ひとりの女として
暗闇の奥底から、幻聴かと思えるような微かな声が聞こえ、やがてそれは次第に現実味を帯びて私の耳朶に届いてきた。そして、その声に反応したのか、私は深い眠りから揺り動かされるように目覚めた。ぼうっとして意識もおぼつかないし、焦点もはっきりとは定まらず宙を彷徨っている。そんなぼんやりとした視界の中に浮かび上がった影が、ゆっくりと私に近づいてきた。そして、やさしい声で私に話しかけてきた。
「気がつきましたか?どう、私の顔が分かりますか?声は?」
白衣姿の中年男性が私の顔を覗き込むように覆い被さり、矢継ぎ早に聞いてきた。まだ、朦朧とした意識の中にいる私は咄嗟に声も出ず、押し黙ったまま見つめ返していた。そんな戸惑いをみせる私を安心させるかのように、柔和な顔つきをしたその男性は私に微笑んで見せた。
「ここはどこ?」
「あなたはね、昨日、交通事故に遭われてこの病院に搬送されてきたのですよ。でも、意識が戻ったことだし、もう大丈夫。よかったねぇ。」
医師はそう話しかけながら脈を採り、カルテに何やら書き込むと私に顔を向け、満足げに肯いてみせた。
「事故?」
小さく呟いた私の声が聞こえなかったのか医師はさらに話し続けた。
「ご家族の方が心配して、昨日からずっと待っていらしたのですよ、あなたの意識が戻るのをね。あなたの顔を見たら安心なさるでしょう」
「家族、私の家族が来ているんですか?」
家族と聞いて私は気持ちが楽になり、靄付いていた神経が一瞬ではっきりとしてきた。
「もちろんですよ。なにしろ大事故でしたからね。警察からの連絡を受けて、すぐに飛んでこられましたよ。ちょっと待っていて下さいね。今、呼んできてもらうから」
看護師は出て行くとすぐに、不安な面持ちの中年男女と若い男を伴って入ってきた。この人達は誰だろうかと思いあぐねていると、女は私の顔を見るなり「亜矢」と叫び、私のベッドにもたれかかると泣き崩れた。それは堰を切ったような止めようもない泣き方で、私が口を挟む余地すらなかった。さらに傍らで立ち尽くしている、メガネをかけた中年の男も、「ああ、よかった。亜矢。本当によかったなぁ」と肯き、細い黒ぶちのメガネをはずすと、涙をハンカチでぬぐっている。私は唖然としながらも、二人の後ろに立っている若い男の方に目を向けた。その青年は緊張したような硬い表情で私をじっと見つめ、小声で「亜矢」とだけ呟いた。
事故に遭ったと聞かされた直後のことでもあったが、見知らぬ人達が現れてのこの状態に、狐につままれたようで言葉も出なかった。それでも意を決した私は、やや掠れたような声を出した。
「すみませんが、どなたかとお間違いではありませんか。私は、あなた方がおっしゃっている亜矢ではありませんわ」
私は平静に言ったつもりだったが、この一言で泣き崩れていた女は反射的に頭を上げ、驚愕したように顔を引きつらせた。そして、後ろにいる二人の男を振り返った。それから三人は同時に、狼狽の表情を浮かべながら医師を見た。私も不安になり医師を見上げた。
医師は一瞬間を置き、やおら中年の男の肩に手をかけると、落ち着きはらった声を出した。
「お父さん、お母さん、お兄さん、事故の せいで、お嬢さんの意識が混獨しているだけですよ。まあ、こういうことはよくあることだから、心配なさらなくても大丈夫です。まだ、事故のショックが抜けてないのでしょうね。しかし、無理もありませんよ、あんなに大きな事故に巻き込まれたのですから。ここであまり興奮させては、かえって混乱を招いて回復を遅らせることにもなりかねません。しばらくの間、お嬢さんをそっとしてあげましよう」
待って意識の混獨ってどういうことなの。お嬢さんって誰のことを指しているの。私がそれを聞こうと口に出す暇もなく、医師は私の頭をそっと触ると、まるで子供を宥めるような声で言った。
「心配いらないよ、後でまた来るから、ゆっくり休みなさいね」
「でも、私は」
言いかける私の言葉を遮るように医師は、「さあ、皆さん出てくださいね」と、三人を追い立てるように部屋から出て行った。
