もしも彼があの子なら
扉が開く音がして、誰かが入ってくる気配がした。消毒液のような匂いが充満した、保健室独特の空気を肺一杯に吸い込む。
愛ちゃんが来てくれたのかな。あぁでも顔見せたくないな…。もう誰にも会いたくない。
叩かれた左頬は熱を帯びて腫れてしまった。痛みで物を食べることはおろか、笑うのも辛い。何より、初めて他者に顔を叩かれたという事実が、人としてのプライドをズタズタにしているという自覚があった。
寝たふりをしよう。
患部を冷やすための氷を頬に当てながら、すみは寝転がったベッドの布団を頭からすっぽり被った。
だが、
「向田さん?」
驚いて身じろぎしてしまった。どうしてここに…。
「み、皆部くん?」
「うん。ケガ大丈夫?」
「大丈夫!でも何しに来たの?もしかして皆部くんもケガしたの?」
「いや。向田さんの様子見に来ただけだよ。」
今布団をかぶっていて良かったと心底思った。こんな状況で彼の目を見て話ができる自信がない。
「そんな、わざわざいいのに…。」
もしやあの話の流れで坂本楓に私がぶたれたことを気にしているのだろうか。彼が責任を感じる必要など微塵もないのに。そう思うのだが、そのことをなんと聞けば良いのかわからず言葉に詰まってしまった。
「ごめんね。俺のせいだよね。」
「…え?なんで!違うよ!」
布団を被ったまま、ガバリと起き上がる。
「私がぶたれたのはもともと坂本と私の折り合いが悪かったのが暴発しただけで、皆部くん関係ないから!責任とか感じないでください!」
頭は隠れているのに腕だけニョキッと出して、どこにいるかも分からない相手に向かって違う違うとジェスチャーする。その様子は尋にはとても滑稽に映っていたが、当のすみは誤解を解こうと躍起になって全く気付かなかった。
「別に責任を感じてるわけじゃないよ。だけどひとつ言っておきたくて。俺は坂本さんのこと好きでも嫌いでもないから擁護するつもりじゃないんだけど、でも俺が直接危害を加えられたりとかそういうのはないから。だからもし向田さんが坂本さんのことよく思ってなくても、坂本さんに絡まれてる俺を助けてあげようとか思うのはやめて欲しいんだ。」
「えっと…はい?」
「坂本さんと向田さんの仲が良いとか悪いとか、俺の知るところじゃないけど。なんて言ったらいいのかな。」
「ちょっと待ってよくわからない。」
すみは尋の言わんとすることが理解できず、無意識に布団から顔を出して彼の表情を見つめていた。
しかし喜怒哀楽のうちのひとつさえも宿していない彼の表情からは何も読み取ることができなかった。
―――もし向田さんが坂本さんのことよく思ってなくても、坂本さんに絡まれてる俺を助けてあげようとか思うのはやめて欲しいんだ
その言葉には、手を出されるのが迷惑だ、とも取れるような含蓄があった。
「皆部くんはつまり…坂本に何かされたわけじゃないから放っておいて欲しかったって言いたいの?」
「まぁ、そうだね。それにもし何かされても多分ひとりで対処できる。だから向田さんが叩かれるような真似は本来起こらないはずだったんだ。」
なにそれ、なにそれ、なにそれ
「それって皆部くんは、自分が原因で坂本が私のことぶったと思ってるってことだよね?だから最初俺のせいだよねって言った。でも次は別に責任を感じてるわけじゃないって…意味わかんないよ!」
「ごめん…怒らせるつもりじゃなかった。ただ、俺に関することで向田さんが被害受けたりしたら嫌だと思って。」
「なんかそれナルシスト発言。」
「…。」
「もういいよ、もういい。やめようこの話。私がぶたれたのは私と坂本の問題。別に皆部くんは関係ない。これからも、皆部くんと私は無関係。これでいいでしょ?」
いささか極端な結論だったが、口にし始めてしまってからは止められなかった。
