境界線と凶変
私は、優しい人間だと思われている。
それはたぶん、間違いではない。
私は人を否定しない。
好きなものを好きだと言う人を、笑わない。
弱さを見せる人から、目を逸らさない。
守ると決めた存在――動物や、子どもや、声を上げられないものたちを、裏切らない。
だから人は言う。
「優しいね」と。
けれど、その言葉の裏側で、
私はよく別の評価も受け取ってきた。
冷たい人。
距離がある人。
何を考えているかわからない人。
強すぎる人。
隙がない人。
恋愛に向いていなさそうな人。
そして最後に、決まってこう続く。
「近づくと、自分が試されそう」。
私は、試してなどいない。
ただ、自分の生きる境界線を、はっきり引いているだけだ。
その線は、親切で曖昧なものではない。
ここまでは許す。
ここから先は、許さない。
その境界を越えられたとき、
私の中で何かが静かに切り替わる。
怒りでも、憎しみでもない。
悲しみですらない。
ただ、迷いが消える。
私は、その瞬間を「凶変」と呼んでいる。
凶変した私は、優しくない。
情もかけない。
理解しようともしない。
けれどそれは、壊れた姿ではない。
私が私を守るために、ようやく本来の輪郭を取り戻した姿だ。
優しさは、無限ではない。
自由を侵害されてまで、誰かを抱きしめる義務はない。
私は、優しい人間だと思われている。
それは事実だ。
ただし――
境界線の内側にいる限り、という条件付きで。