病室にポツンと取り残された私は、たった今、目の前で繰り広げられたことを反芻してみた。あの人達は誰なのかしら。そして、何しに来たのかしら。何の説明もなく、あの医師に、はぐらかされたようで腹立たしくもあり、また私の中に漫然とした不安感が広がっていった。確か、あの医師は家族を呼ぶからと言ったはずだが、茂や子供達はどうしたのだろう。
私は自分の気持ちを静めようと、ゆっくりと窓外に目を向けた。雲ひとつない冬晴れの澄んだ青空が、窓枠のキャンバスいっぱいに広がっている。軽く息を吐いてから首を戻し仰向けになると、白い網目模様の天井がパズルのように複雑に入り組んで見えた。
私が交通事故に遭ったと、あの医師は言っていた。何故ここにいるのか分からない私は、目を瞑り静かに時間を巻き戻してみた。交通事故。あの日、西武新宿駅に着いた私はJR新宿駅の東口に行こうと、靖国通りの前に来た。横断歩道の前には、平日にも関わらず多くの人達が屯していた。その人達の中に埋もれていた私は、信号が変わったと同時に揉まれるように歩き始めた。そのとき耳を劈くような車の軋む音と悲鳴、後は何も覚えていない。それにしても、夫の茂がまだ来ないなんてどうしてなのかしら。次々と疑問だけが湧きあがるのだが生来の性格なのか、そのうち来るだろうと楽観していた。記憶が甦がえり本来の自分に戻ると、今度は先程、部屋に入ってきた人達のことが急に気になりだした。あの三人の男女はいったい誰なのか。三人して、私のことをしきりに亜矢って呼んでいたが、その亜矢という人が私に似ているのだろうか。あの時の事故に巻き込まれた人なのだろうか。でも、それにしてはおかしい。あの医師は二人のことを、お父さん、お母さんって呼んでいたではないか。だが、あの二人はどう見ても私と同じ位の歳にしか見えない。いったい亜矢って誰だろう。私は、またしても疑問に振り回されつつ、睡魔に引き込まれるように眠ってしまった。点滴に入っている鎮静剤が効いてきたのだろう。
「目が覚めましたか。ご気分はいかがですか?」
気がつくと、窓には薄いピンクのカーテンが引かれ、ベッドの上に取り付けられているスポットライトが、私の枕元周辺をぼうっと浮かび上がらせていた。私は「ええ、気分はいいわ」と言って軽く頷き、「今、何時頃ですか?」と聞いた。意識がはっきりしてから見ると、顔を近づけ微笑んでいる看護師は、まだ幼さが残る少女のようだった。
「夜の七時過ぎですよ。よく寝てらっしゃいましたね。ご家族の方は、今日は安静にとのドクターからの指示で、また明日来るとおっしゃって帰られましたよ。食事は明日の朝食からになりますからね。何かありましたらナースコールを押して下さい。心配なさらなくても大丈夫ですから」
看護師はやさしく言いながら、手馴れた感じで体温を測り、点滴の袋を取り替えて出て行った。
あの看護師は、家族が明日また来ると言っていたが、私が寝ている間に茂や子供達が来たのだろうか。それなら、せめて私が目覚めるまで待ってくれてもいいのにと、茂や子供達に対して愚痴ってみた。それでも、まっ、明日になれば会えるからと思い直して、薄暗い病室の中を見回し、ここが個室であるということにも今、気がつくほど気が動転していたのかも知れない。最初にあった私の心音を伝えていた大きな機械は取り外されている。その代わりに、ベッドの横には小さなテーブルが置かれ、その上に可愛い花篭とおにぎりのような三角形の赤い時計が置いてあった。その時計の針は七時二十分を指している。だが、私の視線は時計のガラスの上で止まり、そのまま凍りついた。三角形のガラスに映し出されていたのは若い女の顔、まるで恐ろしいものでも見たように引きつっている。私は自分の心臓の鼓動が遥か遠くから聞こえ、声を上げることすらできない。その瞬間、私の中で時間が止まり、ガラスに映し出された女の顔だけを見つめ続けた。それから思い出したように息を吐くと、ゆっくり考えた。この若い女は誰なのだろう。何故、ガラスに映っているのだろう。今、このガラスを見ているのは私。そして、この部屋にいるのも私だけだ。でも違う、私じゃない。この女は私じゃない。私であるはずがない。私は四十八歳なのだ。私はまだ、夢を見ているに違いないと固く目を閉じ、ひたすら夜が明けるのを待った。
