遁走
波だと押して返してゆくのだろうけど、それは違った。それはただ一直線上での追いかけっこだった。追う線はまっすぐで、逃げる線もまっすぐだった。ただ一つのつながる線だけがそこにあり、追いかけっこは時々つかまってしまうのだった。
追いかけているほうは追いかけっぱなしで、息が弾み、逃げる方も逃げっぱなしで息が弾んでいた。いつの間にかそこには音符が存在している。音符は、その直線上に乗っかる仕組みであった。
いつしか足音から音符が繰り出され、走り出す。二人は追い続け、逃げ惑い、時に捕まると、そこから逆方向へは方向転換できない仕組みができあがっていた。
音符は連続で走り続ける脚からこぼれ落ちるようであった。そこには恋があって、そこには戒律があった。それは追いかけ逃げ続ける二人を支配していた。
季節は春だったが、花の少ない春だった。少なくとも二人には花を見る余裕などなかった。温かい季節だとも忘れそうな位、二人は追いかけっこに夢中だった。息は弾んでいて、それは春の夢のような日だった。
のどかとも言えない慌ただしい田園風景で、時に駆け巡って行く。平野がずっと横たわっている。その端の、ありふれた町で二人は生まれた。二人は、追いかけ、逃げていくという遊びをずっとしていた。
そこには恋が横たわり、規則や約束が眼を光らせ二人をとらえようとしていた。海のある町よりもずっと離れたところだった。軒下に生えるよく見るような草花を、脇見しながら、二人は音符を踏みならし走り続けているのだった。
二人の名前は、Mであり、Zであった。二人には性別があるようでなく、住所があるようでなかった。ただそこに追いかけっこする二人の姿だけがあった。Mには自覚する性別があるように思われたが、実は全く別のようにも思われていた。
Mの性別の自覚は、Zによって意識させられるものであったのかもしれない。自分の性別を隠すようでもあった。Zにも意識している性別があったのだが、また同じようにMを意識してのことだった。
Mは性別を強く感じるときに、ただ受け入れやすさも感じていたのかもしれない。それは、相手の性別をも受け入れるということだった。相手の性別を時に歓迎し、自分の性別を常に自覚し続けるものだった。Mは追いかけっこでいつも追われる立場だったが、それは性別と強く関係していることだった。
二人における約束は、例えば今、この春のぼんやり薄くたゆたうようなものから発せられるものだった。二人の足音はまるで調べのようなものであって、まるでそれを奏でるといったことが目的のようであった。
追うZの調べと、逃げるMの調べは呼応するようでいて、足早く軽く抜けて行くようである。
時にMはつかまるが、翻って二人は足並みを同じくして、すでに昼時、夕時を忘れるまで、追ったり、逃げたりを、延々と続けるのだった。
足下から音符。転げ回りながら、音符は直線上を走りぬける。追いながら逃げていく音符の直線を必死で見つめる。
交差しない音符たちは、足下を素早くくぐり抜け、小路へ入ったりして、身を潜める。音符は小休止の後にまた奏で始める。そういった坂を下ったり上ったりするような道も交えながら、風景が変わっていくようだった。
すぼまった四角に行き着く。道の行く先をただ見据えて、Mは後ろを振り返りながら、また、「決して振り返ってはならない」と言い捨て、前をみて逃げる。
途中、道ばたの、決して食べてはいけないよ、と母に約束されたへびいちごなどを口に含ませながら、ちょっとその場にしゃがみ込んだりするのだった。そんな休符はわずかかもしれなかった。あちらこちらに眼を見やりながら、道草の方角へと突き進もうとする。
視点を下の方、下の方へと移していくと、光の屈折したり、ゆがんだりするものがゆらゆらと動いて、草の間からまるで舞ったり、降りたりしている。光の中を走り抜けていく。
視点はまだ下の方を探していて、草と草をくぐり抜けると、いつしかZもまた追い続けながら、その腕をとらえようとする。前に回ったり、立ちふさがったりしながら、追いかけっこに休符を打とうとする。息は弾むが、足早く抜けようとすると、また約束を掲げて立ちはだかる。そこでもしかしたら長い休符が打たれるが、足を前に出したり、横にずらしたりしながら約束を手渡されないように、とMは身を低くする。
長い休符は終わり、今度は視線を高くして、遠くの方にある川の水面の、揺れたり大きくゆがんだりする光を見た。立ち止まりそうになる。息をのんでそのまま山の方を見やって、道草から小路を抜けると、Zはいつのまにかすぐ横で走り抜けようとまた立ちふさがった。
「今度のルールは…」とZが話し始めると、少し立ち止まって、そのルールに聞き入ろうかとMは少し思う。ここで起立したまま呼吸だけは乱さずに、整えようとするが、Mは少し遠くを見やったまま、視線だけ外そうと耳をそばだてた。
