吾輩は勇者である。名前はもう無い。
まあ勇者なんて物は、魔王専用の暗殺者、或いは弓で放った矢と言っても間違いじゃない存在なので、名無しとなるも止む得ぬだろう。
と言っても、昔からそうだった訳じゃ無い。
吾輩のずっと前の、初代勇者なんかはアランだのアレルだのアランドロロンだのって名前が伝えられている。
うむ、建国王の名前なんだが、此の歳になると興味の無い事はもうおぼろげな記憶だ。
だがそう、初代勇者は魔王討伐の功により人を統べる王となった。
しかし其れも、二代目辺りからは話が変わる。
初代勇者が魔王を倒して百年後、新たな魔王が出現したのだ。
そして其れに応じる様に、女神ソーネーが新しい勇者を選び出す。
選ばれた勇者が王族、つまりは初代勇者の血筋でも何でもない村人だった事は、王族の存在意義を問うて多少物議を醸したが、兎に角二代目勇者は魔王を倒した。
けれども魔王討伐後、役目を終えて勇者の力を失った二代目は、復讐を目論んだ魔王軍の残党に殺されてしまう。
無論勇者の力を失ったとて、魔王を倒すまでに得た戦いの経験は、二代目を一流以上の戦士にしている。
だが其れでも、押し寄せる魔王軍の残党から、故郷の村を守りながら戦うには足りなかったのだ。
村人が逃げる時間を稼ぐ為に一人で戦った二代目は、無数の魔物の骸の只中で力尽きていたと言う。
さてそれから更に百年後、矢張り新たな魔王は生まれ、直ぐに三代目の勇者も選ばれた。
三代目勇者の魔王討伐の経緯は、今では殆ど残っていないが、何でも下級貴族の出身の騎士だったらしい。
過去の勇者達と同じく魔王を討伐した三代目は、しかし或いは、魔王以上に人間社会を混乱の渦に叩き込む。
「初代勇者と同じ偉業を果たした私は、初代勇者と同じ栄誉を求める」
そう、三代目の要求は、王の座だったのだ。
実際の所、三代目の要求には一定の正当性があった。
王族等が今も国を統べるのは、初代勇者の成し遂げた偉業、女神によって選ばれたと言う権威があってこそだったから。
故に国は王族と三代目、何方を支持するかで真っ二つに割れ、互いに争い始める。
だが戦闘は強くとも、政治力のある訳では無かった三代目では人間同士の戦いには結局勝てず、魔王討伐から十年後に断頭台の露と消えた。
しかし敗れたとは言え三代目は女神に選ばれた勇者だ。
彼が最期の時に吐いた呪いの言葉は、王族、貴族、民衆の全てに深い恐怖の記憶を刻む。
だからだろうか?
其れから更に九十年後、四代目の勇者は共に旅した仲間に裏切られ、魔王討伐直後に後ろから刺された。
勇者の力を失った瞬間の出来事だ。
四代目の仲間達は、余程その瞬間を狙いすまし、待ち侘びていたのだろう。
再び人間同士の戦いを起こさぬ様に、不要となった刃は早々に処分される。
……更に三年後、魔王は再び現れて、五代目勇者として吾輩が選ばれた。
と言っても女神ソーネーも自分の選んだ勇者の末路に、思う所があったらしい。
ソーネーは勇者に、名前も経歴も捨て、ただ一本の刃となる事を求めたのだ。
名前も経歴も捨てれば、魔王を倒した後も親類縁者も復讐の的にはならないだろう。
そして何よりソーネーが選んだ吾輩は、既に寿命が尽きる寸前で、今は与えられた勇者の力で命を繋いでいる。
魔王を倒して勇者の力が消えたなら、其のまま吾輩も力尽き、後には何の憂いも残さないと言う寸法だった。
故に今の吾輩に名前は無い。
最早自分の記憶の中にすら……。
綺麗さっぱり、女神の力で消し去られていた。
吾輩を表す単語があるとするなら、其れは五代目勇者だ。
国の人間が五代目勇者と口にする時、其処には哀れみ、同情、不理解、蔑み、敬意等が宿る。
そう、魔王たる御前が吾輩を見る其の目の様に。
しかし他人からどう思われようと、吾輩は勇者に選ばれて良かったと思う。
若者に貧乏籤を引かせずに、吾輩の此の身が人の役に立てた。
最後にもう一度、若い頃の様に痛みも無く、自由に身体を動かせた。
……まぁ残念ながら、入れ歯なのは変わらんが故に、食事も若い頃と同じ様にとは行かんかったが。
其れよりも何よりも、子や孫が生きる世界を、此の手で守り通せる。
勿論子も、孫も、吾輩が其れを成したと知る事は無いが、無事に生きててくれれば充分だ。
おっと、吾輩に子や孫が居た事は、どうか内緒にして欲しい。
さてさて魔王よ、長話に付き合わせてしまってすまぬ。
己も此れが最後故に、少し名残を惜しみたかった。
だがそろそろ終わりにするとしよう。
抵抗が無駄なのは、御前も良く知る通りだ。
魔王は勇者に勝てない。
其れは勇者として、魔王を倒した御前自身が誰よりも知る。
魔王、……否、四代目よ、御前の気持ちは、立場の違う吾輩にはわからぬ。
御前が吾輩を理解しがたいと思うのと同様に。
四代目の御前はあった筈の未来を奪われて、五代目の吾輩には元より未来が無かった。
こんな吾輩に倒される事は、御前には何より無念だろうな。
けれども吾輩とて、子や孫の生きる世界は決して譲れぬのだ。
だから此れだけは約束をする。
御前を倒した後に、吾輩も直ぐに後を追うだろう。
ほんの少しだけ待っててくれ。
もうわかってるだろうが吾輩は話好き故に、決して寂しい道行にはせんよ。