「先生、私は白崎亜矢ではありませんわ。この体も私ではありません。私は高原恭子です。本当に高原恭子なのです」
医師を前にして、私は半狂乱になりながらも何度同じことを訴えたかわからない。
「わかりましたよ。興奮なさらないで落ち着いてくださいね。いいですか。あなたは大きな事故に遭われたのですよ。一時的に記憶を失うのは、よくあることなのですからね。あなたのおっしゃる高原恭子さんは、ご存知の方なのですか。高原さんはあなたと一緒に事故に遭われ、お亡くなりました。たいへんお気の毒だと思いますよ。もし、あなたのご存知の方でしたら、きっと、ものすごいショックを受けられたのでしょうね。わかりますよ。そのショックが、あなたの記憶喪失に関わっているのかもしれませんね。しばらく時間はかかりますが、でも大丈夫、きっと元のあなたに戻れますよ」と其の度、医師はのんびりとした口調で、しかし、きっぱりと言った。
高原恭子が死んでいる。それは、私の体が変化したこと以上のショックを私に与えた。あまりのショックに気を失い倒れた私は、気がつくと自分のベッドに戻されていた。私が死んでいる事実と私が私でない事実。この不可解な現実から逃れられないのだと、鏡の中の若い女が示している。それは、自分が人間であることすら疑いたくなるほど、私の思考回路を遥かに超越していた。
亜矢の兄である慎司があれ以降顔を見せたのは、私が恭子の死を聞いてから数日後の昼過ぎだった。病室のドアをそっと開けると「亜矢、気分はどう?」と、何気ない調子を繕いながらも声はうわずり、その表情から緊張感が見て取れた。自分が兄だと判別できぬ妹に、どういうふうに声を掛けようか迷った末に、いつものようにと考え過ぎて力みが入ったのだろう。私は無言で、自分の息子よりも若い慎司の顔をじっと見据えた。私にとって、この男は赤の他人でしかない。それなのに親しげに笑いかけてくる慎司に、私は亜矢ではないと突き放せないジレンマがあった。もちろん、その理由はこの体にある。
「亜矢、辛いんだろう?そうだよね。自分が誰だか分からないって辛いよね。俺が亜矢に何かしてやれることがあればいいんだけど」
慎司の腫れ物に触るようなやさしい言葉が返って、私の中に鬱積していた感情のマグマを爆発させた。
「ないわ。何にもないのよ。何にもできないのよ、誰にもね。だから私のことはほっといて」
私は泣きながら声を荒げた。何も慎司のせいではないと分かりつつ、八つ当たりせずにはいられなかった。一度噴出したマグマは、涙と共に止めどなく溢れ出した。私はしばらくの間、布団に顔をうずめて泣いた。こんな形で自分の気持ちを曝け出したことは今まであっただろうか、あまり記憶にない。それだけ今までの生活がいかに平穏であり、普通だったということだろう。そして、これからもその普通の生活がずっと続くはずだったのに。慎司に当たることで少し落ち着きを取り戻した私に、「そうだな、本当にそうかもしれないね。俺には今、亜矢が抱えている苦しみを代わりに背負ってやることはできないから。でも、いつでも亜矢のそばにいるから」慎司はそう言うと私の手をとった。
それから慎司は何度となく会社帰りに来ては、私と他愛無い話をして帰っていった。そんな慎司のやさしさは、かたくなな私の心を少しずつ溶かしていった。そして、私は徐々に諦めという手段を用いて、亜矢を受け入れていった。
「亜矢さん、おはようございます。気分はいかがですか?」
いつもの看護師が、朝食をのせたプレートを持って、にこやかな表情で入って来た。
「もう痛みもないし、気分もいいわ」
私は、亜矢と呼ばれることを抵抗なく受け入れ、顔馴染みになった看護師に微笑みを返す余裕さえ出てきた。
私は起き上がり、ベッドに設置されたテーブルで、運ばれてきた煮物と卵焼きの朝食を食べ始めた。