その後、ルールを話し始めるZは、ずっとMを見据えるようだが、かなた、空高く仰ぐように声高に話し始める。Mはそれを耳に入れると、こう応えた。
「わかった」と。
それから間もなくMは、脇を流れる別の歩みに足を踏み出す。それはさながら和音のようだった。和音と共に駆け抜けるように彼方をめざして走り始めた。Zは不意に、約束を伝えることができたと歓喜した。また、細く流れる雲だとかを見上げつつ視線を山の稜線へと移した。その稜線をなぞりあげると、再びMをとらえるために,背中を見据えて駆けだした。脇にある小石を時に弾き飛ばしながら、弾かれた小石はわきの道路に転がったり、電信柱に当たったりした。
足下から堅くて軽い音符。しばらく休符をつけずにそのまま小路へと回り道をしようかと脇見しつつ、その背中をしかととらえようとしていた。
脇を見やると右左折。道路の案内を示す標識。信号は目の前にあり、一度止まる。Mは前方を走る車に紛れて見失ってしまった。Zはそのまま遠くの一本の木に思い馳せて見るが、どうにも見失ってしまったらしい。そこで赤信号は青に変わり、横断歩道を真っ直ぐ渡る。脇目も触れずに駆けるのだ。
Zは新しいルールを考え出していた。追いかけっこは音符を奏でるように駆け抜けていく。その矢先に眼前に指し示すルールを掲げなければならない。
Zはまずは腕をとらえた、と思うとそれは単に草花であった。それから見据えたように前へ出た、と思うと、それは往来する車を縫うようにして横断している自分だった。または、約束の書かれた便りに封をしてそれを渡そうした。Mの背中を追い始めた。そのうち小路に入ろうとするMに、
「おい」と声を掛け、間を走り抜けて、眼前にもう一度立とうとする。Zの便りをMは見て、不意に足下止まった。音符はそこで止まる。
ほんのしばらく眼があった後、右手に持つZの便りに端と眼が止まる。や、否や、反転して、今来た道をまた走り始めた。堅いアスファルトに弾んだ音符をたたき出す。Zは便りをくしゃりと握りしめMの眼前に差し出した。しばらく呆然とMは息を荒げると、差し出した便りをMの左手に握らせた。なおもにじり寄ろうとすると、Mはまた翻ってもと来た一直線を駆けだしていった。手元の便りにふと目線を落とすと、それはいつの間にか単なる紙切れで、何も書かれていないのだった。
そのまま走り続けようと思いながら、握っていた便りを開くと、やはりなにも書かれていなかった。Mは小さく息を吐くと、そのまま右を曲がって、長く続くわん曲の道路をゆるく折れ曲がるように駆けていった。
そのカーブの道路を曲がりきると、三叉路に別れており、そこで立ち止まり、もう一度小さな紙切れを開いた。何も書かれていないことに変わりない。息を整えて、三叉路の行く先を遠く見やって、右側と決めた。右側の先に、いつも見慣れた本屋があって、そこの平積みされた雑誌の中に、いつも寄稿している同人誌がある。それを手に取った。
Zは街路樹の根元の雑草がはびこっているのも、枯れた花壇で、手入れされずにいるのも、脇目も触れずに駆けていく。音符はただ単音で、重々しくもなく、軽くもなく、薄ぼんやりした空気に似ており、空は見上げると淡くピンク色をしていた。
時々香る昼ご飯の支度をする音だとか、車の抜けて行くスピードだとかが聞こえてくる。足下の和音ができあがる。すると急に、目の前を鳥が風をまとって急降下してよぎっていった。一瞬立ち止まると、
「あそこの本屋でしょ」といつのまにか真横にZがいる。二人は一時、追いかけっこをやめた。
Mは目を伏せてから、入り口のドアを左に引き、ひんやりと冷たい店内へと入った。ガラス張りの窓に沿って店内を回っていくと、文芸誌のコーナーがあって、そこの平積みの本を上から下へと視線を降ろしていくと、三月号にMの書いた小説がある。Mはそれを開くと、自分の寄せた原稿のページを開いてみた。そのまま店内にZを残して出口へと進み、外を駆けていった。往来する車を脇目にしながら、横断するタイミングを見計らって居ると、遠くで小さな子どもと、その母親らしい親子が、この先の角を、賑やかに花を咲かせている保育園を背中にして、こちらの歩道へと向かっていた。その姿に端と心奪われている瞬間に、Mは腕をつかまれてZが声をひそめる。
「次のルールを変えようと思うが」と話し出す。つかまれた腕から逆の方向にひねるとZの手から腕がするりと抜けて、一直線に横断歩道を渡り始めた。Zは不意に駆けだしていったMを見て、逃がさないと追い続ける。
先を走っていく音符の数たち。二人の足に間に合わない、転げ回る音符の数たち。調べが山の端をなぞって、そこにある木の上に降り注いで、畑をにぎわして話す人の声を軽やかにしていく。春の脇を流れる川に、音符を乗せると、下流の町へと伝えだして流れていく。その先で散歩をする老いた夫婦がいとおしそうに犬を抱え、先にMがあの石碑に向かって駆けていた。その石碑はかつて約束を交わした場所であり、その根本にある草花の枯れたのを見ながらよく聞き入っていたのだった。
