第2話 いずれ英雄となる少年冒険者(前編)
召喚女王の朝は早い。
いつ訪れるかも分からない召喚に応えるため、常に己を磨き続けなければならないのだ。もはやそれは責務であり、宿命とも言える。
陽が昇るとほどなくして、わたしは目を覚ます。
もちろん自分からベッドを出る。簡単に身支度を整えると、城の周りを軽く走って身体をほぐす。
そうして次は庭に作った訓練場へ向かう。
サリナとの手合わせだ。素手での遊びみたいな戦闘訓練だけど気は抜けない。
普段はメイドの真似事をしているサリナだけど、本気を出せば神だって泣かせられる。得意技は目潰しと関節蹴りだ。油断すると、即座に痛恨の一撃をかましてくる。
ちっこくて手足の短いわたしでは不利だ。
なので、遠い間合いから衝撃波を出して牽制。一気に飛び込んで足関節を極めるか、ボディへの打撃を叩き込むのが必勝パターンになる。
手合わせが終わると、いつも訓練場がボロボロになっている。
仕事を与えられたブラウニーとメイド部隊は大喜びだ。「うげっ」とか「ちっ」とか「また壊してくれやがりましたか」とかいった声を物陰から聞きながら、わたしは忍び足の訓練をしつつ食堂へ向かう。
最近のお気に入り朝食メニューは、焼き立てのパンと、バルティニア帝国特産のベリージャムだ。この召喚界には契約で手に入れた物しか持ち込めないけれど、育てて増やすことはできるので、惜しみなく味わえる。
そうして朝食を済ませた後は、玉座の間へと移る。
いつ召喚が行われてもいいように待機するのだ。
召喚女王との謁見を望む者は多い。
多くなる。そのはずだ。
もちろん、待っている時間も無駄にはしない。玉座に静かに座りながら、帝国で手に入れた書物に目を通していく。女王として最新の国際情勢も知っておかなければいけない。
庶民向けの娯楽本の中にも、様々な情報が隠れている。
三千ページに渡る英雄物語も、けっして楽しんで読んでいるだけではないのだ。
陽が暮れると、お風呂で汗を流して、マッサージもしてもらって疲れを残さないようにする。夕食を取り、歯を磨いて就寝だ。
早寝早起きは大切だろう。
サリナに作ってもらったクマのぬいぐるみを抱き枕にして眠る。
そうしてまた朝を迎えて、召喚を待って、待って、待ち続けて―――、
「……いくらなんでもおかしい」
さすがに、わたしだって気づく。
帝国で召喚されてから、もう百日近くは過ぎた。時間がなくて直接には見届けられなかったけれど、召喚本が完成した間違いない。契約印を持ったアルディーラの目を介して確認していた。
確実に出版されたはずだ。
わたしが原稿を書いた、『スライムにも分かる召喚術』は。
「あれを読めば、誰だって召喚術が使えるはずなのに」
識字率が低いのは分かっている。だから図解も多めに加えておいた。召喚陣だって丁寧に書いたし、魔力だって魔石で補えると聞いている。
少なくとも一万冊は刷られて、あちこちに出回っているはずなのだ。
なのに、どうして召喚されないのだろう?
「……もしかして、召喚陣を書き間違えた?」
「ルヴィッサ様ならば有り得ますね。ただでさえ複雑な術式ですから」
のぉう! 折角のチャンスが!
肝心なところで失敗するなんて、わたしってば本当にバカなんだから!
「状況からして他の可能性も……いえ、推測の域を出ませんね」
横に控えているサリナは静かに首を振る。
冷ややかな表情は変わらないけど、そっと息を落としたのをわたしは見逃さなかった。
長い付き合いだからね。分かるよ。
サリナも期待してくれてたんだ。
なのに、わたしはチャンスを潰しちゃって……。
「はぁ……ごめんね、次はちゃんと確かめるよ」
「謝罪などおやめください。ルヴィッサ様は、我らの主君なのですから」
淡々と述べるサリナは、一瞬だけ微笑んでくれた。
うぅ。優しさが心に染みるよ。
次に呼び出されたら、サリナへのお土産も貰って帰ろう。黒髪に似合う髪飾りなんていいかもね。
「そもそもルヴィッサ様は召喚されることが少なかったのです。それに、今回のことも完全に無駄であったとは言えません」
「? どういうこと?」
「以前に比べて、他の者が召喚される回数は増えております」
なにそれ? わたし、聞いてないんだけど?
