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おまん瞑目

信濃路にその名も高き戸隠の、

白峰(しらね)の雪は幾重に積り、

今はいづこに紅葉やある。


 夜はよい、昼よりよい、とおまんは思ふ。

 からかひ囃す子らがゐない。

 後ろ指指す大人もゐない。


 頭丸めたおまんのそそ毛、

 千本繋げば都に届く、

 頭丸めてそそ毛は剃らぬ、

 おまんのそそ毛は金色(こんじき)五色(ごしき)


 おまんは草庵にひとり、瞑目する。

 吹雪はやんで月夜になつたらしい。

 火燭も炭も焚かぬ草庵の、

 破れ毀ちた板壁よりほんのりと雪灯りして。

 思へばかのひとに出逢ひ初めたは、

 このやうに雪灯りする夜であつた。



  おまんは月夜の雪道を駈けてゐた。

  修験の筋に生を受ければこそ、

  雪の冷たさも山の闇も苦ではなかつた。

  おまん駈ければ一夜に五十里と唄はれた、

  その素晴らしく逞しい脚でおまんは駈けた。

  しかしおまんは口惜(くや)し涙に泣いてゐた。

  泣きながら駈けてゐた。


  神のましますお山に入つてはならぬと、

  禁じられたのが口惜しかつたのだ。


  神の声を聴くのは女ではなかつたか。

  神の姿を見るのは女ではなかつたか。


  木の皮剥ぎ取る鹿よ退()け、

  木の根掘り出す(しし)退()け、

  そそのけ、そそのけ、

  おまんが通る。


  泣きながら駈けるおまんの眼に、

  山も谷も飛ぶやうに過ぎてゆく。

  そんなおまんを呼び止めるものがあつたのだ。

  おまんの早足をものともせず、

  かのひとは泣き叫ぶおまんに声を掛けたのだ。


  神の声を聴くのは女。

  神の姿を見るのは女。

  おまんよ。

  荒倉の山に来い。

  荒倉の山に来い。


  おまんは脚を止めた。

  脚を止めてそのひとをみた。


  雪白の上に広がるは、

  目を奪ふばかりあでやかな()毛氈(もうせん)

  緋毛氈の上に広がるは、

  目を奪ふばかり丈なす黒髪、

  黒髪の上に輝くは、

  雪より白い柔肌に目を奪ふばかりたをやかな、

  天女と見紛ふ姿であつた。


  おまんよ。

  (わし)はおまへが欲しい。


  そのときおまんは思つたのだ。

  このひとについてゆかう、と。

  このひとが鬼であらうと蛇であらうと、

  このひとの手となり脚とならう、と。



 おまんは草庵に瞑目してゐる。

 瞑目しても経は読まぬ。

 頭は丸めたがおまんは尼ではない。

 見せしめに剃髪された頭には、

 今もなほ傷が残る。

 尼ではないおまんの胸に去来するのは、

 昨日もけふも、

 たつた一つの呪ひである。


 鬼となれ、我があるぢよ。

 鬼となりて戻れ。


 しんしんと冷える信濃の夜、

 おまんは何時までも呟き続けてゐる。



信濃路にその名も高き戸隠の、

白峰の雪は幾重に積り、

今はいづこに紅葉やある。


初出 蘭の会月例詩集2003・2月

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