そのとき、MはZに「うん、そうしようかな」と手をふりほどいて、Zを背中にして、町の見知らぬ風景へと走っていったのだった。その見知らぬ町にZは少しためらいながらもただMの背中のみを見据えて追い続けた。夏は間近かと思われた。
もう一度石碑に辿り着くと、またここで呼吸を整えようかと立ち止まった。音符を纏いながら眼を遠くに走らせた。その石碑に書かれた文字が、何であるか知るはずもなく、またZにとらえられてしまったのであった。そのZの大きなポケットにはまた紙切れが入っていた。その紙切れにはAと書かれていた。そのAとは、なにか突風を駆け巡っていくような、彼方の空に向かっていくなにかに感じらるもので、その彼方へ向かって、駆けていきたいようなルールだった。
「そのルールは」と口を開こうとしているZにMは翻してもと来た道を選ばずに小路を縫うようにして走っていこうと決めた。その小路の先、先、先と折れ曲がったり、カーブしたりしながら、先ほどの町に戻っていく。その道の、時に折れる曲がり角を変えてみたり、道草の道を抜けて行きながら、Mを待っている家路へと辿り着いた。その玄関の先で、音符を纏っていた靴を脱ぎ捨てて、家の中に入る。今日の追いかけっこの復習をするために、Mはノートを開いた。そのノートには日々の約束と、音符の鳴る足音の様子が鉛筆で書き連ねられ、時々消しごむで消したりしては、思うことを書き出していった。そのノートと向かい合いながら、今日の音楽の調べを一つ一つ記録していった。
そして一つ楽譜ができあがった。その楽譜を今夜読もうと胸におさめた。その晩、いくつもの音符を歌ってみた。その楽譜からこぼれて歌になった。それが夜空に飛んでいくと真っ暗な星と音符が混ざり合った。そういう楽譜をずっと手に持って眼で楽譜を追った。楽譜の音符は足早く駆け抜ける追いかけっこだった。逃げてもつかまらないMを追い続けるZの音符は連続している。山の起伏をなでるようであり、そのあと道草に入って休符する。
約束を渡されて、二人の調べはいつも追ったり、逃げたりの繰り返しで、それは約束を形作っていた。空を描いて、降ったり、流れたりした。降ってくる音符を体に受けて眠った。明日の調べを思いながら、約束のメモを開く。そこに起立する約束には、恋煩いが二人を巣くって、蝕むが、そこには名前があった。起立からすり抜けて走って行くが、そこから音符がこぼれ落ちてルールが二人を縛り付けた。行き来して、二人は納得して、山の小川を沿っていく。鳥につれられたり、足下から打たれる音符がアスファルトを彩ったりするけれど、それはまたこぼれ落ちて、交差点で立ち止まったり、ひとが行き来していた。
足下を縫うようにしてまた上ったり、跳ねたりする。そのルールは二人が混ざり合って、溶けているようでいて、溶けてはいなくて単音の追いかけっこだけが二人の足下から打ち鳴らされている。
家から飛び出してMはまた駆け出す。その通りには、脇に田んぼ。向こうの四角の家々の先まで広がっていて、その田圃から蛙が水の中で口ずさんでいる。そこの脇を走り出すとZがルールをノートに書き記していた。それはまだ目の前には出されては居ないけれど、靴に潜ませて、手渡す手はずを整えていた。靴の中に音符が詰まっていて、走り出すとそこからこぼれて右足左足と、今日の追いかけっこが始まる。
この道の突き当たりに揺らめく高い木々が、影を作っていて、その影は音符を携えて葉と共に揺らめいている。その移ったり、戻ったりする様をなぞって駆けていった。その黒かったり光っていたりする隙間を抜けて行く。またノートを開いてみようとZは追いかけ始めると、昨夜のしとしと雨で畦道が足を沈ませて重くさせている。その沈んだ後から和音がこぼれる。その先を走るMの靴は少し湿っていて、泥がついている。 その泥にも和音が乗せられた。その重さで土の中へと沈んでいった。土の中で駆けていって、その中に和音が沈んだり、上へ上がろうとしていた。土と石と根っこが茶色だったり、黒くて四角の中を音符が行ったり来たりする。その根っこの葉脈が白く細くて五線譜のようだった。そこからすぐに駆けだしていって、Zも葉脈から抜けて行って、追いかけ始める。そこから重々しく落ち込んでいったり、浮かんだりしていた。