もっと早くに教えてくれれば、少しは安心できたのに。
「申し訳ございません。ですが、嫉妬に駆られて女王パンチを繰り出されても困りますので」
そっぽを向きながら、サリナはわざとらしくお腹を擦る。
どうやら訓練で思いきり殴ったのを根に持っていたらしい。他のことならともかく、戦いが関わると大人げがなくなる。
「そっちだって本気で殴ってきたでしょ。サリナは目が怖いんだもん」
「戦いで手抜きなど許されません」
「訓練だよ! 本気の戦いとの区別くらい付けようよ!」
言っても無駄なのは分かってるけどね。
いまだって右から左へ聞き流されてるし。
はぁ。どうしてこんなに捻くれちゃったかな。人間だった頃はもっと……あんまり変わらなかった気もするね。
「とにかく、わたしはまた退屈女王に戻っちゃった訳だね」
「結論を出されるのは、まだ性急かとも思われますが」
「どっちにしても暇だよ。せめて人界を覗くくらい出来ればいいのに。長期の契約でも結べればなあ」
「冴えない商人のようなことを仰らないでください」
サリナの言葉を聞き流しつつ、わたしは玉座の背もたれに体重を預けた。
足をぶらぶらさせてみる。
暇だ。やっぱり暇だ。やることがない。
新しい本もあらかた読み終わっているし、召喚された時のための名乗り練習も飽きるくらい繰り返した。
魔王風でも悪魔風でも死神風でも聖女風でも、どんなパターンにも対応できる。
「ん~、もうちょっとパターンを増やしてみようか? 慈愛の女神風とか、光の神風とか」
「おやめください。余計な敵を増やします」
「面白いと思うんだけどなあ」
なんとなしに玉座から立ち上がる。
適当に城の中をぶらつこうかな、と思った時だ。
青白い光が、広々とした玉座の間全体を照らした。
広間の中央に、両開きの大きな扉が浮かんでいる。ついさっきまで存在しなかった扉は、複雑な魔法陣で囲まれ、星を散りばめたみたいにきらきらと輝いていた。
その輝きも、複雑な魔法陣も、わたしが見間違うはずがない。
召喚陣だ。再び、わたしが呼び出される時がやってきたのだ。
「やったぁ! なぁんだ、あの本も失敗作じゃなかったんじゃない」
「まだそうとは限りません。ご主人様、落ち着いてください」
「そうだね。あ、格好は大丈夫かな? 髪とか乱れてない?」
くるりと回って、サリナに確認してもらう。
うん。ステップのキレもいい感じだ。
この調子なら、今回も楽しい時間が期待できる。
「前回はちょっと怖がられてるみたいだったから……よし、今回はまず相手に感謝するパターンでいってみようか。その方が親しまれ易いよね」
にんまりと口元を吊り上げて、わたしは扉の前に立つ。
背後でサリナが溜め息を落としたみたいだけど、きっと気の所為だ。
手を伸ばして、ゆっくりと扉を押し開いた。
◇ ◇ ◇
ロウニール王国南部にある、都市ザンツァーガ。
首都ほどは栄えていないが、さらに南方にある港町との街道も整備されていて、大勢の旅人や商人が訪れる。珍しい出物の数なら大陸随一と言われている街だ。
特産品は『冒険者』。
地下数百層とも噂される、ダンジョンの上に作られた街なのだ。
むしろ賑わいだけなら、現状の首都よりも増しているかも知れない。
数ヶ月前の帝国との戦争で、ロウニール王国軍は手痛い敗北を喫した。四カ国の連合で攻め入り、手柄を奪われないために各国が惜しみなく戦力を投入したのに、帝国一国に散々に蹴散らされたのだ。
ロウニール王国からも、高ランクの『使徒』が幾名も参戦した。
しかし尽くが討ち取られている。いま吟遊詩人が唄うのは、帝国の『双剣皇女』を誉め讃える歌ばかりだ。
