プロローグ
「恵、いつまで落ち込んでるの?今更嘆いたところで順位が上がるわけでもなし。」
ミルクティーのような淡い茶の髪を風に揺らしながら、棗は呆れたように小首を傾げた。
「うぅ……もうちょっと勉強しておけば良かったよぅ。棗は良いなぁ、いっつも上位でさぁ!」
恵、と呼ばれた少女は桜色の唇をつんと尖らせて、棗を見上げる。
天使の輪が綺麗に映える黒髪の頭をぽんと軽く叩いて、棗は笑う。
「あんたにあれだけ教えてれば嫌でも覚えるもん。私の頭の良さはある意味恵のお陰だね。」
「んぎ、何それずるい!ちょっと30点くらい頂戴よ!そしたら英語赤点じゃなくなる!」
無茶言うな、と軽口を叩きあいながら二人は歩いていく。
いつもの帰り道だ。
そこの角を曲がれば、間も無く家が見えるはず。
そう信じて疑わない二人の少女は、眼前に広がる白い光に気付くのが一瞬だけ遅れた。
「……え?」
次の瞬間、視界が開けた。
ぱちり、と目を瞬かせる。
視線を動かすと、隣にはぽかんと口を大きく開けてキョロキョロと辺りを見回す恵の姿があった。
「……なつ、棗?ええと、あの……」
「うん……ここ、どこだろ。」
とりあえず落ち着いて、と恵の顎を掴んで押し上げる。
素直に口を閉じた様子を確認して、棗はゆっくりと立ち上がった。
「恵、怪我とかはない?どっか痛いところある?」
「な、な、無い。……ピカッと光ったの、車とかじゃ無かったっぽいね…」
一拍遅れて恵も立ち上がる。
制服のスカートを叩いて砂を払い、不安そうに棗の左手を握った。
「ねぇ、足元。何だろ、変な模様。」
「え?……ほんとだ、何か……魔方陣?みたいな。」
何それ、と恵が首を傾げる。
小説や漫画、ゲームを好む棗と違い、恵はその手の知識には疎かった。
「うーん、詳しく説明するのはめんどくさい。」
「いっつもそれだ!」
顔をしかめる恵に苦笑して、棗は肩を竦めた。
「何が何だか解んないけど、とにかく此処から出よう……」
恵の手を引いて、魔方陣の縁を乗り越えようとした瞬間、背後でばたんと扉の開く音がした。
咄嗟に振り返ると、翡翠のような澄んだ緑と目が合った。
「……えっ、外人さん!?」
ぎゃあ、と恵が悲鳴を上げる。
英語が苦手すぎる彼女は、当然と言えば当然の如く日本人以外の人種が苦手であった。
「あ、あ、あいきゃんすぴーくいんぐりっしゅ……!」
「恵、それ英語喋れることになっちゃう。……こっち、来て。」
手を握る力を強めて、棗は恵を背に庇う形になった。
学校からの帰り道、突然強い光に包まれて気を失った。
気が付けば見知らぬ部屋、気味の悪い魔方陣。
これが何を意味するのかはさっぱり解らないが、少なくともあまり気分の良い展開ではない。
(誘拐か、何かの事件に巻き込まれたとか?黒魔術の生贄とかにされる訳じゃないだろうな、勘弁してよ)
背中越しに、恵の震えが伝わる。
幼馴染の彼女が一緒じゃなかったら、棗とて今の様な冷静な状態では居られなかっただろう。
「……あんた、誰。此処はどこ?」
扉を開けたのは、男だった。
現代日本には似つかわしくない、西洋の軍服のような格好で、腰には細身の剣が下がっている。
翡翠色の目を見開いて、薄い唇を引き結んだ彼が何かに驚いているのは確かだろうが、一体何に驚いていると言うのか。
棗の問いにも答えようとはせず、少しの間が空いた。
「……!」
は、と何かに気付いたように男は息を呑む。
目を閉じて、何かを振り払うように軽く頭を振った。
「……うーん、やっぱり外人さんだから英語じゃないとダメっぽいね。」
「いや、それにしたって何にも応えない時点で……っ!?」
男が、二人に向かって歩みを進める。
「な、何っ……」
無遠慮に、棗の肩が捕まれた。
「きゃ!」
そのまま押し退けられて、尻餅をつく。
どうやら思っていた以上に膝が笑っていたようで、咄嗟の受身もままならなかった。
「棗……っ!」
は、と顔を上げると、男は恵の二の腕を掴み、まじまじとその顔を見つめていた。
「恵!」
慌てて立ち上がろうとした次の瞬間、顎の辺りにひんやりとした空気が流れる。
「……え?」
揺れる瞳だけを動かしてみれば、いつの間にか鞘から抜かれた刀身が棗の喉元に突きつけられていた。
「う、そ……本物……ほ、法律とかどうなって……」
「動くな。」
初めて、男が言葉を口にした。
「なつ、棗……」
震える声で、恵が棗の名前を呼ぶ。
棗はもうそれ以上動くことも口を開くことも出来ず、ただ青褪めて二人を見上げていた。
「黒髪黒目、首の刻印……貴女が【鏡の巫女】か。」
「ふぇ……?」
目尻に涙を溜めた恵を見下ろして、男は柔らかく微笑んだ。
「ようこそ、我がインガルト帝国へ。歓迎致します、花嫁よ。」
右手に握った剣はそのままに、男は跪いて恵の手の甲へ唇を落とした。
「……はぁ?」