母の泰子が来たのは昼前だった。細身の体を包んでいる淡い黄色のセーターが、娘の事故による疲れを呈している泰子の顔に、少しだけ華やいだ雰囲気を添えていた。
「今、そこで野田先生にお会いしたのよ。そうしたら明日、退院してもいいとおっしゃったわ。三月三日の雛祭りはご自宅で祝ってくださいねって。よかったわねぇ。ただ、記憶が戻るにはまだ時間がかかるそうだけど、焦らなくてもいいとのことよ。でも、本当によかったわねぇ」
泰子は、心底ほっとしたような表情を見せた。
「本当?嬉しいわぁ。実のところ、もう、病院には飽きあきしていたのよ。これで記憶が戻ってくれれば最高なのにねぇ」
私は自分でも白々しいほどの演技力で、泰子の言葉に同調してみせた。戻るはずもない亜矢の記憶。私はこの先、何もない白紙の世界に、足を踏み入れるような恐怖感に捕らわれていた。それは亜矢として生きていく決心に、少なからず揺さぶりをかけていた。
「それでね、考えたんだけど、今年は亜矢の快気祝いも兼ねて、雛祭りのお祝いをするのはどうかしら。どう?」
「本当?嬉しいわ。ありがとう、お母さん」
「それから、雛祭りに詩織さんをお呼びしてはどうかしら。何度もお見舞いにいらしてくれたでしょう。亜矢の快気祝いも兼ねての雛祭りだから。もし、亜矢が疲れていないようなら」
何気ない調子の会話には、私と泰子のお互いに対する遠慮と不安が含まれていた。私を気遣いながら話す泰子には、記憶喪失の娘とどのように対峙すればいいのかとの、不安が常に付きまとっているようだった。
「詩織を?もちろん大賛成だわ。詩織と話していると、私って友達に恵まれていたのよねってつくづく思うわ。ただ、家族が一番だけれどね」
最後の一言は、亜矢の家族に対しての気遣い。坂井詩織は私の入院中に何度となく見舞いに来てくれた、亜矢の中学時代からの親友だったらしい。ただ、入院当初は私の情緒が不安定との理由で、面会謝絶になっていたらしく、初めて会ったのは二週間ほどしてからだった。それから、詩織は頻繁に来ると、現在、亜矢と一緒に通っている大学のようすなどを、こと細かく報告してくれた。青春がいっぱい詰まっていた亜矢の過去。その過去を私が背負い、未来へと繋げていく。これが、亜矢として生きるということなのだろう。私は、私の身の回りを手際よく片付けている泰子の後ろ姿を漫然と眺めながら、改めて亜矢として生きていくことの意を決した。
「帰ったらすぐに、お雛様を出さなくてはねぇ。今年は何かと忙しかったから、まだ出してなかったのよ。ああ、それからお祝いの準備もあるし、大忙しだわ」
「お母さん、あまり無理しないでね。私の入院で疲れているのだから。そんなに大ご馳走じゃなくてもいいのよ、退院できるだけでも嬉しいんだから」
「大丈夫よ。お母さんだって亜矢が退院するのが嬉しいんだからね。そうそう退院のこと、お父さんが聞いたら大喜びよ。亜矢は、いつ退院するのかって、毎日のように聞いてくるんだから。それに慎司にも早く知らせなくてはね。亜矢のことが気になって、仕事が手に付かないなんて言うのよ。ねぇ亜矢、みんなで亜矢のこと待っているのよ」
「ありがとう、お母さん。それに、みんなにも心配かけちゃって」
「何言っているの。家族だから当たり前じゃない」
私にとっての家族。失われた家族と新しい家族。今まで当たり前だと思っていた家族の風景が、ある日突然、全く違う景色を映し出す。
お父さんや慎司に連絡しなくては、いろいろ準備をしなくては、と言いながら、泰子は気ぜわしく帰って行った。
泰子が帰ってしばらくすると、野田医師が片手を白衣のポケットに突っ込み、にこにこしながら病室に入って来た。
「気分はどう。うん、顔色はいいね。そうそう、お母さんから聞いただろう、明日、退院になったこと。もう、怪我のほうは完璧だよ。それに、気持ちのほうも大分落ち着いてきたようだからね。記憶のほうだって、家に帰れば直に戻るよ。しかし、焦ってはだめだよ。無理せず、のんびり構えてね」
私は、相変わらずのんびりとした口調で話す野田医師を見ながら、自分自身との葛藤に疲れ果てていた頃の私を思い返していた。常にゆったりと構えてくれている野田医師に、救われていたのかも知れない。