そんな具合で、首都は未だに敗戦の衝撃から抜け出せていない。
だが、迷宮都市ザンツァーガは別だ。
正確には、そこで暮らす大勢の冒険者にとっては、国の事情など知ったことではなかった。
「ああん? テメエ、俺達のことナメてやがんのかぁ!?」
冒険者ギルドも、いつものように賑わっている。
喧嘩騒ぎは日常茶飯事。とりわけマナーを心得ない冒険者の中には、カウンターの受付嬢に絡む者もいた。
「そ、そういう問題ではなくて……こちらの依頼は銅ランク以上でないと……」
「目的地は三十階層じゃねえか。俺達が行けねえとでも思ってんだろ?」
「で、ですから、そうではなくて……離してくださぃぃ!」
冒険者の太い腕に襟首を掴まれて、受付嬢が悲鳴を上げる。兎人種の特徴である白く長い耳も助けを求めるみたいにぷるぷると震えていた。
しかしこれはギルドの人選と、受付嬢本人も悪い。
冒険者があれこれと文句を付けてくるのは、もはや常識と言ってもいいのだ。
故に、暴力に物を言わせるような相手にも対応できる能力が、受付嬢には求められる。残念ながら、相手を和ませる可愛らしさだけでは対応できない場合もあった。
しかしここは大陸でも最も多くの冒険者が集まるギルドだ。
無論、一流の受付嬢も揃っている。
新人の様子に「二〇点」と呟いて、眼鏡を掛けたベテラン受付嬢が奥から歩み出ようとしていた。
けれどちょうど同時に、一人の若い冒険者が声を投げた。
「まあまあ、バウンズもそう怒らなくてもいいじゃないか」
「レイジさん……しかし、こいつが……」
「いいから放してあげなって。話は、俺がするから」
レイジは穏やかな表情を取り繕って仲裁する。
バウンズ他二名とパーティを組んで二ヶ月ほど、こういった揉め事にも慣れていた。血の気の多い仲間に辟易させられる時もあるが、迷宮探索やクエストではそこそこに役立つ。リーダーである自分の言葉には素直に従ってくれる。
もしも本格的な荒事になっても、自分の腕前ならば力尽くで解決できる。
そんな自信を、鈴木玲人は黒色の瞳に滲ませていた。
「大丈夫かい? ごめんね、バウンズはすぐ手が出るんだ。でも悪い奴じゃないんだよ」
爽やかな笑顔を浮かべたレイジは、涙目になっている受付嬢の頭に手を乗せた。ついでに、白くてふわふわの耳を優しく撫でる。
「ひゃぁっ!?」
「あはは、ごめんごめん。つい可愛くって」
口では謝っているものの、まったく悪びれた様子はなかった。
受付嬢が落ち着くのを待って、レイジは話を切り替える。
「それで、この依頼のことなんだけど……」
カウンターには、一枚の依頼書が置かれたままになっていた。掲示板からバウンズが持ってきて、揉め事の原因となった依頼書だ。
内容は、都市にあるダンジョン内での調査を行うというもの。
最近になって怪しい集団が目撃されているのだ。ダンジョンの一画を占拠して、近づいた冒険者が殺されるという被害も出ている。不確かだが、邪神を復活させるための儀式を行っているとの情報もあった。
もしも本当に危険な集団ならば、捕らえるか、あるいは討伐するのが依頼の目的となる。最低でも確実に情報を持ち帰れるだけの実力が必要だ。
そのために、上から五番目であるギルドランク『銅』を最低条件としていた。
ギルドランクによる制限がある依頼は、なにも珍しい物じゃない。むしろ、ほとんどの依頼は難易度によって区分けされている。
まだ若く、冒険者としては経験の浅いレイジも、それくらいは承知していた。
だけど今回は、彼なりに依頼を受けたい理由があった。
