2コマ目
男には、愛する妻と生まれたばかりの息子がいた。
悪鬼を狩る、《吉備津一族》。男はその一族の人間であった。男だけでなく、妻も、当然彼らの息子も。
吉備津一族は、山の中に隠れ里を構えていた。『酒呑童子』という伝説級の鬼が封印されているその山の中に結界を張って。
世間一般で言う『普通』とはおよそかけ離れた、特殊な生活。しかし、男はそれなりに幸せだった。守るべき家庭があったからこそ、稀に出現する悪鬼とも勇敢に戦えていた。
しかし、破滅は突然やってきた。
◇
「鬼が攻めてきたぞ! 酒呑童子だぁぁ!!」
見張り役の男の声が、里中に響き渡る。
善鬼であるはずの酒呑童子が攻めてきたという、にわかには信じ難い叫び声。しかし、男の声で家の外に出てきた者達は、恐ろしい現実を目にした。
里の人間も皆、幾度かその姿を見たことがある、伝説にして最強の鬼が、明らかな敵意を持って、里を破壊し始めていた。
「あなた、一体どうして……!?」
「私にもわからん! くそう……所詮、鬼は鬼だったということか!?」
和生は、息子を抱いた妻とともに里から逃げようとして走っていた。あちこちで悲鳴が響き渡り、死屍累々とした中を。
地獄絵図。
追いかける鬼から逃げ惑う人々という状況を表すのに、これ以上の例えがあるだろうか。
「きゃっ!!」
和生の妻が、他の女性の遺体に躓いて転ぶ。その遺体は、彼らの隣に住む女性のものであった。
男は急いで妻の元に駆け寄ろうとするが、
「大丈夫か、やよ……」
ザクンッ!!
燃え落ちた木の枝が、妻の身体を貫いた。
「あっ……あっ……」
「弥生!! おい、弥生!!」
貫通した木の枝を血の色で染め上げていく妻に、男は必死で呼びかける。
「あなた……、和彦を……この子を……」
「!? 何を言ってるんだ! 早く、お前も……!!」
「私はもう…………だから、せめてこの子だけでも……」
妻が遺言を言い終える前に、倒れてきた木が、二人を引き裂いた。
男が次に目を開いた瞬間、彼の目に飛び込んできたのは悪夢であった。
仰向けになり、倒れてきた木の枝が頭に突き刺さった妻。当然、彼女はぴくりとも動かない。
その腕を跨ぎ、赤ん坊がうつ伏せになって倒れていた。
「くそお――!!」
その赤ん坊を抱えあげ、彼は里を走り去った。
走って、走って……走り続けた。
箒山から下り、そこからもしばらく走り続けた男は、河川敷にまで着いてからようやく一息つき、腕の中の赤ん坊の顔を見た。
和生が抱いていたのは、隣に住んでいた夫妻の赤ん坊の焼死体であった。
◇
彼が事の真相を知ったのは事件から十年以上後のこと。
切っ掛けは、偶然であった。
その時彼は、ある六尾の野狐(悪しきを為す妖狐)をターゲットにしていた。その野狐の情報収集のため、正体を隠し、様々な妖怪に話を聞いて回っていたところ、こんな話を耳にしたのだ。
「あの方は昔、吉備津一族っていう、そりゃあ有名な悪鬼狩りの一族を滅ぼしてやったことがあるそうですわ。しかもその時、あの酒呑童子に化けていたそうで。吉備津の奴らは真っ青になって、抵抗することもなく逃げ回ったとか」
和生は耳を疑った。
しかし、その後も、その野狐に関する情報を集めていく内に、それが事実であることを知った。
彼は当初、件の六尾を、拷問の末に殺してやろうと思った。だが、ふと彼に悪魔のような考えが浮かんだ。つまり、憎むべき六尾に、自分と同じ思いを味あわせてやろうと。
そして彼は、六尾が大昔に暮らしていた里を襲撃した。
わけもわからない内に、狐たちは次々と殺戮されていった。ただ一匹、利用価値のあった雌狐だけを残し、里の狐を完全に滅ぼした。
しばらく後、それを知った六尾は自らの命を絶った。
人間の里一つを武勇伝のためだけに滅ぼした野狐は、完全な修羅にはなりきれていなかったのだ。
一方、真実を知った和生であったが、人間以外のすべてを憎むという彼の考えは変わらなかった。変わるには時間が経ち過ぎており、なにより十年の間で、彼は妖怪変化その他の醜い部分ばかりを見過ぎていた。和生の目的は、六尾に精神的苦痛を与えることではあったが、その自殺は結果として彼を更にイラつかせることになった。
あの六尾は、修羅にもなりきれていない様で、こっちに復讐する勇気すら持てない様で、吉備津の里を滅ぼしたのか、と。
六尾の一件から更に数年後、彼は自分の息子が生きていることを知る。よりにもよって、彼の憎むべき、人外の者たちの元で。