そこでZはノートを開いた。開いたページからルールを掲げた。掲げた文字が四角の茶や黒の中を縫っていって、音符と共に地へと戻ってくる。そこから別の川を渡ったところの道路の脇で、街路樹の根元からルールが出されたのであるけれど、そこから交差点の道路で青信号になるまで待っている。するとZは追いついて肩を並べた。その肩で呼吸のリズムを整えていると、音符が舞って、歩く人の足下にも舞って、追うZと、逃げるMはルールを右手に握って横断歩道を駆けていった。往来する車の足下にも調べがあって、こすれたアスファルトから高い音符が響いていた。ノートは数行、箇条書きに書かれていてそこから目をそらせようと、ノートの罫線に沿って駆けていった。Zからのルールは罫線から文字が浮かんできてMはそれをよくみると、文字はこう書いてあった。
「織物を織るべきだ」
そこから交差する色の綾が、畑を織り込んでいった。織り込まれた編み目の間から菜の花が咲いていて、その根本の方をちぎった。それを持つと、途端に足早く逃げ出すMは頬を紅潮させて駆けていった。上気してくると一端スピードを緩めて段々と止まった。Mはバス停の前で時計を見た。バスはあと八分で発車する。それまで約束の紙を思い出していた。何も書かれれていなかった紙をもう一度開くとそれをポケットに入れて、ここにしまおうと思った。バスに乗車して、発車するまで、暗い車内の中で待った。後ろから二番目の席を座るとZも乗車してきて前の方に腰を下ろした。そこからアナウンスと共にドアが閉められ、バスが発車した。両腕で脇の窓を開けるとその隙間から風景を見ていた。四角に切り取られた小さな窓からのMの方へと向かって流れていく。右へ曲がったり左へ曲がったりしながら切り取られた四角の中は変わっていく。四角は曲がったり、こちらに流れたりしながら遠く美術館に飾られているような絵だった。そこはとても静かで、追いかけっこの絵が飾られている。ナルキッソスの絵にMの眼は止まってしまった。隣の絵に移っていくとバスが止まって降りる乗客の背をふと見遣ってから、Mも席を立った。Zはもう降りているが、追わずに先を歩いて行った。Mはポケットから紙を出してその何も書かれていないメモを読んだ。メモには、
「チェンバロ演奏会」と書かれてあった。Mは公民館のバス停に降りてくると角をすぐに左へ曲がって駐車場を横切っていくとスロープを上って入り口に入った。そこの入り口から数十メートル奥まったところで制服を着た女の人に、持っていたチケットを渡した。今まで追っていたZは先へと歩いて行っており、聴衆者の中へと消えていった。
Mは二階席に座ると、少し古びた布張りのいすをじっとみて、こじんまりした空間を見渡した。その垂れ幕の幾何学の模様がほこりを纏ったように重々しく感じられる。この公民館を賑わしているようにも見える。Zはこのホールのどこかに座っているのだろう。
と、垂れ幕があがって、演奏者の挨拶がある。演奏はそれとともに始まり、小さな鍵盤から足早く軽やかに和音が空間いっぱいに追いかけ逃げていった。
約束が音符一つ一つにのせられてMに果たすべき約束が届いた。届くと、Mは立ち上がって二階席から退くとすぐに出口へと走って行った。Zはすぐに追いかけ始めていつの間にかチェンバロの演奏は二人に約束を与えたまま共に追いかけっこをし始めた。そこからちいさな鍵盤は足下から打たれて二人は演奏者に敬意を表すために約束をしっかりと受け取った。
Mは演奏を聴き終えると聴衆者に紛れながらバス停に向かっていった。バス停は小路に入り、ベンチもない。時刻表をみると、あと二時間待つことになる。Mは駅の方に向かって駆けていった。Zもいつの間にかMを追いかけ始めていた。
Mは駅前通りまでの小路を重く沈むように駆けだした。和音が重なりあっていたが、ZにはMの背中に追いつけそうもなく、ひたすら背中を追うZにやっと追いつく。駅前にはまばらに賑わす商店が並んでおり、脇目もふらず走る。目線を落として次の角を左に折れ、すぐに右に曲がって小路の入る。それを見失わないようにZは小路へと走り去り、そこからMの前に回ってくると、先ほどのチケットをMに渡そうとした。そこには何もかかれていない。Mは受け取らずに小路を真っ直ぐ抜けて行く。Zは先回りすると先ほどのチケットを手渡した。Mは受け取り、そのまま直線の道路を駆け抜ける。それをZが追うが、駅前のロータリーで歩道を渡っていくと、駅に入り券売機の前に立った。百二十円投下して、次の駅までの切符を買うと、Zが追うように切符を買い、改札を通った。
一番線ホームに停まっている車両に乗り込む。Mは立ったまま、向かい側のホームのベンチなどに目をやりながら呼吸を整えている。Zがどこにいるのか、Mには分からなかったが、車窓を前にして外のホームに息を潜めているかも知れなかった。ぼんやりと眺め、笛の鳴る音と共に扉が閉まり、電車が動き出した。田園風景が車窓から切り取られるように眺められ、ふと、風景は切り替わり、四角いキャンバスが出現する。それはオルフェウスとエウリュデュケーの画だった。田んぼの展示室にはギリシアの神々が描かれ、飾られている。Mはまた車窓から飛び出し、田んぼの絨毯を駆けだした。Zもどこからか抜け出してMを追い始めた。風が強く吹き抜けていく。それに抗う。
