1 翡翠色の眼
「……あのぅ、ええと。」
ぽつりと恵が言葉を零す。
ブロンドの髪を揺らして、男は顔を上げた。
「如何した、巫女よ。」
「えっ……えと、あの、私ミコじゃなくて、めぐ、めぐみなんだけど……」
「メグミ……貴女にお似合いの愛らしい名前だ。名前でお呼びしても?」
「は、はぁ別にお好きにどうぞ……って、そうじゃない!そうじゃなくて、その、あ、危ないからソレ退けてくださいぃ!」
それ、と指差されたのは男の手に握られた剣だ。
未だに抜き身のままのそれは寸分違わず棗の喉元に突きつけられたままで、棗は青褪めたまま固まっている。
「……お前は何者だ?名は?」
「……棗、です。」
「……麦色の髪か。目は黒いが……伝承とは異なる姿だ。何処から忍び込んだ?鼠めが。」
鼠、と言われて恵の唇が尖る。
「私の大事な人、ネズミだなんて言わないで!早く剣しまってよ!」
剣の切っ先が揺れて、棗は小さく悲鳴を上げた。
「……大事な人?」
「友達です!友達なんです!!」
棗が声を張り上げる。
男はゆっくりと棗を一瞥した後、不満そうな顔で剣を納めた。
「っ、はぁ……」
震える手で喉を擦り、傷が無いことを確認する。
「棗、大丈夫!?」
口付けの後も握られたままだった手を振り払い、恵は棗に駆け寄った。
「う、うん……死ぬかと思った。学校でトイレ済ませとかなかったら危なかった。」
「うん、いつも通りの軽口で安心した!」
「メグミ。」
男の声に、恵は眉を吊り上げて振り返る。
「何!」
「……それは貴女の世界の住人か。」
「は?」
あ、これは結構怒ってる声だ、と棗はこんな状況にも関わらず苦笑を漏らす。
恵は、可愛い幼馴染は不思議なことに棗に害が及ぶことを何よりも嫌うのだ。
「アンタねぇ、さっきから黙って聞いてれば棗のことをネズミだのそれだの散々言ってくれるじゃない!誘拐犯の癖に偉そうにしないでよ!何様のつもり!?」
「……誘拐?待て、メグミ、」
「待たない!私達を家に帰してよ!うちだって棗んちだって普通のサラリーマン家庭なんだから、身代金なんて出せないし!」
地団駄しながら怒鳴り散らす恵を困ったように見つめて、男は首を傾げた。
「メグミ、何かを勘違いしている。私は貴女を召喚したのであって、誘拐したのではない。」
「どっちだって同じでしょーが!おうち帰してー!!」
「待って恵、今の二つは断じて同じじゃない。誓って言うけど同じじゃ……ああもう、ステイ!!」
ぴた、と恵の動きが止まる。
「……言っといて何だけど、まだ効くんだね。」
「……棗が待てって言うなら待つもん。」
よろしい、と恵の髪を一撫でして、棗は眼前で複雑な顔をしている男を見上げた。
「……とりあえず、済みませんが詳しい話お聞かせ願えますか。」
「鼠に話す事など、」
「恵、お願いして。」
「お願いします!」
「……茶を入れさせよう、此方へ。」
厄介なことになった、と心中で呟いて、棗は恵の手を引いて歩みを進めた。
豪奢だが、上品な見目で揃えられた部屋の中心に置かれたソファに、恵と棗は膝を揃えて座っていた。
正面には不機嫌そうに顔をしかめた男が一人掛けのソファに身を預けている。
初対面から「鼠」と呼ばれた棗は初め、「鼠風情は床にでも這い蹲れ」と言われたのだが、それも恵の一喝で撤回された。
「……それで、ええと。何から聞けばいいの?棗。」
「……まずは、召喚について。誘拐じゃなくて召喚って言ってたけど、どういうことなのか。」
頭を使う会話は基本的には棗の仕事だが、如何せん棗はどうにも嫌われている。「鼠風情」の質問にマトモに答えてくれるとは思えないので、恵を介して会話をする必要があるようだ。
「だって。教えてください。」
訂正する。恵は単なる「お願いマシーン」だった。
「……我がインガルト帝国は、アスール大陸の西に位置する大国だ。」
既に「わかんない」という顔をしている恵を置いておいて、棗は真剣に言葉を受け取る。
聞いたことの無い国の名前、聞いたことの無い大陸の名前。
「我が国では代々、皇帝の花嫁……すなわち皇妃を【異世界】より召喚することが定められている。」
「待った。」
棗の言葉に、恵が「すとっぷ!」と付け加える。そうしないと恐らく目の前の男は語るのをやめないからだ。
「……何か。」
「異世界ってどういうことですか!」
流石に今の流れくらいなら、恵にも棗の止め所が解ったらしい。
「異なる世界、此処ではないどこかのことだな。」
「……ええと、じゃあ此処は地球じゃないってこと?」
棗の問いにはとことん答える気がないようだ。
「でも棗、日本とか地球じゃないとか言われても信じらんないよ…日本語通じてるし。やっぱりこいつ嘘つきの誘拐犯じゃないのかな!」
「言葉が通じているのは、そういう風に召喚陣を組んでいるからだ。貴女が初めに居た部屋の床に書いてあったろう。」
恵の言葉には優しい声色で応える男に、棗は呆れたように溜息を吐く。
「嘘言ってるようにも見えないし、確かに私達も今日本語喋ってないみたいだし、信じたほうが良いかもしんないよ、恵。」
「へ?日本語喋ってないって?」
「口の動き、見てご覧。」
棗は自分の唇を指で示し、恵の視線が其処に向いたことを確認すると「こんにちは」とゆっくり言って見せた。
「……んん?」
「口の動きと聞こえてくる言葉、一致して無いでしょ。入ってくる音は日本語に聞こえてるけど、口は日本語の動きしてないんだよ。」
「……ほんとだ。腹話術でもしてるみたい。」
ぽかん、と口を開けた恵を苦笑しながら見返して、棗は肩を竦めた。
「とにかく此処は異世界で、私達はインガルト帝国の皇帝様の花嫁になるために召喚された……あ、いや違うか。花嫁は恵だけなのかな?」
ちら、と男を見やればふんと鼻であしらわれる。
「花嫁は、闇の色を纏いて現れる。黒の髪、黒の目。そして首筋に【鏡の巫女】の刻印が刻まれているはずだ。」
どうやら会話くらいはしてくれるようになったらしい。鼠から犬猫くらいには格を上げてもらえたのか、無視し続ける時間が惜しいことに今更気付いたのか、多分後者だろう。
「首筋?恵、ちょっとこっち向いて。」
ボブカットの黒髪を耳に掛けさせ、首筋を覗き込む。
「……これ?」
右耳の下の方に、小さな痣があった。
「あんた、こんな痣あったっけ?」
「ううん、知らない。見たこと無いよ。」
「召喚の際に刻まれるものだ、其れまでは存在しない。」
ふぅん、と棗は恵から離れる。
「じゃあ、正真正銘、恵が【鏡の巫女】なんだ。」
「えっ!いや、ちょっと待ってよ棗!」
「そんで、皇帝陛下のお嫁さん、と。」
「いやいやいや!」
「ところで皇帝陛下って……」
喚く恵を放っておいて、棗は男を見やる。
「インガルト帝国8代皇帝、レオルディア=アルベルツ=インガルト。私の名だ。」
恵が硬直するのを肌で感じる。
ご愁傷様、私は何となく解ってた。
棗はどこか醒めた気持ちでそう呟いた。