2コマ目
「麦茶ですけど、どうぞ」
「あ、すみません。頂きます」
女性は、此亜の運んできたグラスを口元に運び、一気に飲み干した。グラスの中には氷だけが残り、机に置かれた時にカランという音を立てた。
「随分、喉が渇いていたんですね。もう一杯いかがですか?」
「いえ、もう大丈夫です。どうもありがとうございます」
それを聞いた此亜は麦茶の入った容器を冷蔵庫に閉まってから、雄人の横に座った。
彼らがいるのは所長室。事務所を訪ねてきた依頼人である女性の話を聞くために、テーブルを挟んで向かい合ったソファに、それぞれが腰かけている。雄人と女性は向かい合う形で、此亜は雄人の横に。
「とりあえず、自己紹介からしましょうか。自分は国守雄人といいます。こっちは茨木此亜です。貴方のお名前は?」
口火を切ったのは雄人。所長不在とはいえ、依頼人を無下に追い返すことは出来ない。小太郎は彼に『事務所を頼む』と言った。それは、事務所を休業しておいてくれという意味ではないはずだ、と彼は解釈していた。
「私は栗原弥生という者です。依頼というのは、その……」
弥生と名乗った女性はそこで口籠った。
探偵や興信所に仕事を依頼する人間には、他人に言えないような、或いは言い難いような事情を持つ者が少なくない。たとえ仕事を頼む対象である探偵であっても、いざとなると言い辛くなってしまうのも無理からぬことである。雄人もそれをよく知っていた。
「本当に言い辛いことまで仰らなくても大丈夫ですよ。深く詮索する気はありません。我々は与えられた仕事を完遂するために力を尽くすだけです」
成るべく弥生が話をしやすくなる状況を作り出そうと、雄人は出来るだけ柔らかい言い方で彼女の言葉の先を促した。すると弥生はハッとした表情で雄人を見返し、慌てた口調で言葉を紡いだ。
「すみません! まるで大事のように勿体ぶってしまって。本当にそんな大袈裟なことじゃないんです。だからこそ言い難かったといいますか……。私がお願いしたいのは、動物を探して欲しい、ということなんです。飼っていたものが逃げ出してしまいまして」
「ペット探し、ですか」
雄人は仕事内容が比較的気軽なものであったことに安堵し、つい、拍子抜けしたような声になる。
「どういった動物ですか?」
「……狐です」
「狐!?」
「うわ!! 隣でいきなり大声上げるなよ!」
雄人は思わず此亜が座っている側の耳を押さえた。
「可愛いですよね! 狐って!」
「え、ええ。そうですね」
さっきまで静かにしていた少女が、突然鼻を鳴らしながら詰め寄ってくるという状況に困惑したのか、弥生は顔を引きつらせる。
「こら、此亜! 失礼だろ? 静かに書類でも作っとけ」
「むー。はぁい」
此亜は不服そうな表情を浮かべながらも、素直に引き下がる。そしてソファから立ち上がり、小太郎の机の方へ歩いて行った。
雄人は話を続ける。
「失礼致しました。では、改めて続きを。その狐の名前を教えてもらってもよろしいでしょうか? 仕事中にずっと『狐』と呼ぶのも少し乱暴かと思いますので」
「名前は、特にないんです」
「はい?」
それは、雄人にとって意外な回答であった。
飼育動物には普通、名前を付けるもの。雄人でなくとも、そう考えるだろう。なのに名前がないというのはどういうわけか。それは至って単純な理由であった。
「飼っているとは言いましても、実は一時的に預かっているものなんです。怪我をしていた野生の狐を、知り合いの保護団体の方から。ですから、ペットというわけではないんです」
「なるほど……。すみません、こちらが勝手にフェネックのようなペットだと勘違いしてしまいました。しかし、何故あなたが?」
雄人が訊ねたちょうどその時、ペンと紙を持った此亜が再び彼の隣に座った。彼女はテーブルに置いた紙の上に、カリカリとペンを走らせる。
