第9話
ボリソフ大尉の「備品」となって一ヶ月。私の地位は、この凍てつく収容所の中で、最も奇妙で、かつ強固なものとなっていた。
私の席は、所長室のペチカ(暖炉)の脇に置かれた小さな事務机だ。元はタイピストが使っていたものだろう。 私の仕事は、朝から晩まで、ひたすら書類と格闘することだ。ツェントログラードの中央官庁へ送る膨大な報告書、生産ノルマの計算、資材の在庫管理、そして囚人たちの死亡届。
ボリソフ大尉は、相変わらず理想と現実の狭間で苦しんでいた。彼は不正を憎むあまり、すべての決裁権を自分に集中させた。その結果、彼の承認がなければ、トイレットペーパーひとつ補充できない事態に陥っていた。
当然、彼のデスクの前には、決裁を求める部下たちの長蛇の列ができる。 そして、その列を整理するのが、私の新たな役目だった。
「次の者、入りなさい」
私の冷たい声が響くと、ドアの外で待機していた太った中尉が、怯えた様子で入ってきた。彼はボリソフ大尉の顔色をうかがいながら、震える手で書類を差し出した。
「ほ、報告します! 第3区画の暖房用ボイラーが故障し、修理部品の調達を……」
私は彼がボリソフのデスクに近づく前に、その前で立ちふさがり、書類をひったくった。
「……却下よ、中尉」 私は書類を一瞥しただけで突き返した。
「なっ、なぜだ! 囚人たちが凍え死んでしまう!」
「申請書類の書式が古いわ。先週、通達No.451で新しい様式に変更されたはずよ。それに、故障原因の記載が不十分。『老朽化』ではツェントログラードは納得しないわ。『反革命的怠慢による破損の可能性』とでも書いておきなさい」
「そ、そんな馬鹿な……」
「口答えするつもり? 大尉同志は忙しいの。無能な部下の相手をしている暇はないわ」
私が顎で出口を指すと、中尉は真っ赤な顔をして、しかし一言も反論できずにすごすごと退室した。 ボリソフ大尉は、そのやり取りの間、顔も上げずに自分の書類仕事に没頭していた。彼はもう、私がフィルターにかける前の「雑音」を聞く気がないのだ。
私は、実質的なこの収容所の「門番」になっていた。 私の機嫌を損ねれば、どんな重要な案件も所長の目には触れない。生き残った看守たちは、かつて私を「メス豚」と呼んで嘲笑っていた連中も含め、今では私の前で直立不動の姿勢を取り、ご機嫌取りの貢物――隠し持っていたチョコレートやタバコ――を持参するようになった。
私はそれらを冷ややかに受け取り、デスクの引き出しにしまう。 甘いチョコレートの味は、権力の味に似ていた。
だが、問題は山積みだった。 ボリソフの「清廉潔白な統治」のおかげで、収容所の物流は完全に死にかけていた。賄賂という潤滑油を失った供給ラインは錆びつき、食料も燃料も届かない。 このままでは、ノルマ達成どころか、春が来る前に全員が凍死する。
ある猛吹雪の夜。ついに発電機の燃料が底をつきかけた。 ボリソフは執務室で頭を抱えていた。ツェントログラードへの緊急電報は、無視されるか、「現地で解決せよ」という無慈悲な返信が来るだけだ。
「……どうすればいい。このままでは、党の計画に重大な支障が出る」 彼は独り言のように呟いた。その声には、隠しきれない焦燥と、理想が破綻する恐怖が滲んでいた。
私はペンの手を止め、静かに言った。 「……大尉同志。ツェントログラードは助けてくれません。彼らは地図の上の数字しか見ていないのですから」
ボリソフが私を睨んだ。「貴様に何がわかる」
「解決策ならあります。……ただし、少し『柔軟な』方法ですが」
「……言ってみろ」
私は引き出しから、一枚の地図を取り広げた。この周辺地域の軍事施設の配置図だ。父の記憶を頼りに、私が作成したものだ。
「ここから西へ五十キロの地点に、陸軍の補給廠があります。あそこには、戦車用のディーゼル燃料が大量に備蓄されています」
「だからどうした。陸軍が国家治安人民委員部(N.K.G.B)に燃料を融通するわけがない。管轄が違う」
