家路
ピーポ―……ピーポ―……
月のない深夜2時。
遠くから聞こえる救急車の音を背に、男は家路を急いでいた。
仕事でトラブルがあり対応に追われ、ようやく解放された時には日付はとっくに変わっていた。
コツ、コツ、コツ。
大股で足早に歩く革靴の音が、静かな住宅街の坂道に響く。
何故こうも急いでいるのか。男は自分でも訳が分からなかった。
飲み会などがあればこんな時間の帰宅などザラであったし、何より明日は休日で予定もなく、それほど慌てて帰る必要はない。
だが男は会社を出た時から、何故か何かに急き立てられていた。
コツ、コツ。
坂を下りて小さな公園に差し掛かると、男がふと、足を止めた。
ポケットの中の携帯電話が震えたからだ。
マナーモードの揺れる小さな音さえ静寂に、響く。
本当に、今夜は静かだ――。
男はそう思いながら携帯電話を取り出し、相手を確かめるとそれは先程まで一緒にトラブルの対応に追われた同僚であった。
彼の自宅は会社からほど近い。もう帰宅している頃だろう。
わざわざ仕事後にかけてくるくらいだ。急いでいたが、何かあったのかと電話に出る事にした。
「もしもし?」
「もしもし? 疲れてるところ悪いな。もう家には着いてるか?」
「いや。もう少しだが、何かあったのか?」
「ああ。帰ってから知ったんだが、通り魔が出たらしい。確かお前の家、○○だったよな? そのへん、騒がしくないか?」
「この辺りはいつも通りだが……通り魔だって?」
「一応知らせておこうと思ってな。まだ捕まっていないらしいから、気をつけろよ。このまま、家に着くまで話しててやってもいいぞ」
「ああ……いや、大丈夫だ。ありがとう」
「そうか? まあ、気をつけろよ。じゃあな」
電話を切り、一瞬、立ち尽くす。
公園はとても静かだ。
首を振り、男はさらに急いで帰ろうと足を踏み出した。
と、先程切ったばかりの携帯電話がまた震え、男に誰かからの着信を伝えた。
こんな時間にそうそう何度も電話はかかってこない。
また同僚かと、今度は相手も見ずに電話に出る。
「もしもし」
「……ろ……」
「もしもし?」
「…………げ……」
どこからかけているのか。
ザザっと不快なノイズに混じり、男のものと思わしき小さい声がかろうじて聞こえた。
何を言っているのかは分からない。
訝しんだ男は、発信先を見て目を瞠った。
「なんで……」
そこに表示されている、見覚えのある番号。
それは男自身の携帯番号だった。
なりすましか、イタズラか。
普段であれば全く気にもしないのだが、今日ばかりはどうも薄気味が悪い。
再び足早に家路を急ぐ男の目に、一瞬、月が光ったように見えた。
春とはいえ夜はまだ冷えるというのに、生ぬるい風が頬を撫でていった。
◆
朝。
がばっ。と勢いをつけて男は起き上がった。
心臓が暴れ、ひどい寝汗をかいている。
覚えていないが、この体たらくだ。余程おそろしい悪夢だったのだろう。
頭をぐしゃぐしゃと搔き乱し、男はふと、部屋の時計を見た。
すでに引いている血の気が、さらにざっと引いていくのがわかった。
遅刻だ!
「くそっ」
頭が重い。
音が遠い。
異様に動きの鈍い体を叱咤し、慌てて着替えて髭を剃る。シャワーを浴びたかったが時間がない。なんとかぐしゃぐしゃの頭だけをざっと直し、会社へ急ぐ。
どこをどう来たのかなど覚えていない。
気が付けば、会社の自分の机の前に突っ立っていた。
そしてはた、と思い出す。
今日は休日じゃないか!
何年も社会人として生きていながら、なんという間抜けな事を。
自分自身にあきれ返る。
全身でため息をつきながら、男は来たものは仕方ない、と誰もいない会社で一人、日頃後回しにしている手持ちの資料の片付けを始める事にした。
◆
コツ、コツ、コツ。
たまりにたまった書類の整理に思わぬ時間を食い、男は気付けば星のない夜、家路を急いでいた。
大股で足早に歩く。
何故か何かに急き立てられていた。
坂道を下り小さな公園に差し掛かる。
足が止まった。
自宅に置き忘れたと思っていた携帯電話が、ポケットの中で震えた。
相手は同僚だった。休日にかけてくるなど、珍しい。
急いでいたが、何かあったのかと電話に出る事にした。
「もしもし?」
「……もし? ……れて……こ……いな。もう……は着い……か?」
「……? すまないが、聞こえない。電波が悪いようだ」
「ああ。……レビを……て知った……が、……たら……。確……の……ったよな?」
「悪い、後でメールする。切るぞ」
要領を得ない電話では、メールの方が早い。
帰宅したらメールを打つ事にして、さっさと携帯電話をポケットにしまい、足を踏み出す。
と、切ったばかりで、再び携帯電話が震えた。
また、同僚だろうか。
何度もかけてくるなど、よほど急ぎの内容なのだろう。
電波が悪いだけで勝手に切ってしまって悪い事をしただろうか。
「もしもし?」
「……に……」
「もしもし?」
「…………ろ」
その電話は、男自身の携帯番号からかかってきていた。
しかし男は同僚だと思い込み、諦めて電話を切っても気付かずにいた。
携帯電話は、もう震えなかった。
