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おまん瞠目

おまんが目覚めたのは桜咲き誇る春であつた。

おまんの目に呉葉(くれは)の顔が映つたときは、

こゝがあの世と云ふものであらうかと思つた。

さうではない、こゝはこの世だと気づいてなほ、

おまんの春は夢のやうに過ぎ去つた。


盗みを生業とし、

男どもを従へ、

火の雨を降らした日々さへも、

この暮らしに較ぶれば、

よほど(うつゝ)らしく思はれた。



今は夏である。

山中の渓谷であるから夏とて涼しい。

さうでなくとも、呉葉の顔は涼やかである。

呉葉は官女の扮装(なり)をして、

あでやかに笑つてゐる。


しかし、この美しいひとが

確かに呉葉であると証せるひとは

この世に一人も居らぬ。

呉葉のひとりご経若丸も亡くなつた。

呉葉の母者も亡くなつた。

おまんと同じく呉葉の手足であつた、

鬼武も、熊武も、鷲王も、伊賀瀬も、

もはやこの世には居らぬ。


そして呉葉も。

呉葉を討ち取つた維茂も。

この世には居らぬ筈なのである。


実を云へば、

おまんもこの世にゐる筈でなかつたのだ。

おまんは自らの喉笛を懐剣で突いたのであつたから。



呉葉は今こゝに微笑んでゐる。

死んだ筈の呉葉を死んだ筈のおまんが見てゐる。

呉葉の笑みは恐ろしいやうな微笑みである。

鬼と云ふに相応しい微笑みである。

呉葉を主君と仰ぎながらも、

おまんでさへもさう思ふ。


呉葉はときをり里に下る。

今も盗みをする。男を殺す。女を拐かす。

それでも鬼に横道はないのぢやと呉葉は云ふ。

おまんにはその道理がわからぬ。

わからぬが盗む。殺す。拐かす。

里にはおまんが怖がるやうなものはない。

鬼に怖いものがあらうか。


呉葉一党が討ち取られた秋、

おまんが唇噛みしめて剃髪の辱めを受けた冬、

あのときまでは、

呉葉もおまんも確かに人であつた。

肉を切れば血が流れた。

口惜(くちお)しければ涙も流れた。

しかし今は。

刀を受けてもおまんは血さへ流さぬのだ。



 おまんよ。何を思ふてゐる。

 わしは鬼であらうかと。

 鬼よ。鬼であらうよ。それで何の不都合があらうかの。

 わかりませぬ。

 鬼となりて戻れと念じたのはおまへぢやらうに。

 さやうでござります。



呉葉とおまんが暮らす荒倉の山には、

女たちの姿が今日も踊る。

拐かされた女たちである。

拐かされて何故か幸せさうな女たちである。


呉葉は汗ひとつかゝぬ涼やかな顔をして、

山中の渓谷に髪洗ふ女たちを見つめ微笑んでゐる。

恐ろしいが穏やかな微笑みである。

かつてはこのやうな笑みを見なんだ、と

おまんは思ふ。


 鬼と呼ばれたからこそ、鬼になつたのぢやらうて。


呉葉がぽつりと呟く。

ついで、今度はりんと通る声を張り上げ、


 みな。夕立がくるぞ。帰らう。


帰らう。

呉葉の声がおまんの耳に強く響いた。

瞠目する思ひであつた。

帰らう。さうぢや。

荒倉の山はわしらが宿ぢや。

呉葉が鬼であらうとも。

わしが鬼であらうとも。


女たちは、

鬼であらうとなからうと、

女たちのただひとつの宿りに帰るために、

急ぎ身仕舞をした。

空の片隅に、

むくむくと入道雲が育つてゐた。

参考文献:鬼無里村史・戸隠伝説他

この連作を書くにあたって「鬼無里村史」の写しを提供して下さった渦巻二三五さんに感謝します。

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