向かい風を受けて、重々しい足取りで奏でると、髪が後ろにたなびいて、首が露わになった。緑の畦道を行ったり来たりしながらZとの追いかけっこが続く。Mはまた車窓の中に戻ると、車内はゆっくり減速をはじめ、停止した。
アナウンスが流れ、扉が開かれると、Mはホームに降り立つ。Zは先に改札を通っていて、その背中を見つめているMは、群衆に紛れるように改札脇からロータリーを抜けて、左側の大通りを一気に駆けていった。ZはMに気づいて、背中を追い始める。二人の足下から和音が奏でられる。追い風を受けて、二人とも足早く駆けていく。
交差点でとまり、荒れた呼吸を整えた。信号を渡り終えると、「じゃあ、ここで」とZは背中を向けて走り出した。MもZに背中を向けて走りだした。二人は別々で走り出した。
Mは前を向いたまま走り続け、バス停のベンチの脇に立ったまま、さっき受け取ったチケットをポケットから出した。チケットを裏返す。殴り書きされた筆記体のメモがなかなか読めないでいた。Mはそのまままたチケットをポケットに収めると、道草をするように脇見して立ち止まっていた。雑草が高く生い茂っている。前が見えない。掻き分けようと、草を押しやると、腕が草で切れ、血が滲む。目の前を羽虫が飛び、草むらの間を行ったり来たりしている。
不意にZが草むらの中に飛び込んできた。羽虫を追い払い、Mを追いかけ始める。羽虫を叩きながら走るZの足下は和音の調べ。Zは両腕を使って振り払いながら、ぶんと唸るその腕からも音符はこぼれる。ZはMを捉えようとする。二人は虫に刺されながら、草むらを前へ前へと一直線に突き進む。草むらを縫っていくMと、その後を追うZとでひとつの緑色の布が織れた。Mは走り、Zは前を横切ったりしながらできるその反物は、土が混ざり合ったりして、強い西風とともに折り込まれている。春、という織物だった。西風はその足下に吹いて、Zの足は軽やかだった。単音で駆け抜けるMの手を捉える。捉えられた方の腕から花が咲き乱れ、それは肩まで伸びて口からも花がこぼれた。
Mは前へ前へと草を掻き分け走って行く。花びらが開かれると音符が鳴り出す。しばらく行くと先ほどの公民館が見えてきて、チケットの裏側からMと、続いてZが出てきた。Zは手に反物を持っていた。Mは手に花を持っていた。裏側に約束が書かれたチケットは、そのまま二人のポケットに入れられた。
Mは家へ戻って、玄関の戸を開けるとそこに今日履いていた靴を並べる。台所に入ると、赤色のスープを作る。トマト、セロリ、玉葱、人参、ニンニク。刻んでいると鍋の中で追いかけっこが始まった。赤色に黄色が滲み出す。オレンジ色に混ざり合う。
Mは口の中で弾ける赤いスープを飲み干した。脇にノートを取り出し、開く。そのノートに寄稿している同人誌の、新しい小説のためのメモを書いていった。動機や約束を交えながらメモは書き進められ、今日の演奏や、花の咲いたできごとなどを書き記していく。そこには戒律が存在し、今日のMを励ましていった。
口からこぼれた花を、Mは春と呼んだ。春を感じるには遅すぎるような春だった。ZとMはルールを携えて追いかけっこをしていた。Mは今更のように花を愛でていた。Mに気恥ずかしさがこみ上げる。Mは遁走を始めるためのレコードを掛けると、「今日はずいぶんと約束を受け取ったな」と思い返していた。
Mの方からはルールを掲げることはできないのか。できあがった音符をこのノートに記すしかないように思われるのだった。Zにある許しを与えること、それがルールを受け取ったときの自分のように感じられた。それから逃げるように遁走を続けているのだった。
受け取らないべきか、そう思って遁走する。約束は二人の間を起立している。
Mは今までの顛末を小説にしようとメモをする。Zの動機は感傷に訴えるものだ。Mを巣食おうとするものだ。それでもZは約束を掲げてやってくる。約束が立ちはだかる度、Mはノートに書き記すのだった。
そこには二人の間を往来する戒律があって、二人をつなぐ。Mは逃げ続けるためのメモを取った。目の前に出された戒律を、時に受け取ったりしながら。そこには織物や音楽があった。それを愛しく思っていた。逃げ続けることで布は織り上げられ、音符は音楽を奏でる。その様子を小説へと転換した。
へびいちごのある雑草の、その背の高く伸びきった道を分け入っていくと、皮膚が切れ、その血で布が織られる。草の冠まで作られると、Mはそれを持ち去り走り去っていく。その冠にも約束が幾重にも折り込まれており、Mは幼児期の思い出を思い出すようであった。その冠に約束が付与されて、右手に強く握りしめると、大事そうにポケットにしまった。起立する約束が幾重にも編み込まれ、その精巧さに震えるようであった。
