偽りの聖女〜腹立たしいですが本物のためにこの世界救ってみせます
私はこの世界では異物だ。
泉で身を清め終わる。
岸に上がると、いつも通り待機していたお付きの騎士が、濡れた身体を白布で拭ってくれるが、この細くて小さな身体への違和感は未だに拭えない。
白い小さな足で、木の板と石の渡りを歩いて、聖堂に戻る。
白い聖堂は、わたしが一人生活するには、十分に広いが、人が生涯をそこで完結するには、閉ざされすぎていて狭い。
だが、わたしは生涯ここから出られないらしい。聖女とはそういうものなのだそうだ。
お付きの騎士は、私の護衛であると同時に、わたしの監視役だ。彼らの生涯もこの聖堂にとざされているのだろうか?それとも彼らはただ職場がここと言うだけで、仕事が終われば街に飲みに出かけたり、家族の元に帰ったりすることもあるのだろうか?
わたしは毎朝会う騎士の横顔をそっと見上げた。
聖堂の石壁と同じだ。整っているが素っ気なくて無機質で、一欠片の温かみもない。退屈だとか、うんざりしているなどという感情すら見つけられない、ただ淡々と任務をこなすだけの無表情。
彼もまたこの墓所のような聖堂に人生を埋めてしまったのだろうか。だとしたら悲しい話だ。
昼間のお勤め用の服に着替え終わると、このお付きの騎士は交代だ。昼間は別の者が交代で担当する。
今夜またまみえるまで、彼が他者と語らい、人間らしい温かい生活の時間を持って一息つけるといいなと思いながらその広い背を見送る。彼は、振り返らない。そもそも傍らにあるときでも私と目を合わせようとしないのだから当たり前だ。
私は白い石の部屋で、代わり映えのない1日を始める。
§§§
この身は生まれてすぐにここに連れてこられたらしい。ずっとここで育って、死ぬまでここで過ごす定めだ。
解放までの月日はそれほど長くはない。聖女が一命をとして奇跡を起こす必要がある災厄はほぼ周期的にやってくる。わたしに残された時間はさほどない。
本来は、もっと歳を重ね、十分に修養してから災厄に臨むものなのだという。でも、先代の聖女が聖堂を逃げ出して早く死んでしまったために、年齢が合わなくなってしまったのだ。
仕方がない。
運命を逃れようとして市井に隠れて生き、結局、早く死んでしまうよりほかなかった人を責める気はない。たとえそのために、わたしの制限と監視が厳しくなったのだとしても。なぜ責められようか。外を知らなかった彼女は、外の世の人の営みを知りたかったのだ。
§§§
古い書を捲る。彼女の遺した文献だ。
私は彼女の知をたどってこの世界を知る。不条理で、人の知恵と技では人を救えず、奇跡に頼らざるを得ない世界。
書の中の知識は迷信にまみれている。
天に向かって立ち昇る雷槌。
夜空を覆う、揺らめく赤い炎の壁。
瓦礫と泥の中から金の砂粒をより分けるように、丹念に真実の輝きを探す。
ああ、足らない。あまりにも足らない。
祈りの間で瞑想をする。
得られたビジョンはまた満天の星。
渦を巻く恐ろしい量の星は、今のわたしには読み解けない神託だ。
身を養うための食事を取り、命じられた用を果たし、1日を終える。
夕の交代の前に、新米の騎士が同僚と通路で雑談をしているのを耳にした。
「隊長ってさ、今の聖女様、嫌ってるって本当なのか?」
「ああ。有名な話だが、ここではよせ」
「へー、本当なんだ。やっぱりな。今日も物凄く不機嫌な顔していたもんな」
「あの人が機嫌がいいときなんてないけどな」
「ひっどい言い草。たしかに笑っている顔なんて想像つかないけど」
小さな声で嗤っていた新米達の声がピタリと止み、足音が近づいてきた。
彼だ。
先代を唯一の聖女とし、わたしの存在を認めたくない人。わたしの一番近くに一番長くいるのに、わたしに気づかない人。
交代の申し送りが二、三交わされてから、扉が開く。型通りに礼をして、騎士はいつも通り部屋の隅に立った。これから朝までは彼とわたしの時間である。
でも、わたし達は言葉を交わさない。
聖女とお付きの騎士は、親しくなってはいけないと諸々のルールを定めたものは、実際にそのルールが適用されたとき、どのような状況になるか一度でも想像してみたのだろうか。先代の聖女が騎士の手引で逃げたかららしいが、極端に厳しすぎる細則が多くて笑ってしまう。