「いろいろと、ありがとうございました。先生のおっしゃるとおり、家に帰ってからゆっくりと思い出すことにしますわ」
演技力の上達は、こんなときにも発揮されている。記憶喪失を直す手立てはあるかもしれないが、もともとない記憶を取り戻すことは不可能なのである。四十八歳の私が、二十歳の娘になった。自分の娘より年下の娘に。ありえない現実を、この人のよさそうな医師にいくら説明しても理解できるわけがない。
「何か困ったことがあったら、いつでもおいで。悩んで落ち込むと、記憶がなかなか戻りにくくなるからね」
「分かりましたわ」
私は野田医師に笑顔で返答した。
その日の夕方に慎司が来た。いつもは仕事が終わった夜、こっそりやってくるのだが、まだ夕食前だった。
「どうしたの、こんなに早く来るなんて。また会社を抜け出して来たの?」
「ひどいなぁ、抜け出したなんて人聞き悪いじゃないか。いやぁ、お母さんから電話を貰ったから早退したんだよ。明日、退院だって。よかったなぁ、亜矢」
慎司は心底嬉しそうに言い、椅子を引き寄せ座った。
「あら、早退までしなくても、明日から嫌でも一緒に暮らすのに」
私は憎まれ口をたたきながら、言葉とは裏腹に涙が溢れた。私を地獄のような日々から救ってくれたのは、妹思いの慎司にほかならないからだ。
「亜矢、あのとき約束しただろう。いつでも亜矢のそばにいるからって。何も心配はいらないよ」
「ありがとう、お兄さん」
私は泣き笑いの顔で、そう言うのが精一杯だった。慎司は、そんな私の頭をまるで子供にするように撫ぜ、肩をポンポンと叩いた。
「さあ、亜矢の元気な顔を見たことだし、これから帰ってお雛様を飾るとするよ」
「じぁ、その為に早退したの?」
「まあ、そんなところかな。お母さんが張り切っていたからね。それに、たまには早く帰らなくっちゃね、明るいうちに」
家で待っているよと言い残して、慎司は帰っていった。
その日の夜中、私は廊下を気ぜわしく行き来する足音で目が覚めた。以前、デイルームで話した末期癌の女性は、私と同じ四十八歳だった。胸騒ぎがした私はベッドを降りて窓辺に行き、黒いビロードを敷き詰めたような夜空を見上げた。東京では珍しく星がダイアモンドのごとく瞬きを放っていた。
「お母さぁん」若い娘の泣き叫ぶ声が廊下に響いたのは、それから間もなくだった。
退院してから擬似家族に囲まれた生活は、私が覚悟していたよりも疲れた。常に亜矢でなくてはというプレッシャーが私にまとわり付き、自然に私を追い詰めていった。
「亜矢は今のままでいいんだよ。新しい記憶を作っていけばいいんだから。無理しないで」
亜矢の記憶などありえない私に、静かに寄り添ってくれる慎司。そんな慎司に、いつしか私は亜矢の兄であることを越えた気持ちを意識していた。勿論、そんなことが許されるはずもない。そんなとき、詩織が慎司の彼女であることに気づいてしまった。詩織に確かめると以前から付き合っていたとの事。そして、そのことを私に言う前に事故が起き、言い出せなかったらしい。慎司が詩織とのことをはっきりさせることで、私の気持ちが楽になるのではないか。私がどんなに思いを寄せても、兄と妹の関係が変わるわけではないのだから。この宙ぶらりんの気持ちに終止符を打つべく、私はリビングで二人だけになったとき、慎司に声を掛けた。
「お兄さん、この前、詩織が来たとき聞いたの。お兄さん、詩織と付き合ってるんだってね。早く言ってくれれば良かったのに」
私は軽く息をついてから、さりげない口調で言ったのだが、心臓の鼓動は相反して激しくなるのが分かった。新聞から顔を上げた慎司は一瞬驚き、そして戸惑いの表情を向けた。
「詩織さん、いや詩織は何て言ったんだ」
「何てって。ただ、お兄さんと去年の十一月頃から付き合っているって。詩織も早く私に言いたかったんだと思うけど、私が事故で記憶喪失になったから言えなくなっちゃったのね。詩織には可愛そうなことしちゃったわ。お兄さんが、私の記憶が戻るまで言わないようにって口止めしたらしいけど、それじゃ詩織が辛いだけだし、私も記憶が戻らないことに責任感じちゃう。私のことを気遣ってくれるのはうれしいけど。でも、私なかなか思い出せなくって」