「確かに俺達はまだ『熊』ランクで、条件には二つも足りてない。だけどもうダンジョンの二十八階層まで進んでるんだ」
「え……『熊』で二十八ですか? もしかして、チーム『レイジーズ』の……?」
「うん、そうなんだ。あ、でも名が知れるのは苦手だから騒がないでね」
もはや充分に騒ぎになっているのだが、レイジはその矛盾に気づいていない。
カウンターに身を乗り出すと、首に巻いていたスカーフを僅かにずらした。
そこには仄かに輝く紋様が刻まれていた。神から加護を授かった『使徒』であることを示す刻印だ。
「ギルドランクはともかく、剣の神の『使徒』としては”ランク3”だ。ちなみに二つ名は『光剣』。これでも実力の保証にはならないかな?」
「え、えっと、それはその……」
「なにより、この集団のせいで犠牲者も出てるんだろ? こんな連中を、俺は絶対に見過ごせない。一刻も早く解決して、みんなに安心してもらいたいんだ」
早口に語って、レイジは黒い瞳に熱意を溢れさせる。
しかし受付嬢の安心は、いま正に脅かされ続けていた。
「ちょうど明日から三十階層へ向かうんだよ。そのついでもあって―――」
「少々宜しいですか?」
涼やかな声を挟んだのは、眼鏡を掛けたベテラン受付嬢だ。柔らかな笑みとともにレイジへ挨拶をしてから、後輩へ目配せして奥へ下がらせる。
「そちらの事情は理解致しました。ギルドとしましても、この案件は早急に解決したいと考えております」
「だったら、この依頼は俺達が受けるべきだよな」
ベテラン受付嬢は愛想良く微笑む。
内心では、あらん限りの罵倒を吐き出しているのだが、もちろんレイジには欠片も悟らせない。
「なにぶん規則がありますので、正式な受注というのは御容赦ください。ですが、事件の情報や、解決したという証拠を持ち帰っていただけたら、相応の報酬はお支払いします。『レイジーズ』の活躍も、当方で”記憶”させていただきますわ」
熟練の冒険者ならば、言葉の裏に隠された棘にも気づいただろう。
冒険者が忠告を聞かず、勝手に危険を冒してもギルドは関知しない。正式な依頼ではないのだから、たとえ”感謝”だけでも相応の報酬になる。
そして、ギルドで悶着を起こしたという活躍も”記憶”される。
よくあることなので、明日には忘れられているだろうが。
「これで納得していただければ、お互いに利益になると思われます」
「うん……そうだね、悪くない。だけどこの依頼が残ってると、他のパーティが受けちゃうかも知れないだろ。下手な連中でも危険に晒したくないし、俺達の邪魔もして欲しくないんだ」
「……でしたら、注意喚起をしておきます。三十階層にはあまり近寄らないようにと。今回の事情も含めて、受注したがるパーティにはお伝えしましょう」
この都市が抱えるダンジョンには、冒険者ならば誰でも入れる。
邪魔して欲しくない、なんて個人の判断で妨げられはしない。妨げられるとしたら、ダンジョンから絶え間無く生み出される魔物たちだけだろう。
そんな当り前の常識を教えてやる義理もなく、ベテラン受付嬢は完璧な愛想笑いを作っていた。
「―――では、ご健闘をお祈りしています」
幾重もの無茶な要求を尽く受け流して、静かに頭を下げる。
結果として、レイジはただ受付嬢と”話をしただけ”となったが、満足した顔で去っていった。他のパーティメンバーと、荷物持ちとして雇われたばかりの冒険者も後に続いてギルドを出て行く。
彼らの姿が完全に見えなくなってから、ベテラン受付嬢はそっと息を落とした。
「あ、あの、先輩、ありがとうございます」
「構わないわ。でも、よく覚えておかないと駄目よ」