でも、わたし達は笑わない。
微笑みさえも交わすことを禁じられているから。
ただ互いがそこにいることを意識しつつ、静かな時間を淡々と過ごす。
口を漱ぎ、足を拭いてもらって、寝台に横になる。
いつもはそのまま休むだけだが、今日は彼が私の枕元に立ち、私の首元に手を伸ばした。……嫌な時間だ。
彼は、わたしがいつもつけさせられているチョーカーを緩めて、首元を拭い、チョーカーの石を新しいものに取り替えた。
呪いが緩められた一時、わたしには言葉にできない感情が溢れる。掠れた途切れ途切れの悲鳴未満の音を発しながら、涙を流すわたしを押さえつけて、騎士はまたチョーカーを留め直す。
わたしの心はまた沈静化される。
強張って震えているわたしの手を、彼は指を一本ずつ解くように丁寧に、自分の腕から外す。涙が止まるまで目元を拭い、上掛けを直して、彼は部屋の隅に戻る。
わたしはまた消えてしまった感情の欠片を拾い集めようとしながら、何も無い胸元を抱くように丸くなって眠る。大切な人の温もりを夢に見た気もするが、気のせいだろう。聖女は夢を見ることも禁じられているのだ。
こんなふうに人の心や魂を縛る術ばかり発達した世界なんて、いっそ滅んでしまえばいいとも思うが、聖女に架せられた使命は、世界を救うことである。わたしは災厄の日に向かって、日々を過ごす。
§§§
今日は祈りの間で瞑想を始める前に、薬を飲まされた。少し修業の進度を早めるのだという。手っ取り早い方法を好む愚か者め。だが望むところだ。
赤黒い薬は生臭くて嫌な味がした。
術師達の中央に座らされ、暴れないように枷がはめられる。呪いで沈静化されたわたしにはもはや暴れる気力はないが、この後に行われる術は身体に負荷をかけるため、枷が必要なのだ。
ああ、早く終わって欲しい。
術師達の詠唱が眠気を誘う。
朦朧とする意識に、細切れになった知識が降り注ぐ。小さなこの身体には過ぎた量だが、すべて受け止めねばならない。わたしには知識が必要だ。
引き裂かれて、無理やり引きずり出されて、また詰め込まれる魂が悲鳴を上げる。叫んでいるのは魂か、この身体か。
黙れ。これは世界を救うためには必要な工程なのだ。
知っている。どのみち逃げられない。逃げても連れ戻される。そのように定められている。だから早く!災厄が訪れるよりも十分に早く、私は知らなければならない。
さあ、"自分"の知識を取り戻せ!!
ダウンロードが終了した。
そう思った。
この世界には馴染みのない概念だ。
それを自覚することで、私は自分の意識が拡張され、異界からの知識の習得が完了したのだと知る。
見苦しく開きっぱなしだった口を閉じる。周囲を見ると、術師達は皆、昏倒している。
ただの死者の魂の降霊のつもりで、果てしなく遠い世界と繋がってしまったのだ。術師の精神に掛かる負荷は、人が耐えられるものではなかっただろう。
ワタシを完成させようと焦って、対象の定義を明確にせずに術の詠唱を始めたのが悪い。最初に、先代の聖女の魂をこの身に降ろそうとしたときに、私というイレギュラーが混ざっていることに気づかなかったこいつらの落ち度だ。自業自得と諦めてもらうよりない。
非情なものの見方だ。だがこの世界らしいとも思う。自我を形成するに足る記憶が揃ったことで、私はワタシを自身と分離して認識できるようになってきた。それと同時に、分離した自我のうち、この世界の出身でない方が、呪いの制約から外れる。
怒りが湧いてきた。
慌てふためいた導師達が、様子を確認しに駆け寄ってきた。
クソ坊主どもめ。
監禁、虐待、非合法な人体実験モドキの手段も含む強権による精神支配……人権という概念がない世界だとしてもやりすぎだろう。この腐れ外道。
だが、ここで暴れて正体をさらすようなバカなまねはしない。煩わしい問診と診断の後に、私は肉体的にも枷から開放させる。
不快に汚れたままだった口の端を、袖口でぐいと拭う。
まだだ。優先順位を間違えるな。
私はワタシの願いを叶えてやりたい。
「瞑想を」
導師達は、多少の違和感は感じたかもしれないが、それでも異常はないと判断し、私をいつも通り祈りの間に連れて行った。
祈りの間は正殿の地下にある。
深い深い地下に封印して、閉じ込めた"神"に"祈り"を捧げて、願い事を叶えさせる場所だ。