Mは逃げ続ける自分を主人公に小説を書いてみる。足下には五線譜が敷かれ、そこに乗っかる音符は、風に乗って、彼方へと飛んでいこうとする。そんな音楽をMは聞き入り、小説に書いていった。
ノートに接するボールペンからも追いかけっこする二人が映し出される。二人が音符と共に滑り落ちて、罫線を染め上げる。黒く染まったノートはいくつものルールが記されており、音楽を口ずさむようであった。
硬い硬い約束。二人の間を行き来する約束。ただひたすら逃げるMの姿を描く、というストーリーをMは書いていた。Zは二人の間に起立する約束を携えている。
Mは走り去っていくと、着ている服が剥ぎ取られてしまった。それは風からできていた。あるルールによって、服という人工物が作られたのだった。Mはその着ていた服を丁寧に畳んで川のそばに置いた。そのまま川に足を入れ、流れに身を任せて仰向いた。いつの間にかZがすぐ脇に来ている。Zは着衣したまま、ただMの裸身を見ていた。時々川の流れに激しく揺さぶられている藻などがMの肌にまとわりつく。Zも約束の通り、着衣が剥ぎ取られてしまった。
Zも川に足を差し込もうかと、逡巡し、ただその流れる藻を見つめていた。すると、藻は足に絡みつきZは引きずり込まれてしまった。
川に流されながらも、Zは水の調べを口ずさむ。仰向くと、空高く光る太陽のまぶしさに、ときおり雲が陰ってZの顔に落ちてくる。ZはMを追うことをやめ、Mも逃げることをやめ、お互いに視線を交わし始めた。Mは夢のような遁走曲を奏で始め、Zは約束を掲げてその遁走曲に音符を添えた。二人は仰向けのまま、アポロンを仰ぐようだった。体にぶつかってくる川の流れは、藻に絡まり、二人をぐるぐると巻き上げていった。二人はまなざしを交わし合いながら、水の中で歌を歌い出す。口元から音符が流れ出てMの裸身の上を音符が踊り、Zの背中にも音符が滑り落ちていく。
二人の裸身の上を泳ぐ音符は混ざり合って和音となり、また一つの楽譜が生まれた。それをMは手に取ろうと腕を広げると、Zに奪われてしまい、Zは楽譜を口ずさみ始めた。
川の流れは急速に強まりながら、音符は縦横に泳ぎ、二人を囲んだり、流れに逆らったりしながら弾んでいる。軽やかに乱打する音符はMの裸身を隠し始め、Zの裸身をも覆い始めた。Mはノートを手にして小説を書いていくと、それを胸元に寄せた。深く息を吐く。鳥は鳴き、さわさわと風が頬を撫でていく。
MはZからのまなざしに視線を逸らしていた。小さく息を吸って吐く。逃れようと思っても、ZのまなざしはMを捉えようとする。Mは服を着ると、音符はぴたりとMの服に張り付いて歌を歌い出す。和音となり、Mは逃げるための力を失って、体の上を滑っていく遁走曲をじっと聴いていた。Mは囚われた人のようになって身を竦める。着衣は音符によってまた剥ぎ取られてしまい、じっと身を潜めた。Zはルールを掲げたまま、Mとともに静かに遁走曲を聴いているのだった。
Zは光の粒になって、川から這い上がると、ルールが書かれたノートを一冊ずつ並べ始めた。並べた順にMは手に取っていく。ルールを一つ一つ確かめると、文字がMの目の中に映り棲み、Mの目の中で踊った。踊った文字はZに戻ってきて、Zはその掌に受け取ると、その上で文字が弾む。文字は韻文となり、詩ができた。いくつかの詩ができあがると、Zはそれに一つ一つ約束を付して行ったのだった。
光の粒になったZは朝靄のなかに解けていった。目を閉じ、見透かせそうもない先をみつめてノートを抱えていた。靄はZの体を覆うように包み込み、その中で文字が踊っていた。ころころと転がるように踊った。Mはその転がる文字を拾うと、それを組み合わせ、新しい詩を作った。文字はMによって削り取られて、黒い点々となって舞った。黒い点々はZの体を黒く染め上げ、Zの体を形作った。
「また追いかけっこが始まる」
Zはつぶやくと、Mを追い始める。Mは逃げ出したのだった。
首筋から黒煙をまき散らしながら、足早く交差点の手前まで駆け抜ける。交差点で信号を見上げると、青になるタイミングで駆けだした。するとすぐ後ろをZが追って走り出す。二人は信号を渡りきって互いを一瞥した。
すぐ右を折れて角のたばこ屋を左に曲がり、小路に入ると、脇の家で登校を急ぐ児童を見遣った。Mは視線を遙か空高く見上げて駆けだした。
Zはアスファルトを蹴りながらMの背中を見つめて走った。体の黒煙を払い落とすと、それが空気に舞って文字になり、ルールと変わってMの目の前をおりてきた。ルールを手渡されたMはてのひらに広げてそれを読むと、折りたたんで鞄に仕舞った。小路から左に曲がり信号のない横断歩道で立ち止まる。その横断歩道の前で左右を見ると、Zもすぐわきで息を切らして立ち止まっていた。ゆっくりとMは渡りきると、先を駆け出すMを追ってZも走り出した。舞った黒煙がメモに文字を写しながら、新しいルールを書き留めていく。 そこには「海底へ」と書かれている。