「その狐と言うのが、私が今住んでいる山で見つかった狐なんです。ご存じでしょうか? この古枝市の隣の九鬼本町にある『鍬折山』という所です。それで、野生に帰すまでの間も、出来るだけ自然に近い環境の方がいいということで私に白羽の矢が。幸い、私は昔、動物を飼っていた経験もありましたので」
「そういうことですか。ところで、怪我をなさっているとのことでしたが、そんな状態で逃げ出してしまったんですか?」
「いえ、怪我はもう治っているんです。リハビリも済んで、明日には、野生へ返す予定だったんです。それが今朝、起きてみたら逃げ出してしまっていて」
雄人は、弥生の言葉に微妙な猜疑心を覚えた。
「? それなら、もう問題はないのでは? 明日返しても、今日返しても変わりはないと思いますが」
「それが……、鍬折山に本来、狐はいないそうなんです。知り合いは『どこかから迷い込んできたんじゃないか?』って。それで、折角だから自然に返す時は、仲間のいる他の山にしようっていうことになっていたんです」
「そういうことですか。しかしそれにしても、わけを話せば協力して一緒に探してくれるんじゃないですか? 知り合いの方なんでしょう?」
「ええ、それはそうなんですが。何と言いますか、今回の件は完全に私のミスであるわけですから……その……」
その先を言い辛そうにしている女性の様子を見て、雄人は気付いた。
彼女の今の心境が、いわば『自分の失敗を、親や先生に知られる前になんとか誤魔化そう、処理しようとしている子ども』のそれと同じであることに。彼女はどうみてももう立派な大人である。流石にその知人に咎められるということはないだろう。しかし、わずかにでもマイナスの印象を与えることは間違いない。
「分かりました。引き受けましょう」
「本当ですか? ありがとうございます!」
彼女の心境を察した雄人は、依頼を引き受けることを決意した。
「それにしても、何故この事務所に? 九鬼本町にも探偵ぐらいはいるでしょう?」
「それは……、ここの評判を前々から聞いていたもので」
「そうだったんですか。しかし、肝心の所長は不在です。我々だけで探すことになりますが、それでもよろしいでしょうか?」
「勿論です。助手の方も相当な腕前だと聞いていましたから」
「いやぁ~。それほどでもないですよぉ」
此亜が一旦、ペンを止めて照れながら面を上げる。
「男の子の方が、ですけど」
バムッ!
此亜のおでこが机にヒットして音を立てた。
「いや、こいつも結構やる時はやるんですよ?」
「いいよ、無理にフォローしてくれなくても……」
此亜は顔を机にくっつけたまま、力なく呟いた。
「いや、いや。無理に言ってるわけじゃないって! ほら、顔上げろよ」
雄人はそう言って此亜の肩を両手で揺さぶった。
「仲が良いんですね。お二人は」
二人の様子を見ていた弥生は、何故か憎々しげな目をしながらも、優しい声で口にした。
「そうですか!?」
ゴンッ!
「痛っ!」
不意に上げられた此亜の頭が雄人の顎にヒットし、彼はその顎を両手で押さえた。
「あ、ごめん」
「だ、大丈夫だ……」
少し赤くなった顎をさすりながら、雄人は言葉を続けた。
「とにかく、行くなら早い方がいいでしょう。暗くなった山で探すのは大変ですからね。出来ればもっと人を集めたいのですが、生憎、今すぐここに呼べるような者がいないんです。秘密を守ってくれそうで、且つ今すぐ呼べる知人。その心当たり、あなたには?」
「いえ、実は私も。一人暮らしですから、家族も遠くにいるんです」
「――そうですか。では、急ぎましょう。とりあえず、すぐに着替えだけ済ませてきます。流石に制服のままではね。ほら、此亜。お前も行くぞ」
「あ、ちょっと待ってよ! もうすぐ書き終わるから……はい、書き終わった。じゃ、私は自分の部屋で着替えてくるね」
「急げよ? じゃあ、栗原さんは下に降りて待っていてくれますか? すぐ私たちも行きますので」
「はい、分かりました」
三人は所長室を後にした。