……つくづく度し難い。
私は長い石段を降りた先の石室で、真っ黒でゴツゴツした壁に両手と額を付ける。
ワタシの捧げた祈りが、深いまどろみにある"神"に届き、断片的なビジョンが脳裏に浮かぶ。
特異な資質を人為的に拡張した精神感応能力によるイメージの共有だ。これが"聖女"の異能だが、いくらイメージを受け取っても、それを解釈できるだけの知識がないと、意味が全く汲み取れない。歴代の聖女は、バカ正直に見えたものを言葉や絵で伝えようとしたそうだが、自分がなにを見ているかの基礎知識がなければ、適切な解説はできない。
結局、災厄が訪れてから、その対症療法を"神"に伝えて精神をすり減らすのが、聖女に与えられた主な仕事とされてきた。バカバカしい。
先代の聖女は、その悪しき伝統を覆そうとあがいた。
無知なまま囲い込まれるのを拒否し、世俗の生活を体験し、世界の成り立ちと自然の事象に関する知識を集めて、自分が救わねばならない世界と人の営みがいかなるものかを、自ら知ろうとした。
……その結果、魔女として断罪された。
愚かなことだ。災厄時に発生する日照時間の減少や長雨、寒冷化による不作といった問題を解決するなら、彼女のアプローチは極めて正しい。自然科学や農耕技術、治水などを含む社会学の知識なくして、何を祈るというのか。クライアントとして要求仕様を明確にしてこそ、依頼先はまともなアウトプットを返すことができるものなのに。
ゆっくりと闇の中に光点が現れる。
数え切れないほどの無数の輝きが闇の中で渦を巻く。これまでに何度も提示されたおなじみの夜空のビジョン。
『災厄の原因は?』と問うた結果がこの回答だ。
これまではこの意味を理解することができず、この先を問えなかった。だが、私はもう知っている。これは星を示しているが、けして夜空ではない。
さあ、"神"よ。答え合わせを始めよう。お前はどこまで知っていて、一体何ができるのか。
異質な知性体との意思疎通なら、私は元いた世界のフィクションで大量に経験済みだ。まず時間と空間の単位系の共通認識から始めようか?それとも数字の概念からすり合わせが必要か?
"神"よ、自然数と零はわかるよな?私は二進法で素数を送るところからファーストコンタクトをする気はないぞ。叡智の主ならば自然言語で応じよ。
『表示縮尺を変更。人と大地が認識可能なサイズまで調整』
『現在地をプロット』
『現在地マーカーを基準に縮尺を戻して』
『聖女の祈りによって奇跡がオーダーされた時点から時点を節として、1節を10拍の速度で、3代前から現在までの情景を時間経過に従って示せ。10、9、8……』
『もう一度。今度は10代前から』
『ビジョンの視点を変更。光点の運動から推定されるこれらの回転運動の中心点を視野中央に固定。現在地マーカーの時間経過に伴う移動経路に線を引いて強調表示』
『もう一度。今度は10代前から1節を2拍の速度で』
『現在地マーカーと交差あるいは近接軌道にある運動体をピックアップして強調表示』
『止めて。表示縮尺を変更……』
§§§
気付けば私は床に倒れていて、夕時だった。
身を養うための食事を無理やり取り、1日を終える。
迎えに来たお付きの騎士を見上げる。
愚か者め。真実はお前の手の届くところにあるというのに、目を背けるとは。
だが、ワタシはいつも通り彼を許す。
私は静かに憤りながらも、ワタシのために黙って彼の手を取る。
これからしばらくはワタシと彼の二人だけの時間だ。私は意識を閉じる。今日見たものを考えよう。
§§§
夜更けに目が覚めた。
起き上がると、騎士がすぐに傍らに来た。
「星を観に行く」
そう告げて、寝台を降りた。
言葉を交わすことは許されていないが、行きたい目的地を告げることはできる。
彼は小さな手燭を灯すと、私の手を引いて塔に向かった。
夜空に向かって黒ぐろとそびえる塔の螺旋階段を登る。歩幅に合わない段差に息が切れる。
騎士は足を止め、私を背に負った。
気恥ずかしいので、私はワタシに場所を譲る。ワタシは彼の背が温かいと感じる。同じで逆だと彼女はどこか嬉しそうに思う。私はそんな思いを共有しながら彼女を哀れに思う。
塔の上は満天の星だ。
