4コマ目
三人がバラけてから一時間以上が経過していた。彼らの望むべき連絡は、依然として誰の携帯電話にも入ってきていない。
雄人は山の中を流れる川に沿って歩きながら、目的の狐を探していた。彼が視線を川に下ろすと、タナゴが数多く泳いでいる光景が目に入る。人の手の及んでいない自然が、至るところに残されていることが分かる。それ故、雄人は胸に引っ掛かるものを感じていた。しかし彼はその引っ掛かりの意味に辿り着く前に、思考を切り替えることを余儀なくされた。
目の前に、一匹の狐が現れたからである。
「おおっ!」
探していた対象が向こうから突然現れるという状況に、雄人は思わず大きな声を出す。その声に驚いたのか、狐は、びくっ! と身体を震わせ、一目散に走り出した。
「あっ、待てよ! って、言ってもわかるわけないのか」
雄人は逃げた狐を追う。
相手が只の獣ならば、たとえチーターであろうとガゼルであろうと、雄人の追跡から逃れることは出来ないだろう。一本道なら、獣どころか、最高速度の新幹線であっても軽く追い抜ける脚なのだ。まして今彼が追いかけているのは狐。一瞬で追いつけ、捕まえられて当然であるはずの相手。しかし。
「嘘だろ!? どんだけ速いんだよ、アイツ!」
逃げる相手のスピードは、常軌を逸していた。
身体の大きさ、四足歩行と二足歩行の違い。そして何より、この山に関する地理的理解の深度。障害物だらけのこの場所で、その全てが、雄人にとって不利な方向に働いていたのは間違いない。だが、それを考慮してなおすぐに捕まえられる自信が雄人にはあった。
異能など持っていない。術の類も一切使えない。代わりに彼が鍛え上げて手に入れたのが、凄まじいまでの身体能力。脚力とてその例外ではない。だというのに狐にも追いつけない。いや、ただの狐ならば追いつけないなどありえない。
――おかしい……!! 俺の方は、同じ場所で何度も足踏みしているような気がする。万歩走ってようやく一歩進んでいる感じだ。
木々の間をすり抜け、川を飛び越え、小さな崖さえも飛び降りながら追跡している内に、彼はようやく違和感の正体を悟り始めていた。異能か、妖怪もしくは変化の術か、ヒトの魔術か……そこまではまだ導き出せないでいたが。
永遠に続くかと思われた鬼ごっこ。それでも雄人は徐々に相手との距離を縮めていた。何度か同じ場所も走りながら、遂にその距離は雄人の手の長さほどになっていた。
そして。
「おっしゃ!」
雄人の右手が狐の尻尾を掴んだ。
彼はすぐさまその手を引っ張り、狐の身体を抱き寄せた。
狐は、雄人の左腕の中で「きゅう、きゅう!」と鳴き声を上げていた。
「しかし、こいつは一体何なんだ?」雄人は腕の中の狐をまじまじと見つめる。見た目では、何も変わったところは見受けられない。捕まっても、ただ腕の中でジタバタしているだけ。「とりあえず、親父にでも訊いてみるか……」
彼はその時既に、この狐を持ち帰ることを決めていた。
――当然、弥生さんは首を縦に振らないだろうな。一旦彼女に返してから、盗み出す。そして明日の朝までにまた返しに来ればいい、か。
その計画を頭の中で立ててから、彼はまず此亜に電話をかけた。先に彼女にわけを話しておいた方がいい、と判断したからである。
呼び出し音が鳴り響く。しかし此亜は一向に出ない。
「気付かないのか?」
仕方なく、雄人は此亜を先に呼ぶことを諦め、弥生に電話を掛けた。すると今度は、二秒以上の間すらなく、相手が応えた。
「はい、もしもし。雄人さん、もしかして捕まえました?」
受話器の向こうから、雄人の耳に弥生の声が届いた。
「ええ、まあ」
「雄人さん、凄いです! それで、今どこにいますか?」
「今ですか? えっとですね……」
雄人は辺りをキョロキョロと見渡し、なにか目印になるものはないか、と探す。その彼の目に止まったのは、一際大きな松の木であった。高さでいえば五十メートルを超えているかもしれないほどの。注視すればもっと離れた所からでもすぐに気付くことが出来ただろう。
「何か、やたら大きい松がありますね。アカマツだと思いますけど」
「あー! あそこですね」
弥生は、『やたら大きい松』というそのヒントだけで雄人が今どこにいるのかを把握した。
「分かりました。では、その松の木の下で待っていてくれますか? 私が今いる場所からだと、最初に解散した場所よりも、そこの方が近いので」
「ええ、分かりました」
雄人が答えると、弥生の携帯電話が切られた。雄人も自分の携帯電話を、ズボンのポケットにしまい込んだ。
――此亜には、弥生さんが来てからもう一回電話してみるか。
雄人はこの時、そう考えていた。
………………。
…………。
……。
雄人が、言われた通りの場所で弥生を待ち始めてから五分が経過していた。彼の腕の中にいる狐もその頃にはすっかり大人しくなっていた。
「今どの辺にいるんだろ? もう一回掛けてみるか」