柔らかな笑みとともに答える。
そうして可愛い後輩へ手を伸ばして―――抱きしめて、頬擦りもして、思うまま存分に肌触りの良い毛並みを堪能する。
「この街は、弱肉強食なんだから」
抵抗もできない後輩の耳元で、そっと囁く。
眼鏡の奥にある瞳は、野生の獣みたいに輝いていた。
◇ ◇ ◇
彼らは、自分達を『常闇への導き』と呼んでいた。
冒険者が名乗るパーティ名みたいなものだ。何にせよ名前はあった方が都合が良い。しかしパーティ名と違って、その名が大っぴらに語られることはなかった。
なにせ、目的が目的だ。
『常闇への導き』は、邪神の復活を目論んでいた。
構成員は十数名程度でしかないが、全員が戦う術を心得ている。とりわけ魔術への造詣は深く、世間では忌まれ、禁じられている術式を扱える者もいる。
なによりも、其々が並々ならぬ憎悪を世界に対して抱いていた。
そのために人殺しへの躊躇も無い。
むしろ嬉々として殺しを行える精神性は、彼らの戦闘能力を一段増していた。
だから冒険者として活動するのも難しくはなかった。ダンジョン内に仮の拠点を築いて身を潜めるのも、苦労はあったが、その後の栄光を思えば胸が躍った。
切っ掛けは、彼らの同志が一冊の書物を手に入れたことだ。
帝国の皇女と宮廷魔術師が記したはよいものの、その本自体が呪いを振り撒き、忠誠心に溢れた公爵の心まで壊して謀叛へ導いたという。この本の封印を行うために、騎士団は帝城の修繕すら後回しにしたとの噂も流れていた。
封印を逃れ、闇から闇へと流れてきた本が、偶然にも彼らの手に渡ったという。
眉唾ものの話だ。
邪神復活への手掛かりすら掴めずにいた『常闇への導き』だが、そんな与太話を真に受けるほど錯乱してはいなかった。
けれど実際に試してみると、そこに記された術式の力に驚愕させられた。
物質どころか魔術すら呑み込む粘体生物―――、
全身に炎を纏い、山すら崩せそうな巨人―――、
伝説上の存在とされていた黒き悪夢―――、
城壁すら一撃で崩せそうな、巨大な鉄球を撃ち出す兵器―――。
どれも必要とされる”対価”が足りず、その力の一端しか窺えなかった。それでも小さな森を焼き尽くして、ゴブリンやオークの群れをあっさり滅ぼしてみせた。
おかげで騒動になり、隠れ家をひとつ失ったが惜しくはなかった。
『常闇への導き』である彼らは確信した。
この呪われた本に記された術式こそ邪神を復活させる手段なのだ、と。
そして、『召喚女王』とは即ち、彼らが信奉する邪神に違いない、と。
彼らは儀式を執り行うべく、すぐさま準備へと取り掛かった。膨大な魔力を要求される術式であるため、まずは大量の魔石を揃えなければならない。すべてを買うとなると、庶民であれば一生を遊んで暮らせるほどの金額になる。
しかし『常闇への導き』には、元は貴族であった者もいた。その者が隠していた貯えを放出したことで、どうにか魔石を揃える目途はついた。
あとは、複雑な魔法陣を整える場が必要だった。
儀式の場にダンジョンを選んだのは、まず人目を避けるためだ。冒険者が出入りするとはいっても、ある程度の階層まで進めば、その人数は極端に減っていく。ましてや広いダンジョン内では出くわす機会も少ない。
なにより彼らを動かしたのは、ダンジョンの最深部には邪神が封印されているという噂だ。以前から流れていたもので根拠も無い。しかし禁断の書物を手に入れた高揚感もあって、彼らにはまるで福音のように聞こえたのだ。
少しでも邪神に近い場所の方が儀式の成功率も上がるのでは?
これぞ偉大なる邪神の導きではないか?
