4 夜の執務室
「うわぁ、ホントに二人ともあるよ……」
客室の壁に沿うように備えられた鏡台の前で、二人の少女はお互いの首筋を鏡に映して全く同じタイミングで溜息を吐いた。
「となると、やっぱり私も棗も【鏡の巫女】ってこと?でも、それじゃあ結婚の話はどうなるんだろ。」
「うーん、一夫多妻制だったりするのかな。お断りだけども。」
「やっぱり棗は嫌なんだ?」
そりゃあ、と言い掛けて棗はふと不思議そうに目を丸めた。
「私は、って。恵、嫌じゃないの?あの偉そうな皇帝サマの花嫁だなんて。」
「……ええと。」
きょろ、と恵は大きな目をうろつかせる。
「あのう、ほら。イケメンだし。棗のこと悪く言うのはちょっとムカつくけど、私には優しいし。いきなり結婚ってのは気が引けるけど、カレシからなら良いかなぁ、みたいな?」
てへ、とわざとらしく舌を出して微笑む恵に対して、棗はあんぐりと口を開けて応えた。
「……いや、良いわ。そういえばそういう子だったっけ、恵って……」
「な、何かなその言い方!軽い女みたいな扱いやめてよぅ!」
わたわたと慌てる恵を背にして、はぁぁと深く息を吐く。
「昔っから、イケメンのアプローチには弱いんだったねぇ……それで中学の時も金村くんとアッサリ付き合ったりしてキズモノにされてたもんねぇ……」
「あれは黒歴史ー!!あんな女たらしだと思ってなかったし、それにちゅーしただけで一線は越えてないし!ねっ!ねっ!?」
私今でも清い乙女だよ!とあまり乙女らしくない内容を喚きながら、恵はじたじたと地団駄を踏む。
「ああ、はいはい。処女ですねー良かったですねー何だかんだでアンタ初心だもんねー。」
「うおお、バカにされてる!これは私バカにされてるんだね!むきー!!」
キャッキャと甲高い声で言い合いながら戯れる合間を縫って、控えめなノックの音が部屋に響いた。
「だから結婚するかどうかは別の話……あれ、誰か来た?はーい、どうぞー?」
恵の返答から一拍遅れて、静かに扉が開く。
「失礼いたします。お夜食をお持ちしました。」
深々と頭を下げたのは、一人の女性だった。
雨上がりの空の様なくすんだ青色の髪を項の辺りにひっ詰めて、地味ではあるが気品のあるワンピースの上には純白のエプロンを着こなしている。
「……恵。」
「え?」
ゆっくりと下げた頭を起こす彼女を見つめながら、棗は震える声で囁いた。
「……メイドさんだ…本物のメイドさんだ!」
「えっ!?何!?なつっ……えっ!?」
恵の戸惑いもお構いなしに、棗は上気した頬を両手で押さえて舞い上がる。
「ああっ、期待はしてたの!皇帝サマもアーノルドさんも中世ヨーロッパっぽい雰囲気だったし!メイドさんの一人や二人って期待はしてたの!!」
「……棗ー…」
「すごいなぁ、綺麗だねぇ!ぴっしりしてるねぇ!メイド喫茶なんて目じゃないよ、見てよあのスカート丈!慎ましい!!」
「……」
姿勢良く立つ女性が、少しだけ戸惑ったように視線をうろつかせる。
腹の前で行儀良く揃えられた手が、所在なさげに動いてエプロンの裾を整えた。
「……棗、嬉しいのは解ったからとりあえず落ち着こ?いつまでもお姉さん突っ立たせてちゃ悪いよ。」
「ああっ、この間読んだ小説に出てくるメイドもこんな感じだったのかなぁ……えっ?……あ、ああ、そうだね!ごめんなさい、どうぞ入って下さい!」
は、と我に返った棗がそう応えると、女性は軽く会釈をしてから自身の傍らに置かれたワゴンを部屋に押し込み、後ろ手に扉を閉めた。
「恐れ入ります。お食事の支度を致しますので、どうぞお掛けになってお待ち下さい。」
「ご飯?そういえば、今って何時くらいなんだろ。お腹空いてる?棗。」
うーん、と小首を傾げる。
元の世界では学校帰りだったのだから、夕方だった筈だ。
窓の外を見れば、すっかり夜は更けている。
「……ぶっちゃけ、あんまり空いて……いや、待って。」
とりあえず座ろう、と二人で並んでソファに腰掛け、目の前の低いテーブルに並べられる食器を睨む。
「……あれ。」
恵がぽつりと呟いた。
「……お腹、空いてるね。さっきまで全然気付かなかったけど。ああっ、そう思うとどんどん胃が痛く……!」