「なんでそんなに淡白でいられるの?いつもいつも、自分と私たちは仲良くはなれないって思ってるみたいに一線を引いて接してる。クラスメートに話しかけられても楽しそうに話してるとこなんて見たことない。ちゃんと友達作ろうとしてる?別にひとりでも問題ないって顔して、どっか遠くを見てる。私たちなんていてもいなくても変わらない、みたいな、そんな目をしてるんだよ。」
こんなことが言いたいんじゃなかった。すみは頭の片隅で思った。だけどこの1週間にわたり彼を見てきて感じていた疑問や不満が、より辛辣さを増して自分の口から出て行くのを止められない。せっかくクラスメートになったのに、私たちは彼を受け入れようとしているのに、彼は私たちに歩み寄ろうとしない。
悲しかった。皆部尋が背負い込んだ寂寥感が、感染したかのように、ただ、ただ悲しい。
「皆部くんは私たちのこと嫌いなの?」
「嫌いじゃないよ。」
「じゃあ馬鹿にしてるの?田舎者だって。だから仲良くできないって。」
「そんなこと思ってない。」
「ならどうしていつも独りなの?どうして独りでいようとしてるの?」
「…それは…ごめん、傷つけることを言うかもしれないけど。」
「いいよ、言って。」
彼はひとつ呼吸をした。
「興味がないんだ。」
「……興味が、ない?」
「正直、全部に興味がない。クラスメートにも、先生にも、行事や部活にも。この町の人にも、町自体にも。何もかも全部。どうでもいいって思ってしまう。」
そう語る彼の横顔は17歳とは思えないほど大人びていた。同じ保健室にいるはずなのに、彼の体だけどこか別の場所に存在するようだった。
「そんなの…っ」
「いいよ、慰めとかそういうの期待してない。どうせすぐ皆も俺のこと忘れていく。」
「そんな悲しいこと言わないでよ。」
「だってすぐにいなくなるだろうし。」
「は?」
「どうせすぐに俺はここからいなくなる。別の場所に移る。そしてしばらくしてまた別の場所に移る。俺はどこにも留まらない。誰の記憶にも残らない。」
「なにそれ…」
彼は作ったようにニッと笑った。
「だから放っておいて欲しいわけ。思い出を作ろうとか親友を作ろうとか、俺にとってそれは無駄な努力なんだ。出来れば息を潜めて生きていたい。わかってもらえたかな。」
未だかつてこれほどまでに胸が痛んだことはなかった。呼吸することさえ苦しい。目の前の一人の人間が、ひどく遠く感じられて切なかった。明白に示された拒否が痛々しい。彼は本気で自分が忘れ去られる存在なのだと信じているのだろうか?自ら人と関わることを拒み、人と笑いあうことを避け、独りでいようとしてきたのか?
すみの全身を、悲しいという感情が支配してゆく。震える唇で問うた。
「皆部くん。」
「なに?」
「昔、小学生のころ。」
「うん。」
「この町にいたよね?」
「え?」
「そのときは、別の名字で。」
「あぁ、そうだったっけ。もしかして同じ小学校だった?」
「覚えてるの?」
「確か小4だったかな?数週間かここにいたと思う。」
「2か月だよ。」
「そうなんだ。」
「それも覚えてないの?」
「あー…とりわけこの町の記憶は薄いかも。」
「…何も覚えてないの?」
明らかに声が震えてしまった。
「ごめん…ほとんど忘れた。もしかして、当時の俺と仲良くしてくれてたりした?」
もう耐えられない。限界だ。私は自分の中に渦巻く激情をどうにもできなくて、氷の入ったビニール袋を彼に向って思いっきり投げた。彼はそれをいとも簡単にキャッチし、珍しく驚いた表情で私の方を見ている。
「出てって!」
再び布団を被った私はくぐもった声を張り上げた。
「お願い!出てって!」
もう無理だ。
堰を切ったように流れ出した涙が布団に滲みこんでいく。
悲しい、悲しい、悲しい。
牧瀬尋はもういない。
私の好きだった男の子はいなくなってしまった。
あれだけ焦がれたのにも関わらず、現実は非情だった。
彼は帰ってこない。
さようなら、私の好きだった人。