お茶を焙じる
商店街を歩いていた私は、お茶屋さんの前で立ち止まった。「お茶を焙じる香りや……」この香りは、客を引き留める為の機械から出ているのにすぎない。しかし、このお茶を焙じる香りが、私の亡くなった祖母を思い出させた。
明治の最後の年に産まれた祖母は、幼い頃に父親を亡くした。未亡人になった三国一の美人だったと聞かされている曾祖母は、祖母を実家に預けて再婚した。その再婚相手との間に産まれたのが私の父だ。
なら、祖母ではなく伯母になるのだが、少しややこしい話になる。私の曾祖母は美人だったが、夫運は悪かった。父を産んだ直後に、またもや夫に先立たれたのだ。そして、そこには前妻の産んだ跡取り息子がいた。帝国憲法では家長の権力は絶大だ。産まれたばかりの赤ん坊を守ろうと、曾祖母は実家に置き去りにしていた娘と跡取りを結婚させる。そして、赤ん坊を養子にさせ、安心して天国へと旅立った。
祖母も結婚運が悪い。この跡取り息子も早く亡くなり、未亡人になった。だから、伯母は私にとって戸籍上は祖母なのだ。父とは親子ほども年が離れているので、祖母だと幼い頃は信じていた。
祖母はとても色白で、鼻筋の通った細面の顔をしていた。顔うつりが良く、上品に見える紫色の着物を好み、曾祖母に似て美人の評判も高かった。
「お祖母ちゃんは、子どもの頃に竹の子生活をしていたんや」
蔵にある品物を竹の子の皮を剥ぐように、一つずつ売っては、年寄りと孫はどうにか暮らしていたそうだ。そのせいか、祖母は節約家というかケチだった。世間体を繕うのが上手く、紫夫人などと優雅な名前で呼ばれていたが、始末するのが趣味というか生き甲斐にしていた。
「お葬式で貰ってくる御茶は美味しゅうないなぁ」と愚痴るが、それを捨てるなんて気は更々ない。黒い焙烙を出してきて、コンロでお茶を焙じるのだ。年期の入った黒い焙烙は、端のほうにはヒビが入っていたが、使える物をほかす祖母ではない。レンジの火を小さくして、焙烙をゆっくりと揺らす。台所には、お茶を焙じるいい香りが立ち込めた。
この程度の節約なら問題は無いのだが、私には祖母のケチさで許せないことがあった。
仏壇にご飯をお供えするのは、祖母の日課だった。御先祖様の供養か、信仰心からか、絶対に欠かさなかった。それは、立派なのかもしれないが、このお供えしたご飯を捨てたりはしない。
なら、直ぐにひいてきて食べると良いのに、祖母は誰かがお参りに来た時にご飯がお供えしていなかったらと、変な世間体を気にした。朝にお供えしたご飯を、もう訪問客が来ない夕方まで放置する。もちろん、ご飯はカチカチだ。私達に食べろと強制しなかったが、祖母はそれを焙じ茶につけて、ふやかして食べていた。
「気持ち悪い!」小さな仏様にお供えしたご飯の半円形の塊が、茶色い焙じ茶にぷかぷか浮いているのを、見るのも嫌いだった。それに、衛生的にも思えない。半日以上、仏壇に供えられていたのだ。ハエなどもたかっていたかもしれない。しかし、祖母は「お米を作るにはお百姓さんが75回も手をかけているんや。一粒たりとも捨てたらバチがあたるで」と一歩も引かなかった。
店先のお茶を焙じる香りで、祖母にぶつけたキツい言葉を何個も思い出した。共働きの両親に代わり育ててくれた祖母だったが、明治産まれの家長制度意識が抜けていなかった。跡取りである兄を溺愛し、いずれ外に嫁ぐ立場の姉と私には我慢を強いた。
小学校で分数を習った時を思い出す。
「りんごが一つあります。お兄さんとお姉さんと自分で分けるには、どうすれば良いでしょう?」
私は、はい! と自信を持って手をあげた。指名され、黒板に書いてあるりんごの半分に線を引き、後の半分を4分の1にした。
「半分がお兄さんの。後のがお姉さんと私のです」先生は、少し困った顔をして、同じ大きさに分けるのよと分数の説明を始めた。
一事が万事、こんな具合だった。お年玉は兄は年上だからと、いつも倍額を貰っていた。幼い頃は、自分の家庭しか知らないので不満を持たなかったが、反抗期になると、勿論口答えをした。
「くそババア!」と言った時の祖母の顔は、忘れられない。ショックを受けたのを気丈に誤魔化して、強気で言い返してきた。
「そんな汚い言葉を何処で覚えて来たんやろなぁ。ええしの子は、そんな言葉は使いません」良い家の子として育てたのにと、祖母は悲しんだ。「ええしの子じゃないもん!」と、反抗期の私は追い討ちをかけた。明治の最後の年に産まれた祖母は、貧しい生活の中で育ったが、何百年も続く家系に誇りを持っていた。
黙って自分の部屋に帰ったが、夕食時には普通の顔をして菜っ葉さんを炊いていた。今では菜っ葉さんの炊いたのは大好物だが、その時は余所のお母さんの料理が羨ましかった。
「オムライスが食べたい!」と困らせた。明日作ってあげると宥める祖母に、今日食べたいとくずった事を思い出す。
自分の子どもを産むことが無かった祖母は、父と兄を溺愛して、嫁いできた母と、いずれは外に出ていく姉と私には厳しかった。それでも、毎日、ご飯を作り、節約心からか手作りの服を着せてくれた。特に、外には見栄を張る祖母の遠足のお弁当は気合いが入っていた。キャラ弁などの言葉も無かった時代、先生が見に来るのが恥ずかしい程の手の込んだお弁当だった。食紅でピンクに染めたカリフラワーや、うずら卵のウサギ、お人形さんのようなお結び。
大人になった私には、祖母が姉や私にも愛情を注いでくれたのが理解できる。ただ、父や兄とは表し方が違ったのだ。お茶を焙じる香りで、亡くなった祖母の薄幸な人生を考えた。
「久しぶりに、仏様でも拝みに行こうかな……」
物持ちの良い実家にはまだ端がひび割れた黒い炮烙がレンジ台の下にひっそりと置かれている。亡くなった祖母の真似をしながら、お茶をゆっくりと焙じてお供えしようと、実家に足を向けた。