魔物どもから魔石を得られるのも好都合―――。
やや勢い任せではあったが、ともあれ、彼らの計画は順調に進んでいった。
魔法陣を設置する作業には何日も必要だった。その間、魔物に襲われて命を落とした同志もいた。儀式の準備を冒険者に目撃されて、口封じのために始末したこともあった。
そして、いよいよ儀式に取り掛かった。
復活した邪神が世界を壊し、創り変えてくれる光景を夢想して、彼らは興奮に包まれていた。
儀式の場に冒険者が踏み込んでくる、その瞬間までは。
「がっ……は、っ……」
闇色のローブを血に濡らして、ふらふらと後ずさりする。
『常闇への導き』最後の生き残りである魔術師は、瞳から憎悪を溢れさせながらレイジを睨んだ。
「おのれぃ……最後まで、我らを虐げるか……」
「恨んでくれていいさ。でも、人を殺すような奴を放ってはおけないんだ」
「そうよ! さすがレイジ、いいこと言うわ!」
魔術師を斬ったばかりの剣を一振りして、レイジは血を払う。
そんなレイジの活躍に目を輝かせているのは、治療術師であるフランシャだ。
息を乱して、大きな胸を揺らしている。しかし頬が紅く染まっているのは、戦闘直後だからという理由ばかりではなさそうだった。
黄色い声援を送る彼女に続いて、大きな斧を構えたバウンズと、物陰から弓での援護射撃をしていたビジィも勇ましく声を上げた。
「まったくだ。レイジさんが悪人を見逃すはずがないぜ!」
「俺達に見つかったのが不運だったな!」
一方的な勝利宣言をされながら、闇魔術師は石畳に膝をついた。
彼の同志たちは、すでに全員が討ち取られている。実力的に勝ち目は無い。偶然に期待できるようならば、邪神を信奉するほど堕ちてはいない。
だが、まだ諦めてはいなかった。
闇魔術師は後ずさりしながら、すでに起動している魔法陣へと近づいていた。
「私は……一人では死なん!」
傍らに転がっていた魔石を掴む。
自身に残されたすべての魔力とともに、一気に魔法陣へと注ぎ込んだ。
青白い光が溢れ、ダンジョンの薄暗い空間を照らし出す。
「なっ……なんだ、その魔法陣は!?」
「くははははっ! 偉大なる邪神を復活させる魔法陣だ! 貴様らは生贄になるがいい!」
一際強い光とともに、空中にも魔法陣が描かれる。
魔術に疎いレイジにも、何か大変なことが起こると察せられた。
仲間たちも狼狽する中で、レイジは強く剣を握り、前へと踏み出す。
「やらせるかよ……喰らえ! レイジングスラぁッシュ!」
「ぐあああああああっ――――――!」
剣の神から授かった加護を用いた渾身の一撃だ。
白い光を纏った剣は、闇魔術師の体を肩から真っ二つに切り裂いた。さらには、その死体を衝撃波で吹き飛ばし、床の魔法陣も大きく削り取る。
「はぁ、はぁ……」
「さ、さすがレイジ! やったわ!」
「ああ。邪神なんて、そう簡単に復活するもんか」
「俺達の勝利だな」
レイジーズの面々は、口々に喜びの声を上げる。
息を乱していたレイジも顔を上げて、柔らかく微笑んだ。駆け寄ってきたフランシャと声を掛け合い、抱きしめて、互いの無事を感じ合う。
まるで魔王を倒したような騒ぎっぷりだった、が、
「あ、あの……皆さん、ちょっといいですか……?」
広間の端から気弱げな声を投げたのは、一人の少年冒険者だ。大きな背負い袋を揺らしながら、恐る恐るといった様子で歩み出てくる。
まだランク『猫』の駆け出し冒険者だが、荷物持ちとして雇われていた。
「どうした、リッカくん? 怖かったのかい?」
「そんなに震えちゃって。大丈夫、もう終わったわよ」
「そうだな。いい経験になったんじゃねえか?」
「俺達に追いつくのは、まだまだ先だがな!」
陽気な笑い声が響き渡る。
リッカも愛想笑いを浮かべそうになったが、首を振ると、真剣な顔になって正面を指差した。
「あれが……魔法陣が、まだ動いてるみたいです」
「え……?」
きょとんとして、一拍の間を置いてから、全員がゆっくりと振り返る。
地面に設置された魔法陣は破壊されていた。しかし、空中に浮かんだ魔法陣は、さらに力強く輝きを増している。
「ま、まさか―――!」
レイジが呟いた途端、一際強い光が広間を満たした。
全員が目を瞑ってしまう。しかしそれでも、其々が武器を握り、緊張感を纏い直して身構えた。
