女の話の展開について行けない。
いえ…行く必要も無いのだけれど。
「これは私の持論なのですけれど…
『個』が確固として成立する為には、三つの要素が必要だと思うのです」
彼女は私がしたのと同じ様に、グラスの表面の水滴を指に付けて、テーブルに字を書き始めた。
…何?いきなり難しい話?
形而上学とかの訳分からない話?
それとも論理?苦手なのよ。
私の困惑を余所に、彼女はテーブルに字と関係図を書き連ねていく。
「一つは、成立する原因。
何故、存在したか?…過去の話。
これは人に例えれば、父母があって、そこから誕生するという物理的な話ですね」
彼女の声音が酷く真面目で堅苦しい。
私は、口を挟めずに固唾を呑んだ。
「二つ目は、存在する理由。
何故、存在するのか?…これは現在と繋がる未来の話。
人によって理由はマチマチでしょう。
何かを成す為に在ると考える人も居れば、神様の教えに従って天寿を全うする事に全身全霊を注ぐ人も居る。
ただ…惰性で、存在したいからダラダラと存在している人も居るでしょう…」
『惰性』って言う時…私を見たか?
ちょいちょい嫌味を混ぜてくるよな!
厄介な子!この子こそ厄介様なんじゃないの?
「最後は『名前』。
己と他者とを区別する記号。
例え同じ父母から同じ時に産まれ、同じ存在として生きていたとしても、名前が違う事で己を区別して立ち上がる事が出来る。
これこそ『個』の確立…だと、私は思うのです」
そう言いながら、テーブル上に三角形の関係図を描き上げた。
…この子、こんなに難しい話出来たのね…。
でも、いきなりなんでこんな話を?
「噂話は利点があるのです。
人から人へ、飛ぶ様に渡り移れます。
75日を過ぎるより速く、インターネットを使えば地球の裏側だって、1日と経たずに辿り着けます。
そして…必ず何処かに残ります」
いつもの彼女とは明らかに違う雰囲気。
『厄介様』と言う名前を聞いてから、まるで別人にでもなったかの様に。
「ただ、欠点もあるのです。
情報が螺子曲がって伝わってしまう。
お祖父ちゃんの付けた『厄介様』。
訛のせいもあるでしょうが、それが伝わる途中で『ヤクスケサマ』や『ヤスケサマ』に…大切な『真名』が変化してしまうのです。
…もしかしたら、『厄介』と言う『真名』呼ぶ事を恐れた誰かが、わざと呼び名を変えたのかも知れませんけどね。
あのド田舎なら…有り得るか…?」
蝉の声は益々五月蝿くなり、頭がボーッとしてくる。
彼女の捲し立てる様な説明に、思考が追い付かない。
と言うより、何故か集中出来ない。
アイスコーヒーの氷は全て溶けてしまい、味の無い温い水が底に溜まっているだけ。
「産まれた理由は貴女を護る為。
護法神と成る為に。
後から産まれた貴女の為に。
私は、産まれてすぐに『神様』に成ったのよ」
いつの間にか、ミンミン蝉のオーケストラが、ヒグラシの物悲しい旋律に変わっていた事に気が付いた。
真っ赤な空には暗い帳が下り初め、店内の効きすぎた空調が肌を冷たく冷やした。
「貴女が私の家から帰った後も、お祖父ちゃんからは、貴女が一人になったら護る様にと言い遣って居たのだけれど…。
幸いか災いか…貴女が一人になる前に、先に私が一人になっちゃった」
…そうだった…
私に叔母なんて居ない。
私達が産まれる前に、親戚とは縁が切れている。
随分前にお祖父ちゃんが亡くなってから、あの家を護る人は誰も居ない。
お祖父ちゃんを看取ったのは通いの医者だったらしい。
両親はあの家に戻らずに、業者に手配を全て任せた。
頑なに、実家に戻る事を拒んでいたそうだ。
まるで、何かを恐れる様に。
その日から、あの家には誰も居ない。
私が…お祖父ちゃんの他に誰か居た様な気がしたから、居ない親戚が『居た』と思い込みたかっただけ…。
私は、クラクラする頭を押さえて立ち上がり、震える手で会計を済ませた。
1人分の会計を。
その間も、彼女は私のすぐ後ろで会話を止めずに話続けた。
十数年分の思い出話を延々と。
「此処まで来るのは大変だったわ。
もう、過疎化とかで村人もほとんど居なくなっちゃったし…。
お祖父ちゃんの家を片付けに来た村人の夢に、私の存在を『噂』として刷り込んだの」
レシートも受け取らず、ふらつきながら外へ出る。
震える脚を引きずって、自宅へ戻るバス停を目指した。
「思い出してくれてありがとう。
このままだったら本当に危険だったわ。
私は『私が変質してしまう』危険。
自分が何かを思い出せなくなったかも知れなかったの。
そして貴女は、『私に護られなくなってしまう』危険よ。
助かったわね。お互いに」
頭の後ろから、彼女のクスクス笑う声が響いた。
…今日は直帰。
とても会社に寄ってる余裕は無いわ。
そもそも、有給も出し渋るウチの会社が、外回りに二人もつける訳が無いのよ…。
ここ何年も、新入社員なんて採用してない。
「彼が仕事で村外に出た時に、他の人に話したくなる様でなきゃ駄目よね?
だから変えたの。『私』自身を。
可愛らしい座敷童子みたいな噂に…ね。
お陰で、お祖父ちゃんが書き遺した私の『真名』も変質しちゃうし、思い出すのに苦労したのよ…」
バス停で待つ間、青い顔した私を心配してくれた人が居たけれど、相手の顔を見る余裕も無かった。
「私の身体は荼毘に付されちゃったけど、可愛い妹のお陰で私の『個』を取り戻せたわ。
これからは、お姉ちゃんが貴女をずっと護ってあげる」
頭の後ろから囁く『彼女』の声は、元々、私以外の誰にも聴こえてはいなかった。
彼女自体を、誰かから『ヤスケサンの噂』として聴いたのか、別の噂だった彼女が『ヤスケサンの噂』を創り出して自己を保存していたのかは、もう分からない。
結果的に、彼女は『ただの噂』を脱皮して、私の元に『神様』と成って帰ってきた。
過去、かつて『実体』のあった双子の姉。
死んだお祖父ちゃん家の屋根裏部屋に、私の厄介を引き受ける『厄介様』として祀られて居た神様。
そんな…知らなかった『事実』を延々と私に説明する。
『個』を得た彼女は、自分の『存在理由』を決して手放さないだろう。
それはつまり、私が死ぬ迄、護法神として在り続けるという事。
『一人の時に現れる座敷童子』
…そんな可愛らしい神様なんかのわけが無い。
人の姿をしていた時から自分勝手だった彼女は、神様になっても変容しないだろう。
そして私が死なない限り、記憶を無くさない限り、彼女が消える事は無いのだろう。
ヒグラシの声は既に止み、遠くの方から鳴り響く雷鳴が私の未来を予感させた。
私は、込み上げる物を我慢しながら二人でバスに乗り込み、一人分の運賃を支払った。
修正していたら、追加追加で一万文字超えてしまいました。
ショートとは一体…何文字以下ならショートホラーになるのだろう…?