この世界の夜空は明るい。空の半分以上が白く靄って見えるほど星の海が広がっている。瞬く星の渚を私は見上げた。
百億の昼と千億の夜が散りばめられた空。歪なのに、星の光と理、人の姿と情だけが、私の知る世界とあまりにもよく似ている世界。
「流れ星が見えたら教えて」
「流れ星は凶兆だ」
「これから夜明けにかけてたくさん流れる」
「災の予言か?」
「そう言えば導師達はきっと喜ぶね。寄進をかき集めて懐を暖かくできる」
視野の端で光が流れた。
「聖女はそのようなことを言わない方が良い」
「ならば何を語ってほしかった?あなたはもう、ほうき星の夜咄を聞く歳ではない」
騎士は不快そうに顔を歪めた。
ほうき星の夜咄は、夜に寝所にいかない小さな子供を怖がらせるお伽話だ。尻尾のある星が降りてきて、冷たい息で町や畑を凍らせ、ほうきの先のように幾又にも分かれた尻尾で、人々の首を絞める。最期は聖女の祈りに応えて遣わされた御使いによってバラバラに吹き払われる。めでたしめでたし。
だが、吹き払われた欠片が、夜の闇には潜んでいて、眠らないで遊んでいる子供は冷たい息をかけられてさらわれてしまうかもしれない。そんな話だ。
8代前の聖女の奇跡が元になっている話である。彼も幼い頃にこの話を聞いている。先代の聖女とこうして夜空を見上げながら。
「先代のことなど忘れてしまえば楽に生きられるよ」
「余計な口を利くな」
「願いがあるなら流れ星に願ってみるか?今夜はたくさん流れる」
「凶星に願うことなどない」
「そうだね」
願わなくとも、もうとっくに忘れてしまったのだろう。彼は流れ星は凶星などではないと教えられたはずなのに。
また一つ流れた。
この世界の夜空は星で明るくて、流れ星は見つけにくい。ほうき星などよほど明るくないと尾は見えなかっただろう。伝承に残るほうき星はきっととても大きな雪玉で、派手に崩壊したに違いない。
当時の聖女がどのように願ったのかは知らないが、吹き払い方は不十分だった可能性が高い。この流星群は、崩壊したほうき星の名残だ。軌道が交差するたびに未だに少量の欠片が火球となって降る。
先代の聖女の推論を、祈りの間のビジョンで確認した。今夜から明日の未明にかけて観測し、輻射点がおおよそ合っていれば、祈りの間のビジョンの現実性と精度がわかる。
その場に座って空を観る。
寒い。
薄手の夜着のままで来てしまった。夜明けまで粘らずに、概ね傾向がつかめたら撤収するか。
少し震えていたら、騎士が後ろに座って、私を抱え込むようにして、自分のマントでくるんだ。
暖かい。
覚えがあるスタイルだ。あのときはマントではなく毛布だった。同じで逆だとワタシはまた嬉し気に思う。記憶を共有しているとこういうとき気恥ずかしい。私はワタシに座を譲る。
私は彼女に、忘れてしまえば楽に生きられるとは言えない。彼女のこういう人らしい思いが、このどうしようもない境遇の私を癒やしているから。
聖女よ。私は聖女などではないが、貴女はたしかに聖女だ。貴女の想いのために、私はこの世界を救おう。
§§§
災厄の発生周期は非常に複雑だ。災厄の規模も年による。その災いが大きいかどうかは、その時の政の質や、聖女の素行に結び付けられるのが常だが、それは間違っている。
先代の聖女は災厄の周期が、2種類の周期の複合だと気づいた。長周期の災厄と、それほど長くはない短周期の災厄。
8代前のほうき星の災厄は、周期が短い方だ。その後の数回は多くの流星と中規模の天候不順をもたらした。5代前の聖女のときの記録に残る地震と大規模な森林火災は隕石によるものだろう。吹き上げられた大量の煤煙による天候不順は多くの農業生産物に深刻な被害をもたらした。
だが、そのような被害も代を重ねるごとに弱く少なくなっている。先々代はほとんど被害らしい被害はなかった。
そして今回、ほうき星の残り滓は、今夜、数えられる程度の流れ星となって消え去るだけで終わるだろう。
恐れなければならないのは、長期に渡る天候不順と大規模な寒冷化をもたらす長周期の災厄の方だ。今回はその周期も重なる。
想定される被害が現実のものとなれば、多くの人が苦しんで死に、その原因は先代の聖女の行いだとされて、私は世界を救った後に、ろくでもない最期を迎えることになるだろう。
バカバカしい!