やがて光が消える。
一時前とは裏腹に、ダンジョンの暗闇が辺りを包み込んだ。
レイジたちも照明用の魔術は使っていたが、数歩先までしか窺えない。
そんな闇の中から、低く声が響いてきた。
「くくっ、くくく……」
声音それ自体は高く、まるで子供が遊んでいるようにも聞こえる。
だがここはダンジョンの内部なのだ。けっして子供がいるような場所ではない。しかも辺りには暗闇と、血の匂いが漂っている。
周囲の壁にも声は反響して、まるで大勢が笑っているようだった。
得体の知れないおぞましさが空間に満ちていく。
その場の全員が、背筋に怖気を覚えた。
「悠久の時より、よくぞ我を呼び覚ました。誉めて遣わそう。さあ―――」
「うわあああああぁぁぁぁぁぁぁ―――!!」
暗闇から小さな影が歩み出ようとした瞬間、レイジが地面を蹴った。
叫び声とともに剣を振り上げ、振り下ろす。
剣が白い光を発する。神の加護を乗せた一撃だ。
たとえ邪神でさえ両断するほどの気迫を込めて、小さな影に斬撃を見舞った。
キィン、と。
小気味良い音を立てて、剣が折れた。
僅かに風を切る音を流してから、剣先は空中を舞い、地面に突き刺さる。
再び、静寂が訪れる。
レイジも、彼の仲間も、目の前で起こった出来事が信じられなかった。
まだ位階は低いとはいえ、レイジは剣の神より加護を受けているのだ。その剣でこれまで強力な魔物を何体も屠ってきた。絶対の自信を持った一撃だった。
なのに、目の前の相手には傷一つ付けられず、逆に剣を折られてしまった。
しかも相手は一歩も動いていない。
レイジの攻撃など気にも留めていないように言う。
「ふむ。無礼は見逃してやろう。我にとっては、そよ風が吹いたようなものであるからな」
「あ、あぁぁ……」
意味を為さない呟きを漏らして、レイジは全身を震えさせる。
そよ風のようなもの―――、
その言葉に、ぼきり、と心が折れる音が重なった。
「ぃ、ひ、ひぃぃぃぃぃぃぃいぃぃい―――!」
身を翻し、逃げ出す。一目散に。
愕然として事態を見守っていた仲間たちも、我に返って後を追った。
「わ、ぁ……っ!?」
暗闇の奥へ、無様な悲鳴と足音が遠ざかっていく。
ただ一人、荷物持ちとして雇われていたリッカだけが残された。
呆然と立ち尽くしていたところを、レイジに掴み飛ばされたのだ。ほとんど身代わりにされる形で放り出されて、背負っていた大きな荷物も床に転がった。
我に返ったリッカは、すぐに立ち上がろうとする。
けれどその視界に小さな足を捉えて硬直してしまった。
「ふむ……状況がよく分からぬが、どうせ小物であろう。放っておいてもよいか」
それよりも、と小さな影は呟く。
顔を上げたリッカと目が合った。
「女の子……?」
「うむ。我はルヴィッサ。そして、すべての召喚獣を統べる女王、シュティラウドクライン三世である」
「え? シュティ……女王、さま?」
リッカは目をぱちくりさせる。中性的で幼い顔立ちもあって、まるで初めて大きな動物を見た子供みたいだった。
ルヴィッサは小さく笑みを零してから、あらためて周囲を窺う。
「どうやら、我を呼び出した者はすでに命を散らしてしまったようであるな」
「あ、それは、その……」
自分が置かれた状況を思い出して、リッカは顔色を蒼ざめさせる。
目の前の幼女の可憐さに、危機感を失いかけていた。けれど相手は恐るべき邪神かも知れないのだ。その召喚者を倒すことに、リッカも直接ではないとはいえ協力していた。
もしも咎められ、怒りを買ったら命はない。
『使徒』ですら逃げ出すしかなかったのに、『猫』ランクの駆け出し冒険者であるリッカが対抗できるはずもなかった。
それでも―――リッカは諦めるまいと、腰に下げていた短剣に手を伸ばす。
「少々残念ではあるな。しかし運が良い。我も、其方も」
いきなり指差されて、リッカは動きを止めた。
剣を握ろうとしていた手も開いたまま静止する。
相手の様子を窺う意図もあったが、それ以上に、次に投げられた言葉に興味を引かれた。
「其方、我と契約せぬか? どのような願いであろうと叶えてやろう」
こうして少年は新たな一歩を踏み出す。
ずっと胸に抱いていた、強い願いを叶えるために。