◆
それからというもの。
男は毎日、繰り返していた。
もう、いつからかは分からなくなっていた。
どこからが夢で、どこまでが現実か。或いはすべて夢なのか。
だが、分かる事はある。
男がどうあがいても、抜け出せないのだ。
毎朝飛び起きる。
鈍い体で懸命に身支度を整え、誰もいない会社へ出勤し、深夜遅くまで同じ仕事をする。
毎夜、何かに急き立てられるかのように、足早に家路を急ぐ。
坂を下り公園に差し掛かると、必ず同僚の携帯番号から電話がかかってくる。
無視しようとしても、気が付けば電話を受けている。あいかわらず声は、遠い。
そしてかかってくる、もうひとりの自分からの電話。不思議と、こちらは徐々にノイズが除かれ、声がはっきりしてくるようであった。
だが聞き取れず、また朝を迎える。
繰り返し、繰り返す。
◆
その日は、いつもと少し違っていた。
いつも差し掛かる公園。長い黒髪の女が一人、入口に凭れるようにして座り込んでいた。
いつものようにポケットの中の携帯電話が震える。
だがそれは同僚からではなく、自分の電話番号からの着信だった。
女の肩が、ぴくり、と震えた。
駆け寄って女の容体を確かめようとしたが男の体は動かず、代わりにできたのは電話に出る事だった。
「もしもし?」
また、いつものように聞き取れない声が聞こえてくるものと思っていた。
ふと見ると、女がゆっくりと顏を上げ、こちらを見た。後ろ手に、何か光るものを持っている。
その時だった。
「逃げろ!」
電話からはっきり聞こえた男の声は、誰の声だったか――。
何故か、言葉通りにしなくてはならないと思った。
頭が重い。
体が重い。
しかし男は、何かを弾き返すかのように渾身の力を込めて、今まで来た道の方へ走り出した。
後ろを振り返ると、女がすべるように追いかけてくる。
ゆっくり歩いているように見えるのに、おそろしく速い。
「はっ……はっ……」
男は走った。夢中で、がむしゃらに、後ろも見ずに坂を上った。
ちょうど、坂を上りきった時。
男は、月の光を見たような気がした。
◆
目を覚ますと、白い天井が見えた。
体を起こそうとしたが、体じゅうがぎしぎしと悲鳴をあげ、とてもではないが動く事ができない。
いつもの朝では、ない。
「なにが……」
呟く声はひどく掠れていて、そして、ひどく喉の渇きを覚えた。
「気が付きましたか」
「……?」
目の前に、白衣を着た男性が、男の腕をとり脈を測っていた。
靄がかった頭を必死に働かせ、男は男性に聞いた。
「ここは……」
「病院です。色々お聞きになりたいでしょうが、今はまだ目が覚めたばかりです。もう少しお休みに……」
「いえ。おしえてください」
男は医師らしき白衣の男性の言葉を遮り、説明を促した。
白衣の男性は、傍に控えた長い黒髪の看護婦に何か指示をした後、男に向き直った。
「……分かりました。落ち着いて聞いて下さいね」
「はい」
「あなたは、会社帰りの途中に通り魔に襲われ、出血多量で非常に危険な状態でした」
「とおりま……」
「あなたの同僚の方が、あなたにいくら電話をかけても出ない事を心配して、警察と消防へ連絡をされたんです。ちょうど、通り魔の警戒態勢に入っていた近くの警官があなたを発見して、なんとか間に合いました」
「……」
「今は少し体を動かすだけでもお辛いでしょう。聞きたい事があればお応えしますので、ゆっくりお休みになって下さい」
「はい」
医師の背中を見送り、考える。
ずっと、ずっと繰り返されていた夢。
はっきりと覚えている。
あれは、一部は夢ではなかったというのか。
何はともあれ、助かったのだ。
同僚には感謝しなくてはならない。退院したら、何か美味いものでもおごってやろう――。
「失礼します」
血圧でも測りに来たのだろうか。
おそらく先程控えていた看護婦が部屋に入ってきた。
動きを目で追い気付いたが、ここは個室のようだ。
ゆらり、と白いカーテンが風もないのに揺らぐ。
「痛みは、どうですか?」
「ああ……はい……」
看護婦とはいえ女性相手に、素直に全身が痛いと言ってしまっても良いものだろうか。
男は一瞬迷い、ふと看護婦の顔を見た。
「……?」
今は長い黒髪を後ろで束ねる、白い顔。
どこかで、見た気がする。だが、どこで?
「痛くないんですか?」
「え、ああ……いえ。いたいです」
のどの渇きのせいだけではない掠れた声で、男が告げる。
この顏。見た事がある。どこで?
思い出そうとして、はっとした。
夢だ。
夢の中で、追いかけてきた女そのものの顔ではないか!
心臓がばくばくと音を立てる。ナースコールを押そうとしたが、体はすっかり固まって動かない。
「良かった」
機材を取る為か、背を向けた女が呟いた。
「……」
のどがからからで、もう声が出ない。
「痛いって、生きている証拠ですもんね」
女が振り返る。
看護婦には不似合いな、真っ赤な口紅を塗った唇が、にい、とわらった。
「生きてないと、痛くないと、さしても意味がないですから」
女の後ろ手に光るモノを見てとった男は、ぐっと目を閉じた。
読んで下さりありがとうございます。