§§§
私は心地よい温もりの微睡みから目覚めた。ワタシは少し残念そうだが、許してもらわねばならない。流れ星は、ビジョンで見た通りの観測結果だった。"神"のシミュレーション精度は信頼できる。これならば行動に移れる。
「祈りの間に行く」
「夜は閉ざされている」
「開けさせて」
祈りの時間まで待ってもいいが、忘れないうちに確認したい。不確かな記憶で安心する前に、元資料と照らし合わせて再確認は基本だ。それにほかにも確認したいことがある。
私は騎士の背後に回って、両手を上げた。騎士が怪訝そうに肩越しにちらりとこちらを見下ろす。
「おんぶ」
彼は無機質で無愛想な顔のまま、膝をついて、私を負った。
私は彼の首元にしっかりしがみついて、今後の段取りを考えた。
渋る当直を半ば脅すようにして開けさせた祈りの間への階段は、深淵に続く穴のようだった。
自分で手燭をかざしながら、この暗くて急な段を降りるのは、いささか面倒だな、と思っていたら、騎士がまた私に背を向けて跪いた。
ここは聖女様と導師以外の立ち入りは禁止だと言う若い当直に、「ならばお前が付き添うか?」と騎士は問うた。不気味に黒く地下に続く穴を見て、当直は尻込みした。
「聖女の名においてこれは特例であると認める。安全かつ迅速に必要な祈りをなすために、この者を介添人として伴う」
お前に責任は負わせないと保証すると、小心な若い当直はホッとした顔をした。
正規の時間になるまで、この扉は外側から閉ざしていてかまわないと言い残し、騎士の背に負われて地下に降りていく。いつもは大ぶりの角灯を持った導師が前後について降りる石段が、小さな手燭1つの灯りでは、ほんの足元しか見えないために、知らない道のように見える。
到着した祈りの間も黒々と闇に沈んでいた。私は奥の壁まで行くように騎士に命じた。
「ここで」
まだ背から下ろすなと、首元にしっかり片腕を回したまま、もう一方の手でゴツゴツした黒い壁に触れる。
囚われた"神"の意識に、精神を繋げる。相変わらずの星海のビジョン。"神"は千年のまどろみの中だ。
私は手っ取り早く検証を済ませる。大丈夫。理論と推定と観測値が一致。この先の計画を実行するに足る確証は得られた。
私は"神"を叩き起こすことにする。
やあ、悪いけど起きてくれないかな。相談があるんだ。
ドクリ……と壁についた手のひらに脈動を感じた。
私は"神"なんかにされて、捧げられた祈りという形で許可されたことしか行えない呪いに縛られた可哀想な超越者に囁いた。
『自由は欲しいか』
相談内容は単純だ。これまでどの聖女も行ってきた"祈り"とほぼ同じ。ただ違うのは、提示する願いが”垂れ込めた雲を晴らせて日差しを”だの、”雨と雪を止めてください”だの、”もう日照りは結構です。恵みの雨を降らせてください”だのといった人間の都合での場当たりな気象操作ではないことだ。
なぁ、囚われた者同士一緒に組まないか?
その呪いからの解放を願ってやる。ロジックの穴だ。自分で解こうとすることは禁じられているが、聖女の願いなら叶えられる。
代償?
