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鉄の薔薇は凍土に咲く 〜人民の敵とされた令嬢は、粛清の嵐を越えて独裁者の椅子に座る〜  作者: ぱる子


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第7話

 管理棟の清掃係。それは、この凍てつく地獄における「天国」へのパスポートだった。


 私の新しい日常は、午前五時に始まる。バラックの仲間たちが極寒の森へ駆り出されるのを横目に、私は管理棟の重い木の扉をくぐる。 そこには、暴力的なまでの暖かさがあった。ペチカ(暖炉)で赤々と燃える薪、将校たちが吸う上質なタバコの香り、そして彼らの朝食――焼いたベーコンとコーヒー――の暴力的な匂い。


 私の仕事は、彼らが昨夜撒き散らした汚物を片付けることだ。泥だらけのブーツの跡、こぼれたウォッカのシミ、そして時折、尋問室から漏れ出てくる血の跡。


 私はボロ布を手に、床を這いつくばりながら、その全てを完璧に清掃した。父の屋敷にいたメイドたちよりも丁寧に、そして効率的に。 将校たちは、足元を這い回る私を気にも留めない。彼らにとって私は、言葉を話す便利なルンバのようなものだ。番号で呼ばれる、顔のない労働力。


 それが好都合だった。 私が床を磨いている間、私の耳は彼らの会話を録音し、私の目は机の上の書類をスキャンしていた。


 イワノフ所長は、典型的な現場の独裁者だった。朝からウォッカの臭いをさせ、昼過ぎには執務室のソファで高いびきをかいている。彼の関心事は、中央からの監査をいかにやり過ごすか、そして私腹を肥やすための横流しルートの確保だけだ。


 一方、私の「飼い主」となったセミョーン伍長は、私の作成した完璧な偽造書類のおかげで、今月の監査を無事に乗り切り、上機嫌だった。彼は私に、ご褒美として角砂糖を二つくれた。私はそれをありがたく頂戴するふりをして、ポケットの奥深くにしまい込んだ。糖分は、思考のための燃料だ。


 だが、私が最も注目したのは、もう一人の男だった。


 ボリソフ大尉。ツェントログラードから派遣されたばかりの副所長。 彼はイワノフとは対照的だった。常に軍服のボタンを一番上まで留め、背筋を伸ばし、酒も飲まず、鋭い目つきで収容所の非効率性を睨みつけている。 彼は「理想に燃える共産党員」だった。つまり、この収容所において最も厄介で、そして最も利用しやすい人種だ。


 ある日の午後、所長室から怒鳴り声が聞こえてきた。私は廊下のモップがけをするふりをして、ドアの隙間に耳を澄ませた。


「イワノフ同志! また今月の燃料配給の数字が合わない。どういうことだ!」 ボリソフ大尉の硬質な声だ。


「まあまあ、落ち着け大尉。極北ではよくあることだ。雪に埋もれたか、輸送中の事故だろう。ツェントログラードには適当に報告しておけばいい」 イワノフの酔っ払った声。


「そんな杜撰な管理が許されるか! これは人民の財産だぞ! 貴様の怠慢は、党への背信行為に等しい!」


「堅苦しいことを言うな、若造が。ここはツェントログラードの快適なオフィスとは違うんだ。ここではここのやり方がある」


 会話は物別れに終わった。ドアが乱暴に開き、顔を真っ赤にしたボリソフが出てきた。彼は廊下でモップをかけている私に気づくと、汚いものを見るような目で一瞥し、自分の執務室へと消えていった。


 私は心の中で冷たく微笑んだ。 完璧な構図だ。腐敗した古参のボスと、潔癖で野心的なナンバー2。 この亀裂こそが、私が待ち望んでいた突破口だった。


 その夜、私はバラックに戻り、教授と接触した。 「ボリソフ大尉について教えて」


 教授は割れた眼鏡を押し上げながら、記憶の糸をたぐり寄せた。 「……ボリソフ。ああ、知っている。党中央の青年将校団の一人だ。彼らは『鉄の規律』を信奉する狂信者たちだ。不正を憎み、党の理想のためなら親兄弟すら告発する。……厄介な男だよ。賄賂も通じない」


「ええ。だからこそ、使えるのよ」


 私はポケットから、セミョーン伍長の事務室からくすねてきた「本物」の伝票の束を取り出した。彼が計算を間違え、私が修正する前の、横流しの証拠がたっぷり詰まったゴミだ。


「教授、これをボリソフ大尉の目に触れる場所に置いてきて欲しいの。あなたが作業班として管理棟の資材置き場に出入りする時、彼が必ず通る場所に」


 教授は伝票の束を見て、息を呑んだ。 「これは……イワノフ所長の首が飛ぶぞ。いや、下手をすれば関わった者全員が銃殺だ。君の飼い主のセミョーンも含めてな」


「ええ、そうなるでしょうね」 私は平然と言い放った。


「……君は、恩を売った相手を平気で切り捨てるのか?」


「勘違いしないで。セミョーンは踏み台よ。もう十分に役目は果たしたわ」 私は凍った窓の外、吹雪に煙る監視塔を見つめた。


「それに、私が直接ボリソフにこれを渡せば、彼は私を疑う。囚人の告発など信じないわ。けれど、彼が『自分の力で』この不正の証拠を発見したとしたら? 彼の正義感と野心は、抑えきえなくなる」


 教授はしばらく私を見つめていたが、やがてフッと短く笑った。 「……恐ろしい娘だ。『赤い貴族』とは、これほどまでに冷酷になれるものなのか」


「生き残るためよ。それに……」 私は脳裏に、あの党大会でのアレクセイとエレナの顔を思い浮かべた。


「私をここに落とした連中に比べれば、まだ慈悲深い方よ」


 翌日。教授は任務を完璧に遂行した。 そしてその日の夕方、管理棟は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。


 ボリソフ大尉が、イワノフ所長の執務室に武装した部下を引き連れて乗り込んだのだ。 怒号、銃声が二発、そして何かが倒れる重い音。


 私は廊下の隅で、震えるふりをしながら、その「革命」の音を聞いていた。 しばらくして、両手を手錠で拘束されたイワノフ所長と、顔面蒼白で失禁しているセミョーン伍長が引きずり出されてきた。


 ボリソフ大尉は、廊下にいた私を一瞥もしなかった。彼にとって私は、そこに存在するだけの備品に過ぎない。 彼は勝利者の顔で、部下たちに指示を飛ばしていた。


「腐敗分子を一掃した! 直ちにツェントログラードへ報告せよ! これより、第13収容所は私が指揮を執る!」


 新しい独裁者の誕生だ。潔癖で、融通が利かず、そして残酷なまでに理想に燃える男。 彼の下での生活は、イワノフ時代よりも過酷になるかもしれない。


 だが、それでいい。 混沌こそが私の味方だ。秩序が崩れ、新しいルールが生まれるその隙間にこそ、私がつけ入る最大のチャンスがある。


 連行されていくセミョーンと目が合った。彼は絶望と裏切りの色を浮かべて私を見ていた。 私は無表情のまま、彼から視線を逸らした。 さようなら、伍長。貴方のことは忘れないわ。最初の踏み台として。


 私は手に持っていた雑巾をバケツに放り込んだ。水が赤く濁った。 さあ、次は新しい主人へのご挨拶だ。どのような「清掃」がお望みかしら、ボリソフ同志?

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