「……色々あって興奮してたし、すっかり頭から抜けてたんだね。」
音も立てずに置かれたスープ皿を見つめて、棗は控えめに鳴る腹を押さえて呻いた。
メイドの給仕に恐縮しながらも、二人は用意された食事をあっさりと食べ切った。
「あー、美味しかった!ごちそうさまでした、アリアさん!ご飯作ってくれた人にもお礼言っておいてくれますか?」
恵にアリアと呼ばれたメイドは、上品に微笑んで会釈を返す。
「お喜び頂けたのならば恐悦でございます、メグミ様。勿体無いお言葉、料理長にしかとお伝え致します。」
手早く、そして静かに食事の跡を片付けた後、アリアはさて、と言葉を切った。
「本来であれば夜も遅うございますし、お早くお休みになられて明日に備えて頂くところなのですが。」
「……?」
柔和な微笑みを貼り付けたまま、それでも少し申し訳なさそうに眉を下げて、アリアは棗に向き合った。
「ナツメ様に、アーノルド神官長様が御用があるとの事です。食事が終わり次第、神官長様の執務室へ参られるよう、お達しが出ております。」
刹那、緊張が走った。
不安そうにアリアと棗の顔を見て、恵はアリアに問い掛ける。
「何で、棗だけなの?私は行っちゃダメなの?」
「……メグミ様、ご理解下さい。」
「でも、だって!だって、棗も!」
「恵、ちょっと待って。」
棗の静かな静止に、恵は口を噤む。
「行きましょう、アリアさん。案内、お願いします。」
制服脱がなくて良かった、と笑ってみせ、棗は恵の頭を撫でた。
「先に休んでて良いよ、話長くなるかもしれないし。」
「棗、でも!」
わしゃ、と少し乱暴に恵の髪を掻き乱す。
言葉に詰まる恵にもう一度笑顔を見せて、棗は部屋を出た。
「それでは、私は此処で失礼致します。」
重厚な扉の前で、アリアは立ち止まり礼をした。
不安げな顔を見せる棗に微笑んで見せると、「メグミ様の湯浴みの準備が御座います」とだけ言い残して去っていく。
「……これ、逃げたら逃げられるかなぁ。」
廊下に一人、ぽつんと立っている現状である。
扉を隔てた向こうには棗を呼びたてた当人が居るのだろうが、このまま足音を忍ばせて何処へなりとも行ってしまえばいいのではないだろうか。
「貴女の細足で何処まで逃げ切れるものか、気にはなりますがね。今日は止めて頂きたい。」
「ひえっ!」
がちゃりと音を立てて開いた扉に、棗は思わずか細い悲鳴を上げた。
部屋の中から漏れる明かりを背に微笑むその人は、どうも先程会った優しげな面影が少し欠けているように見えた。
「わざわざご足労頂いて申し訳ありません、どうぞお入り下さい。」
優しく促す言葉とは裏腹に、アーノルドは性急な動作で棗の腰を抱いて扉の奥へと引き入れた。
「……あのう、」
「はい、何か。」
恵を一人置いてこの場から逃げる気などは更々無かったが、実際に呟いてしまったのは事実なのだから仕方が無い。
笑顔ではあるがどこか不機嫌そうな相手を恐々見上げて、棗は自身の失態に唇を噛んだ。
「……すみません、逃げるつもりはそんなに無かったんですけど、つい。」
「ええ、そうでしょうとも。貴女はご友人を一人置いて逃げるほど人でなしでも無ければ、何の準備もなしに逃げたところで後が無い事を解らないほど間抜けでも無いはずです。」
肩を竦めてそう言われても、抱かれたままの腰が引けるのは止めようも無い。
「はい、あの……すみません、どうも。」
「いいえ。……ああ、失礼。どうぞ、お掛けになって下さい。」
す、と体が離れる。
示された椅子に浅く腰掛けて、棗は気を落ち着けようと深く息を吐く。
アーノルドがテーブル越しに向かい合わせで置かれた椅子に腰掛けるのを待ち、顔を上げる。
「……それで、ご用件というのは?」
真っ直ぐにアーノルドを見てそう問い掛ける棗に、視線の先の当人は苦い笑いを漏らした。
「どうも、怖がらせてしまったようですね。そう気を張らずとも結構です、何も貴女を取って食う為にお呼び立てしたのではありません。」
「……別に、ビビッてないですし。」
つい、口を尖らせて目を逸らす。
眼前の相手には虚勢を張ったところで無駄か、と気付くとどうにも先程触れられた腰がむず痒い。