組まないか?といっただろう。一蓮托生、一心同体。お前の力で私達も解放してくれ。この呪いから。この災厄から。そして私をこの世界から。
星海のビジョンが渦を巻く。力が流れ込む。騎士が異変を感じたのか身じろぐ。私は後ろからその背にしがみついたまま、彼の襟元に指を突っ込んで、彼にも付けられていたチョーカーの石を引きちぎる。
精神制御の呪いを外された彼は、恐慌をきたし、溢れ出る記憶と感情に喉を震わせて叫んだ。
その慟哭が祈りの間に満ちて、”神"を目覚めさせる。
ワタシは彼を抱きしめて、私は目覚めた"神"に寄り添う。
大地が震える。
黒い巌のようだった壁の表面が震動し、細かい破片が落ちる。揺れる灯火のオレンジ色の光に、巨大な鱗状の凹凸がぬめりと黒光りする。
「大丈夫。あなたを縛るものはもう無い。あなたは解き放たれる。すべてを思い出して」
ワタシは、私は、彼に、彼の者に語りかける。
立ち上がれ。
封印されていた巨体が動き出す。
ワタシと分離して、私はこちらに取り込まれる。上等!
あ、そこの二人は潰さないように気をつけて。それくらいはできるよね?え?それ以外?気にしなくていいから、景気よくドーンとやっちゃおうぜ!!
せーの、どぉーん!!!!
漆黒の巨身が正殿とその周囲の聖堂群を崩壊させながら立ち上がる。夜明け前のまだ暗い紫がかった空には薄れゆく星の渚。
咆哮。
ああ、気持ちいい。
さて、このまま一気にやることやってしまおうか。
巨体を震わせると、建物の残骸が崩れ落ちる。邪魔くさい。
長い尾を持ち上げると、大地に亀裂が走り、王城まで続く壮麗な建築群ががきれいに崩壊していく。
私は大きく伸びをして、折りたたんでいた翼を天に向かって開く。
行くぞ。
守りたい二人に加護という名の防御バリアーもどきをかけてから、一気に飛び立つ。
爽快!流石、神と冠される怪物の王。
そのまま真っ直ぐ上昇していく。
大地は眼下に。雲は地を薄く覆うベールに。紫紺の空は暗く。なお暗く。
翼って、この先、平気?え?羽ばたいて飛んでいるわけではないから大丈夫?なるほど。成層圏越えちゃう?
よっしゃ、行っちゃおう。
大地の影を抜けたところで、黄金の日差しが全身を照らす。私は翼を大きく広げ、太陽の光を受け止める。
あ、この翼って、飛行用じゃなくてソーラーパネルみたいなもんなの?
大気と重力の影響の少ない高高度まで上昇しきってから、7対の翼を多段展開して消耗していた力をフルチャージする。
その間に私は、この超越者の感覚器官からの観測結果を、ビジョンで観ていた光景とすり合わせる。
なるほど。銀河中心はあの方向か。
短周期の災厄は、この恒星系内における交差軌道に存在した小天体の残滓によるものだったが、長周期で発生する災厄の原因は、この恒星系が己の所属する銀河内で移動するときに通過する軌道上にある星間物質だ。
銀河中心を巡る恒星は、丸い板上の点のように、固定された相対位置で回っているわけではない。ロータリーを回る車のように、それぞれが異なる速度と軌道で運動している。
そしてここの星が通過するロータリーの一部はひどく汚れているのだ。
恒星系がその星間物質が濃い部分を通過するたびに、惑星には微小な粒子が降り注ぐ。大気上層に降った粒子は、大気中の水蒸気を水滴に変えて雲を発生させる要因となったりして、天候を悪化させる。
大いなる災厄のときに、上空に向かって走る雷や、低空層にまでおよぶ赤いオーロラが頻繁に目撃されるようになるのは、この星間物質の降下と関連が深い。
コースに泥濘があって、周回ごとに足が汚れるならば、毎回、足を洗うより、泥濘をなくすほうがいいじゃない。
私は自問する。『できるか?』と。
私と一体となった超越者は答える。
望むなら成せば良い。我は自由だ。
良い答えだと思う。この"我"なる自我がどれくらい自分の限界を把握しているのかは知らないが、私の知識で拡張された世界観のせいでリミッターが外れたらしい能力の存在を感じる。
いいねぇ。伸びしろのある神様って素敵だと思うよ。
§§§
手頃な外惑星を一つ食らって腹を満たしてから放ったブレスで、我々の予定軌道上の塵芥は消滅した。
§§§
「それでな。あっちの都の方はまだ散々なんだそうだ」
「ほー、そうかね」
馬車の荷台に並んで座った男達は、暇つぶしにダラダラと、町で穀物や雑貨と一緒に仕入れたうわさ話をしていた。