稜線をなぞっていって、シーサイドラインに辿り着く。Mは海岸に到着した。海は引き潮で、海岸にはテトラポットが顔を出し、貝や海草がはびこっている。Mはそれを摘まむと、ポケットに入れて海の中に足を浸した。Mは浅瀬へと泳ぎ始めるとZも追うようにして泳ぎだした。波は穏やかにMとZとを押して返していく。体が上下に揺れて二人の体を軽くさせる。ポケットの中の貝殻が落ちて、音符となった。波間に漂うと、Mの掻いていく足が和音となって奏でられる。足を波に取られながら両腕を目一杯に掻いて波を受ける。頭を潜らせ顔にそれを受けると打ち付けて返っていく目元から貝殻が滑り落ちた。そのまま転がるように顔を撫でて腕にぶつかると弾けて音符が散らばった。散らばった音符はZを追い始め、単音の調べが転がり、逃げて、波間をさらっていった。波を受けて両手をすぼめ、音符が両太腿の間を縫っていって、流れ、濃い藍色が二人を包んだ。藍色の中で踊って、跳ねて、弾ける泡が背中やお腹をくすぐって、音楽は記号となった。記号は腰を撫でて、上って、下腹を曲がって、泡となって浮かんでいった。着衣のまま降下していくと、記号が剥ぎ取られて、つむるまばたから泡が溢れた。
深い藍色は次第に浅黄色に変わった。ときどき流れてくる海草は肩にぶつかりながら、そのまま張り付いてしまったりもする。波に押されてぶつかってきた海草をつまみ上げると、それが約束の言葉となって、胸の上をよぎっていった。海草に捕まるように力を込めると、そのまま肢体は上昇していく。海面に浮かび、仰向いた。記号は砂浜に打ち上げられ、波にさらわれそうになると、さらさらと風にふかれ、海の空を舞っていった。音符となって飛び回り、入道雲にぶつかると、音符が跳ね上がる。そこでMとZはお互いのノートを交換し合うと、二人は別れた。Mは海の家の脇に身を寄せてそこでノートを開き、それに目を伏せた。Zは離れた救護室のベンチに腰掛け、ノートを開いた。お互いの詩を口ずさむと、Mは足に力を込めて砂地を蹴った。海の家を背にして走り出すと、腕を大きく振ってスピードに乗って駆け出す。口から上気した息が漏れる。
シーサイドラインに沿って走って行く脇の山の傾斜は険しく、そこを下ってくるように追いかけてきたZは右手にルールを携えて走ってきた。ルールを話し出すZにMは肩を上下させながら聞き入っている。ルールを話すZの唇の端に雑魚が入っていく。くちゃくちゃと飛ばしながら噛んでいくその口から、UとIが生まれた。MはUとIの誕生をノートに記すと、Zにそれを渡す。受け取ったZの背中をMは追い始めた。Zはノートに端に付いていたMの食べこぼしを口にすると、山の傾斜を上っていった。
Mも後を追う。Zは逃げながら、もう一度ノートを開き、Mの書いた詩の続きを書き始める。山の稜線を辿っていって、青い標識を目の前にすると、信号を待つと同時に呼吸を整える。MはZの隣に走り寄ってきていて、一瞥すると、信号が変わった時、Zは駆けだした。
Zは交差点からそのまま真っ直ぐ直進して、右に折れると、角にあるスーパーマーケットに立ち寄る。
約束が書かれたメモを出して、目線を落としながら店内へと進んでいく。パン屋の一角を通り過ぎ、野菜のコーナーを見渡した。並べられた棚に沿って手を伸ばし、カートに収めていく。精肉のコーナーで立ち止まると、メモに目を落とす。
詩の材料になっている食材を探す。店の中央で会計を済ませ、袋詰めしていくと、Zは店の外へと出た。駐車場を抜け、小路を真っ直ぐ進み、大通りを突き当たると左に折れて交差点の前で足早く歩いた。その交差点で荷物を左手に持ち直し、青信号を渡ると、また小路に入っていく。脇を流れる川は茶色に濁っていて、時々小さな魚が川のよどみの中で泳いでいる。それを脇に見ながら、小路につきあたりのZの家へと入っていった。
玄関で靴を揃え、家に入ると、今日買った荷をおろして、手を洗いに洗面台の前へと立つ。洗面台の前で疲れた顔を見ながら、石鹸で丁寧に手を洗い流すと、タオルで手を拭き、台所へと向かった。
買った食材を冷蔵庫の中へと詰めると、途端に冷蔵庫は軽やかに歌を歌い出す。ルールを冷蔵庫から取り出すと、カウンターに並べ始めた。ルールを手元に纏い、食材を切り分けていく。その包丁のリズミカルな音から歌ができた。
フライパンに油を注ぎ、食材を入れる。食材はフライパンの上で踊って、Zは箸でそっとかき回すと、皿に移した。
皿から上る湯気に鼻をくすぐられる。小皿に分けて炊いたご飯とともに、それを口に入れると、噛み砕く音は音符となって、Zの空腹を満たしていく。さながら詩を食べている気分で鼻歌もまじえて食していった。