そこまで言って私は言葉に詰まり、ただ、涙だけが流れた。平静にと思いながらも、自分の気持ちを抑え切れなくなっていた。
「ごめん、亜矢に心配かけて。でも、詩織とのことが言い出せなかったのは、亜矢のせいじゃないんだ。俺のせいだ」
慎司は苦渋の表情を滲ませながら私の隣に座り、私を抱きしめた。突然の行動に困惑しながらも、私は慎司への思いが止められず慎司の胸の中で泣きじゃくった。慎司はそんな私を、より一層強く抱きしめ、「ああ、亜矢。亜矢が妹でなければ」そう呟いた。
どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。二人押しは黙ったままソファに座わり、あたたかい日差しの中にいた。慎司は、ずっと私を抱きしめていた。
「亜矢。亜矢は昔から俺の大切な可愛い妹だった。言いたいことを言い合い、よく兄妹喧嘩もした。でも、あの日から俺は亜矢の兄貴にはなれなくなった。亜矢が交通事故に遭って病院に運ばれたと聞いた時、俺は慌てて病院に駆けつけた。亜矢は確かに亜矢だったが、でも何か違って見えた。何故か俺にも分からなかったが。ただ、亜矢が妹の亜矢でなく、ひとりの女としての亜矢に見えた。俺は一瞬、狼狽した。しかし、それは単に亜矢が記憶喪失になったためだと思い続けてきた。でも、日を追うごとに亜矢は俺の中で亜矢ではなく、確実にひとりの女になっていった。詩織とのことも、事故前には俺から亜矢に言おうと思っていた。だが、事故後に亜矢が妹でなくなってきた途端、亜矢に詩織とのことを知られるのが怖くなってきたんだ。俺はここ数ヶ月、俺自身を責め続けてきた、妹に恋するなんて考えられないと。亜矢が記憶を無くしたことで、俺との兄妹としての関係までが消えてしまったようだった。今の俺には、亜矢はまったく初めて知り合った女に思えてしょうがない。頭では妹だと思っても、心の中ではもう一人の俺が、どうしょうもない気持ちを抱えている。自分の気持ちを詩織に向けさせなければと思っても、どうしょうもない。かえって詩織との距離が離れていくのを感じてしまう。この頃から詩織とも喧嘩ばかりしている。詩織には本当に悪いと思っているけれど、このことを詩織に言うことは絶対出来ない。亜矢にこんなことを言えば、傷つくのは亜矢なんだって分かっているんだ。でも、もう自分を騙せない。愛してる、どうしようもなく愛してるんだ。亜矢」
慎司の声は震え、目にも薄っすらと涙が光っている。
「お兄さん、ごめんね。私が事故に遭わなければ。そして、記憶を無くさなければ。私は、亜矢であって亜矢じゃない。それは私が一番よく分かっているの。あの時死んでいれば私もお兄さんを愛することはなかったわ。」
二人きりの夜、私達は決して越えてはいけない一線を越えてしまった。
私は、シャワーの栓を一気に開放するとノズルから出た冷たい水が、火照った身体を冷やし一瞬身震いをすると、徐々に熱いお湯がほとばしる。前面の鏡に写る亜矢の身体。小顔の輪郭の中に二重の大きな眼、額からすっとした鼻筋を通って、少しばかり肉厚なぽってりした唇。シャワーの湯水は首筋から豊かな乳房へ流れ、くびれた腰を描くようにして薄めの繁みの中に吸い込まれていく。やがて形のいい脚のあたりで水しぶきを散らす。浴室は湯気でもうもうとし、鏡の亜矢も霞んでいく。
このまま消えてしまいたい、恭子でもなく亜矢でもない、ひとりの女として。幸せな女のままで。
私は今、靖国通りの前に立ちつくし、通りの向こう側を見つめていた。時間は午前十時過ぎ。あの時と同じ時間。人々がせわしく行き交い、ひとつのうねりとなって横断歩道を渡っている。信号が青から赤に変わった時、私は軽く息を吐き、慎司への思いを断ち切るように、横断歩道をゆっくりと歩き出した。
そして、クラックションと急ブレーキの音が、私の亜矢としての時間を止めた。