「ええ、正規の手続きでは。……ですが、補給廠の管理官は、慢性的な建材不足に悩んでいるそうです。彼のダーチャ(別荘)を建てるための良質な木材が」
ボリソフの眉がピクリと動いた。 「……貴様、私に賄賂を使えと言うのか? 腐敗した取引に手を染めろと?」 彼の声に、危険な怒気が混じった。
私は動じず、彼の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「いいえ、同志。これは『物々交換』です。国家の異なる機関が、互いの余剰資源を融通し合う。社会主義的な相互扶助の精神に基づく行為です」
私は言葉を選んだ。彼が自分を納得させられるような、美しい建前を用意するのだ。
「我々は、帳簿外の『端材』を提供するだけです。正規の生産ノルマには影響しません。向こうも、訓練で消費したことにして燃料を回してくれるでしょう。……すべては、党の崇高な目的を達成するためです」
ボリソフは沈黙した。彼の内側で、潔癖な理想主義と、管理官としての現実的責任が激しく衝突しているのが見て取れた。 ペチカの火が爆ぜる。窓の外では、風が獣のように唸っている。
やがて、彼は苦渋に満ちた顔で、絞り出すように言った。
「……書類には残すなよ」
「もちろんです。すべては、雪のように跡形もなく消えます」
私は心の中で、昏い勝利の笑みを浮かべた。 堕ちたわね、堅物さん。 貴方は今、自らの手で、貴方が最も憎む「腐敗」の扉を開けたのよ。
「では、手配は私が。……現場の実行部隊が必要ですね」
私は立ち上がり、コートを羽織った。 「少し、外の空気を吸ってきます」
私が向かったのは、囚人バラックではなかった。資材置き場の裏にある、小さな工具小屋だ。そこに、あの男を呼び出していた。
「……呼び出しとは光栄だな、カテリーナ書記官同志」
暗闇の中で、割れた眼鏡が光った。「教授」だ。彼は以前よりも少し肉付きが良くなっていた。私が横流ししている食料のおかげだ。
「仕事よ、教授。大規模な『輸送作戦』になるわ」
私は彼に計画の概要を伝えた。陸軍との裏取引。木材の非合法な搬出。 教授は口笛を吹いた。 「大胆だな。あのボリソフがそれを認めたのか?」
「ええ。彼も学習したのよ。綺麗事だけでは、極北の冬は越せないってね」
私は懐から、一枚のリストを取り出した。 「この作戦には、口が堅くて、腕力のある連中が必要よ。……ゾーヤとその元取り巻きたちを使いなさい」
教授が驚いた顔をした。「あの女狐を? お前をリンチした連中だぞ」
「だからこそよ。彼女たちは今、権力を失って飢えている。パンと引き換えなら、どんな汚れ仕事でも喜んでやるわ。それに……」 私は冷たく微笑んだ。 「一度牙を抜かれた獣は、新しい飼い主に最も忠実になるものよ」
私はゾーヤが、私が与える餌に尻尾を振る姿を想像した。かつての女王が、私の忠実な番犬になる。悪くない気分だ。
「指揮はあなたが執って。報酬は弾むわ。……ただし、失敗は許さない。もし露見したら、全てあなたの独断ということにする。わかるわね?」
教授は私の顔をじっと見て、深くため息をついた。 「……やれやれ。とんでもない怪物を育ててしまったものだ」
彼はリストを受け取り、闇の中へ消えていった。
私は一人、吹雪の中に立ち尽くしていた。 寒さはもう、以前ほど苦痛ではなかった。私の血管には、氷よりも冷たい何かが流れている。
管理棟の窓から漏れる暖かい光を見上げる。あそこに、私の玉座がある。 ボリソフは名目上の支配者だが、この収容所の「血管」を流れる血液――物資と情報と裏取引――を掌握しているのは、もはや私だ。
私は赤い貴族の令嬢から、囚人へ、そして今、この「氷の王国」の影の女王となろうとしている。 首都の連中よ、見ていなさい。私がどのような「お土産」を持って帰還するかを。
私はコートの襟を立て、吹雪を突いて管理棟へと戻った。