「それでな。こりゃぁ、ここだけの話だと言って、都の方から来たらしい男が酒場で漏らした話なんだそうだが、なんでも、都の騒動は、ありゃぁ聖女様に邪な術をかけようとして神罰が下ったらしい」
「へー、そうかね」
「まったく罰当たりな話だ」
「だども、罰がこっちにまで飛び火せんでくれたのはありがたい話だて」
金色の穂が揺れる畑と緑の葉が茂る果樹園の間をうねうねと続く街道を往く馬車は、やがて牧草地が続く丘陵を抜けて森に向かった。
「おーい、旅の兄さん。もうじき別れ辻だ」
馬車を御していた男は、穀物袋が載った荷台の端に腰掛けていた旅人に声をかけた。
「国境に行くなら、その先を左だ」
「ありがとう。世話になった」
「なんのなんの。妹さんを大事にな」
旅人は、別れ辻で速度を落とした馬車の荷台から飛び降りると、隣から同じように飛び降りた少女を軽々と受け止めた。旅人は気の良い馬車の男に礼と別れを告げて、去っていく馬車に手を振った。
「……もう下ろして。小さな子みたいに扱わないでよ」
「妹って言われたのが不満なのか?」
少女は自分を抱えたままの男を睨みつけた。
「育ての親に向かって生意気だわ」
「記憶があるだけで、生まれ変わったら年上ではないだろう」
「あのいまいましい首輪は最悪だったけれど、少なくともあなたの口ごたえは封じてくれていたわね」
「その方が良かったか?」
「そんなわけないじゃない……」と口の中で小さく呟いて拗ねる少女を、男は愛おしそうに眺めて微笑んだ。
「妹と呼ばれるのも、育ての子に世話をされるのも嫌なのならこういうのはどうだろう?」
彼は、ずっと想いを口に出せぬまま慕い続けてきた相手を抱きしめた。
「夫と妻ならば、互いに相手に手を差し伸べて良いとは思わないか」
年上のつもりではいたものの、全く経験が足らない少女は、最愛の相手に「あ」だか「うん」だかよくわからない言葉しか返せないまま、誓いを交わすことになった。
§§§
「はぁ~〜〜っ」
私は深々とため息をついた。
結局、あの後、私は異世界で龍としては暮らさずに、元の世界の自分に魂を送り返してもらった。流石、神様と崇められた龍!無茶が通る。
聖女様と騎士殿も無事に平和に暮らせそうなところまで逃げ延びたようである。呪いが解けた騎士殿は、制限されていた聖女との良い記憶を思い出し、情動も戻って、なかなか良い奴になったそうな。聖女様とはまだちょっと精神的な結びつきが切れきっていないのか、たまに混線して甘々な感情がこぼれて来る。
……残業中にそういうのは切に止めていただきたい。
ああ、ブレス吐きたい。
「お疲れですか?"ため息は命を削るカンナなり"と言いますよ」
気遣ってくれたのは、共同開発先からプロジェクトに派遣された新人さんだ。よくできる人で、人当たりもいい。日程が圧しているプロジェクトの立て直しにとっては神様のような人だ。変わり者の私とも気さくに接してくれる。
「いいんですよ。実は私の魂は一度シュレッダーにかけられて千切りになった事があるんで、カンナ屑の1枚や2枚今更剥がれても気になりません」
新人さんは楽しそうに笑った。
「そんなことを言ってはダメですよ」
私はふと覚えのある気配を感じた。
「せっかく元通りにしたんだから、大事にしてください」
私は「一蓮托生の仲でしょう?」とニコニコしている同僚を凝視した。
翼も鱗も尻尾もついてはいない。
だがコイツは……。
「どうです。このテストが終わったら、食事に行きませんか?」
「……いいですよ」
異論はない。異論はないが!
いくら神様と崇められた奴だと言っても、これはいささか無茶が過ぎるのではないだろうか。
ちょっといつもと毛色が違うシリアスな話を書こうとしたのですが、結局、見事にいつも通りな色物に着地しました。うわーん!なぜだぁぁ(予定調和)
そういえばこの話も「私」の性別不明ですね。(最後の同僚さんも)
どちらでも、読者様が読んだときにイメージしたのが正解ですので、趣味に沿ってお読みください。
タグに「異類婚姻譚」が入っているのは御愛嬌。ま、明らかに相手のが上手だから仕方がないよな!
こんな王道からは程遠い話を、最後までお読みいただきありがとうございました。感想、評価☆、いいねなどいただけますと大変励みになります。
よろしくお願いします。