そう言って、彼が再びポケットに手を伸ばそうとした時、その目に人間の姿が映った。ぐったりとした赤毛の少女を脇に抱えた、見目五十歳ほどの男の姿が。
腕に込めていた力は解かれ、狐は彼の腕を這い出して、どこかへと走り去った。
「!? 此亜!!」
逃げた狐のことなど気にも留めず、雄人はまず、男の脇に抱えられた少女の名を呼ぶ。顔は見えなかったが、その少女が此亜であることは、彼にはすぐに分かった。しかし此亜はぐったりとしたまま、彼の声に対して何の反応も示さない。雄人はそこで初めて男の方へ顔を向けた。
「誰だ、お前は。此亜に何をした?」
心中とは対極的に、雄人の声は冷静そのものであった。否、その表現は正しくない。彼の声は冷静というよりも『冷酷』なものであった。
「心配するな、まだ殺してはおらん。こいつは人質みたいなモノなんでな」
「何だと……? 人質? 何が目的だ。それから、最初の質問にもちゃんと答えろ」
男の『まだ殺しておらん』という言葉に含まれる『まだ』という言葉に激しく憤りながらも、雄人は男に跳びかかりたい衝動をなんとか抑えつつ、慎重に事を進めようとしていた。そのためにまず、今の状況を詳しく理解する必要があった。
「俺が誰かということか? つい五分前まで電話で話していたばかりの相手ではないか」
「な!?」
雄人に新たな動揺が走る。
男の言っていることを単純に受け取ると、つまり五分前の時点で弥生とこの男は入れ替わっていたということになる。ならば弥生はどこへ行ってしまったのか? 最悪のケースが雄人の頭をよぎる。しかし真相は、男の言うことをもっと単純に受け取らなければ辿りつけないことであった。
「(にいっ)」
男は不敵に笑うと、パチンと指を鳴らした。
「!?」
雄人は言葉を失った。男は指を一度鳴らしただけで、その姿も服装も、弥生のものになっていたのだ。そしてもう一度指を鳴らすと、また元の男の姿に戻っていった。
「これで分かったか? 栗原弥生などという人間は最初から存在しない。もちろん、同姓同名の他人ならいるだろうが、まあ、そんなことは今問題ではない。女に化けた方がお前たちも御しやすいと思ったのでな」
「……それじゃ、結局質問の答えにならないだろうが。お前は一体誰で! 何の目的があってこんなことをしているのか! 俺はそれを聞きたいんだよ!!」
雄人はもはや、感情を隠すことなく叫んだ。その口調からは、激しい苛立ちが感じ取れる。一方、男の方は依然冷静な口調を保ったまま、驚くべきことを口にした。
「俺の名前は吉備津和生。お前の本当の父親だ」
「何を……」
馬鹿なことを、と言うはずだった雄人は、そこで言葉を止める。男の眼をしっかりと見てしまったからだ。雄人の記憶にあるものよりも年輪を感じるものではあったが、確かにその眼は見覚えのあるものであった。男の眼は、雄人が鏡の前に立った時に必ず見る眼に、あまりにもよく似ていた。
――……違うっ! そんなはずはない!
雄人はぶんぶんと首を振って否定した。もしかしたら、こいつは本当に自分の父親なのかもしれない、という考えを。
「まあ、今すぐ信じろとは言わん。しばらく自分で考えるといい」
男はそう言って、そのまま背を向けて立ち去ろうとする。
「待て! うっ!?」
雄人は当然、その背を追おうとするが、彼の足は地面にくっついたまま離れない。如何に彼が力を入れようとも、無駄なことであった。
「足止めの結界だ。幾らお前でも抜け出すのに三十分はかかるだろう。その間に俺はこの山の頂上で準備をしておく。お前も心の準備が出来たら来るがいい。だが、一歩でも山を下りればこの娘の命はない。じゃあな」
男はそれだけを言い棄て、悠然と歩き去っていった。
「くそぉ、待てよ……、待てっつってんだろうが――!!」
残された雄人の叫び声だけが、空しく響き渡った。
◇
「ク、グ、うううううっ!!」
結界から抜け出そうと足を踏ん張りながら、雄人は考えていた。
何故、こんな日に限って。何故、小太郎のいない時に限って……。
――いや、違う。全部、奴の計画通りだったんだ!
最近増加していた妖怪や変化の出現率。しかもそのほとんどは『養魔園』送り確実な個体だった。つまり、処刑するほどの相手じゃない“要保護妖怪”ばかり。『養魔園』についてまで調べを進めていた男は、“要保護妖怪”が一定上溜まった所で小太郎がそれを『養魔園』へ連れて行き、暫く戻ってこないことを恐らく知っていた。
――あいつの差し金だったんだな。多分、あの髪切りも!
茜のことを思い、雄人の怒りが湧き上がる。
だが今は彼女のことよりもっと、怒るべきことがあった。
――此亜!!
心で叫ぶと同時、渾身の力。それで雄人の足はようやく結界を脱出した。
――あいつの狙いは一体、何なんだ。
『お前の父親だ』
――馬鹿げてる! でも……。
何かを思い出しかけたその時、雄人の目に橙色の髪の少女が映った。
ゆっくりと近付いてくる彼女は、雄人に向かって話し掛けた。
「また会ったな」
と。