改めて椅子に深く掛け直し、棗は不貞腐れたまま黙り込む。
「まずは、改めて。我々の勝手な都合で此方の世界に呼び込んでしまったこと、深くお詫びいたします。」
頭を下げながら言われた言葉に、棗は口を開いた。
「わざわざ私だけを呼んで、第一声がそれですか。」
「……ええ、貴女にだけです。」
恵には決して同じ言葉を投げない。
それは彼女が【鏡の巫女】であり、来たるべくしてこの世界に来たからだと言いたいのだろう。
私も多分【鏡の巫女】なんだけどなぁ、と思いながらも棗はそれを口にはしなかった。
「……帰る事は、出来ないんですか。」
「出来ません。貴女も、メグミ様も。方法が存在しませんし、あったとしても使うことは無い。」
何のためらいも無く応える青年と目を合わせ、しばしの沈黙に沈む。
「向こうの世界に、何らかの形で私達の無事を伝えることも不可能ですか。」
「試したことはありませんが、恐らくそれも無理でしょう。あちらの世界から何かを呼び込むことは出来ても、逆は起こり得ないのです。」
貴女の世界は【上】なのだと、アーノルドは言った。
「【上】から【下】へ物を落とすことは出来ても、その逆は不可能です。」
「……なるほど。」
原理はさっぱりわからないが、理屈は解った気がした。
「じゃあ、どう足掻いても無理だってことですね。」
「そうなりますね。心苦しい事です。」
「……私は、どうなりますか。」
揃えられた両膝の上で、震える手を握り締める。
恵は大丈夫、あの子は愛される為に此方に呼ばれたのだから。
では、私は?
棗はそれでも、恐れを表に出すことの無いよう努めた。
「……貴女に害を為せば、メグミ様は悲しむでしょう。」
「ええ、それはもう。後を追ってもおかしくないくらいには。」
半分はハッタリだ。
いくら親友とは言え、流石にそこまでは確信できない。
「……本当に、仲の良いご友人でいらっしゃる。」
アーノルドの言葉に、引っかかる物を感じた。
「……もう一度言っておきますけども。」
「はい?」
「私とあの子は、本当に友達ですからね。決して世間様に顔向けできないような関係じゃあないんですからね?」
きょとん、と目を丸められる。
あら初めて見る顔だ、と棗が素っ頓狂な事を思うと同時に、アーノルドは耐え切れなかったようで吹き出した。
「はは、いや、流石にそれは解って……いや、参ったな、そんなつもりでは無かったんですけれど。確かに、些か仲が良すぎるきらいがあるとは思いましたが……ははは。」
「ほ、本当ですから!私達の世界じゃ女子高生同士ならあれくらい普通で!別にあの子が良いって言うんなら皇帝陛下との結婚だって止めるつもりは無いし……いつまで笑ってるんですか!」
笑いが止まらない様子のアーノルドに、やけっぱちになって棗は叫ぶ。
「失礼、あまりに貴女が真剣なものだから……大丈夫です、私はそのような誤解は抱いておりません。」
はぁ、と息を吐いてアーノルドは肩を竦める。
「それなら良いんですけど……んん?」
ふと眉を顰める棗に、アーノルドの瞳が細くなる。
「何か?」
「私は、って。」
「はい。」
「……ええと、皇帝…陛下はどうお思いで?」
恐る恐るといった様子の棗に全てを包み込むかのような笑顔で、アーノルドは答えた。
「貴女のことは、メグミ様を惑わす魔女だとでも思っておいででしょうね。」
「ああっ、やっぱりかー!!」
頭を抱えて蹲る棗を見下ろして、もう一度アーノルドは小さく笑って見せた。
「実は、こうしてお呼び立てしたのはそのことを話す為でもあったのです。」
「……どういうことです?」
「事実はどうあれ、レオルディア陛下は貴女を……所謂、恋敵だと思っておいでです。為れば、貴女がメグミ様と共にあることは彼にとって面白いことではない。」
アーノルドの声が僅かに硬くなる。
「……私に、どうしろと。」
「メグミ様と離れていただくのが一番ではあるのですが、それではメグミ様が納得しないでしょうし……傍に立つためには、それなりの理由が必要です。」
理由、と呟いて、棗は俯いた。
自身の首筋に刻まれた痣を思い出して、心が揺れる。
もし今ここで、棗も【鏡の巫女】の資格を持つことを告げればどうなるだろう?