Zは食事の片付けを済ませると、鞄から本を取り出し開いた。脇にノートも広げる。本の中から約束を取りだし、ノートに書き出していく。いくつかの約束は箇条書きされ、それを文章にして要約するとZは自分の書いたものを何度も読み返していた。Zの目に映る、ノートに書かれた約束は、Zの涙としてこぼれ落ちていき、頬を伝う。それをハンカチでぬぐうと、水玉模様となって映し出された。水玉模様はZの衣服にも転がり移り、Zはてのひらで受けると、それを宙に放った。またてのひらに返ってきて、そしてまた放った。水玉は色を変えながら、床の上に転がった。転がると、寝ている猫の背に当たる。猫は背伸びして、あくびをすると、水を一口飲んだ。その水の入った猫の皿にZの放った水玉が入って、猫の口を避けるように、水玉は皿の外へ飛び出していった。それをZはつかまえる。
Zはぼんやりとてのひらで水玉を転がすと、床にこぼれ落ちてしまい、水玉は弾けた。Zはそれを詩に書いた。詩の中では、約束が書き連ねられ、まるで音楽のようだった。音楽はZの部屋を満たした。それから閉められた窓の隙間から通り抜けて行って、庭を満たした。
外気は冷たく、音楽は冷気を纏って通りの家々や花壇に咲いている花を彩った。花は夜露に濡れ、湿った空気に染み渡るように響いて行くのだった。
猫は床の上でまるくなって目を閉じている。猫は時々耳を震わせたり、鼻をひくひくと動かしながら眠る。Zは猫の脇に床の準備をする。
猫はZを一瞥すると、あくびをひとつする。外は雨が地面を打ち、やがて激しさを増す。風が小さく窓を揺らし、その隙間風がひゅうひゅうと部屋の隅で鳴っている。外は雨樋を伝う雨の音がする。滴の筋が窓を伝っていく。Zは目を閉じた。喉を鳴らす猫がまたあくびをする。
Mは玄関を出た。Zの背中を追うために遙か見渡した。視線を真っ直ぐに見据えて、風を切って走り出す。やがて小さくZをその視界に捕らえた。Zはつかまらないようにと逃げ出す。Mは背中を見つめて追いかけた。
Zは端と立ち止まった。振り返ってMを見る。今度はMの背中を追おうとする。二人は中心を軸にしてお互いの背中を追い始める。そこで二人はノートを出し合ってお互いのルールを見せ始めた。ルールを交換しあうと、それをそれぞれノートに書き記した。Mはノートを破くとそれを鎧にした。Zもノートを破き、自らの鎧を作った。その鎧を着て、またノートを破った。Mは剣を持った。Zは破ったノートで槍を手にした。二人は中心を軸としながらお互いを打ち合った。刃のぶつかる衝撃に、二人は互いに見合った。
軸の中心で渦が起こった。渦は竜巻を起こし、二人の体を吹き飛ばした。二人は渦巻きの中心で刺し合った。Mの胸から血が噴き出し、Zの腕から血が流れた。
Zは刺したMの胸に触れて、心臓を左手に掴んだ。握った心臓は激しくMの胸を打っていて、ルールが体中を巡っていた。そのルールを一つ摘まみあげると、Zは自分の腕に傷にそれを擦り合わせ、小さく身をよじった。よじれてねじれた体はZに繰り返し襲って、Zの皮が剥がれて地に落ちた。落ちた皮をノートから飛び出してきたUが拾って足早く逃げていった。Uはその皮を着て、Mを追いかけようと左右を見合わせた。
MとZは竜巻のなかでにらみ合いをしている。Mは、
「地に降りよう」とZに言う。
ZはMを見つめる。MもZの目をとらえた。二人の目は焼かれて地面に落ちる。目は泥と混ざり合うと、その土地から芽が出て双葉となった。双葉の上に双葉が伸びて、背丈が高くなる。Zは川から水をくんで双葉にかけた。双葉は蔦のようにはびこり、Mに巻きついた。蔦は伸びていって、Zをも巻き添えにしようとする。
蔦は二人の剣と槍を取って、手に握らせた。絡まった剣を受け取ると、Mは振り上げた。Zの足を突く。突いて吹き出す血が地面に落ち、そこからまた蔦が生えてきた。蔦は伸びて、空に向かって一直線に登っていき、Zはそれを槍で引きちぎっていく。MはUの手を取って、自ら剣を渡し、Uは蔦の這う森の中を走って行くZを追った。Zめがけて剣を振り下ろそうとする。Zはそのまま前のめりになりながら手で地を掴んだ。そしてUを振り返った。Zは、
「争うことなど……」
と行って槍を放った。落ちた槍はバイオリンに変わり、Zはそれを構えると、奏で始める。 Mは、
「わかった」
と剣をフルートに変え、口をあてる。二人のノートは楽譜に変わり、Uは手拍子を加えた。Uは歌を歌い、楽譜の五線譜から音符がこぼれだした。音符はZのバイオリンに触れ、Mのフルートに触れていった。激しく弾かれるバイオリンから血が滲む。フルートも赤く染まり、地面を濡らしていった。二人の奏でる音楽は遁走曲だった。
UはノートからIを取りだした。Uは走り出した。IはUを追い始めた。MとZはそんな二人を音楽にした。UとIの足下からMとZの奏でた音符が転がりこぼれていって地面の上を弾むのだった。