そもそも【鏡の巫女】が二人居るという事実は彼等にどのような結果をもたらすのかも解らない。
「……恵だけじゃなくて私も【鏡の巫女】だったら、こんなややこしい事にならなかったんですかねぇ。」
なんて、と笑いながら肩を竦めて見せる。
アーノルドの反応に寄っては、事実を告げることもやぶさかではない。
しかし、棗の思いとは裏腹に、アーノルドの表情はその形を保つことはしなかった。
「貴女が【鏡の巫女】に!?冗談じゃない!」
「えっ……」
「【鏡の巫女】は一人だけでなくてはなりません!今この世界には【光の御子】はレオルディア陛下お一人なのですから!その均衡を崩すことは許されないことです!」
がた、と音を立てて立ち上がったアーノルドを見上げて、棗は呆然と口を開けた。
「……申し訳ありません、取り乱しました。」
「……えっ、あ、いえ!私こそ、軽率でした……」
良く解らないけど、と小さく付け足して棗は縮こまる。
膝に乗せた手が、また微かに震えだした。
アーノルドはそれに気付くと、申し訳なさそうに眉を下げて腰を下ろした。
「本当に申し訳ない、貴女を怖がらせるつもりでは無かったのです。ただ、【鏡の巫女】は今のこの世界には一人だけしか存在してはいけないのです。」
余り広くはないテーブル越しに、棗の手をそっと覆うようにアーノルドの手が乗せられる。
「貴女は決して【鏡の巫女】であってはいけない……もしもそれが事実なら、貴女かメグミ様……どちらかを屠ることすら考えなければならないのですから。」
アーノルドの言葉は、別の方向から棗を追い詰めた。
「はは、そ、そうなんですか……でもまあ、あの、実際には私は【鏡の巫女】じゃないですし、あの、大丈夫ですよね?殺されたりとか、ええと……」
「はい、勿論です。……詳しいことは、明日メグミ様もご一緒の時に説明致しましょう。それでですね、メグミ様の傍に居るための方法なんですけれども。」
話を戻しましょう、と笑顔になるアーノルドに引き攣った笑みを返す。
「傍に、ああ、はい。ええと、方法があるんですか?」
「はい、貴女にはメグミ様付きの侍女になって頂こうかと。」
未だ震えたままの手を落ち着けるように撫でながら、アーノルドは小首を傾げてみせる。
「侍女、ですか?」
「ええ。先程貴女を案内したアリアと同じように、メグミ様の日々のお世話を担当する者のことです。メグミ様は近い内に皇妃となられるお方です、友人であるお二人の関係を主従に変える事はお辛いかと思いますが、ご了承頂きたく……」
「あ、いえそれは……大丈夫です、けど。それで、皇帝陛下も納得して頂けるんですか?」
関係が変わるだけで、傍に居るのは変わり無い。
「私の命であると申せば、不満は覚えるでしょうが文句は言わないでしょう。メグミ様にもお言葉を頂ければ間違いないかと。」
「……それなら、それで構いません。命には変えられませんし、恵の傍に居られるなら。」
ふ、と安心したように息を吐く棗を見つめて、アーノルドはようやっと震えの治まった彼女の手を尚も離そうとせずに指を滑らせる。
「……あの、アーノルドさん。」
「何でしょう、ナツメ。」
柔和な笑顔は変わらない。
「ええとですね、そのう、何ですか、この……」
「……本当は、もう一つ選択肢があるのですよ。」
「も、もう一つ?」
そっと引いた手はその場から動くことは出来ず、棗の手はアーノルドのそれから逃れられなかった。
「貴女がメグミ様以外の人の物になってしまえば話は早いのです。」
「へ?」
「例えば、私の妻になってしまう、とか。」
つい、と指先で手の甲をくすぐられて、棗は肩をいからせて悲鳴を押し込めた。
「ばっ……馬鹿言わないで下さい!!冗談じゃない!」
「おや、振られてしまいました。」
はは、と能天気に笑って見せて、アーノルドは棗の手を離す。
「冗談ですよ、事実にしても構わない類のものではありますが。」
「タチが悪い!」
ぞわぞわとあわ立つ手の甲を乱暴に逆の手で擦りながら、棗は立ち上がる。
「お話、もう終わりですか!」
「はい、細かいことは明日からにしましょう。」
「了解です、それじゃあ私は部屋に戻ります!」
警戒心を露にしながら踵を返す棗の背中に、笑いを含んだ問いかけが追いかけてくる。
「戻るのは構いませんが、道は解りますか?」
「そんなの、アリアさんに……あ。」
此処まで連れてきてくれたのは、あの暗い青色の髪の女性だ。
彼女はこの部屋の前で棗を置いて、どこかへ行ってしまっていた。
「……部屋までお送りしますよ、ナツメ。」
「……うぐ。」
返事にならない呻きを最後に、棗はがっくりと肩を落とした。